「全く自由に何の妨げもなく」
イザヤ6:9~13
使徒言行録28:17~31
井ノ川勝
井ノ川勝
2025年2月23日
1.①私が購読している新聞の土曜日版に、「それぞれの最終楽章」という欄があります。様々な方が、妻、父、母の看病、介護、看取りの体験を綴っています。家族の死をどう受け留めたのかを綴っています。今、執筆をされている方は、この欄を立ち上げた新聞記者です。父の介護、看取り、死を綴っています。父と母は高齢になり、施設で生活を始めた。ところが、父は転倒し、大腿骨を骨折し、車椅子の生活になった。「早くお迎えが来ないかな」が口癖となった。そのような時に、教会の牧師と長老が訪問聖餐に来られた。母は19歳の時に洗礼を受け、その教会の教会員であった。キリストの命・聖餐であるパンと葡萄汁に与る母の姿を傍らで見ていた父は、「僕も洗礼を受けているのだが」と言い出した。隣りにいた母は「あなたは受けていません」とピシャリと言った。それを見ていた牧師は笑顔で答えた。「妻と一緒に聖餐に与りたいのですね。そのためには洗礼を受ける必要がありますよ。よいことだから、洗礼を受けましょうか」。そして後日、施設で洗礼を受け、母と一緒に聖餐に与ることが出来るようになった。父は母と一緒に天国に行けると安心したのか、「早くお迎えが来ないかな」とは言わなくなった。主イエス・キリストに全てをお委ねして、死から解き放たれた思いで生活するようになった。
「人生の最終楽章」。これは私ども全ての人に問われていることです。自分の人生の最終楽章を、どのような音色を奏でながら、終わりを迎えようとしているのか。それは切実な問題です。音楽家が交響曲を作曲する時に、どのような音色を始め、どのような音色で結ぶのか、最も心を注ぐと思います。作家が小説を書く時に、どのような言葉で始め、どのような言葉で結ぶのか、最も心を注ぐと思います。私ども音楽の聴き手、小説の読み手にとっても、始まりと結びに注意深く関心を注ぐと思います。それは私どもの人生に重なり合うことでもあるからです。
②この朝、私どもが聴きました使徒言行録は、最初の教会の伝道物語を綴っています。今日の御言葉はその結びの部分です。私は以前から使徒言行録の結びに、物足りなさを感じていました。期待外れの思いがありました。何故、このような終わり方をしているのだろうか、ずっと疑問に思っていました。このような御言葉で結ばれているのです」。
「パウロは、自費で借りた家に丸二年間住んで、訪問する者はだれかれとなく歓迎し、全く自由に何の妨げもなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストについて教え続けた」。
使徒言行録の結びは、伝道者パウロの伝道者人生の最終楽章でもあります。波瀾万丈の伝道者人生を送ったパウロの最終楽章にしては、劇的ではありません。平凡な日常生活のことです。パウロは捕らえられ、ローマに護送されました。ローマ皇帝の前で、自分は死刑に当たる罪など犯していないと直訴するためでした。ところが、パウロが勇敢にもローマ皇帝に直訴する場面では終わっていません。また、パウロは紀元61年頃、ローマ皇帝の迫害を受けて、ローマで殉教の死を遂げたと言われています。しかし、パウロの殉教の死でも終わっていません。使徒言行録を綴ったのは、パウロと共に伝道したルカです。パウロの殉教の死も知っていたと思われます。しかし、ルカはそのことを記しません。何故、この御言葉で結んだのでしょうか。
「パウロは、自費で借りた家に丸二年間住んで、訪問する者はだれかれとなく歓迎し、全く自由に何の妨げもなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストについて教え続けた」。
元の文章はこの言葉で結ばれています。「全く自由に何の妨げもなく」。ルカが並々ならぬ思いで結んだ言葉です。ローマ皇帝の前で勇敢にも直訴したとか、ローマ皇帝の迫害を受けて殉教の死を遂げたという劇的な出来事ではなく、この御言葉こそ、伝道者パウロにとって最も大切なことであったからです。「日々、全く自由に何の妨げもなく、主イエス・キリストを伝え続けた」。この御言葉こそ、パウロの伝道者人生の最終楽章を奏でる基調音であったのです。そしてこのことは、私どもも教会に生き、伝道に生きる者全ての者が大切にしていることです。ルカは伝道者パウロを英雄として描いていません。パウロも私どもと同じように、日々、全く自由に何の妨げもなく、主イエス・キリストを伝えることを喜びとしたことを強調しているのです。
2.①しかし、考えて見ればとても不思議です。伝道者パウロは今、全く自由ではないのです。何の妨げもないのではないのです。パウロは囚われの身です。パウロ自身、こう語っています。「わたしはこのように鎖でつながれているのです」。実際は、丸二年間、自費で借りた家で住むことが出来た。しかし、番兵が一人いて、監視されて、自由に外出して伝道することは許されなかった。軟禁状態でありました。謂わば、ローマ皇帝の権力者の鎖に繋がれていました。様々な制約があった。全く不自由な身です。ところが、パウロは全く不自由だとは思わないのです。「全く自由に何の妨げもなく」と捉えていました。一体何故、そのような自由に生きることが出来たのでしょうか。パウロが若き伝道者テモテに語った言葉があります。テモテへの手紙二2章9節。(新約392頁)
「この福音のためにわたしは苦しみを受け、ついには犯罪人のように鎖につながれています。しかし、神の言葉はつながれていません」。
この御言葉は迫害、試練の中にあった教会に生きる者たちに、大きな慰めを与える御言葉となりました。権力者の手によって、伝道者が鎖に繋がれても、神の御言葉は鎖に繋がれることはない。神の御言葉、キリストの福音は鎖に繋がれることなく、様々な力に妨げられることなく、ローマにまで伝えられ、前進したのです。
「全く自由に何の妨げもなく」。「全く自由に」という言葉は、「大胆に」「憚ることなく」という意味でもあります。使徒言行録が愛用する言葉です。神の霊、聖霊に働きを表す言葉です。聖霊によって全く自由に、大胆に、憚ることなく、何の妨げもなく、主イエス・キリストを伝える。それが教会の伝道の業であるのです。使徒言行録4章29節で、このような出来事がありました。ペトロとヨハネが釈放され、祭司長、律法学者から、もう主イエス・キリストの名によって語ってはならぬと厳しく釘を刺されました。首に権力者の鎖をはめた。ペトロとヨハネは祈りの群れ、教会に帰って来た。そして皆で祈った。その時の祈りです。
「『主よ、今こそ彼らの脅しに目を留め、あなたの僕たちが、思い切って大胆に御言葉を語ることができるようにしてください。どうか、御手を伸ばし聖なる僕イエスの名によって、病気がいやされ、しるしと不思議な業が行われるようにしてください』。祈りが終わると、一同の集まっていた場所が揺れ動き、皆、聖霊に満たされて、大胆に神の言葉を語りだした」。
②皆さんは今、私は自由だと思って生きていると思います。自由を謳歌しながら生きていることでしょう。私は自分で願っていることを何でもすることが出来ると思っていることでしょう。しかし、それは果たして真実の自由を生きているのでしょうか。朝、テレビニュースを観ますと、天気予報をしています。天気予報と共に、星占いをしています。さそり座の方はよくないことが起こるから注意しなさい。おとめ座の方は今日はよいことがあるでしょう。そういう占いの言葉が心を占めることがあります。今日は仏滅だからお見舞いに行かない方がよい。こっちの方角はよくないことがある。そのような暦が私どもの行動を制限します。僕は科学技術を信じているから、聖書を信じない。聖書を信じると、御言葉に縛られてしまって自由ではなくなる。しかし、そのよう言う人が案外、占いや暦の霊に縛られてしまうことがあるのです。
また、日々、襲い掛かる心配事があります。思い煩いがあります。心配の鎖、思い煩いの鎖が、私どもの心をがんじがらめにしてしまいます。息が出来ずに、窒息しそうになります。気が滅入ってしまいます。不自由な生活をしています。
伝道者パウロはローマに連れてこられても、尚、キリストの福音を大胆に、憚ることなく語るのでしょうか。キリストの福音に生きることこそ、諸々の霊、諸々の力から解き放たれた自由があるからです。自由のあるところに喜びがあるのです。主イエス・キリストを信じることは、福音の自由に生きることです。そこに主から与えられる喜びがあるからです。
3.①伝道者パウロは捕らえられ、鎖に繋がれ、ローマ帝国の都ローマに連れて来られました。パウロは誠に不自由な身です。しかし、パウロはエリサレムで捕らえられた時、主の声を聴いたのです。23章11節。
「その夜、主はパウロのそばに立って言われた。『勇気を出せ。エルサレムでわたしのことを力強く証ししたように、ローマでも証しをしなければならない』」。
ローマに連れて来られたのは権力者の手でなく、主イエス・キリストから使命を託されたからです。主イエス・キリストの御手が、パウロをローマに運んだのです。ローマでもキリストを証しするためです。ローマの町は当時の世界の中心地です。ローマ帝国のお膝元です。しかし、ローマの町にも、他の伝道者によってキリストの福音が伝えられ、教会が生まれていました。それ故、パウロもローマの教会の信徒へ宛てて手紙を書いています。「これまで何度もローマへ行く計画を立てたが、ことごとく挫折に終わった。しかし、わたしは何とかしていつかは神の御心によってあなたがたのところへ行ける機会があるように、願っている。あなたがたにぜひ会いたい。霊の賜物をいくらかでも分け与えて力になりたい。あなたがたとわたしが互いに持っている信仰によって、励まし合いたい」。
その願いが今、叶えられたのです。人間の目から見れば、権力者の鎖に縛られて無理矢理連れて来られた。しかし、主の眼差しから見れば、主イエス・キリストの御手によって運ばれて来たのです。試練の中に、苦しみの中に、主の御業を見たのです。不自由な中に、主の自由があるのです。主イエス・キリストの福音の鎖以外、どんな力にも縛られない自由があるのです。
②「パウロは、自費で借りた家に丸二年間住んで、訪問する者はだれかれとなく歓迎し、全く自由に何の妨げもなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストについて教え続けた」。
パウロは家の外に出て自由に伝道することは許されなかった。しかし、家の中では、訪問する者はだれかれとなく受け入れて、全く自由に何の妨げもなく、主イエス・キリストを伝えることは許された。「訪問する者はだれかれとなく歓迎し」。「だれかれとなく」。私はこの言葉が好きです。パウロがよく用いた言葉、常套句と響き合います。
「もはやユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです」。
キリストの救いに与ることにおいて、民族、身分、性別の区別はない。だれもかれも、キリストの福音を聴き、キリストの救いに与ることが出来る。ここにも主が与えられた自由があります。
パウロの家を訪問したのは、まず、同胞の民ユダヤ人たちでした。国を滅ぼされ、離散し、ローマの町にも住んでいました。パウロはユダヤ人たちに向かって語りかけました。
「イスラエルが希望していることのために、わたしはこのように鎖につながれているのです」。
面白い言葉です。わたしが鎖に繋がれているのは、あなたがたユダヤ人の希望のためだというのです。あなたがたユダヤ人の救いのために、わたしは鎖に繋がれているともいえます。パウロはローマの信徒への手紙で、ローマにあるユダヤ人たちのために、このような御言葉を語っています。9章2~3節。
「わたしには深い悲しみがあり、わたしの心には絶え間ない痛みがあります。わたし自身、兄弟たち、つまり肉による同胞のためならば、キリストから離され、神から見捨てられた者となってもよいとさえ思っています」。
激しい言葉です。パウロの切実な祈りです。心にも肉体にも食い込む絶え間ない痛み、深い悲しみがある。それは同胞のユダヤ人の救いです。神に真っ先に選ばれたユダヤ人が、十字架につけられた主イエスに躓き、主イエスを救い主として信じて受け入れない頑なさにあることです。パウロは同胞のユダヤ人の救いのためならば、キリストから離され、神から見捨てられてもよいとさえ言っています。私どもが日本人の救いのために、金沢市民の救いのために、家族、友人の救いのために日々祈り味わう、絶え間ない痛み、深い悲しみです。
伝道者パウロはユダヤ人たちに向かって、朝から晩まで説明を続けた。神の国ついて力強く証しし、モーセの律法や預言者の書を引用し、イエスについて説得しようとした。心を傾けて一人一人の魂に、生けるキリストを伝えた。しかし、ある者はパウロの言うことを受け入れたが、他の者は信じようとはしなかった。ユダヤ人たちの間で主イエスへの信仰の捉え方が一致しないまま、立ち去ろうとした。ローマでもパウロは伝道の挫折を味わったのです。同胞の民への伝道の挫折を味わいました。パウロの伝道者の人生の最終楽章で、キリストの福音が伝わった喜びを味わったのではありません。伝道の成功物語で結んでいるのではありません。伝道の挫折を味わっている。それがパウロの伝道者人生の終わり、使徒言行録の結びで語られているのです。
4.①パウロは同胞のユダヤ人たちが、主イエス・キリストへの信仰で一致できず、立ち去ろうとする時に、イザヤ書6章の御言葉を想い起こしました。イザヤが預言者として召された出来事です。パウロが伝道者人生の最後まで心に刻んだ御言葉です。エルサレム神殿で主なる神に触れたイザヤは、主の御声を聴きました。
「誰を遣わすべきか。誰が我々に代わって行くだろうか」。イザヤは応えます。
「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください」。その時、主はイザヤに語られました。
「この民のところへ行って言え。あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず、見るには見るが、決して認めない。この民の心は鈍り、耳は遠くなり、目は閉じてしまった。こうして、彼らは目で見ることなく、耳で聞くことなく、心で理解せず、立ち帰らない。わたしは彼らをいやさない」。
預言者イザヤが遣わされる同胞の民ユダヤ人は、頑なな民である。キリストの福音を語っても語っても、目で見ることなく、耳で聞くことなく、心で理解することなく、主イエスの許に立ち帰らない。キリストの福音をことごとく頑なな心で跳ね返してしまう。このような頑なな民の前で、あなたは伝道の挫折を味わう。深い悲しみ、絶え間ない痛みを日々味わう。伝道の妨げに直面する。
しかし、にもかかわらず、伝道者パウロは主から日々、新たな召しを受けるのです。それ故、パウロは、自費で借りた家に丸二年間住んで、訪問する者はだれかれとなく歓迎し、全く自由に何の妨げもなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストについて教え続けた」。
様々な伝道の妨げに直面しても、主から与えられる全く自由に何の妨げもなく、日々主イエス・キリストを伝える伝道の業に、一筋の心でひたすら励んで行くのです。これこそが、伝道者パウロの根幹にある伝道者魂であったのです。この伝道者魂は伝道者パウロから、私どもの教会に受け継がれているものなのです。それが使徒言行録の結びであるのです。
②後一週間すると3月を迎えます。卒業式が行われます。伝道者を養成する東京神学大学も卒業式が行われます。東京神学大学のあるクラスが、卒業する時に、自分たちのことを「使徒行伝29章」と名付けました。使徒言行録は以前は、使徒行伝と呼んでいました。使徒行伝は28章で結ばれています。それなのに何故、「使徒行伝29章」と呼ぶのでしょうか。甦られた主イエス・キリストによって、卒業生が日本の各地に伝道者として遣わされます。それぞれ遣わされた日本の各地で、使徒行伝28章に続く、伝道の物語を綴って行くのです。自分たちの教会の物語を綴って行くのです。伝道の挫折があります。御言葉を語っても語っても、頑なな心で福音が跳ね返され、日々に深い悲しみ、絶え間ない痛みを味わいます。自らが語る説教が伝わらずに、涙を流します。しかし、主が与えて下さる伝道の実りもあります。再会した時に、使徒行伝29章の自らの伝道の挫折、主から与えられた伝道の実りを報告し、分かち合う。そして共に祈り合い、励まし合いながら、再び、主から遣わされた伝道地に帰って行くのです。そこで新たな召しを受けて、ひたすら伝道に励んで行くのです。教会に連なる全ての者が主の伝道の業に、心を一つにして祈りながら励んで行くのです。その土台にある祈りの御言葉を、最後にもう一度聴き、祈りを合わせたいと願います。使徒言行録4章29~31節。
「『主よ、今こそ彼らの脅しに目を留め、あなたの僕たちが、思い切って大胆に御言葉を語ることができるようにしてください。どうか、御手を伸ばし聖なる僕イエスの名によって、病気がいやされ、しるしと不思議な業が行われるようにしてください』。祈りが終わると、一同の集まっていた場所が揺れ動き、皆、聖霊に満たされて、大胆に神の言葉を語りだした」。
お祈りいたします。
「主よ、聖霊を注いで下さい。聖霊の道具として私どもを用いて下さい。全く自由に何の妨げもなく、生ける主イエス・キリストを一人一人の魂に届けさせてください。日々、伝える福音が頑なな心で跳ね返されても、伝道の挫折を味わい、深い悲しみ、絶え間ない痛みを味わっても、伝道のために立ち上がらせて下さい。大胆に憚ることなく神の御言葉を語らせて下さい。
この祈り、私どもの主イエス・キリストの御名により、御前にお捧げいたします。アーメン」。