「叫ぶ群衆、沈黙する主イエス」
イザヤ53:7~12
ルカ23:1~25
主日礼拝
牧師 井ノ川 勝
2024年3月10日
1.①私どもの毎日の生活には、いつも様々な言葉、声、音が聞こえています。様々な言葉、声、音に囲まれながら、生活をしています。家に帰ってまずすることは、テレビをつけることです。他の仕事をしながらでも、テレビの音、声が聞こえていないと、何となく落ち着かなくなります。それは言い換えれば、私どもは静寂さ、沈黙することに慣れていない、むしろ恐れを抱いているのではないでしょうか。私どもの日々の生活で、自分の思いを言葉にして相手に伝えること、言葉で訴えることは必要なことです。しかし同時に、沈黙して、言葉を聞く、言葉を待つことも必要なことではないでしょうか。私どもはそのような時を、一週間の生活において確保しているでしょうか。忙しい日々の中で、沈黙の時を確保することが出来ない方は多いのではないでしょうか。
そのような中で、私どもは今朝、礼拝へ導かれました。私どもは礼拝で何をしているのでしょうか。これまでおしゃべりして来た私どもは、神の御前に立つ時に、おしゃべりは止んで、ひたすら沈黙するのです。これは私どもの一週間の生活で、無くてならない時なのです。沈黙することは、何もしていないのではありません。神が今日、ここで、私に語りかけて下さる御言葉を待つのです。神が語りかける御言葉を、ひたすら沈黙して聴くのです。最近、日本のプロテスタント教会でも、漸く定着した言葉があります。「黙想」です。「黙って想い巡らす」という意味です。黙って何を想い巡らすかと言えば、神の御言葉を沈黙しながら味わうのです。それが私どもの様々な言葉が鳴り響く日々の生活にあって、私どもを導く灯となるのです。
②金沢教会と親しい交わりにある教会に、鎌倉雪ノ下教会があります。鎌倉雪ノ下教会では、受難週に入りますと、毎日、朝夕に教会に集い、受難週祈祷会を行います。そこでは牧師は語らない。信徒が奨励を行います。主イエスがエルサレムに入城されてから、十字架につけられるまでの最後の一週間を綴った受難物語から、沈黙して御言葉を聴き、それを奨励します。ある祈祷会において、婦人がこういう言葉から奨励を始められました。
「私は神が神であられることを今からお話したいと思います」。そう言って、淡々と主イエスの受難物語の話をされました。これは加藤常昭牧師が繰り返し語られる逸話です。主イエスの受難物語、その中心にあるのは、主イエスの裁判の場面です。ここで聞こえて来るのは、裁判官のローマの総督ピラトの言葉、ユダヤの王ヘロデの言葉、ユダヤ人の信仰の指導者、祭司長、律法学者の言葉、そして群衆の叫び声です。皆、激しい言葉です。ところが、裁判の場面で、主イエスはひたすら沈黙されています。ひと言も語られません。ひらすら裁かれています。誠に、神のお姿から掛け離れています。主イエスのお姿に躓きます。ところが、この場面を奨励した婦人は語るのです。ここに神が神であられることが最もよく現れている。驚くべきことです。そのことをこの御言葉から沈黙して聴いたと語られたのです。
2.①主イエスの地上の歩みは、ひたすら御言葉を語られる日々でした。頑なな心を打ち砕き、悲しんでいる魂を慰め、弱った魂を癒す言葉を語られました。嵐の意味を静め、悪霊に取り憑かれている人から悪霊を追い出す、神の権威に満ちた御言葉を語られました。ところが、その主イエスが裁判の場面になると、沈黙してしまう。自分に不利な判決が下されようとしているにもかかわらず、一切弁明をしようとはしない。主イエスであるならば、義しい筋道で、相手を論破することも出来たはずです。ところが、一切言葉を語られず、ひたすら沈黙されてしまう。一体、何故なのでしょうか。
それに対して、裁判の場面に登場する人々は皆、雄弁です。誰一人黙っていません。皆、大きな声を挙げています。そして皆、主イエスを裁いているのです。取り分けその中で、重要な役割を果たしているのは、群衆です。「十字架につけろ、十字架につけろ」との群衆の大きな叫び声が、主イエスを十字架につけたとも言えます。
ルカ福音書を読んでいますと、群衆が度々登場します。群衆に注目しています。そこにルカ福音書の特徴があります。主イエスが一人、人里離れた所へ出て行かれ、祈っておられると、群衆が主イエスを捜し回って、押し寄せて来たとあります。主イエスが伝道に行かれる先々に、群衆はいつも追いかけています。主イエスはいつも群衆に囲まれていた。群衆は一人一人、様々な悲しみ、悩みを抱えていました。家族に病人を抱えていました。それ故、主イエスの御言葉を求めていました。主イエスの癒しの御業を待ち望んでいました。主イエスを囲んで、5つのパンと2匹の魚で満腹した出来事は、群衆にとって忘れることの出来ない祝福された食事となりました。ガリラヤからエツサレムへ向かう主イエスの旅路にも、群衆は付き従っています。主イエスがろばの子に乗って、エルサレムに入城された時も、新しい王を迎えたと、群衆は熱狂的に歓迎し、祝福の歌を歌いました。
ところが、その同じ群衆が、主イエスの裁判の場面では、その顔が豹変しました。「十字架につけろ、十字架につけろ」と大声で叫んでいるのです。何故、熱狂的に主イエスに従っていた群衆が、熱狂的に「十字架につけろ」と叫ぶ顔に豹変してしまったのでしょうか。その理由はただ一つ。主イエスは自分たちが期待していた救い主ではなかったからです。自分たちの欲求を満足させる救い主ではなかったからです。自分たちの願い通りに動く救い主ではなかったからです。群衆の顔が豹変する。群衆にはそのような怖さがある。群衆の罪がある。衆愚の罪がある。ルカ福音書はこのことを私どもに語りかけているのです。私どもも群衆の一人であるからです。
②群衆を構成する一人一人は、誠に無力な存在です。一人が声を挙げても、周りは動きません。ところが、それが群衆になりますと、思い掛けない力を発揮します。民主化運動はその最たるものです。国を変え、政治を変革する力となります。しかし、群衆はいつも良い方向に動くとは限りません。悪い方向に舵を切ったら、暴徒化し、止めることが出来なくなります。それ故、権力者はいかに群衆を掌握するかに力を注ぎます。群衆を味方につけられず、敵に回したら、背を向けられたら、権力は失墜してしまうからです。
太平洋戦争時代、国家が一度戦争に向かって舵を切りますと、群衆も国家の勝利に向かって動き出します。群衆の渦に巻き込まれたら、その流れに逆らうことが出来なくなります。群衆の中には、「この戦争は間違っている」と思っても、声を挙げることが出来なくなります。「この戦争には義はない」と叫び声を挙げた者は捕らえられ、牢にぶち込まれ、虐待を受ける。ホーリネスの牧師で獄死した者が何人もいました。その家族も群衆から白い目を注がれた。ところが、敗戦後、一遍して民主主義が叫ばれるようになる。軍国主義を叫んでいた者が、皆の先頭に立って民主主義を叫ぶようになる。群衆の顔はすぐに豹変するのです。そこに群衆の恐ろしさがあります。
主イエスの裁判の場面は、こういう言葉から始まりました。
「そこで、全会衆が立ち上がり、イエスをピラトのもとに連れて行った」。
以前の口語訳ではこう訳されていました。
「群衆はみな立ちあがって、イエスをピラトのところへ連れて行った」。
「群衆は皆立ち上がった」。そこから主イエスの裁判が始まりました。「群衆は皆」。象徴的な言葉です。私どもは「皆」という言葉に弱いのです。「これは私一人の意見ではありません。皆もそう言っています」と言われたら、誰もが後退りをします。目の前の一人の背後に大勢の人がいると知ったら、その意見を軽んじるわけにはいかなくなります。「皆もそう言っています」。このひと言は殺し文句です。本当は2,3人が同意しているだけなのに、自分の背後には大勢の人がいると誇張する時に、「皆もそう言っています」と言います。卑怯なやり方です。たとえ大勢の方が自分に賛同しなくても、「私の意見はこうです」と述べる。そこに個人が立ち上がる。しかし、私どもは群衆の一人となって意見を述べ、群衆の陰に隠れて振る舞うことが実に多いのです。
3.①主イエスの裁判の場面には、様々な人物が登場しています。主イエスを裁くことにおいて、様々な人間模様が映し出されています。その一人一人に自分自身を重ね合わせることが出来ます。一人は、ユダヤの王ヘロデです。ヘロデは主イエスに対して興味津々で、ずっと以前より会いたいと思っていました。主イエスが何かしるしを行うのを見たいと望んでいました。それ故、主イエスに向かっていろいろ尋問しました。ところが、主イエスは何もお答えになりませんでした。そこにいた祭司長たちと律法学者たちは、主イエスを激しく訴えました。「何故、王の問いかけに何も答えないのか」。しかし、主イエスは何も答えられませんでした。ヘロデは主イエスに向かってしゃべりまくります。何とか本心を導き出そうとしました。しかし、主イエスは沈黙を貫かれました。ヘロデは激しく怒って、自分の兵士たちと一緒に主イエスを嘲り、侮辱したあげく、派手な衣を着せてピラトに送り返しました。
当時のユダヤの国は、ローマ帝国の支配下に置かれていました。従って、主イエスを最終的に裁く権限は、ローマから遣わされた総督ピラトにありました。ピラトは主イエスを尋問しました。「お前がユダヤの人の王なのか」。それに対して、主イエスは答えました。
「それは、あなたが言っていることです」。
裁判の場面で、主イエスの唯一の言葉です。不思議な言葉です。「あなたがそう思っているのなら、そうでしょう」。そういう意味の言葉です。しかし、この短い言葉以外、主イエスはピラトの前でも沈黙されていました。
しかし、ここで興味深いことは、ピラトは主イエスの中に、何の罪も見出せなかったことです。ピラトは三度も群衆に向かって、こう宣言しています。
「わたしはこの男に何の罪も見いだせない」。「わたしはあなたたちの前で取り調べたが、訴えているような犯罪はこの男には何も見つからなかった」。「いったいどんな悪事を働いたというのか。この男には死刑に当たる犯罪は何も見つからなかった」。
ピラトには判決を下す権限が与えられています。従って、いちいち群衆に尋ねなくてもよいのです。しかし、ピラトは群衆の目を気にしている、恐れています。群衆を敵に回したら、自分の地位も安泰ではないと恐れたからです。ピラトが三度も、主イエスに何の罪も見出せないと宣言したことは、主イエスに対し無罪判決を下したことでもあります。しかし、群衆はその判決に納得しません。
②そこでピラトは群衆と一つの取引を提案しました。時は過越の祭の最中です。出エジプトを記念する祭、奴隷からの解放を記念する祭です。祭の期間、恩赦で一人の囚人を解放することが習わしでした。囚人の中に、都で起こった暴動と殺人のかどで投獄されていたバラバがいました。バラバは革命家です。ユダヤの国をローマ帝国の支配から解放しようとした革命家でした。バラバはあだ名です。本名はイエスと言いました。バラバ・イエスと呼ばれていました。しかし、ピラトはキリストと呼ばれるイエスを釈放しようと考えていました。それ故、群衆に提案しました。「バラバと呼ばれるイエスか、それともキリストと呼ばれるイエスか」。
群衆は大声で叫びます。「その男を殺せ。バラバを釈放しろ」。「十字架につけろ、十字架につけろ」。「十字架につけろ」。
群衆はピラトが尋ねる度に、三度も「十字架につけろ」と叫びました。
「人々は、イエスを十字架につけるようにあくまでも大声で要求し続けた。その声はますます強くなった」。
「その声はますます強くなった」。以前の口語訳ではこう訳されていました。
「そして、その声が勝った」。群衆の「十字架につけろ」という大声が勝利した。群衆の大声が勝利して、何の罪も見いだせない主イエスを十字架へと追いやる。しかもつい先日まで、主イエスに従い、主イエスから御言葉を聴くことを喜びとしていた群衆です。その群衆の顔が豹変する。神が遣わされた神の子を殺す。そんな神の子など要らないと突き返し、十字架へと追いやり、亡き者にする。恐ろしいことです。
ピラトは群衆の要求を受け入れる決定を下した。そして群衆の要求通りに、バラバを釈放して、主イエスを十字架に引き渡した。全ては群衆の要求通りに事が運びました。主イエスの沈黙ではなく、群衆の叫び声が勝利しました。
4.①群衆の叫び声が勝利し、主イエスの沈黙が敗北した。そこで明らかにされたのは、群衆の罪、私ども人間の罪の姿です。裁く者と裁かれる者との姿です。裁く者と裁かれる者とは、裁判の席だけに起こることではありません。私どもの日常生活の中で起こることです。それは誰にも身に覚えのあることです。裁く者は自分に義しさがあると確信し、相手を見下ろし、上から下に向かって大声で裁きます。裁かれる者は体がどんどん沈み込み、小さくなり、言い返すことが出来ず、沈黙し、一方的に裁きの言葉を浴びせられます。裁く者と裁かれる者とは、その立ち位置を見ただけで、分かります。声の大きさで分かります。声の大きい方が勝利をします。上に立つ者が勝利をします。群衆と主イエスの間の裁きも、将にそのようなものでした。
しかし、主イエスの裁きの場面で、明らかにされたことがあります。見えて来たものがあります。本来、裁くべきお方が裁かれている。本来、裁かれるべき者たちが、裁いている。将に、主客転倒が起きている。そこで明らかになるのは、群衆の罪、私ども人間の罪の姿なのです。
果たして、群衆の叫び声が勝利をし、主イエスの沈黙が敗北したのでしょうか。主イエスは何故、ひと言も語らず、沈黙を貫かれたのでしょうか。沈黙することは、何もしていないのではありません。ただ一つのことに集中されていることです。主イエスは皆から裁かれ、沈黙の中で、何をされていたのでしょうか。ひたすら祈られていました。詩編62編にこういう祈りがあります。主イエスが親しんでおられた詩編の御言葉です。
「わたしの魂は沈黙して、ただ神に向かう。神にわたしの救いがある」。
「わたしの魂よ、沈黙して、ただ神に向かえ。神にのみ、わたしは希望をおいている」。
主イエスは十字架につけられても、ひたすら祈られました。
「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」。
十字架上のこの祈りを、主イエスは皆から裁かれる厳しい裁きの場面で、沈黙しながらひたすら祈っておられたのだと思います。
②そして更に、主イエスは皆から裁かれながら、一つの御言葉を想い起こされ、黙想しておられたのだと思います。イザヤ書53章の「苦難の僕の歌」です。苦難の僕と自らを重ね合わせておられたと思います。53章7節以下。旧約1150頁。
「苦役を課せられて、かがみ込み、彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように、毛を刈る者の前に物を言わない羊のように、彼は口を開かなかった。捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか。わたしの背きのゆえに、彼が神の手にかかり、命ある者の地から断たれたことを」。
ここには驚くべきことが歌われています。主イエスが苦難の僕として、権力者からも、群衆からも裁かれた時、実は、神に裁かれていたのだというのです。何故、そんなことが言えるのか。苦難の僕である主イエスが負われた病、痛み、苦しみ、罪、咎は、全て私たちのためのものであったからです。わたしたちの身代わりとなって、負われたものであったからです。それ故、苦難の僕・主イエスの受けた傷によって、わたしたちは癒されたのです。私たちへの救い道が拓かれたのです。苦難の僕・主イエスが自らを投げ打ち、死んで、罪人のひとりに数えられた。多くの人の過ちを担い、背いた者のために執り成しをしたのは、この人であったのです。
従って、群衆の大声が勝利をしたのではない。主イエスの沈黙が勝利をしたのです。主イエスの沈黙を通して、神の恵みが勝利をしたのです。
5.①群衆というのは、一人一人の顔が見えません。皆、群衆の色に染まります。群衆という顔を持つようになります。しかし、主イエスは裁判の場面で、十字架の上で、沈黙して祈られた。
「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」。
この祈りは、主イエスが群衆を十把一絡して祈られた祈りではない。群衆の一人一人のために祈られた祈りです。群衆の一人一人の痛み、悲しみ、苦しみ、罪を覚えて祈られた執り成しの祈りです。新米を炊くと、よく一粒一粒の粒が立っている。だから一粒一粒に味わいがあると言われます。群衆の中で個人が失われ、個性がなくなり、埋没してしまうのではなく。主イエスによって一人一人が覚えられ、執り成され、祈られる時、群衆の中で埋没していた私どもの個人、個性が米粒のように立つのです。群衆のままでは救われません。主イエスの執り成しの祈りを受けて、群衆の中から呼び出され、主の御前に個人として立つ。そこに共同体が立つのです。キリストの教会が立つのです。そこに救いがあるのです。群衆から共同体が生まれるために、主イエスは十字架に立たれなければならなかったのです。
主に呼び出された一人一人は、キリストの教会の中で立つのです。小さな小さな主の群れです。しかし、主イエスの執り成しの祈りに合わせて、キリスト教会は世界に生きる一人一人の救いのために、ひたすら執り成しの祈りに生きるのです。そこに主の教会に呼び出された私どもの使命があるのです。
お祈りいたします。
「主イエスを十字架につけろと大声で叫んでいた群衆、主イエスを裁いた群衆の中に、私どもも紛れ込んでいたのです。群衆の陰に隠れて、私どもも大声を挙げていたのです。しかし、主イエスはひと言も反論されることなく、ひたすら沈黙し、裁かれる場所に立ち続けておられました。裁かれながら、沈黙しながら、ひたすら私ども一人一人のために、執り成し祈っておられたのです。父よ、彼らをお許しください。自分が何をしているのか知らないのです。主イエスの執り成しの祈りによって、群衆の中から呼び出され、主の教会へ招かれた私どもです。私ども小さな主の群れを用いて下さい。世界に生きる一人一人の救いのために、ひたすら執り成しの祈りに生きる群れとして下さい。全人類の全ての罪を担われた主よ、どうか世界を顧みて下さい。
この祈り、主イエス・キリストの御名により、御前にお捧げいたします。アーメン」。