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「命のパンを食べて生きよ」

出エジプト記 6章4~15節
ヨハネによる福音書 6章41~59節

「主日礼拝」

井ノ川 勝 牧師

2026年8月9日

00:00 / 32:56

2026.8.9. 「命のパンを食べて生きよ」

      出エジプト記16:4~15,ヨハネ6:41~59


1.①もう大分前になりますが、夜のあるニュース番組で、「あなたにとっての最後の晩餐とは何ですか」というコーナーがありました。様々な著名人がこの問いかけに答えていました。しかし、共通していたものがありました。誰もがステーキやお寿司などの、ご馳走は望んでいませんでした。温かいご飯と味噌汁があればよい。おにぎりと漬物だけでよい。肉じゃがが食べたい。全ての人に共通していたものは、おふくろの味でした。子どもの頃、食べたおふくろの料理、味は一生忘れられないものになっています。その人を生かす命の糧となっています。舌の記憶というものは、生涯、その人の体に染み込んでいます。その人を形造る大切な命の糧となっています。

 

ところで、皆さんは何を食べて生きていますか。私どもが何を食べて生きているのか、という問いは、私どもが生きる上で、とても大切な問いかけです。何を食べて生きているか。しかし、この問いかけは、食べ物だけを意味していません。高校生や大学生の皆さんにとって、夏休みは様々な本と出会い、読書経験をする時です。そこで言葉と出会います。私どもの心に響く言葉、私どもの心を捕らえる言葉。その言葉が私どもの考え方を変え、私どもの生き方を変えます。そのような言葉は読むだけではなく、何度も声に出して、味わいます。その言葉を食べて生きます。大切な言葉は何度も何度も、口で味わい、食べるのです。生涯、私どもを生かす大切な命の言葉となります。

 主イエスが語られた御言葉があります。

「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つの言葉によって生きる」。

 主イエスはパンを食べて生きることを軽視されません。それ故、「主の祈り」で、「日ごとの糧を今日も与え給え」と祈ることを求められました。しかし、私どもはパンだけを食べて生きるのではありません神の口から出る一つ一つの神の言葉を食べて生きるのです。神の言葉は食べても食べなくともよいものではありません。私どもが今日を生きるための大切な命の糧なのです。

 

2.①この朝、私どもはヨハネ福音書6章の御言葉を聴きました。6章全体が、一つの長い物語となっています。主イエスが5つのパンと2匹の魚で、五千人の群衆を満腹させるというしるしを行われました。その出来事が切っ掛けとなって、主イエスと群衆、ユダヤ人、弟子たちとの長い対話が始まりました。対話の主題はこれでした。「あなたは何を食べて生きているのか」。

 ここで主イエスが繰り返し語られている御言葉があります。

「私は天から降って来た命のパンである。このパンを食べるならば、その人は死なない。永遠に生きる」。

 この御言葉を聞いたユダヤ人たちが、直ぐに想い出した出来事がありました。昔、自分たちの先祖はエジプトで奴隷でした。しかし、神の強い御手によって、エジプトから脱出し、荒れ野へ導かれました。荒れ野には飲む水も、食べる物もない。イスラエルの民は神に向かって、つぶやきました。「ああ、エジプトに帰りたい。エジプトでは肉鍋をたらふく食べられた。きょうりもすいかも、葱も玉葱もにんにくもあった。ああ、あの味が忘れられない」。

 神はイスラエルの民のつぶやきを聞かれ、天からマナを降らせました。イスラエルの民は、神が日ごとに天から降らせて下さったマナを食べて、荒れ野の40年の旅を続けました。

 しかし、ここで主イエスが語られた御言葉は、私が天からマナを降らせて、あなたがたに食べさせるのではありません。私が天から降って来た命のパンである。私を食べる者は死なない、永遠に生きる。命のパンである私を食べて生きなさい、と語られるのです。驚くべき御言葉です。

 

7月、8月は夏期訪問月間です。高齢、病気のため礼拝に出席出来ない教会員を訪ね、御言葉と教会の祈り、賛美を届けます。先週も、施設におられる野川優子さんを訪問しました。前回、イースター訪問をした時に、野川さんから一つの願いを聞きました。「先生、私はキリストのいのち・聖餐に長い間、与っていないの。今度来る時に、キリストのいのち・聖餐を運んでほしい。キリストのいのちに与りたい」。

 野川さんは毎主日、ライブ配信で礼拝を捧げています。礼拝で語られるキリストの命の言葉を聴き、食べながら生きています。しかし、御言葉を聴き、食べれば食べる程、キリストのいのち・聖餐に与り、キリストのいのちを食べることを切望する。キリストのいのちを食べなければ、生きることが出来ないからです。死んでも生きられないからです。ここにキリスト者としての信仰のいのちが懸かっているからです。

「私は天から降って来た命のパンである。このパンを食べる者は死なない。永遠に生きる」。

 主イエスのこの御言葉を朗読し、キリストのいのち・聖餐に与りました。コロナ前から数えると、実に7年ぶりの聖餐でした。7年間、キリストのいのちの御言葉に聴きながら、キリストのいのち・聖餐に与り、食べて生きることを切実に待ち望んでいた。改めて思いました。私どもの信仰は、キリストのいのちの御言葉を聴き、キリストのいのちを食べて生きる交わりに生きるのです。

 コロナに直面した教会は、礼拝に出席出来ない教会員のために、ライブ配信の礼拝を通して、キリストのいのちの御言葉を届けます。これは今までにない大きな恵みの業となりました。しかし同時に、そこには限界もあります。キリストのいのち・聖餐は、ライブ配信の礼拝では届けられないのです。それ故、礼拝に出席出来ない教会員を訪ねて、キリストのいのち・聖餐を運んで行かなければならないのです。私どもは、キリストのいのち・聖餐に与ることを通して、キリストの教会に連なる一つの神の民とされているのです。

 

3.①8月、東京神学大学から夏期伝道実習の神学生が派遣され、1か月間、金沢教会で、北陸の諸教会で、御言葉の奉仕をされています。そういうこともありまして、私も神学生時代のことをいろいろと想い起こしました。私が神学生の時、旧約聖書神学を教えておられたのは、左近淑先生でした。授業でも、著書でも、繰り返し情熱を傾けて語られた言葉があります。

 旧約聖書の言葉は平和な時代に生まれた言葉ではない。崩壊期に生まれた言葉である。自分たちが頼りにしていた目に見えるものが、ことごとく崩れ去る。自分たちが土台としていたものが、揺れ動き崩れ去って行く。国が滅ぼされ、捕虜となって、異教の地に連れて行かれる。自分たちが生きようとする前方は全て闇で覆われている。光が全く見えない。しかし、そのような中で、神が立てた預言者を通して、神の言葉が語られた。「わたしが語りかける言葉を食べて生きよ」と神は語られる。神の言葉を聴き、読むだけではない。神の言葉を今日、生きるための命の糧として、むさぼり食べながら生きた。堅い言葉も、辛い言葉も、厳しい審きの言葉も、それを自分の口には合わないからと言って吐き出したのではない。神の言葉を食べて、噛み砕いて、生きた。この御言葉を食べなければ、あなたは生きられない。聖書の言葉は、そのようにして、命懸けで伝えられて来たのです。聖書の言葉は読むだけでなく、聴くだけでなく、食べて噛み砕いてこそ、その味わいが分かる言葉なのです。

 

ヨハネ福音書6章の御言葉は、私にとって忘れられない言葉です。私は大学1年生の時、教会に導かれ、洗礼を受けました。そして献身し、神学校に入学しました。渋谷の富ヶ谷にある母教会で、大学生、神学生の8年間、信仰の歩みをしました。その母教会を旅立ち、伊勢の山田教会に遣わされる最後の礼拝で、説教をしました。その時、説き明かした御言葉が、ヨハネ福音書6章の特に52節~59節の御言葉でありました。その最後の礼拝には、先日亡くなった母、父、そして妻の弟夫妻も出席していました。何故、この御言葉を、母教会最後の礼拝で、伊勢の教会に遣わされる直前の礼拝で、説教したのでしょうか。

ご復活の主イエス・キリストによって伝道者として立たされ、御言葉を語り、伊勢神宮の町で、伝道し、キリストの教会を形造って行く。その土台にあるものは、何と申しましても、「私は命のパンである」と語られるキリストを食べて生きる信仰と交わり以外にはないからです。キリストの御言葉を読み捨てるのではない。キリストの御言葉を聞き流すのではない。キリストのいのちを食べて、噛み砕き、私の内に、私どもの交わりの内に、キリストが受肉し、生きていただくのです。

ヨハネ福音書6章を読み進めて行きますと、明らかに、52節~59節の主イエスの言葉の音色が変わっています。これまではこういう御言葉でした。「私は天から降って来た命のパンである。このパンを食べる者は死なない。永遠に生きる」。

ところが、52節以下になりますとこう語られます。「私の肉を食べ、私の血を飲む者は、永遠の命を得、私はその人を終わりの日に復活させる」。

「私は命のパン」が、「私の肉」「私の血」という言葉に変わります。生々しい表現になります。しかも、「私の肉を食べる」は、上品に食べるという意味ではありません。動物が餌をむさぼり食べる、という生々しい言葉なのです。言い換えれば、主イエスの肉を食べ、主イエスの血を飲まなければ、生きることは出来ない、という必死の覚悟が込められている言葉です。

「私の肉を食べ、私の血を飲む者は、永遠の命を得、私はその人を終わりの日に復活させる」。

 明らかに、キリストのいのち・聖餐を表す言葉です。従って、聖餐に与る時に、主イエスのこの御言葉を朗読することもあるのです。聖餐を表す言葉として、大切な命の言葉となりました。

 主イエス・キリストは十字架の上で、私どものために、ご自分の肉を裂かれ、ご自分の血を注いで下さいました。ご自分のいのを、私どものために注ぎ尽くして下さいました。ご自分の血を最後の一滴までも、私どものために注ぎ尽くして下さいました。私どもが生きるためです。私どもが死んでも生きるためです。私どもは永遠に生きるためです。私どもが終わりの日に復活するためです。キリストのいのちを食べることにより、私どもは生きる時も死ぬ時も、キリストによって生かされるのです。

 

4.①伊勢の教会で伝道していた時、第一主日礼拝で、キリストのいのち・聖餐に与りました。礼拝後、長老会が始まるまで1時間半ありました。礼典担当の長老を車に乗せ、礼拝に出席出来ない教会員を訪問し、キリストのいのち・聖餐を届けました。1回に3名の教会員を訪問し、玄関で聖餐に与りました。ある高齢の女性教会員は施設に入られていました。その方のお部屋で聖餐に与ります。私が祈りを捧げた後、その方が続いて祈りを捧げました。

「主よ、キリストのいのち・聖餐に与ることが出来て、感謝いたします。御心ならば、生きながらえて、来月も聖餐に与らせて下さい。聖餐を私の人生の最後の食事として下さい」。

 説教の冒頭で、問いかけました。「あなたの最後の晩餐は何にしたいですか」。私どもキリスト者は答えます。「キリストのいのち・聖餐を最後の食事にしたい」。キリストが私どものために注がれたキリストのいのちの味わいは、私どもの舌の記憶となって遺ります。私どもの体の記憶となって遺るのです。ですから、7年間、聖餐に与っていなかった野川優子さんが、キリストのいのちを切望するのは当然です。信仰の体が切望するのです。キリストのいのちを食べることなくして、生きられないからです。キリストのいいのちを食べることなくして、死を超えた永遠のいのちを望むことは出来ないからです。

 これまでも何度も、死に直面している教会員を訪ねました。唇にパンを付け、ぶどう汁を滴らせました。死が教会員を支配しているのではない。死に打ち勝たれた甦られたキリストが、この教会員のいのちを御手の中に置いて下さっておられる。聖餐を通して、そのことを確信しました。

 

「私の肉を食べ、私の血を飲む者は、永遠の命を得、私はその人を終わりの日に復活させる」。

 しかし、主イエスが語られたこの御言葉を、ユダヤ人や弟子たちは、喜んで聞きませんでした。むしろ怒りに満ちました。躓きました。主イエスを殺そうという殺意が生まれました。

「これはひどい話だ。誰が、こんなことを聞いていられようか」。

弟子たちの多くが、主イエスから離れ去り、もはや主イエスと共に歩むことをしなくなりました。主イエスの伝道のご生涯にとって、大きな分岐点となった言葉になりました。主イエスにとって、心痛む出来事、伝道の挫折を味わう出来事となりました。

 先週の礼拝後、北陸学院の高校生が洗礼を志願され、臨時長老会、洗礼試問会が行われました。教会にとって最も嬉しいこと。それは受洗者が与えられ、教会の交わりに加えられることです。教会にとって最も悲しいこと。それは教会の交わりに生き、共に礼拝を捧げていた教会員が躓き、教会の交わりから離れて行くことです。その痛みは癒えることなく、ずっと続きます。主イエスご自身もまた、私どもと同じ痛みと悲しみを、先だって負われたのです。

 主イエスに従っていたのは12人の弟子だけではありません。女性の弟子もいました。その他に多くの弟子がいました。しかし、その多くの弟子たちが、主イエスの言葉に躓き、「こんなひどい言葉など聞いていられない」と捨て台詞を残し、主イエスの許から去って行きました。

 主イエスは残った12人の弟子に尋ねました。

「あなたがたも去ろうとするのか」。

主イエスの悲しみのこもった言葉です。その時、弟子を代表してシモン・ペトロが答えました。

「主よ、私たちは誰のところへ行きましょう。永遠の命の言葉を持っておられるのは、あなたです。あなたこそ神の聖者であると、私たちは信じ、また知っています」。

 ペトロの信仰告白です。マタイ、マルコ、ルカ福音書で、主イエスはフィリポ・カイサリアで、弟子たちに尋ねられました。「あなたがたは私を何者だと言うのか」。ペトロは弟子たちを代表して答えました。「あなたこそ、生ける神の子キリストです」。このペトロの信仰告白に対応するのが、ヨハネ福音書のこのペトロの信仰告白です。多くの弟子たちが離脱するという痛みの出来事、主イエスの伝道の挫折という分岐点において、「あなたがたも去ろうとするのか」という主イエスの問いかけに対し、ペトロが答えた信仰告白です。

「主よ、私たちは誰のところへ行きましょう。永遠の命の言葉を持っておられるのは、あなたです。あなたこそ神の聖者であると、私たちは信じ、また知っています」。

 

5.①昨年の8月30日、金沢教会で長く長老として礼拝生活をされていた深谷松男長老が逝去されました。昨年11月13日、金沢教会で記念会を行いまして、私の説教の後、長男の深谷格さんにお話をしていただきました。仙台、京都での深谷松男長老、英子さんの様子をスライドで見せてくれました。そのスライドに、深谷長老のお部屋に、毛筆の聖書の御言葉が記されてある額が掲げられていました。仙台の広瀬河畔教会の秋保牧師の毛筆でした。この御言葉が文語訳で書かれてありました。

「主よ、われら誰にゆかん、永遠(とこしえ)の生命の言は汝にあり。又われらは信じかつ知る、なんちは神の聖者なり」。

 深谷長老は毎日、この御言葉を自らの主キリストへの信仰告白として、心に刻み、キリストへの献身を新たにしていたのだと思いました。それは私たちにも求められていることです。

 

日本キリスト教団出版局は長く文書伝道のため、多くのキリスト教書籍を出版して来ましたが、出版業務を閉鎖することとなりました。新しい出版社に業務を移管することとなりました。教団出版局の最後の書籍が、『マルコ福音書の黙想集』となりました。教団の様々な伝道者が黙想を記しています。私も依頼され、二つの黙想を記しました。主イエスが5つのパンと2匹の魚で、五千人の群衆を満腹させた御言葉と、最後の晩餐の御言葉です。いずれも聖餐と関わりのある御言葉でした。教団最後の出版物となると言うので、執筆者に愛唱聖句が求められました。私は記した二編の黙想が聖餐と関わりがありましたので、ヨハネ福音書のこの御言葉を愛唱聖句として選びました。

「主よ、われら誰にゆかん。永遠(とこしえ)の生命の言は汝にあり。又われらは信じ勝つ知る。なんぢは神の聖者なり」。

 私どもの教会の信仰告白です。私どものキリストへの献身の志です。「私は天から降って来た命のパンである。私の肉を食べ、私の血を飲む者は、永遠の命を得、私はその人を終わりの日に復活させる」。主イエス・キリストの私どもへの献身に応え、私どももキリストへの献身に日々生きるのです。

 

 お祈りいたします。

「主イエスの御言葉に躓く私どもです。こんなひどい言葉など聞いていられないと言って、立ち去る私どもです。しかし、主イエスは私どものために十字架でいのちを注ぎ、血を注ぎ尽くして下さったのです。その主イエスこそ、天から降って来た命のパンです。主イエスの肉を食べ、主イエスの血を飲む者は死ぬことはない、永遠に生きると約束されました。主よ、日々、あなたの命のパン・御言葉を食べて、私どもを生かして下さい。キリストの肉と血であるキリストのいのち・聖餐を食べて、私ども生かして下さい。日々、キリストへの新たな献身に生かして下さい。

 この祈り、私どもの主イエス・キリストの御名により、御前にお捧げいたします。アーメン」。

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