「大いなる肯定の下に生きる」
申命記 7章6~11節
コリントの信徒への手紙二 1章15~22節
「主日礼拝」
井ノ川 勝 牧師
2026年3月8日
2026.3.8. 「大いなる肯定の下に生きる」
申命記7:6~11,コリント二1:15~22
1.①先週月曜日、北陸学院高校の卒業式が行われました。金沢教会の礼拝に出席されている多くの高校生も、卒業されました。4月より東京、関西を始め、新しい地で、大学生として学びを始められます。そこでこれまで経験したことのない、様々な出来事に直面することでしょう。また、一昨日は東京神学大学の卒業式が行われました。神学校で学びをした新たな伝道者が、日本の各地の教会へ遣わされました。
私どもは誰もが自分の考えを持ち、自分の生きる姿勢を形造りながら生きています。何よりも、私どもは信仰を持って生きています。しかし、私どもがこの世界を生きる時に、私どもの考え、信仰、生きる姿勢が、いつも然り、然りと肯定されるとは限りません。いや、むしろ、否、否と否定されることが多くあります。自分の存在すらも否定されて、どこに立って歩んだらよいのか分からなくなってしまうことがあります。その時、私どもは一体どうしたらよいのでしょうか。
②私は大学生の時、大学に講義に来ていた牧師に誘われて、その牧師が牧会する教会の礼拝に出席するようになりました。大学2年生のクリスマスに洗礼を受けました。大学3年生の時、ドイツの留学から帰って来られた近藤勝彦先生が、教会の牧師になられました。併せて、神学校の専任講師にもなられました。私は近藤牧師の説教を通して、福音の深みへと導かれました。大学3年生になり、将来の自分の歩むべき道を模索していました。そのような中で、近藤先生が恵泉女子短期大学の卒業礼拝で語られた説教に触れる機会がありました。今朝、私どもが聴いた御言葉を説き明かされた説教です。「大いなる肯定の中に」という題でした。その説教で、卒業する大学生に向かって、このように語られていました。
皆さんが社会に出るならば、そこには、「然り」と「否」の葛藤の世界、イエスとノーのいりまじった世界が待っています。愛には憎しみが交叉し、評判には妬みや悪評がついてまわり、理解されるとともに誤解され、生には死が背中合わせにあります。人生や社会の問題は、マル・バツ式には解決できず、一つのことにマルと同時にバツをつけざるを得ない現実があります。そうした現実の中に入って行くと、皆さんの態度は、常にイエス・ウーマンでいるわけにはいかないでしょう。ある時はノーと言い、ある時には他の人びとのノーに逆らって、あえてイエスと言わざるを得ない。イエスとノーのいりまじった戦いの人生にならざるを得ません。
人間の社会には、「然り」と「否」の葛藤は、避けられません。しかし、その葛藤に人々が意味を感じて耐えているか、その葛藤から何か創造的なものを生み出しつつ、また新しい葛藤へと前進できているか。それとも逆に、「しかり」と「いな」の葛藤に疲れはて、もうそこから何も創造的なものを生み出す気力がなく、なげやりになっているのではないか。
大事なことは、人生の「然り」と「否」を越えた大いなるしかり、大いなる肯定のもとに立つことです。そこから、「然り」と「否」の葛藤に満ちた人生と世界を、勇気をもって創造的に考え、生きることです。そして、この御言葉に入って行きます。
2.①伝道者パウロは主に祈りつつ、一つの伝道計画を立てました。ギリシャ半島にあるコリントへ行く計画です。コリントの町には、パウロの伝道によって生まれた教会があります。その教会を訪ねて、励まし、伝道したいという志を抱きました。コリント教会の教会員も、パウロ先生が訪ねて来られるのを祈りつつ楽しみにしていました。ところが、パウロがコリントへ行く計画は何らかの事情で果たされなくなりました。それに対して、コリントの教会員の一部が、激しく反発しました。
パウロ先生は、あなたたがたのところへ、「行く」「行く」と言いながら、結局、「来なかった」ではないか。「然り、然り」と言いながら、結局、「否、否」となったではないか。パウロ先生が立てた伝道計画は、軽はずみだった。人間的な考え方だった。だから実現しなかったのだ。パウロ先生の言うことは信用出来ない。パウロ先生は二枚舌だ。パウロ先生は信頼出来る伝道者ではない。パウロ先生に対して、激しい反発の言葉が語られました。
伝道者にとって最も厳しいことは、教会員から信用されないことです。信頼されないことです。生きた関係が破れることです。一度こんがらかった糸は、解こうとしても解けるものではありません。益々こんがらかってしまいます。生きた関係が持てないと、一緒に主のために伝道することが難しくなります。この手紙は、伝道者パウロの深い痛みと悲しみから生まれました。一つ一つのパウロの言葉には、痛みと悲しみで溢れています。
「このような計画を立てたのは、軽はずみだったでしょうか。それとも、私の計画は人間的な考えによるもので、私にとって『然り、然り』が同時に、『否、否』となるのでしょうか」。
本日礼拝後、3月の定例長老会が行われます。その議題の中心は、2026年度の教会形成の方針と伝道計画です。更に、5年後に迎えます教会創立150周年の伝道の幻と課題です。私どもは主の御心を問いながら、祈りつつ、伝道計画を立てます。新しい年度はこのような伝道をしようと、志を新たにします。しかし、教会の伝道計画はいつも、「然り、然り」とは行きません。伝道計画通りには実現しません。むしろ、「否、否」を経験する方が多いのです。私どもが祈りをもって立てた伝道計画が、ことごとく失敗に終わる。挫折を味わうのです。
しかし、大切なことは、「否、否」を突きつけられた時に、私どもはその現実をどのように捕らえ、どこに立つのかです。
②伝道者パウロのコリント教会訪問という伝道計画は実現しませんでした。計画倒れになりました。コリントの教会員から、「否、否」を突きつけられた伝道者パウロは、挫折の中で、どこに立ったのでしょうか。パウロは語ります。
「しかし、神は真実な方です。だから、あなたがたに向けた私たちの言葉は、『然り』であると同時に『否』であるというものではありません」。
「しかし、神は真実な方である」。パウロの信仰の中心にある信仰告白です。申命記の信仰でもあります。パウロはいつも、ここに立つのです。失敗した時、挫折した時、ここに立ち戻るのです。人間的な知恵、策略に立ち戻るのではなく、神の真実に立ち戻るのです。私ども人間の計画、人間の言葉は、「然り」が「否」になってしまいます。しかし、真実な神の言葉は、「然り」が「否」になることはない。真実な神の言葉は、ことごとく「然り」となるのです。
私どもが主の御心を問い、祈りつつ立てた伝道計画が、「否、否」を突きつけられる。しかし、そこで主の御心を問いかけるのです。「否」を突きつけられた現実の中で、神の「然り」は何かを問うのです。言い換えれば、「否」を突きつけられた現実の中に、主の御心、「然り」を読み取るのです。
伝道者パウロはコリント教会の訪問計画が挫折したことを、人間的な考え、軽はずみな計画とは捕らえていません。それも主の御心であると捕らえているのです。私どもを支配しているのは、人間的な計画ではなく、神の真実であるからです。それ故、パウロは語ります。
「私たち、つまり、私とシルワノとテモテが、あなたがたの間で宣べ伝えた神の子イエス・キリストは、『然り』が同時に『否』となったような方ではありません。この方においては『然り』だけが実現したのです。神の約束はすべて、この方において、『然り』となったからです」。
神の真実はどこで現れたのか。神の子イエス・キリストにおいて現れた。神の子イエス・キリストにおいて、ことごとく神の『然り』が実現した。私どもは今、受難節の歩みをしています。主イエスの御受難の意味を尋ね求めながら、私どもの信仰の姿勢を整え、生きる姿勢を形造っています。神の子でありながら、主イエスは十字架につけられました。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになられたのか」という絶望の叫びを上げられました。しかし、主イエスの十字架の出来事は、神の「否」の出来事ではありませんでした。十字架につけられ、息を引き取られ、墓に埋葬された主イエスを、神は死人の中から甦らされました。神の大いなる「然り」が、主イエス・キリストにおいて現されたのです。神の「然り」はことごとく、主イエス・キリストにおいて実現した。その主イエス・キリストは、私どものために十字架でいのちを注ぎ尽くし、死の闇を引き裂き、甦られた。私どもも、主イエス・キリストを通して、神の大いなる「然り」の中に入れられているのです。神の大いなる肯定の下に置かれているのです。
3.①先週の木曜日、北陸学院扇が丘幼稚園の保育者感謝礼拝で御言葉を語りました。礼拝後、卒業されるお子さんを持つお母さんが何人か、感謝の言葉を述べられました。扇が丘幼稚園を通して、何よりも一人一人の子どもを「然り」と肯定する神さまの愛、イエスさまの愛に触れたことが、大きな恵みであったと共通して語られました。一人一人の子どもが、神さまの愛、イエスさまの愛を注がれている。それこが、一人一人の子どもが、神の大いなる「然り」、肯定の下に置かれていることです。
他方で、お母さんは小学校に入学したら、わが子の良さが「否、否」と否定されるのではないか、と心配をしていました。子どもたちも日々、「否、否」という、自分存在を否定する現実と直面します。それは厳しいことです。しかし、私どもには立ち戻る場所がある。神が御子イエス・キリストにおいて、「然り」と、大いなる肯定の下に立ち帰るよう招いておられる。それこそが、今、私どもが捧げている礼拝です。パウロは語ります。
「神の約束はすべて、この方において、『然り』となったからです。それで、私たちはこの方を通して神に『アーメン』と唱え、栄光を帰するのです」。
礼拝において、私どもは御言葉を通して、御子イエス・キリストにおいて実現した神の大いなる「然り」を聴くのです。神の大いなる「然り」を受けた私どもは、主イエス・キリストを通して、神に、「アーメン」と唱えるのです。「アーメン」という言葉も、「然り」「真実です」という意味です。神の大いなる「然り」に感謝して、「アーメン」「然り」と唱えて、神に栄光を帰す歩みを始めるのです。
②金沢教会伝道説教集の中に、東京神学大学の佐藤敏夫先生が語られた「あなたは自分を肯定できるか」という説教があります。私は伊勢で伝道していた時、失敗と挫折の伝道の日々にあって、この説教集を手にし、大いなる慰めを受けました。佐藤先生はこういう言葉から説教を始めています。
ある日、一つの文章に出会った。「あなたは自分の育ちを愛せるか」。この文章は信仰的な文章ではないが、この問いかけは極めて信仰的な問いかけです。改めて、私どもが「あなたは自分の育ちを愛せるか」と問われたら、どう答えるでしょうか。自分の育ちを友人の育ちを比べては、私は自分の育ちを愛せないと答える。あるいは、試練と苦難の連続の日々を過ごして来た私は、とても自分の育ちなど愛せないと答えるのではないでしょうか。
「あなたは自分の育ちを愛せるか」。この問いかけは、「あなたは自分を肯定できるか」という信仰的な問いかけであると、佐藤先生は語られます。
佐藤先生は太平洋戦争中、フィリピンに派遣されました。激しい戦闘で、60万人いた兵士の中で生き残ったのは、僅か15万人だった。死と向き合う過酷な日々を過ごした。シンガポールの近くで死を覚悟しなければならなかったイギリスの青年兵士の一編の詩を紹介しています。イギリスの青年兵士の思いは、痛い程よく分かると共感しています。
「呼び出されていざ死ぬ間際に何を思うだろうか。その時人生は余りに早く過ぎ去ると考えないであろうか。過ぎた年月、なんと素早く走り去った年月、目論見は数々あった、何もなしおえることなく死に行くこの身、哀れ夢多かった日は空しく暮れんとす、色とりどりの花の花弁をひろげんとする今、見よ嵐の黒雲、聞け熱風の音」。
戦争、死は、私どもの命を一瞬にして呑み込みます。若者の将来を吞み込みます。若者の将来の夢、志しを吞み込みます。それは誠に惨いことです。それは過去の出来事ではなく、今日の現実でもあります。戦争、死は、私どもの命に対する、大いなる否、大いなる否定です。
佐藤先生は敗戦後、フィリピンの収容所で過ごしました。そこで天幕を張り、友人兵士と伝道集会を開きました。その集会に出席されたのが、軍医として従軍していた金沢教会の片岡茂太郎長老でした。一人のキリスト者の軍医が戦犯容疑のため、他の収容所に移される時に、伝道用パンフレットを書いて来られた。そこにこう記されていた。
戦争裁判が始まって絞首刑が宣告されはじめると、多くの人々は自分がもし絞首刑になったら泰然自若として死に就きたい、従容(しょうよう)として死に就きたい、などと言うが自分はそうは思わない。自分はあの13階段を足が震えて登れないかもしれない。しかし自分にとってそういうことは問題ではない。そういう醜態を演ずる自分でも神が受け容れてくれるかどうかが自分にとっては問題である。人にどう見えるかなどは問題ではない。
神の大いなる肯定によって受け容れられるということこそ、生きている時だけでなく、死と向き合った時も問われることなのです。佐藤先生は語られます。
私どもは律法によって義とされない。行いよって救われない。それは業績を生み出す能動的な生活によって義とされないことである。私どもがイエス・キリストの十字架において既に神から受け容れられている、神さまが受け容れて下さることを心から受け容れるという、受動的な態度によってこそ、私どもは義とされ救われるのです。
4.①神の約束は、ことごとく主イエス・キリストにおいて「然り」となった。それ故、私どもも主イエス・キリストを通して神に、「アーメン」「然り」と唱え、神に栄光を帰する。私どもが主イエス・キリストにおいて、「然り」とされている。肯定されている。その確かさを、私どもはそこで確かめることが出来るのでしょうか。パウロは語ります。
神は私どもに油を注いで下さった。そのことを通して、私どもに証印を捺し、保証して下さり、聖霊を注いで下さった。一体、何の出来事を語っているのでしょうか。洗礼の出来事です。洗礼を霊の油、聖霊を注がれることです。主イエス・キリストと結ばれることです。洗礼の水と霊こそ、あなたは生きる時も死ぬ時も、主イエス・キリストと結ばれ、神の大いなる「然り」、神の大いなる肯定の下にあるのだ。それを洗礼の印鑑で、私どもにしっかりと捺して、保証して下さっておられるのです。
②説教の冒頭で、近藤勝彦先生が恵泉女子短期大学の卒業礼拝で語られた説教、「大いなる肯定の中で」を紹介しました。その中で、カトリックの信仰に生きた作家・島尾敏雄の短編小説『マヤと一緒に』を紹介しています。作家とわが娘との姿を、作品の中で重ね合わせています。
10歳の長女が突然言語障害になり、父が娘を連れて地方からある都市に、診察のためにやって来ます。慣れない環境の中で、子どもと共に父も引っ張り回され、へとへとになりながら、なお障害を負うわが子に寄せる父の愛が描かれています。しかし、父の愛はわが子への細やかなところまでは行き届きません。父自身が不安にさいなまれてしまいます。これからわが子と私どもの将来はどうなるのだろうか。そこにも、「然り」と「否」との葛藤があります。
最後に、父は自分の不安な心のざわめきを抑えながら、旅館で子どもを寝かしつけます。最後は、父の言葉で結ばれています。
「マヤ、ねんねしなさい。心配しないでぐっすり眠るんだよ」。
その言葉は、マヤに対すると共に、父自身、自分に向けられた言葉でもあります。父自身が、「安心しなさい」と語りかける大いなる「然り」の言葉、大いなる肯定の言葉を聴きたいのです。
「安心して行きなさい」。主イエスが繰り返し語られた言葉です。言い換えれば、「神の平安の中を行きなさい」。主イエス・キリストを通して、神が語りかける大いなる「然り」、大いなる肯定です。その神の大いなる肯定の中で、私どもは生きる時も死ぬ時も、生かされ生きるのです。
お祈りいたします。
「主よ、様々な力が私どもを、否、否と否定します。私どもの生きる力を挫き、命を呑み込んでしまうのです。しかし、神の御子イエス・キリストの十字架と甦りの出来事を通して、父なる神は私どもに、大いなる然りを語られ、大いなる肯定の中に招き入れ、生かして下さるのです。主よ、この礼拝で、大いなる然りを聴かせて下さい。大いなる然りの聖霊を注いで下さい。私どもも、アーメン、然りと応えて、神を賛美しつつ歩ませて下さい。
この祈り、私どもの主イエス・キリストの御名により、御前にお捧げいたします。アーメン」。
