「大人の信仰に生きる」
列王記下5:9~19
ヨハネ9:1~12
主日礼拝
牧師 井ノ川勝
2024年1月21日
1.①新しい年を迎えた最初の日、元日に起こりました能登半島地震は、私どもの想像を遙かに超えて甚大な被害を及ぼしました。愛する家族の命が失われました。愛して止まない故郷の風景が一変しました。家族との思い出がいっぱい詰まった家屋が倒壊しました。倒壊した家の前で落胆していた婦人が、呟いていました。「我々が何か悪いことをしたから、こんなことになったのかのう」。甚大な災害、思いも寄らぬ苦しみ、不幸に直面した時に、私どもはしばしばこのような呟きをいたします。
旧約聖書に登場するヨブが、次から次へと災いに遭遇し、苦しみ、不幸に直面した時、ヨブの友人がやって来て、ヨブを慰めようとしました。しかし、ヨブの友人がしたことは、苦しみの原因探しでした。このような苦しみ、不幸が訪れたのは、ヨブ、あなたに問題があったからだ。このような苦しみ理解を因果応報と呼びます。必ず原因があるから、このような結果が起こった。それ故、苦しみの原因探しを始める。しかし、それは苦しみの只中にいるヨブを慰めることにはなりません。却って、ヨブを苦しめることになりました。因果応報的な苦しみ理解は今尚、根深くあり、私どもを縛り付け、多くの人を苦しめています。
②この朝、私どもが聴きましたヨハネによる福音書9章は、生まれつき目の見えない人に、主イエスが目を留められたところから始まった物語です。ところが、弟子たちの目の留め方と、主イエスの目の留め方は全く異なっていました。弟子たちは主イエスに尋ねました。
「ラビ、先生、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか」。
弟子たちも因果応報的な苦しみ理解をしています。しかし、主イエスはこのように答えられました。
「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」。
主イエスは全く新しい苦しみ理解の道を拓かれました。生まれつき目が見えない。光が見えない。父、母の顔が見えない。美しい景色が見えない。大きな苦しみを負うている。自分ではどうすることも出来ない深い絶望の底にある。しかし、そこにこそ神は御業を現して下さるのだ、と主イエスは語られるのです。
主の日の朝、今日も、被災地では、輪島教会の新藤牧師と数名の教会員が避難所に集まり、御言葉に聴き、祈りを合わせ、主に賛美を捧げています。自分たちが大切にしていた町が、無に帰してしまうような悲惨な現実を目の前にして、何故、何故、何故と呟きながら、しかし、神は必ず御業を現して下さることを信じ、今、祈りを合わせているのです。
2.①私が伊勢の教会で伝道していた時、教会員に盲人の婦人がいました。教会で三重県の盲人の集いが開かれ、私がヨハネ福音書9章の御言葉を語りました。この御言葉を聴いた出席者が口々に言われました。「これは私の御言葉です。私はこの御言葉によって光が注がれ、救われました」。私は驚きました。ヨハネ福音書に登場する盲人は、主イエスによって目が癒され、見えるようになりました。ところが、この方々はこの御言葉と出会い、主イエスと出会ったからといって、目が見えるようになったのではありません。しかし、それにもかかわらず、「これは私の御言葉です。私はこの御言葉によって救われたのです」と喜んで言えるのは、何故なのでしょうか。
今日はヨハネ福音書9章の最初の箇所だけをお読みしましたが、実は、9章全体が一つの物語となっています。恰も、舞台で演じられる劇のように、全部で5幕から成り立っています。様々な人物が登場し、対話によって物語が展開されています。その中で、舞台の中心に立つのは、主イエスと盲人です。最後の第5幕で、主イエスは目が開かれた男に向かって語られました。この物語の中心聖句です。
「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えないものは見えるようになり、見えるものは見えないようになる」。「裁く」という言葉は、二つに分けるという意味です。何が二つに分けられるのか。見えない者は見えるようになる。見えていると言っている者は見えなくなる。主イエスはこの物語を通して、私どもに問いかけておられるのです。あなたは真実に、見るべきものを見ていますか。見るべきものを見ていないあなたこそ、盲人、何も見えていないのではないですか。私どもが真実に、見るべきものを見るとは何でしょうか。主イエス・キリストにおいて、神がここに生きておられる、あなたと共に生きておられることです。
②主イエスは地面に唾をし、唾で土をこねて盲人の目に塗られました。そして、シロアム、遣わされた者という意味の池に行って、目を洗いなさいと命じられました。何故、主イエスはわざわざこのような面倒なことをされたのでしょう。盲人の目に手を触れ、「開け」と言われなかったのでしょうか。子どもの頃、転んで膝に擦り傷を負うと、祖父が近寄って来て、唾を塗り、「ちちんぷい」とおまじないを言いました。何となく痛みがやわらいだような気持ちになりました。義人の唾には癒す力があると信じられていたのでしょうか。創世記2章で、神が土に水を注ぎ、人間を造られたと語られています。主イエスは神の御業に倣って、新しい人間創造をされておられるのです。盲人を新しく造り変えようとされているのです。盲人は主イエスの御言葉通りに行い、目が見えるようになりました。
しかし、この物語はここで終わりません。ここから始まっています。愈々本格的な舞台の幕が開くのです。
この物語の主題は何なのでしょうか。盲人は何故、見えるようになったのか。それは言い換えれば、盲人の目を開かれた主イエスとは誰なのかです。実は、盲人の目を開かれた主イエスは、舞台から退場されます。主役不在となります。舞台に残り、スポットライトが当てられているのは、目が見えるようになった男です。この男は舞台の上で、様々な人々と対話をされます。対話の中心は、ただ一つです。あなたは何故、見えるようになったのか。あなたの目を見えるようにした方は誰か。主イエスとは何者か。それらの対話を通して、男は自分の目を見えるようにされた主イエスの存在が、初めはぼんやりしていましたが、次第に明らかにされて行くのです。そして最終の第5幕で、主イエスは舞台に再登場されます。男は主イエスと再び出会います。主イエスの前でひれ伏して、「主よ、信じます」と信仰告白へと導かれるのです。「主よ、あなたは神です」と告白し、主を礼拝するのです。
私どもが信仰へ導かれる。それを入信と呼びます。しかし、私どもは必ずしも初めから、主イエスという存在が明らかとされて、洗礼を受けるわけではありません。初めは主イエスという存在はまだ明らかではない。でも、主イエスに心惹かれる。そして信仰生活、礼拝生活を通して、主イエスという存在が明らかにされ、身近な存在、無くてはならない存在となり、「主よ、信じます」と、主イエスを神としてひざまずき、礼拝するようになるのです。今まだ、主イエスに対して明確な信仰ではない、まだ淡いものであるかもしれないあなたも、この男と自分を重ね合わせて、洗礼を受け、シロアムの池の洗いは洗礼を意味するとも言われています、主イエスの御手により、主イエスへの明確な信仰へと導かれることを祈り願っています。
3.①5幕から成るこの物語の全てを、一回の説教で触れることは出来ません。本日、特に注目したいのは、第3幕です。18節以下です。ユダヤ人たちが目が見えるようになった男の両親を呼び出して、対話する場面があります。ユダヤ人たちは尋ねます。
「この者はあなたたちの息子で、生まれつき目が見えなかったと言うのか。それが、どうして今は目が見えるのか」。
両親は答えます。
「これがわたしどもの息子で、生まれつき目が見えなかったことは知っています。しかし、どうして今、目が見えるようになったかは、分かりません。だれが目を開けてくれたのかも、私どもは分かりません」。
そして両親はこう言います。
「本人にお聞きください。もう大人ですから、自分のことは自分で話すでしょう」。
この言葉は、この物語の主題と深く関わる鍵となる言葉です。男は主イエスと出会い、目が開かれ、信仰へと導かれました。自分に起きた出来事は、自分の言葉で話せるようになる。自分の信仰の言葉を持っている。それが大人であることです。
②昨年、最相葉月さんが『証しー日本のキリスト者』という大部の本を書かれました。全国にある様々な教派の教会に生きるキリスト者の信仰の証しをまとめたものです。最相葉月さんはキリスト者ではありません。この本も一般の出版社から出版されました。しかし、キリスト者以外の多くの方に読まれています。この本に刺激を受けまして、昨年より水曜日の祈祷会で、教会員の信仰の証しをしてもらっています。私どもも主イエスと出会い、主イエスによって目が開かれ、私どもと共に神が生きておられると、神を仰ぎ見ながら信仰の歩みをしています。「主よ、信じます」と主の御前でひれ伏して、礼拝する教会の信仰に生きています。私に起こった主の救いの出来事を、自分の言葉で言い表す。証しする。それは信仰にとって大切なことです。私に起きた救いの出来事を、自分の言葉で言い表せないと、伝道することは出来ません。「ほら、私を見てごらん。私と共に主イエスが生きておられることが見えるでしょう。私と共に神が生きていることが見えるでしょう」。その喜びの出来事を、自分の言葉で言い表してこそ、家族に、友人に、生けるキリストを証しし、伝えるのです。親の信仰の言葉を借りるのではなく、学校の先生の信仰の言葉を借りるのでもなく、借るものの言葉ではなく、自分の言葉で信仰を証しし、伝えるのです。ここに大人の信仰があります。
金沢教会は毎年1月の信徒セミナーで、成人の祝いを行っています。成人となることは、大人への第一歩を踏み出すことです。教会で何故、成人の祝いを行うのでしょうか。信仰においても大人になってほしいからです。いつまでも子どもの信仰に留まったままでいてほしくないからです。
目が見えるようになった男は、様々な人との対話を通し、自分の目を開いて下さった主イエスへの信仰が、最初は不明確でしたが、徐々に明確にされて行きました。大人の信仰へと導かれて行きました。それはこの男の主イエスへの信仰の言い表しの変化に現れています。最初は、「イエスという方が、土をこねてわたしの目に塗り、シロアムに行って洗いなさいと言われました」。次に「あの方は預言者です」。更に、「あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです」。そして最後は、「主よ、信じます」と言って、ひざまずいて礼拝した。主イエスの前で、ひざまずいて礼拝し、「主よ、信じます」、「あなたこそ生ける神です」と信仰を告白する。ここに大人の信仰があります。
4.①次に第4幕に注目したいのです。24節以下です。目が開かれた男とユダヤ人たちの対話です。ユダヤ人たちは両親の次に、男を呼び出し、「神の前で正直に答えなさい」と問い詰めます。「神の栄光を現しなさい」という意味の言葉です。ユダヤ人たちは、主イエスが自ら神の御業を行い、神を冒涜している罪ある人間であると厳しく批判します。しかし、男は反論し、答えます。
「生まれつき目の見えなかった者の目を開けた人がいるということなど、これまで一度も聞いたことがありません。あの方が神のもとから来られたのでなければ、何でもおできにならなかったはずです」。男は主イエスを「神のもとから来られた方」と、これまでの主イエスへの信仰を一歩進めています。ところが、ユダヤ人たちは、この男の言葉を聞き、男を「外に追い出し」ました。
「外に追い出す」。これはどういうことなのでしょうか。ユダヤ教の会堂から追い出すことです。ユダヤ教の教会から破門することです。ユダヤ人の社会のから追い出すことです。村八分にされることです。自分の生活の場、生きる交わりの場を失うことです。これは誠に厳しいことです。一人社会の外に放り出される。
しかし、そこで主イエスは再び現れる。外に追い出された男に出会って下さるのです。そこで最後の第5幕が始まる。主イエスと男の対話が、再び始ります。主イエスは語られます。「あなたは人の子を信じますか」。「人の子」とは「救い主」のことです。男は答える。「主よ、その方はどんな人ですか。その方を信じたいのですが」。主イエスは語られる。「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ」。
「あなたと話をしているわたしが、その人だ」。男は答える。「主よ、信じます」と信仰を告白し、ひれ伏した。礼拝した。主イエスは語られます。
「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる」。
そこにいたファリサイ派の人々が対話に割って入ります。「我々も見えないということか」。主イエスは最後にこう語られました。
「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る」。
ファリサイ派の人々は、誰よりも神が生きておられるのが見えている存在です。しかし、神のもとから来られた主イエスにおいて、神が生きておられることが見えない。男と一緒に、「主よ、信じます」。「あなたこそ生ける神ですね」と信仰を告白して、ひれ伏して礼拝しようとしない。我々は見えると言い張るところに、罪がある。信仰において大人ではなく、親や信仰の先祖から受け継がれた言葉を借りて、信仰を言い表しているに過ぎない。信仰が固定化し、生き生きとした信仰ではなくなっている。
②最後にもう一度、男の両親の言葉に注目します。
「もう大人ですから、自分のことは自分の言葉で話すでしょう」。
この「大人」という言葉を、伝道者パウロはこのように語っています。エフェソの信徒への手紙4章12節以下です。新約356頁。
「こうして、聖なる者たちは奉仕の業に適した者とされ、キリストの体を造り上げてゆき、ついには、わたしたちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長するのです。こうして、わたしたちは、もはや未熟な者ではなくなり」。
「大人」とは、「成熟した人間」となることです。しかも一人で修行を重ねて、成熟した人間になるのではありません。教会全体がキリストの体として、成熟した人間に成長して行くのです。そのためには、神の子キリストに対する信仰と知識が明確にされ、豊かにされ、一つにされることです。私どもが神の御前で、「主よ、信じます」、「あなたこそ生ける神です」と、一つになって信仰を告白し、ひれ伏して、生き生きと礼拝する群となることなのです。
日本のプロテスタント教会の草創期の伝道者・植村正久牧師が、こういう言葉を語っています。
「我々の国家が、人の道を重んずるの心盛んならざるときは、愛国の情腐敗して、天下に毒を流すに至るべし。それ故、我が国の上に、神の国なるものあるを認識し、人間の関係を統一し、これを制裁する天父上帝あるを信ずべし」。
国家が成熟した国家、大人社会となるためには、国家の上に神の国があることを認識し、そこからすべ治めておられる天の父なる神を仰ぐ、教会が成熟した主の群れ、大人の信仰に生きる群れであることが欠かせないということです。そこに私ども教会のこの世に存在する使命があるのです。
私は神学校を卒業し、伊勢の山田教会の伝道師として遣わされました。主任牧師は冨山光一牧師でした。冨山牧師は神学校を卒業し、高知教会の伝道師として遣わされました。冨山牧師の奥さまの御家族は高知教会の会員でした。主任牧師は多田素牧師。高知教会は礼拝出席400名の教会で、植村正久牧師が牧会した富士見町教会と双璧でした。冨山牧師からよく高知教会のことを聞きました。高知教会の長老であった片岡健吉は、帝国議会の最初の時から衆議院議員であり、議長を務められました。片岡健吉が衆議院議員の議長に就任する時、高知教会の長老を止めるように、言われたそうです。国家にとって体裁が悪い。しかし、片岡健吉は衆議議員の議長より、高知教会の長老であることを誇りとし、それを断りました。衆議院議員の議長席に座るよりも、日曜日の朝、教会の玄関で、草履を並べ、整理することを喜びとしました。
片岡健吉は高知教会の開拓伝道から関わっていました。しかし、キリストへの信仰は最初から明確なものではなかった。キリストは神であると告白できなかった。私どもよりも非凡な存在であり、私どもの信仰の模範であると受け留めていた。洗礼試問会でひっかかった。しかし、高知教会の牧師、長老が諦めずに導いた。主イエスは神のもとから来られた方、「主よ、信じます」、「主よ、あなたこそ生ける神です」と信仰の告白をし、洗礼を受け、神の御前でひれ伏して、礼拝するようにされた。大人の信仰へ導かれた。42歳の時です。神を礼拝する長老であるからこそ、国家の命運を過たず、舵取りする衆議委員議長として、神の御前で謙遜に、神の御心に聴きつつ、その使命を果たした。
教会がどんなに小さな主の群であっても、主の御前でひれ伏し、「主よ、信じます」と信仰の告白に生き、大人の信仰に生きる。国家のために執り成して生きる。国家が健やかに成熟した国家となるために、教会もまた主にあって成熟した群れに成長して行かなければならないのです。
お祈りいたします。
「主よ、神のもとから来られたキリストへの信仰と知識を明晰にし、一つにして下さい。主の御前でひれ伏し、「主よ、信じます」と信仰を告白する私どもの群れを成熟させて下さい。自分の言葉で自分の信仰を語り、証しする大人の信仰に生かし、用いて下さい。隣人のため、国家のために執り成しに生きさせて下さい。
この祈り、私どもの主イエス・キリストの御名により、御前にお捧げいたします。アーメン」。