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「安心して立ちなさい」

イザヤ書 35章1~10節
マルコによる福音書 10章46~52節

主日礼拝

井ノ川 勝 牧師

2026年4月19日

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2026.4.19. 「安心して立ちなさい」

       イザヤ35:1~10,マルコ10:46~52


1.①今朝も、4月より高校、大学に入学された新しい高校生、大学生が礼拝に出席されています。恐らく、皆さんはこれからどのような人生の道を歩むべきなのか。また、どのような職業に就くべきなのか、迷いながら日々問いかけていることと思われます。

 私も大学に入学した頃、自分の歩むべき道が定かではありませんでした。迷いの中にありました。そのような中で、大学の講義を聴きました。世界が近代化を遂げる。生産性が向上し、産業革命がもたらされる。その大きな要因は、職業の捉え方が変わったからだ。その中心に、キリスト教信仰があった。職業という言葉には、神に呼ばれるという意味がある。神の呼びかけに応えるために立ち上がる。そこから「召命」という言葉が生まれました。神の呼びかけ、神の召しに応えるのは、伝道者だけではありません。この世の職業全てに通じることです。目の前にある仕事を生活のためだけに行うのか。仕事だから仕方なく行うのか。それとも、神の呼びかけに応えて、喜んで行うのか。そこには大きな違いが生まれます。仕事に取り組む姿勢が違って来ます。

 神の呼びかけに応えて生きる。それは職業だけではなく、子育てや日々の生活全てに言えることです。神は日々、私どもに呼びかけておられる。その神の呼びかに応えて行く。そのようにして私どもの生活が成り立って行くのです。そして今、私どもが神の御前に立ち、礼拝を捧げているのも、神の呼びかけを聴くためです。神の呼びかけを聴いて、立ち上がり、主イエスと共に新たな道を歩き始めるのです。

 

この朝、私どもが聴いたマルコ福音書には、様々な声が聞こえて来ました。真っ先に聞こえて来たのは、盲人バルティマイの叫び声です。「ダビデの子イエスよ、私を憐れんでください」。そして、その叫び声を叱りつけ、黙らせようとする人々の声です。しかし、何よりも確かな声は、主イエスの呼びかける声です。「あの人を呼んで来なさい」。人々は盲人を呼んだ。「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ」。ここに実に、三度、「呼ぶ」という言葉が立て続けに語られます。主イエスが呼んでおられる。そのことが強調されています。主イエスの呼びかけに応えて、盲人バルティマイが見えるようになり、主イエスに従って行った。主イエスと同じ道を歩むようになった物語です。

 盲人はティマイの子、バルティマイであると、名前が紹介されています。恐らく、後に、この福音書が生まれた教会の信徒となり、誰もが知っていた人物だったと思われます。あのバルティマイおじさんの物語が、ここに語られているのだと、信徒たちは思ったことでしょう。バルティマイが繰り返し、教会で、主イエスと出会った物語を語り伝えたことでしょう。その時、バルティマイは語ったと思います。これは私の物語だけではない。あなたの物語でもあるのだよ。あなたも私と同じように、主イエスに呼びかけられ、目が見えるようになり、立ち上がり、主イエスに従って行く。主イエスと共に主の道を歩むようになるのだよ。

 

2.①主イエスは今、弟子たちと共に、旅を続けています。ガリラヤからエルサレムへ向かう旅です。一行は漸く、エリコに辿り着きました。エリコはエルサレムへ向かう入り口です。向こうの丘の上に、エルサレムの町が見えています。ここで姿勢を整え、エルサレムへ向けて最後の旅立ちをします。

 マルコ福音書の鍵となる言葉は、「道」です。旅は道を歩くことです。この福音書の冒頭は、預言者イザヤの書の言葉から始まっていました。

「見よ、私はあなたより先に使者を遣わす。彼はあなたの道を整える。荒れ野で叫ぶ者の声がする。主の道を備えよ、その道筋をまっすぐにせよ」。

 この福音書の主題は「道」です。主イエスが向かわれるエルサレムへの道、それは「十字架への道」です。それこそが「主の道」です。「道」という言葉が繰り返し語られます。

 11章から、主イエスはろばの子に乗って、愈々エルサレムへ入城されます。従って、今日の場面は、エルサレムへ入られる直前に起こった出来事でした。それだけに重要な出来事がここで起こったのです。

 主イエスと弟子たちが、エリコを出て、エルサレムへ向かおうとした時、盲人バルティマイが道端に座って物乞いをしていました。「道端」という言葉は、「道の外」です。主イエスが歩もうとされる道の外に座っていました。主イエスが目の前を通られると聞いて、大声で叫びました。何度も叫びました。

「ダビデの子イエスよ、私を憐れんでください」。

「ダビデの子」。この言葉にユダヤ人が待ち望んでいた救い主の名称があります。この機会を逃したら、もう一生、主イエスにお会い出来ないかもしれない。それ故、バルティマイはあらん限りの声で叫びました。

「ダビデの子イエスよ、私を憐れんでください」。

 そこにいた弟子たち、人々は叱りつけ、黙らせようとしました。愈々、エルサレムへ入ろうとするこの大切な時に、この盲人のために時間を割きたくなかったのだと思います。しかし、主イエスは盲人の必死の叫びを聞いて、立ち止まられました。そして語られた。

「あの人を呼んで来なさい」。

盲人の叫びよりも確かな主イエスの呼びかけです。人々は盲人を呼んだ。

「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ」。

ここに三度も「呼ぶ」という言葉が立て続けに語られます。「主イエスが呼ばれた」ことを強調しています。しかも更に、動詞が小刻みに三度語られます。

「安心しなさい。立ちなさい。呼んでいる」。

主イエスの呼びかけに応える。それは安心して立つことです。

 

誰もが主イエスの呼びかけを聴き、それに応えようとして立ち上がろうとする時、不安を感じます。不安に覆われます。「私のような者が果たして、主イエスの呼びかけに応えられるだろうか」。不安に覆われて、なかなか立ち上がれない。立ち上がっても、足ががくがくしている。しっかりと立つことが出来ないでいます。

「安心しなさい」という言葉は、「勇気を出しなさい」という意味でもあります。勇気を出せと言われても、恐れがある。脅えてしまう。だから勇気が湧いて来ない。

 主イエスが十字架につけられる前夜、脅える弟子たちに向かって遺言説教を語られました。その結びの言葉は、この御言葉でした。

「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。私はすでに世に勝っている」。

私どもの内に勇気があるのではありません。私どもがどんなに振り絞っても、勇気は生まれません。私どもの内に安心があるのではありません。私ども内はいつも不安が覆っています。確かなことは、私どもに呼びかけて下さる主イエスの内に、安心の根拠、勇気の根拠があるのです。それ故、主イエスは私どもに呼びかけるのです。

「私の呼びかけに応えて、安心して立ちなさい。勇気をもって立ちなさい」。

 

3.①盲人バルティマイは、主イエスの呼びかけに、上着を脱ぎ捨て、躍り上がって、主イエスのもとに来ました。主イエスは語りかけます。

「何をしてほしいのか」。

盲人バルティマイは答えます。

「先生、また見えるようになることです」。

盲人の願いは、何よりも見えるようになること。主イエスはよくご存じのはずです。しかし、それを承知で、主イエスは敢えて尋ねられるのです。

「何をしてほしいのか」。

この問いかけは、主イエスが盲人バルティマイだけでなく、弟子たちに向かって繰り返し語りかけた問いかけです。直前で、主イエスは弟子のゼベダイの子ヤコブとヨハネに問いかけました。

「何をしてほしいのか」。

ヤコブとヨハネは答えました。

「先生がエルサレムで王座に就かれ、栄光をお受けになる時、私どもを先生の右と左に大臣として座らせてください」。

弟子たちは見えていないのです。主イエスが何故、エルサレムへの道を歩まれているのか、見えていないのです。心の目、霊の目は閉ざされているのです。それ故、盲人バルティマイのこの言葉は、私ども全ての人を代表する言葉です。

「主よ、見えるようになることです」。

「主よ、私どもが見るべきものを見ることが出来るように、心の目を開いて下さい」。

マルコ福音書は8章~10章が一つのまとまりとなっています。ここにはとても重要な御言葉が語られています。主イエスが三度、受難預言をされています。自分が何故、エルサレムへの道を歩まなければならないのか。それは十字架への道であることを、あからさまに語られました。しかも三度目の受難預言をされた時、主イエスは先頭に立って、エルサレムエへ上って行かれました。主イエスの並々ならぬご決意が現れていました。主イエスのそのお姿を見て、弟子たちは驚き、従う者たちは恐れました。

 しかし、弟子たちの目には、主イエスが十字架の道を歩まれる救い主であるとは見えませんでした。ペトロは主イエスの前に立ち塞ぎ、そんなことはあってはならないと諫めました。主イエスは度々、嘆かれました。

「まだ分からないのか。悟らないのか。心がかたくなになっているのか。目があっても見えないのか。耳があっても聞こえないのか」。

 

「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ」。主イエスの呼びかけに応え、盲人バルティマイは上着を脱ぎ捨て、躍り上がって、主イエスのもとに来ました。主イエスは語られました。

「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」。

盲人バルティマイはすぐに見えるようになりました。「あなたの信仰があなたを救った」。バルティマイの信仰とは何でしょうか。叱りつけられも。黙れと言われても、「ダビデの子よ、私を憐れんでください」と叫び続けた信仰です。しかし、それよりも確かなことは、主イエスが呼んで下さり、安心して立ちなさい」と語りかけて下さったことです。

 され、問題は主イエスのこの言葉です。「行きなさい」。一体、どこへ行くのでしょうか。「帰りなさい」ということでしょうか。そうではありません。この後、バルティマイは、「なお道を歩まれるイエスに従い」ました。「行きなさい」とは、主の道を共に歩みなさいということです。

 道端に座っていた盲人バルティマイ。道の外に座っていたバルティマイは、主イエスから呼ばれて、主の道の上を歩いて、主イエスに従う者とされました。それが、「なお道を歩まれる主イエスに従った」ということです。

 主イエスが第一回目の受難預言をされた時、弟子たちに向かって語られました。

「私の後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を負って、私に従いなさい」。

 主イエスの十字架を負いなさいと言っているのではありません。主イエスの十字架は主イエスだけしか負うことの出来ないものです。そうではなくて、自分の十字架を負って、主イエスに従いなさいと、主イエスは語られました。

 一番弟子のペトロは最後の晩餐の席で語りました。たとえ他の弟子があなたを見捨てても、私はあなたに従います。死んでもあなたに従います。しかし、ペトロは三度も主イエスを知らないと言って、主イエスを見捨てて逃げ去りました。他の弟子も皆、主イエスを見捨てて逃げ去りました。弟子たちは、主イエスの十字架の道を最後まで、主イエスと共に歩むことが出来なかったのです。

 しかし、そのような中で、主の道に従った弟子がいた。それが盲人バルティマイでした。なお道を歩まれるイエスに従ったのです。そこに主イエスが語った、自分の十字架を負って、主イエスに従う弟子の姿を見たのです。

 

4.①盲人バルティマイは主イエスによって、目が見えるようになりました。主イエスに従って、エルサレムへ入りました。そこで驚くべきものを見ました。この場面を見るために、主イエスによって目が開かれたと思いました。主イエスが十字架につけられたお姿です。われわれが待ち望んでいた救い主、ダビデの子は、十字架につけられ、苦しみを負わなければならなかった。しかも、十字架の主イエスは大声で叫ばれた。バルティマイが主イエスに向かって叫んだ大声に遙かに優る大声で叫ばれた。

「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」。「わが神、わが神、なぜ私を見捨てになったのですか」。

 十字架の下にいた人々は、主イエスは絶望の叫びを上げたと思った。しかし、そうではなかった。主イエスを見捨てて逃げ去った弟子たち。主イエスを十字架につけた人々。その一人一人の罪を、主イエスはただ一人で十字架で負って下さった。一人一人を罪から解き放たれ、生きるようになるために、主イエスはただ一人で、十字架で、全ての人の罪、咎、病、痛み、苦しみを負って下さったのです。

 バルティマイが、何故、主イエスが十字架につけられたのか。その真実を見ることが出来たのは、後になってのことです。主イエスが甦られ、先回りして、ガリラヤに逃げ去った弟子たちにお会いして下さった。バルティマイもガリラヤで、甦られた主イエスにお会いしたのではないか。甦られた主イエスとお会いした時に、初めて主イエスが十字架につけられた真実が見えたのです。主イエスが歩まれた十字架の道は、そこで終わらない。甦りの道へ通じる道であった。バルティマイも、他の弟子たちも、甦られた主イエスの後に従い、自分の十字架を負って、主イエスに従う者とされた。主の道を歩む者とされたのです。

 何故、私がこのような苦しみを負わなければならないのか。何故、私一人がこのような苦しみを負わなければならないのかと、思うことがあります。しかし、全ては主のために、私は苦しみを負っているのです。主のためなら、負えない苦しみはない。主イエスが私の苦しみを負って下さるからです。

 

「宣教」という月刊紙があります。その中に、「私を変えた聖書の言葉」というシリーズがあります。様々な伝道者が証しを綴っています。4月号に、長崎教会の福田英樹牧師が綴っていました。親しい交わりをしている牧師です。その文章を読んで、初めて福田牧師が大きな試練を経験されたことを知りました。28歳の時、受洗して一年目に、三回目の脳梗塞で倒れた。その年の最後の礼拝出席のため、二階の礼拝堂に上る階段の途中で、前触れもなく、すうっと意識を失い、倒れた。二週間の昏睡状態の後、左半身不随と知った。リハビロは痛く、厳しく、効果も現れませんでした。

 主イエスが生まれつきの盲人の目を、「ただ神の栄光が現れるために」と言って癒された。その御言葉を読んだ。しかし、自分の左の手足は動かない。どこにも神の御業は現れていない。聖書は所詮昔話で、今のこととは関係がない。聖書を病室の机の上に投げ捨て、眠りに就いた。

 その夜、主が語りかけた。「自分の足で立って歩け」。「しかし、私は半身不随です」と答えるだけだった。翌朝、朝食が運ばれて来た。食事をしている私の姿を見て、看護師さんが叫んだ。「福田さん、動いている」。左手も、足も動いている。医師が駆けつけて来た。「福田さん、なぜ治ったの」。祈りを小馬鹿にし、聖書を投げつけた手前、「神さまに祈っていました」とは言えず、「なぜか、分かりません」と答えるのみだった。

 福田牧師は語ります。聖書の御言葉は決して昔話ではない。神の御業は今、ここで、私にも起こります。主イエスは甦って生きておられるからです。

 福田牧師には多少、言葉に不自由さが残りました。しかし、それを克服して素晴らしい説教をされます。伝道者パウロのように、肉体の棘を負っている。伝道者パウロは何度も主に祈った。肉体の棘を取り除いて下さい。しかし、主イエスは答えられた。

「私の恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ完全に現れる」。

それ故、パウロは語る。

「だから、キリストの力が私に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇ろう」。

 私どもも肉体の棘を持っている。しかし、主はそこにこそ神の恵みを注いで下さる。それ故、私どもは自分の十字架を負って、喜んで主イエスに従うのです。主の道を主に導かれて、共に歩んで行くのです。

 

 お祈りいたします。

「主よ、見えるようになりたいのです。見るべきものを見ていない、私どもの目を開かせて下さい。主イエスが私どものために十字架の道を歩まれた真実を見させて下さい。甦えられ生きておられる主イエスとお会いさせて下さい。主イエスから呼びかけられ、召命を与えられ、主イエスに従う者とさせて下さい。

 この祈り、私どもの主イエス・キリストの御名により、御前にお捧げいたします。アーメン」。

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