「実り豊かに生きよう」
イザヤ書5:1~7
ヨハネによる福音書15:1~10
主日礼拝
井ノ川勝
2025年2月9日
1.①昨年のクリスマスに、3名の受洗者が与えられました。教会から記念の聖書が贈られました。受洗された一人一人に、聖書の裏表紙に御言葉を記し、お祝いの言葉を綴ります。その時に綴る御言葉の一つが、主イエスが語られたこの御言葉です。
「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ」。
私はいつも祈りを込めて、この御言葉を記します。洗礼を受けられたあなたが、生涯、ぶどうの木であるキリストにつながってほしい。キリストにつながることは、キリストの体である教会につながることです。豊かな実を結ぶ教会生活を送ってほしい。決してキリストから離れないでほしい。教会から離れないでほしい。ぶどうの枝がぶどうの木から離れてしまうと、枯れてしまうからです。
主イエスが語られた「ぶどうの木とその枝」の御言葉は、洗礼の時に、転入会の時に、朗読される御言葉でもあります。
先週、北陸学院と東京神学大学から卒業式のお知らせのハガキが送られて来ました。それを手にして、間もなく3月を迎えると、卒業式の季節なのだなあと改めて思いました。私が以前、伝道していた伊勢の教会には幼稚園がありました。3月になると卒園式の様々な準備をします。その一つが卒園式に、卒園する園児に手渡す卒園証書の準備です。卒園証書に、ぶどうの木に連なるぶどうの枝が描かれ、そのぶどうの枝にはぶどうの実が実っている絵が描かれています。そしてその横に、主イエスのこの御言葉が記されていました。
「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ」。
卒園式に卒園する園児一人一人に桑園証書を手渡す時に、この主イエスの御言葉に祈りを込めます。幼稚園でイエスさまを知った。イエスさまに教えられて、天の神を「アッバ、父よ」「わたしの父よ」と呼ぶ祈りを知った。幼稚園を卒園したら、教会学校の小学科に連なって、イエスさまを通して、「アッバ、父よ」と呼び続けてほしい。そのような祈りを込めて、主イエスのこの御言葉を卒園する園児一人一人に届けます。
②主イエスが語られた「ぶどうの木とその枝」の御言葉は、主イエスの御言葉の中でも、私どもが特に心に留めている御言葉の一つです。改めて声に出して読んでみると、気づくことがあります。一つ一つの御言葉がリズムを刻んでいます。その中心にあるのが、冒頭のこの御言葉です。
「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父はその農夫である」。
この御言葉に対応して響き合っているのが、5節の御言葉です。
「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」。
1節~4節が、讃美歌で言えば一節です。5節~8節が二節です。各節が同じ内容の御言葉で対応し、響き合っているのです。主イエスは讃美歌を歌うように、この御言葉を語られたとも言えます。
この御言葉から生まれた『こどもさんびか』があります。「しゅイエスはまことのぶどうの木」です。教会学校の子どもたちが大好きな讃美歌の一つです。
「主イエスは まことのぶどうの木、わたしは つながるこえだです。
あふれる命を いただいて、わたしは 大きく育ちます。
小さなぶどうは 幹なしに、大きなふさには なりません。
そだてる神さま 手入れして、みのらぬこえだを とりのぞく。
主イエスは まことのぶどうの木、わたしは つながるこえだです。
しっかり主イエスにつながって、わたしもゆたかに 実を結ぶ」。
2.①主イエスが歌うように語られたこの御言葉と対応する御言葉が、旧約聖書にあります。私どもが今朝、聴いたもう一つの御言葉、イザヤ書5章です。「ぶどう畑の歌」と呼ばれています。この御言葉も讃美歌のように歌われたのでしょう。ところが、「ぶどう畑の愛の歌」で始まったこの讃美歌は、「ぶどう畑の悲しみの歌」で結ばれているのです。
「わたしは歌おう、わたしの愛する者のために、そのぶどう畑の愛の歌を。
わたしの愛する者は、肥沃な丘に、ぶどう畑を持っていた。
よく耕して石を除き、良いぶどうを植えた。
その真ん中に見張りの塔を立て、酒ぶねを掘り、
良いぶどうが実るのを待った。
しかし、実ったのは酸っぱいぶどうであった」。
パレスチナに行きますと、様々な所でぶどう畑を目にします。ユダヤの人々にとって、ぶどう畑は生活の中に溶け込んでいました。それ故、旧約の時代から、神と神の民との関係を、ぶどうの木とその枝、ぶどうの実で表すことがなされて来ました。神がぶどう畑を耕し、ぶどうの木を植え、手入れして、ぶどうの収穫を待ちました。ところが実った実は酸っぱいぶどうであった。神の愛に応えない神の民への悲しみの歌を、神が歌っておられるのです。
主イエスもこの「ぶどう畑の歌」をよく知っておられたに違いありません。ぶどう畑を見る度に、この歌を口ずさまれていたかもしれません。しかし、主イエスから生まれた「ぶどう畑の歌」は悲しみの歌ではなく、喜びの歌でした。
「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ」。
②主イエスが繰り返されている御言葉があります。「つながる」です。実に12回も用いられています。ヨハネ福音書が大切にしている御言葉です。私どもの信仰の生命線が、この「つながる」に懸かっているからです。問題は一体、誰に「つながる」のかです。ぶどうの枝はぶどうの木につながってこと、豊かなぶどうの実を実らせることが出来ます。ぶどうの枝がぶどうの木から離れては、ぶどうの実を実らせることは出来ません。その枝は枯れ果てるのです。主イエスがぶどうの木です。私どもはぶどうの枝です。それ故、主イエスにつながりなさい。主イエスにつながってこそ、豊かな実を結ぶことが出来ると、繰り返し語られているのです。
私どもが手にしている「新共同訳」は、「つながる」と訳しています。先週、礼拝後の信徒セミナーで、新しい「聖書協会共同訳」ではどこが変わったのかを学びました。「聖書協会共同訳」も、そのまま「つながる」と訳しています。様々なつながり方があります。「首の皮一枚で繋がった」と言われるように、かろうじて、ぶらさがるように繋がることもあります。しかし、ここで主イエスが語られる「つながる」は、そのような危なっかしいつながりではありません。「留まる」という意味の言葉なのです。「宿る」という意味でもあります。主イエスの中にしっかりと留まるのです。主イエスの中にどっかりと宿るのです。そこで生きるのです。主イエスの中が、私どもの生活の源となるのです。
主イエスが語られたこの御言葉で、注意すべきことがあります。主イエスは私どもに向かって、「わたしにつながっていなさい」とだけ求めておられるのではないのです。このように語られています。
「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている」。
「人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ」。
私どもが主イエスにつながることと、主イエスがわたしどもにつながることは、一つのことです。私どもが主イエスにつながるつながり方は、まことに頼りないものかもしれません。しかし、主イエスが私どもにつながるつながり方は、確かなものです。それ故、私どもは主イエスにつながることが出来るのです。礼拝前に行われている「聖書入門講座」「求道者会」で、繰り返し語ることがあります。信仰とは私どもが主イエスを掴むことだと言われる。しかし、主イエスを掴む私どもの信仰の握力は、様々な試練に直面すると、弱まってしまう。主イエスをぱっと手放しそうになる。しかし、主イエスが私どもを掴む愛の握力は、どんな試練に直面しても、死に直面しても、決して弱まることはない。主イエスは私どもを掴んで手放されないのです。このように主イエスが私どもにしっかりとつながって下さるから、私どもも主イエスにつながり続けることが出来るのです。
3.①私どもが主イエスにつながるとは、具体的どういうことなのでしょうか。「わたしにつながりなさい」。主イエスはこの言葉を言い換えておられます。
「あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば」。
この「ある」という言葉も「つながる」という言葉です。主イエスの言葉がわたしの内に留まる。宿る。そのことにより、私どもも主イエスとつながるのです。それでは、主イエスの言葉とは具体的どのような言葉なのでしょうか。主イエスはここで、「わたしの父の掟」と言い換えています。「わたしの父の掟」とは、ヨハネ福音書13章以下で、主イエスが度々語られる「新しい掟」「愛の掟」です。
「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」。主イエスが十字架の死を目前として、弟子たちに、言い換えれば、教会に求められた「愛の掟」です。信仰とは、私ども一人一人が主イエスにつながっていれば、それで良いというものではありません。私ども一人一人が主イエスにつながることにより、私どもの交わりが、互い愛し合う愛の交わりとなることです。愛の交わりとして主イエスにつながることを、主イエスは求めておられるのです。私どもの交わりの中心にあるのは、主イエスの言葉、「愛の掟」です。「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」。
伊勢の教会で伝道していた時に、幼稚園の園児の家がぶどう園をしていまして、訪ねたことがあります。ぶどう畑一面にぶどうの木とその枝が生えていて、豊かなぶどうの実が実っていました。そこで改めてぶどうの木を間近に見ました。ぶどうの木は他の果実の木と比べれば、一番貧弱です。細くて、曲がりくねって、老木のように見えます。エゼキエル書15章では、ぶどうの木は他のどの木と比べても、役に立たない木はないと語られています。主イエスが何故、他の果実の木ではなく、ぶどうの木の譬えをされたのかよく分かりました。ぶどうの木は自らの養分を全て、一つ一つの枝枝に注ぎ込むのです。一つ一つの枝が豊かなぶどうの実を実らせるためです。
ぶどうの木である主イエスは、御自分の命、御自分の血を全て、一滴も残すことなく、ぶどうの枝である私どもに注ぎ込んで下さったのです。すべては、ぶどうの枝である私どもが豊かな実を実らせるためであったのです。献血をする時に、二人の人がベッドに横たわっています。一人は血を提供する方です。もう一人は血を受ける人です。一人の方の健康な生きた血が、もう一人の方に注がれることにより、生き返るのです。
十字架の主イエスは将に、ぶどうの木となって、ぶどうの枝である私どもに、命の血を注いで下さったのです。そのことによって、私どもは主イエスにつながって生き返ったのです。主イエスは語られました。
「わたしの愛にとどまりなさい。わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる」。
「わたしの掟」とは、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」。主イエスがあなたがたに注ぎ込んで下さった愛に留まり、お互い愛し合う愛の交わりに生きようではないか。豊かな実を結ぶ交わりに生きようではないか。
②大学生時代、青年会で読書会を行い、様々な本を読みました。その中に、二人の神学者の文章が収められている本がありました。読書会では一人の神学者の文書を読んだのですが、もう一人の神学者の文書も心惹かれました。題名が異質なのです。『俘虜記』(ふりょき)。言い換えれば、「捕虜記」「獄中記」です。副題がありまして、「行きたくないところへ連れて行かれる」。ヨハネ福音書の21章、甦られた主イエスがペトロに語られた御言葉です。この伝道者はナチに抵抗し、捕らえられ、牧会していた教会員から引き離されました。ナチに抵抗した者たちは最前線に派遣されました。そこでソ連軍に捕らえられ、シベリアに抑留されます。捕虜として過酷な日々を送らなければなりませんでした。ソ連兵からは「あなたがたはもう祖国に帰れない」と言われ、将来への希望が失われ、絶望の底へ突き落とされます。そのような中で、唯一の慰めは、『ローズンゲン』(日々の聖句)で、御言葉に触れることでした。皆さんの中にも、『ローズンゲン』を愛用されている方がいると思われます。毎日、旧約一句、新約一句が掲げられています。ある日、詩編1編の御言葉に触れました。
「いかに幸いなことか、神に逆らう者の計らいに従って歩まず、
罪ある者の道にとどまらず、傲慢な者と共に座らず、
主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ人。
その人は流れのほとりに植えられた木。
ときが巡り来れば実を結び、葉もしおれることがない。
その人のすることはすべて、繁栄をもたらす」。
遠い異郷の地シベリア、不毛の地で、私の命は終わると思っていた。しかし、シベリアの地にまで、主の川の水が流れている。そこに植えられた私という木も、主の命の水を注がれて、実を結ぶのだと、主は語られておられる。そしてこの伝道者は「実を結ぶ」という御言葉が聖書全体を通して、どのように語られているのか、自分の記憶を辿り直しました。聖書を手にすることなど許されなかったからです。そして行き着いたのが、主イエスのこの御言葉であったのです。
「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ」。
その伝道者は改めて主イエスのこの御言葉を心に留めた時、気がつきました。主イエスはここで、「実を結べ」と命令形では語られていない。あなたがわたしにつながっており、わたしもあなたにつながっていれば、あなたは豊かな実を結んでいると、語られているのです。このシベリアの地にも、主イエスはおられる。私どもが主イエスにつながり、主イエスが私どもにつながることにより、この不毛な地でも豊かに実を結んでいるのです。実を結ぶぶどうの枝とされているのです。
4.①しばしば先輩伝道者から、伝道体験談、伝道談義を聞くことがあります。最初は信徒2,3名で始まった教会の歩みであった。伝道は厳しく、なかなか信徒は増えず、伝道は前進しなかった。しかし、時が来たり、一人また一人と受洗者が与えられ、やがて100名を超える教会の群れとなった。気がつけば伝道者として100名以上の方に洗礼を授けて来た。景気の良い伝道談義を聞くことがあります。
そのような伝道談義を聞く度に、自らの伝道者としての歩みを振り返ります。伊勢伝道30年、北陸伝道11年、伝道者として41年歩んで来た。しかし、なかなか伝道は進展しなかった。礼拝出席者は増えるどころか、下降線を辿るのみ。受洗者はなかなか与えられない。一体何名の方に洗礼を授けて来たのだろうか。指で数えるぐらいしかいない。教会の将来、日本伝道の将来に思いを馳せると、明るい兆しが見えず、暗雲ばかりが立ち込めている。自らの伝道者の歩みは失敗と挫折ばかりであった。行き詰まってばかりいた。とても景気のよい伝道談義など語ることは出来ない。そのような中で、改めて主イエスのこの御言葉を聴くのです。
「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ」。
主イエスがここで繰り返し語られる「実を結ぶ」とは、どのような思いが込められているのでしょうか。伝道の成功物語が語られているのでしょうか。
主イエスは語られました。
「ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができない」。
伝道の実を結ばせるのは、伝道者の力でもなく、信徒の力でもない。従って、伝道の成功、不成功では捕らえられない。実を結ばせるのは、ただ主の御業であるからです。それ故、私どもの思い遙かに越えて、主は伝道の実をもたらして下さるのです。それを信じて、私どもは主の御業にひたすら励むのです。
私が購読している新聞の土曜日版に、「それぞれの最終楽章」という欄があります。親の介護、看取り、妻の看取り、様々な方が「それぞれの最終楽章」を綴っています。今、この欄を立ち上げた新聞記者が、親の介護、父の看取りを綴っています。私どももその問題で身につまされながら、毎回読んでいます。
父は転倒事故で車椅子生活になって以来、「早くあの世に行きたい」「早くお迎えが来ないかな」と口にするようになった。母は19歳の時に洗礼を受けたが、高齢になり、礼拝に出席することが出来なくなった。教会の牧師と長老が時々、訪問聖餐をして下さった。ある日、訪問聖餐で母がキリストのいのち・聖餐に与った。それを見ていた父が言った。「僕も洗礼を受けたはずなんだけどなあ」。それを聞いた母が「受けていません」とピシャリ。牧師は「いいことだから、洗礼を受けましょうか?」と問いかけた。すると父は「ぜひお願いします」と答えた。父の98歳の誕生日の翌日、施設の一室で洗礼式を行った。洗礼を受けた後、父はこう言った。「あー、これで目の前が明るくなりました」。「安心して妻と一緒に、天国に行ける」。洗礼を受けて以来、「早くあの世に行きたい」などと言わなくなった。私ども人間の思いを遙かに超えた主がもたらされた豊かな実りが、ここにもありました。
昨年も教会員の葬儀を何度も行いました。その度に思いました。ああ、主はこの教会員にも、豊かな実を実らせて下さったのだと。葬儀は将に、主が教会員を通して実らせて下さった実りを見る時です。
私どもも実を結ばせる主の御業を信じて、ぶどうの木・主イエスにつながるぶどうの木として、主の愛にとどまる愛の交わりとなって、祈りを合わせて、力を合わせて、主の伝道の業に励んで行くのです。
お祈りいたします。
「主よ、ぶどうの木であるあなたにつながらせて下さい。それ以上に、主よ、あなたが私どもにしっかりとつながって下さい。私どものために、十字架で自らの命、血を一滴も残らず注いで下さった主の愛にとどまって、愛の交わりを確かなものにして下さい。お互いのぶどうの枝を思いやる愛を確かなものにして下さい。私どもの思いを遙かに超えた主の伝道の御業を信じ、豊かな実を実らせる主の伝道の御業に、私どももお手伝いをさせて下さい。
この祈り、私どもの主イエス・キリストの御名により、御前にお捧げいたします。アーメン」。