「小さな親切が永遠に覚えられる」
列王記上17:8~16
マタイによる福音書10:40~42
主日礼拝
矢澤美佐子
2024年7月7日
これまで色んな方の悩み、悲しみを聞いて参りました。その一つ一つが大切な尊敬すべき命の営みです。小さいお子さんの突然の病、青年の方の壊れそうな繊細な悩み、働き盛りの方の魂の飢え乾き、高齢の方の老いていく不安があります。苦楽を共にして来た、愛する家族を、助け合った友を、天国へ送る時もあります。「先生、私、苦しくて、苦しくてたまらないのです」そのように打ち明けられる方の、身体がきしむ痛みから、命の鼓動が伝わってきます。
毎日、教会のお一人、お一人のことを思います。たくさんの方が、金沢教会に両手一杯の抱えきれない悲しみを持って礼拝へ来られます。そして、苦悩の涙を隠して、教会のご奉仕をして下さっている方々の微笑みを拝見する度に、私は「神様どうぞ祝福をお与え下さい」と心からお祈りしております。
ご自分の悩みを抱えながらも「あの方が、今、試練にあっていると聞きました。私は、神様にそっと静かに祈っています」そんな風に打ち明けてくださる方もいらっしゃいます。
ある方は、「歳を取って身体が弱くなり、たくさんの人が助けて下さるので、周囲の人に毎日、感謝をしています。けれど、感謝するばかりで情けなくなります」とお話し下さいました。
私は、その方に「試練を経験されていらっしゃるあなただから、謙って人に感謝をされる、そのような、素晴らしいお姿を通して、私は、あなたから大切なことを教わっています。私は、あなたに心から感謝をしております」とお答え致しました。
しばらく教会から離れておられた方からお電話がありました。
「教会に行っていないから、先生に話すのは申し訳ないのですけれど。悲しい出来事が続いて、毎日が辛いんです」
私は、その方に「金沢教会のたくさんの祈りがありますから。決して一人ではないですよ。神様も私たちも、あなたを決して忘れないで、いつも覚えています。どうぞ、教会で一緒に礼拝を捧げましょう」とお伝え致しました。すると「ありがとうございます。ありがとうございます。私も、金沢教会のために祈っています。私が、教会に再び行けるようにお祈りして下さい」と、答えてくださいました。
私の娘は、脳脊髄液減少症という病のため、入退院を繰り返しています。数ヶ月前から強い痛みが続き、起き上がれず、「苦しいよ、苦しいよ」と言う言葉も震え、辛く忍耐の日々が続きました。私と娘は、毎日何度も祈りました。そして、「金沢教会の祈りがあるから、大丈夫。神様は、すぐそばにいて最善を尽くしてくださっているから。また金沢教会へ行ける日が来るよ」と伝え続けました。
私は、夜も看病し、娘のすぐ横で説教の準備をしました。心配しながら眠れない夜、神様にもたれかかり、御言葉と向き合い、御言葉に包まれます。すると、たとえ一睡もできず疲れた朝であっても、神様と共に迎える朝には、希望があります。
夜の暗闇の中に、夜明けの太陽がひとすじの光を放って、しだいに空全体を明るく照らし、輝きが広がっていくのが見えてくるのです。
神様が、闇の中から、光へと導いて下さいます。
それを証ししているように、娘は少し歩けるようになり、今日、金沢教会で礼拝をお捧げすることができました。共に神様を信じ、祈り合い、支え合う、金沢教会の皆様のお陰と心から感謝しております。
今も同じように、試練の中で懸命に祈りながら、礼拝堂で礼拝をお捧げできる日を目指して、忍耐の日々を過ごしておられる方が多くいらっしゃいます。
辛い日々を過ごしておられる方。落ち込むことが、多くあることと思います。けれど、どうぞ落胆しすぎないで下さい。神様にもたれかかり、安心して欲しいのです。
どのような激しい雨が降っても、やがては降り止みます。
そして時には、美しい虹が空いっぱいにかかります。
そして、泣き疲れた瞳の奥には虹の輝きが、凜然と光り輝く日がやってきます。
夜明けの太陽がひとすじの光を放って、しだいに空全体を明るく照らし、輝きが広がっていくように、神様が、必ず逃れの道をも用意して下さっています。
暗く心が沈むような時、夜は、星の輝き、昼は、青く広がる空を、どうぞ見上げてくださると嬉しいなと思います。曇りの日でも、空を見上げてみてください。遥か、彼方から吹いて来る風に乗って、大きな雲の船が、進んで行くのが見えるでしょうか。雲の馬車が、かわいい子供たちを乗せて、青空へ向かって進んで行くのが見えるでしょうか。どうぞ心躍らせてみて下さい。
皆さんの幼い頃の夢、もう夢見る頃は過ぎたと、どこかへ閉まってしまったかもしれません。しかし、私たちは、神様と共になら、幼い頃の夢のかけらが、また繋がり始めることでしょう。
窓に注がれる陽の光は、神様からの祝福です。
病で横たわるベッドの上でも、注がれる陽の光に神様からの祝福を思い、どこまでも美しい冒険ができますように心からお祈りしております。
世の中は、多くの情報が飛び交い、駆け足で人々が通り過ぎて行きます。しかし、私たちは、静かに、神様の御前に立ち止まり、神様の御言葉のみに耳を傾け、静寂の中で礼拝を捧げます。これがキリスト者の人生最大の恵みです。この世にあって神様と出会うことができるのです。
主イエス・キリストのことを「傷ついた癒し人」と言い表します。主イエスご自身も多くの苦しみを負い、傷を負いました。だからこそ、私たち誰にでも隠れた涙、人には見せない微笑みの影に潜む、苦悩の涙があることを主イエスはご存知でいらっしゃいます。
傷ついた癒し人、主イエス・キリスト。このお方は、神の栄光をお捨てになって、私たちを救うためにこの世に来て下さいました。神の御子が、栄光をお捨てになり、貧しく小さく謙って、人となってこの世に来て下さいました。全ての人の救いを願い、全て人の祝福のために働かれました。それゆえに、苦しまれたのです。主イエスの説く愛の教えを、目障りだと批判する人も多かったのです。あんなもの神ではない。小さく貧しく謙る姿。あんなもの神ではないと見下す人も多くいたのです。
主イエスの教えに倣い実行する私たちも、同じような苦しみに遭うと今日の聖書は伝えています。マタイによる福音書10章全体を通して、皆さんが、経験されている苦しみが記されています。
家族で私一人だけが教会に通っていますという方。
教会へ行くことを反対されているため、肩身の狭い思いでこっそり教会へ来ていますという方。
家族が集う食卓では、教会の話しはできないという方。
住んでいる施設で、毎日通う職場で、信仰の話しは禁じられているという方。
それでも忍耐し、心の奥にしっかりとキリストを宿し、キリストを大切にしておられることでしょう。人との交わり、共同生活の中で、キリストの愛の教え、御言葉を思い出し、御言葉を行い、キリストの香りを広げることを心がけ苦労をされていることでしょう。キリスト教に対する誤解や偏見に合っても、それでも身を低くし、謙って、神と人を愛すことを志す苦しみがあることでしょう。誠実にキリスト者として生きる時、苦しみがあります。
戦前戦後を通じてドイツのベルリンで、非常に困難な状況の中、福音を語り続けたヘルムート・ゴルビツァーという牧師がおります。この方はこのようなことを語られました。
「神われらと共にいます」、この歴史の勢力圏に入り込んだ人間は、もはや自分自身の判断力に従い、自らの利益のために生きることができない。人間は、神礼拝と他者への奉仕のために動かされる。
主の平和を願い、愛を行う。自分の正義ではなく、神の正義を求め、最善を尽くす時、辛いことも多く経験します。けれども、それが私たちにとって「神共にいます」現実に触れる歩みだと言うのです。
そして、このことを強調したいのです。
しかし、私たちは、ただ、いたずらに苦しいのではありません。神が、人々を罪から救う、戦争、争い、妬み、病の苦しみ、悩み、涙から人々を救う、神の尊い美しい救いのみ業に、私たちは選ばれているのです。神の平和、救いのために、神は、私たちをお選び下さり用いて下さっています。
そして、苦難の中でこそ、試練の中でこそ、苦しみ、悲しみの中でこそ、神からの人生最大の語りかけがあります。神からの人生最大の語りかけに、静かに耳を澄ますことができる。神と出会うことができる。これがキリスト者、最大の恵みなのです。
救いを生み出すための苦しみ、主の平和の実現のための苦しみがあります。しかし、それは苦しみで終わりません。苦しみという壁は、私たちにとって決して突き当たりではありません。
ここに礼拝があります。教会があります。ここから、私たちは、涙の向こうに広がる新しい輝きへと進んでいくことができます。神が私たちを、大きな計画の中で、私たちの想像を遙かに超えた祝福へと導いて下さっています。この世の価値を超えた、私たちの想像を遙かに超えた祝福へと導かれ、用いられています。
私たちの目の涙をことごとくぬぐい取って下さる主イエスと共になら、苦しみの壁で閉じられている命ではありません。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きもない、喜び踊る声だけが響き渡る新しい天と新しい地、神の国へと続く永遠の祝福、永遠の命を生きているのです。どんな困難な道も無駄ではなかったと言える日が来ます。それゆえに、人々の祝福を願い、人々の救いを願い、幸せを願い、祈り、働く方々の姿は本当に素晴らしく尊いものです。
キリストの平和、キリストの愛を祈り、キリストの愛を行う私たちのことを主イエス・キリストは、10章の始めで、「狼の群れに、羊を送り込むようなものだ」とおっしゃいます。
そして、今日の箇所では、「わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける」と仰せになります。
キリストの平和、キリストの愛を祈り、行う人たちが、主イエス・キリストの側に立つことによって苦しみに遭い、忍耐している。そういう人に、水一杯を差し出してくれる人がいたならその親切を、神は、永遠に覚えて下さるのです。そのように主イエスは、仰せになっておられます。
それは、まだキリスト者でない方の親切も同じです。
「預言者を預言者として受け入れる人は、預言者と同じ報いを受け、正しい者を正しい物として受け入れる人は、正しい者と同じ報いを受ける」
これは分かりにくい表現ですが、このような意味です。
「キリストを映し出すように、キリストの代理となって働いている、あなたに、水1杯を差し上げたい。私は、まだ、あなたのような信仰はないかもしれません。けれど、素晴らしい信仰、清い心のために苦労している、あなたに、私は水1杯を差し出します」
そんな風に、キリスト者に好意を寄せてくれるなら、小さな親切を行ってくれるなら、それは、キリストの正義に、キリストの平和に、キリストの愛に、あなたも参加していることになる。そう主イエスは、伝えておられます。
主の弟子だからという理由で好意を寄せてくれるなら、そのことは報われるのです。1杯の水を差し出すように好意を寄せてくれるなら、その小さな1杯が、結果として極めて大きな変化をもたらして行きます。その人の人生も、後に変わって行くことになるのです。
小さな者に、たった1杯の水。もっともこの聖書の書かれた地方では、1杯の冷たい水はとても貴重です。この1杯をあげてしまうと自分の水がなくなってしまう。それほど大切な水です。
今日の旧約聖書では、預言者エリヤが食べ物がなく、貧しい女性に助けを求めます。すると、貧しい女性は、「この粉は最後の粉です。これを使ってあなたに食べ物を与えると、私と息子の分は、ありません」と答えます。そこでエリヤは、「神様は、必ずあなたを養って下さいます。神様を信じて」と語りかけます。そして、最後の粉でエリヤに食べ物を作り、与えるのです。すると、エリヤの言った通りになります。壺の粉は、使っても無くならず、貧しい女性と息子を養い続けたのです。貧しい女性の、エリヤの一時の親切だったかもしれません。しかし、神は、貧しい女性の一時の親切を覚え、祝福し続けて下さったのです。
一時の親切を行う時、いつまでも覚えていてほしい。そういうつもりで行わないかもしれません。小さな一時の親切ですけれども、それを神の方では永遠に覚え続けて下さるのです。
私は、これまで何度かキリスト教病院でご奉仕をさせて頂いております。病院の礼拝堂はとても質素です。しかし、最上階まで吹き抜けになっている大きな礼拝堂は、病院の中心にあり、礼拝が非常に大切にされております。ビルが建ち並び、時の流れが非常に速い都会で、神様の時と静寂に身を委ね、多くの病の方々と共に、医療の最前線で戦う人々の祈る姿があります。
先日、私のような小さな僕が、礼拝説教のご奉仕をさせて頂きました。600床もあるベッドに入院されている多くの方々、外来で治療を受けられている方々、付き添う方々にライブ配信で礼拝が届けられます。そして、礼拝堂には100人以上の医療に携わる方々が集います。
礼拝堂の最前列には、これから生と死を握る重大な手術を行う医師、看護士が頭を垂れ、手を合わせて祈っておられました。礼拝堂の一番後ろでは、ナースコールを気にしながら直立し、真剣に礼拝を捧げる、数名の看護士の力強く、優しく美しい眼差しがありました。
私は、全身全霊で御言葉をお伝えしました。
礼拝が終わると、一斉に皆がすっと立ち上がり、病で苦しんでいる方々のもとへと戻って行かれました。その姿は勇敢でいて、しかし、繊細で大きなぬくもりが感じられました。
礼拝後、私に声を掛けて下さったキリスト者の医師と素敵な出会いをすることができました。その方は、数千人もの病の方の生と死を、共に戦い、寄り添ってこられた方です。キリストの愛を思わせる、優しい眼差しをしておられました。
この先生は、病の方、ご家族としっかりと向き合って、話すことで厚い信頼関係を築いて来られました。その姿勢は、医師としての辛い経験、深い葛藤の日々から生まれたものでした。
この先生が医師になって3年目のことです。お父さまに末期の肝臓癌が見つかりました。当時は、告知をしない方が良いとされた時代でした。先生は、お父様に「治る病気だから大丈夫」とごまかし続けたそうです。お父様は、いぶかしがっていましたが、やがて何も聞かなくなります。先生は、残った時間がどれだけあるか分からない中で、何度も告知の言葉が出そうになったと言います。本当のことを言ってあげたい、という気持ちとのせめぎ合いでした。結局、最後まで正直に話せないまま、お父様は亡くなりました。その後、本当にこれで良かったのか。割り切れない思いが残ったと言います。迷いの中で、癌を治せる医師になりたいと必死で腕を磨いていきました。けれど、お父様の顔が何度も浮かび、葛藤が消えることはありませんでした。苦しんでいる人にとって納得のいく治療、救いとはどういうものなのか。お父様の最後の姿が、ちらつき続けたと言います。
そして、37歳の時、決意をされました。
「たとえ救うことが難しい人と向き合うことになっても、決して誤魔化さず全てを伝えよう。その上で、出来うる限りの手立てを尽くし、苦しむ人と共に全力で戦う」というものでした。
最初は、仲間うちで批判も受けました。それでも、先生は、苦しむ人々の本当の気持ちを知るために、アンケートと取らせてもらうなど必死で学び続けました。
そんなある日、今、なお忘れられない方と出会います。
長年連れ添って来た夫婦です。夫は、胃がんが進行し厳しい状態でした。先生は、持てる技術を尽くし手術を行いました。術後わずかに体調は持ち直します。しかし、1年後、新たに他の癌が見つかったのです。
その時、先生は、もはや有効な治療法はないことを伝え、残りの日々を大切にしましょう、と提案しました。ご家族は、その言葉を受け入れ全ての治療を止めました。そして翌年、夫は亡くなりました。
しばらして先生に1通の手紙が届きます。
そこには思いも寄らないことが綴られていたのです。「先生には、内緒でしたが、抗がん剤が使えないと話された時から、あるワクチン注射を始めました。やはり効果はありませんでした。しかし、私たち、凡人は、何か少しでも良くなる具体的なものがあると安心できるのです。とても恥ずかしくて、先生にも申し上げられませんでした」
先生は、苦しむ人と真摯に向き合って来たはずでした。けれど、手紙には、まったく気づけなかった真実の姿があったのです。さらにこう綴られていました。
「この1本が、もしや奇跡かと夢中で注射を練習して、とことんまで信用しない私たちに、それでも注射をさせる夫に、始めて家族を感じました」
「こんなことが、苦しむ人の所で起こっている」そう言って、涙される先生ですから、多くの人に信頼され、愛されていました。
私は信じていないけれど、あなたが言うのならと協力する家族
こんなことが、苦しむ人の所で起こっているんだと、うなだれ、涙する医師。
主イエス・キリストは、私たちの苦しみをご存知です。弱さに同情できない方ではありません。神の栄光をお捨てになって、貧しく、低くなって、この世に来て下さいました。私たちが経験する、苦しみ、限界、無心の涙、あらゆる痛み、苦しみを、神も同じように経験してくださるのです。神が人となって、この世に来て下さいました。私たちを救うためです。神は、私たちを命がけで救ってくださいます。
「あなたのために水1杯を差し出します」
尊い親切、あたたかな温もりが、私たちの信仰生活でも思い出されます。
「私は、信じていないけれど、あなたのために」と何十年も、妻を車で教会へ送り迎えされた夫がいらっしゃいます。
「今日も、また教会へ行くのか」といぶかしがりながらも、「あなたが楽しいなら」と送り出してくれるご家族がいらっしゃいます。
「キリスト者の母が一人暮らしだから」と、毎週、電車を乗り継いで母の元へ行って差し上げる。「お母さんが寂しいのなら」と、二つ布団を並べて、信仰の話しを聞いて差し上げた。
神様は、キリストとの交わり、小さな親切を慈しんで、とても大切にして下さいます。
「冷たい水1杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける」
神様は、私たちの親切を決して忘れず、永遠に祝福して下さいます。