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「嵐の中の航海」

詩編27:7~10
マタイ8:23~27

主日礼拝

井ノ川 勝

2023年5月28日

00:00 / 37:17

1.①最近、注目すべき本が出版されました。最相葉月(さいしょう・はづき)さんが編集された『証し』という書物です。副題に「日本のキリスト者」と付けられています。北海道から沖縄、離島を含めて全国の様々な教派の教会を6年かけて訪ねて、それぞれの地でキリスト者として生きる伝道者、信徒135人の信仰の証言をまとめたものです。千頁を超える大著です。実に様々な信仰の証言が語られています。一人一人の信仰の背後に、信仰の物語、人生のドラマがあります。信仰の証しを、回心、家族、社会、差別、戦争、赦し等、主題別に14章に分けて構成しています。


しかも驚くべきことに、著者の最相葉月さんはキリスト者ではありません。あるキリスト者との出会いを通して、この時代、日本で、なぜ神を信じて生きているのか、そのことに興味を持たれました。しかもキリスト教の出版社からではなく、一般の出版社から出版されました。キリスト者以外の方にも読んでほしいという願いが込められています。それ故、書物の冒頭で、一般の方に馴染みのない「証し」という言葉を説明しています。


「『証し』とは、キリスト者が神からいただいた恵みを言葉や行動を通して人に伝えること。証言ともいう」。


 これは私どもの信仰の急所を捕らえたものです。私どもの信仰にとって大切なことは、神からいただいた恵みを、生活の中で証しして行くことです。神は私という存在を通して、生きて働いておられる。それが証し、証言となって、人々に伝えられて行くのです。それこそが真実の伝道です。私ども一人一人が、生きたキリストの証言者として生きることです。今日の教会が求められている大切な点が、ここにあります。



②本日はペンテコステ、聖霊降臨日です。天から聖霊、神の霊が主イエスの弟子たちの群れに注がれ、地上に教会が誕生した日です。教会が誕生した日、主イエスの弟子たちは何をしたのでしょうか。家の中で、小さな祈りの群れに留まっていたのではないのです。主イエス・キリストは生きて働いておられる。生けるキリストが私を通して生きておられる。そのことを日々の生活を通し、言葉と存在を通して、喜んで証しし、証言しました。それ故、最初の教会の人々のことを、「キリストの証人」「キリストの証し人」と呼ばれました。聖霊を注がれて生きることは、キリストの生きた証人として生きることです。キリストの教会が誕生してから2千年、教会に連なるキリスト者はただこのことに生きて来ました。今日の教会に求められている大切な点が、ここにあります。


 説教を共に学ぶ説教塾という交わりがあります。毎月木曜日の夜、説教の指導をされる94歳になられた加藤常昭先生に、いろいろな質問をし、それに答えていただく「教えて常チャンネル」というオンラインの番組があります。先週も様々な質問がありました。中でも聖霊降臨日を前にしていましたので、それに関係する質問が多くありました。その中に、「日本の教会はどうなって行くのでしょうか」という質問がありました。近隣の教会で閉鎖した教会がある。今、5名の教会員が、牧師を迎えられず、他の牧師の説教テープを聴きながら礼拝を捧げている教会がある。皆、高齢の方ばかり。いずれこの教会も閉鎖してしまうかもしれない。そのような教会が全国に多くある。日本の教会の将来を考えると、どうなるのだろうかという深刻な不安に捕らえられてします。


 それに対して、加藤先生は強い口調で、こう答えられていました。教会の将来はどうなるのか心配するよりも、今、教会が果たさなければならない伝道の業に、心身を傾け、教会が一丸となって励みなさい。神が聖霊の業によって建てられた教会が滅びることは絶対にない。神は今も、どんな小さな教会であっても、聖霊を注ぎ続けておられる。聖霊が注がれる時、そこに伝道のビジョン、幻が与えられる。望みが与えられる。教会に連なる一人一人が、聖霊の道具となって、生き生きとキリストを証しして生きる者とされる。教会は今、なすべき伝道の業に励もう。それが、聖霊によって生まれた教会ではないか。



2.①聖霊降臨日の礼拝に与えられた御言葉は、主イエスと共に舟に乗り込んだ弟子たちが、嵐に遭遇し、慌てふためく出来事です。教会はこの出来事を、自分たちの教会の歩みと重ね合わせて聴いて来ました。自分たち教会の物語がここで語られていると受け止めて来ました。教会は古より、舟に譬えられて来ました。主イエスに従う弟子となることは、主イエスと共に、教会という舟に乗り込み、神の国を目指して航海をすることです。航海はいつも順風満帆ではありません。むしろ波は高く、暴風が吹きつけ、嵐に巻き込まれる。教会という舟は大きく揺らぐ。沈みそうになる。様々な試練に遭遇します。教会という舟に乗り込んだから、何の試練も遭遇せず、安心であるということはないのです。


 先週、中部教区総会が4年ぶりに、名古屋中央教会で開催されました。珠洲市在住の輪島教会の信徒議員が、先日の地震の報告をする時間がありました。大きな揺れが起こり、しばらく揺れが続いた。揺れが納まった時、娘はすぐに玄関へ向かったが、私は腰を抜かして、体が硬直して、すぐに行動をすることが出来なかった。這うようにして玄関に向かったと証言されていました。その日は、何度も余震があり、家で眠ることが出来ず、車の中で夜を過ごした。地震はいつ、どこで起こるか分からない。だから恐ろしいし、不安であると話されていました。


 私どもは堅固な大地の上で生活していると信じています。安心して生活しています。ところが、突然、堅固な大地が揺れ動く。足下が揺らぐ。これはただならぬことです。足下が揺らぐと、私どもは動揺します。我を失います。どのように行動したらよいか、分からなくなります。ましてや海の上は不安定です。穏やかであった海が、突然、私どもの命を呑み込む凶暴な顔に様変わりします。嵐の海の真っ只中で、小さな舟が大きく揺れ動いたら、どうすることも出来ません。しかし、そこでこそ、私どもの信仰が問われるのです。



②ところが、更に、驚くべきことが起こりました。嵐の海の只中で、主イエスは舟の中で眠っておられました。命の危険に晒され、弟子たちは慌て叫んでいるにもかかわらず、主イエスは一人眠っておられました。主イエスは直前で語られていました。


「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない」。


「人の子」とは主イエスのことです。主イエスはこの地上に、私の安らぐ場所はないと語られた。ところが、その主イエスが嵐の海の中で、眠っておられるのです。驚きです。


 弟子たちは主イエスに近寄り、起こし、叫びました。


「主よ、助けてください。おぼれそうです」。


必死の叫びです。主イエス以外、助けて下さる方はいない。それ故、主イエスに向かって叫ぶのです。「主よ、助けてください」。この叫び、祈りは、後に教会の祈り、礼拝の祈りとなりました。私どもの日々の祈り、叫びとなりました。「主よ、助けてください。私は滅んでしまいます」。


 イースター、復活祭に、礼拝に出席できない教会員を訪問しました。本日もペンテコステ、聖霊降臨日ですが、礼拝に出席できない教会員が多くいます。病と向き合っている方がいます。死と向き合っている方がいます。死の大波が、大きな口を開けて、私を呑み込もうとしている。恐れと不安の中にいる方がいます。実に多くの方が死の恐れと不安の中にいるのです。詩編の詩人が繰り返し叫び、祈っている言葉があります。「死の大波に呑み込まれそうです。主よ、助けて下さい。私は滅んでしまいます」。


 舟の中に主イエスはおられないのではありません。主イエスはおられるのです。しかし、眠っておられる。眠っていては無力である。何も出来ない。眠っていては、おられないのと同然である。弟子たちはそう思ったのです。「主よ、私どもは滅びそうなのです。命の危険の中にあるのです。それなにの何故、あなたは眠っておられるのですか。何もなさらないのですか。主よ、助けてください」。



3.①眠りから目覚められた主イエスは、嵐の海の中で立ち上がられました。ところが、真っ先に嵐の海を叱るのではなく、弟子たちを叱られました。


「なぜ怖がるのか。信仰の薄い者たちよ」。


「信仰の薄い者たちよ」。この言葉は「信仰の小さい者たちよ」という意味です。あなた方の信仰は何と小さいことか、と主イエスは嘆かれたのです。弟子たちの信仰の小ささはどこにあったのでしょうか。嵐の海に遭遇して、恐れたことです。主イエスは舟の中におられたにもかかわらず、眠っていて、恰もいないかのように慌てたことです。眠っていては、何もなさらないことと同じだと思ったからです。


 しかし、主イエスは弟子たちに向かって、あなた方の信仰はないとは語っておられません。あなた方の信仰はある。しかし、あなた方の信仰は何と小さいことかと語られるのです。主イエスは弟子たちの信仰を問われているのです。信仰とは何でしょうか。様々な言葉で言い表すことが出来るでしょう。その一つの大切なことは、信仰とは見るべきものを見ているかどうかに懸かっているということです。弟子たちは荒れ狂う海を見ました。小さな舟を揺さぶる暴風を見ました。眠っておられる主イエスを見ました。眠っておられる主イエスは無力であると見ました。


 しかし、主イエスは眠って何もなさらないのではない。眠りながらも弟子たちのために祈っておられるのです。眠りながらも闘っておられるのです。眠りながらも、嵐の海の只中で、弟子たちと共におられるのです。そのような主イエスにまなざしを注ぐべきであったのです。どんなことがあっても、舟の中に主が共におられることの意味にまなざしを注ぐべきであったのです。「主が共におられる」ことこそ、このマタイ福音書が強調する信仰であるのです。



②主イエスは眠りから起き上がられ、まず、弟子たちの信仰を叱られました。そして荒れ狂う風と海をお叱りになられた。するとすっかり凪になりました。その時、語られた驚きの言葉が重要です。ここでは「弟子たちは」、「彼らは」ではなく、「人々は」となっています。嵐の海の舟の中にいるのは、主イエスと弟子たちだけです。それなのに何故、「彼らは」と言わないで、「人々は」と言うのでしょうか。弟子たちと、更に、教会という舟に乗り込んだ人々、私どもも含めていると思われます。


「いったい、この方はどういう方なのだろう。風や湖さえも従うではないか」。


 共に舟におられる主イエスとは、一体誰なのか。主イエスとは何ものなのか。それを問う信仰の言葉です。私どもの信仰はたとえ小さな信仰であっても、この一点に懸かっているのです。


 嵐の海、それは自然現象だけを意味しているのではありません。私どもの命を呑み込む死の大波でもあります。私どもの命を翻弄する悪しき力でもあります。しかし、主イエスは死の大波をも、悪しき力をも、「静まれ」と語られ、鎮めてしまわれるのです。主イエスこそ死の大波を打ち破り、悪しき力に打ち勝たれた、甦られた主イエス・キリストだからです。その甦られた主イエス・キリストが、教会という舟に、私どもと共に乗り込んでくださっておられるのです。どんな嵐の海であっても、教会という舟が大きく揺らいでも、生ける主イエス・キリストを、私どもは見失ってはならないのです。たとえ小さな信仰であっても、生ける主イエス・キリストにまなざしを向けて、叫びを、祈りをぶつけるのです。「主よ、助けてください」と。



4.①説教の冒頭で紹介した最相葉月さんが編集された『証しー日本のキリスト者』。その中に、長崎のナザレンの教会で信仰生活を送られている女性の証しがありました。1945年8月9日午前11時2分、私は家で洋裁をしていました。そばに1歳になる姉の娘がちょろちょろしていた。突然、ピカーッと白光りがした。姉と二人で縁側に出て、なんだろうねっていったら、屋根がガタガタガタって壊れてきた。とっさに姪をかばい、避難させ、母をおぶって防空壕に入った。広島に新型爆弾が落ちたことはラジオで伝わっていたので、ひょっとしたらそれかなと思った。洋裁の先生にいただいた革表紙の聖書は、黒い前で濡れてしまった。父は造船所の事務所にいて、焼けただれた肉の塊となって亡くなった。


 敗戦後、進駐軍が来るというので、疎開した。被爆の影響かどうか分からないが、母も姉も病気で寝込んでいた。徹夜で看病した。やがて母は亡くなった。シーツで体を巻いて、おんぶして、材木を探して、瓦礫を置いてあったところで荼毘に伏した。その後、結婚をし、子どもが与えられた。娘は活水学院というキリスト教学校に中学から入学し、大学まで学んだ。大学卒業後、東京で働いた。しかし、精神的に参ってしまって、東京から帰って来た。ピアノが弾けたので、教会に連れて行って、奏楽のお手伝いができるのではないか。そうしたら娘も元気になるのではないかと思った。それでナザレンの教会に行くようになった。やがて娘と一緒に洗礼を受けた。しかし、その後、娘は命を絶ってしまった。精神的に苦しい日々が続いた。夫が亡くなってからは、生活が大変になった。


 私という人生の舟は何度も破船し、沈みそうになった。「主よ、助けてください。おぼれそうです」と何度も叫んだ。しかし、教会という舟の中で、牧師、信仰の仲間がいつも祈って、助けて下さった。教会という舟の中に身を置いたから、私という舟は沈まなかった。いつの間にか、イエス様とご一緒になりました。いつも一緒なんですよ。助けて下さいましたね。見守って下さいましたね。


 ある時、本当にくたびれて、精神的にも経済的にも落ち込んで、もうどうにもならんような辛い時に、山道を歩いていたら、古くさびれたお墓があった。そこに腐りかけた木が横たわっていて、こんな御言葉が書かれてあった。


「疲れた者、重荷を負う者は誰でも、私のもとに来なさい。私が休ませてあげよう」。イエス様の招きの言葉です。キリスト教徒のお墓だったのでしょうね。古くてお参りする人もいない、石塔にする余裕もなくて、木のお札を立てたのでしょうね。それを見た時、胸がぎゅーっとしましてね。しばらくそこに佇んでいました。地中に埋められた方も、様々な苦しみを負いながら歩んで来られたのだろうな。しかし、主イエスの御手に導かれて歩んで来られたのだろうな。自分の歩みと重ね合わせ、立ち去りがたい感じでした。


 人生の航海を振り返ると、後悔することはいっぱいありますが、唯一、キリスト者になったことだけはよかったと思いますよ。教会という舟の中で、イエス様と信仰の仲間に執り成されて、航海を続けられたことを喜んでいます。



②嵐の海の中で、弟子たちは慌てふためき、主イエスは弟子たちの信仰を叱りました。「なぜ怖がるのか。信仰の小さい者たちよ」。嵐の海の中で、主イエスは弟子たちに、一体どのような信仰を求めたのでしょうか。


 日本のプロテスタント教会の草創期の代表的な伝道者に、植村正久牧師がいました。富士見町教会の初代の牧師です。植村牧師から洗礼を受けられた信徒が、年齢を積み重ね、こう述べています。いつも自分の死を考える。どういう形で死ぬか分からないが、死んで、天国に行かれるかどか、いつも不安がある。死んで、天国の門の前に立たされた時、お前は何者であるのかと問われれば、答えに窮するかもしれない。しかし、ひとつ私は知っている。「不肖ながら、このような私でも、私はあの植村正久牧師の弟子である」。不肖ながら植村正久牧師の弟子だから、天国に入れて下さいと言ったら、たぶん天国の門が開かれるかもしれない。面白い言葉です。


 「不肖ながら」。私どもがよく使う言葉です。不肖とは、似ていないことです。私は植村正久牧師のような大きな信仰の志に生きられなかった。小さな信仰であった。しかし、私どもは植村正久牧師に似る必要はないのです。それでは一体誰に似るのでしょうか。ただひとり、主イエスに似るのです。嵐の海の中で、主イエスに似るとはどういうことなのでしょうか。嵐の海の中で、主イエスは何をされていたでしょうか。眠っておられた。それ故、主イエスと共に眠るのです。嵐の海の中で、自分の命が危険に晒されている中で、そんなことは不可能なことだと思ってしまいます。


 嵐の海の中で眠る。それは何もしていないことではありません。主イエスは父なる神に委ねておられるのです。そこに平安があるのです。それこそが、嵐の海の中で、主イエスが弟子たちに、似てほしいと求められた信仰です。主イエスと共に眠るのです。主イエスの御手に支えられて、父なる神に委ねるのです。嵐の中でも、主イエスの御手の中で、平安があるのです。


 私どももやがて死が訪れ、死の眠りに就きます。墓に葬られます。しかし、私どもは死の大波に打ち勝たれ、甦られた主イエス・キリストのいのちの御手の中で、眠るのです。そこに平安があるのです。しかし、私どもは永遠に眠り続けるのではない。主イエス・キリストが死の眠りから目覚められ、起き上がられたように、私どもも生ける主イエス・キリストから呼び出され、死の眠りから目覚める、甦りの朝が約束されているのです。


 その甦りの朝を待ち望みながら、教会という舟は、この世の荒波、死の大波を受けながらも、生ける主イエス・キリストに導かれ、聖霊の風を受けて、航海を続けて行くのです。



 お祈りいたします。


「聖霊の風を注いで下さい。私どもが乗り込んだ教会という舟が、この世の荒波、死の大波を受けて、揺らぐことがあって、沈むことはありませんように。嵐を鎮める生ける主イエス・キリストに導かれて、神の国を目指して航海を続けさせて下さい。まだ舟に乗り込んでいない家族、友人が多くいます。舟に乗り込んでも、弱っている信仰の仲間が多くいます。どうか私どもが聖霊の道具となって、生けるキリストを証しし、聖霊の器となって執り成すことが出来ますように。


 この祈り、私どもの主イエス・キリストの御名により、御前にお捧げいたします。アーメン」。

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