「平和の使者として遣わされ」
イザヤ9:1~6
エフェソ2:11~22
主日礼拝
井ノ川勝
2025年7月13日
1.①今年は敗戦後80年目の記念の夏を迎えています。6月23日は沖縄慰霊の日でした。日本本土最大の地上戦となり、日米合わせて20万人が犠牲となりました。その戦没者らを悼む記念式典が行われました。その式典で、小学6年生の男の子が、「おばあちゃんの歌」という題で朗読をしました。原稿を見ず、ひと言ひと言を、一人一人に語りかけていました。
沖縄慰霊の日に、おばあちゃんが一年に一度だけ歌う歌がある。防空壕で5歳の時に習った歌です。80年後の今でも覚えている歌です。歌いながら涙を流し、泣きながら歌う。歌い終わった後、おばあちゃんが言った。「あの戦の時に死んでおけば良かった」。沖縄戦の激しい艦砲射撃でケガをして生き残った人のことを、「艦砲射撃の食べ残し」と呼ばれ、差別を受けた。戦争が終わっていることも知らず、防空壕に隠れていた。手榴弾を壕の中に投げられ、おばあちゃんは左の太ももに大けがをした。大きな傷あとが残り、人に見られるがいやで、学生時代は苦しんだ。
おばあちゃんに、生きていてくれて本当にありがとうと伝えると、両手でぼくのほっぺをさわって、「生き延びたから、命がつながったんだね」と言った。80年前の戦争で、おばあちゃんは心と体に大きな傷を負った。その傷は何十年経っても消えない。おばあちゃんが繋いでくれた命を大切にして、一生懸命に生きていく。
一人一人の心に刻まれた言葉となりました。
②5月の上旬、石川地区婦人会連合の春の集会が白銀教会で行われました。今年度の主題は、「キリストにある平和を共に求めよう~エフェソの信徒への手紙を学ぶ~」。私がエフェソ書の一節の御言葉を説き明かしました。その説教の冒頭で紹介したことがあります。
金沢教会で共に礼拝を捧げ、長老として長きに亘り奉仕をされた深谷松男長老が、2月に本を出版されました。『21世紀の友に贈る平和へのメッセー
ジ』。本の題名が祈りになっています。90歳を越え、最後の著書は「平和論」を書きたいと願っていました。キリスト者として、法学者として、戦中、戦後を歩まれた証人の生きた平和論です。
本の書き出しが印象深いものです。救い主イエスがお生まれになったことを知らせた天使は、天で合唱し、夜空に響き渡りました。
「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」。
しかしこの直後、地上では、ヘロデ王による凄まじい大量の嬰児虐殺が行われました。平和の君が誕生した人間世界の罪の闇に覆われた現実です。しかしなお、天使のこの合唱を心魂に刻みながら、それに支えられずしては、私どもは平和を求めて進むことは出来ません、と綴っています。
この書物の中で、平和を語る聖書の御言葉が幾つも採り上げられています。その一つが、この朝、私どもが聴いたエフェソの信徒への手紙2章13節以下の御言葉です。
「しかし、以前はそのように遠く離れていたあなたがたは、今、キリスト・イエスにあって、キリストの血によって近い者となりました。キリストは、私たちの平和であり、二つのものを一つにし、ご自分の肉によって敵意という隔ての壁を取り壊し、数々の規則から成る戒めの律法を無効とされました。こうしてキリストは、ご自分において二つのものを一人の新しい人に造り変えて、平和をもたらしてくださいました。十字架を通して二つのものを一つの体として和解させ、十字架によって敵意を滅ぼしてくださったのです」。
2.①先週の木曜日、「輝く瞳の会」が行われました。キリスト教幼児教育を共に学び祈る会です。北陸学院第一幼稚園の父母、子育て中のお母さん、かつて幼稚園の先生をされていた方、子育てをされていた方。様々な方が集い、キリスト教幼児教育を語り合います。始めに私が話をします。そこで紹介したのは、教会学校の子どもたちが歌う『こどもさんびか』です。阪田寛夫さんが作詞した「きょうだいげんか」の讃美歌です。『こどもさんびか』の中に、「きょうだいげんか」の讃美歌があることは、素敵なことです。
「きょうだいげんかを しない日は、とうかにいちどか 月にかい
なかよくするのは むずかしい
しらないどうしで けんかをする したしくなっても またけんか
なぜだかさっぱり わからない
こころがよわると うらみあい はりきりすぎると いがみあう
なんだかかなしく なってきた
神さま 神さま 神さま そのわけ おしえてください
おしえてください 神さま」
最後の「おしえてください 神さま」が、何とも言えない旋律で終わっています。叫び、訴えるような旋律で終わっています。
「きょうだいげんか」を歌いながら、実は、私どもが生きるこの世界の様々な対立、争いを歌っているのではないでしょうか。何故、この世界に争うがあるのか、対立があるのか。「神さま、神さま、神さま、そのわけ おしえてください。おしえてください 神さま」と祈りながら訴えています。
平和の問題は、国家と国家、民族と民族同士の大きな問題でもあります。しかし、私どもの身近な問題でもあります。家庭、学校、教会の中の問題でもあるのです。家族、友だち、教会員との問題でもあるのです。
②今日の御言葉の中で、様々な言葉が心に響いて来たと思います。中でも心に響いた言葉は、「敵意という隔ての壁」ではないでしょうか。私どもはすぐに、心の中に隔ての壁を築いてしまいます。自分と人とを隔てる壁です。一度、隔ての壁が築かれますと、取り除くことが困難になります。自分の手で取り除くことが出来なくなります。今、私どもの世界が経験していることです。同時に、私どもが身近で経験していることです。隔ての壁の前で、私どもは苦しみ、嘆き、涙を流しています。
国家と国家、民族と民族同志、自分と人との間に隔ての壁があります。しかし、私どもはそれだけではなく、神さまとの間にも隔ての壁を造り上げてしまいます。神さまの御前に謙って、神さまの御言葉を聴こうとしなくなります。自分が恰も神さまの如くに振る舞ってしまいます。益々、泥沼状態に陥ってしまいます。
かつてドイツには東西を隔てるベルリンの壁がありました。朝鮮半島には今尚、北緯38度線に壁があります。韓国の教会へ行った時に、その場所に立ったことがあります。緊張が走りました。一歩踏み出せば、銃殺される隔ての壁です。しかし、この世界には至る所に、目に見えない隔ての壁が立てられています。そして私どもの心の中にも、隔ての壁が立てられています。
このような世界の現実、深刻な状況を、誰よりも良くご存じなのは、神さま御自身です。それ故、平和の君である救い主イエスをこの世界に遣わされたのです。しかし、平和の君・主イエスが来られるまで、長い長い旧約の時代がありました。「平和の君よ、来て下さい」と祈りつつ、待ち望む長い長い時がありました。平和の君・主イエスが来られた時は、王の権力によって、ベツレヘムの嬰児が虐殺され、母とわが子が無理矢理引き裂かれるという、闇に覆われた時でした。そのような闇の只中に、平和の君・主イエスは来られました。
3.①今日の御言葉の中心にあるのは、この御言葉です。
「キリストは、私たちの平和であります」。
以前の新共同訳は、このように訳していました。
「実に、キリストはわたしたちの平和であります」。
「平和宣言」です。キリストにおいて、平和が実現したのだ。一体、どこで平和が実現したのか。十字架においてです。それ故、「十字架において」「十字架を通して」「キリストの血によって」と、繰り返し語られるのです。平和の君・主イエスが、十字架で自らのいのちを注がれ、血を流さなければ、平和は実現しなかったのです。
このような言葉が繰り返されています。
「キリストは、二つのものを一つにし、敵意という隔ての壁を取り壊し」。「キリストはご自分において、二つのものを一人に新しい人に造り変えて、平和をもたらされた」。「キリストは、十字架を通して二つのものを一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼしてくださった」。「キリストは来られ、遠く離れているあなたがたにも、近くにいる人々にも、平和の福音を告げ知らせてくださった」。「キリストによって、私たち両方の者が一つの霊にあって、御父に近づくことができ、礼拝することができる」。
エフェソの教会には、ユダヤ人キリスト者と異邦人キリスト者がいました。お互い、隔ての壁を打ち立て、敵意を抱き、対立していました。教会の中が分裂していました。お互いが自分たちの義しさを主張し合い、相手を裁いていました。しかし、教会の中心に立つのは、人間の義しさではありません。十字架のキリストです。「実に、キリストはわたしたちの平和であります」。この平和宣言、平和の福音です。
キリストが十字架で私どものために、いのちを注いで下さった。血を流して下さった。十字架において、私どもの敵意という隔ての壁が取り壊されたではないか。敵対していた私どもは一つのキリストの体とされたではないか。私どもは一人の新しい人に造り変えられたではないか。一つになって御父に近づき、礼拝できるようにされたではないか。キリストの十字架の出来事において、平和は打ち立てられたのです。
にもかかわらず、あなたがたの内に、なお、敵意という残骸があるならば、あなたがたは繰り返し、十字架のキリストの前に立ちなさい。十字架のキリストの御言葉によって打ち砕かれなさい。十字架のキリストの御前で、悔い改めなさい。主に立ち帰りなさい。キリストによって新しい人に造り変えられなさい。自分の義しさではなく、キリストの義しさを賛美しなさい。
先程紹介した深谷長老の『平和へのメッセージ』の中で、このように語られます。
「聖書が語る平和とは、人間の力による平和ではなくて、神の支配による平和です。本物の平和とは、神の前に悔い改めて、神の意志に従うことによる平和です。従って、平和を願って、これを追い求めよとの神の神託に応えるのです」。
②エフェソの信徒への手紙は、前半で、十字架のキリストによる平和の福音が語られます。そして後半で、十字架のキリストによってもたらされる私どもの具体的な生活が語られます。4章26節でこのように語られています。
「怒ることがあっても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで怒ったままでいてはいけません」。
私どもは何故、怒るのでしょうか。自分が義しいと思うからです。相手は間違っていると思うからです。自分が義しいと思わなければ、怒りが生じません。お互いが義しさを主張し合うから、そこに対立、争いが生じます。お互いが裁き合います。義しさのぶつかり合いが生じます。しかし、怒ることがあっても、罪を犯すなと語ります。罪に至る怒りであってはならないと語ります。
そしてその直後でこう語られます。4章29節。
「悪い言葉を一切口にしてはなりません。口にするなら、聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り上げるために必要な善い言葉を語りなさい。神の聖霊を悲しませてはなりません」。
宗教改革者ルターは、「悪い言葉」を「腐った言葉」と訳しました。「腐った言葉」は、腐った根性から生まれる。
若草教会の初代牧師である加藤常昭先生が、『自伝的説教論』の中で、若草教会時代の伝道を生き生きと綴っています。ある時、輪島教会の伝道礼拝に招かれた。神学校出たての若い伝道者が伝道礼拝に招かれても、新しい方が礼拝に出席するだろうかと思ったが、引き受けた。その時、説き明かした御言葉が、この御言葉だった。説教題は「腐った言葉と良い言葉」。教会の近くの至る所に、この説教題の看板が掲げられてあった。
やがて礼拝が始まったが、新しい方は誰も見えなかった。ところが、礼拝が始まって間もなくしたら、若い青年が礼拝堂に入って来て、礼拝堂の一番前の席に座った。その一人の青年に向けて、御言葉を語った。その青年は輪島塗りの職人の見習いであった。同じ見習いの仲間と口論になり、相手に向かって罵倒し、腹を立てて部屋を飛び出した。すると、教会の伝道礼拝の看板が目に入った。「腐った言葉と良い言葉」。将に、自分に向かって語られていると思って、輪島教会の礼拝堂に入った。礼拝が終わった後も、ストーブの周りで、教会員がこの青年を囲み、お茶やお菓子を出し、会話をした。この青年は輪島教会で礼拝生活をし、やがて洗礼を受けたとのことです。十字架のキリストの前で、自らの義を主張し、怒りに満ちて、相手を罵倒し、腐った言葉に支配されていた私が打ち砕かれた。そしてキリストにあって、新しい人に造り変えられた。神を賛美する人間に造り変えられたのです。
4.①説教の冒頭で紹介した深谷長老の『平和へのメッセージ』において、その最後が、主イエスが語られた「よきサマリア人の譬えから学ぶ」で結ばれています。平和を語りながら、何故、愛が主題のこの譬え話を採り上げられたのか、意外な思いがしました。しかし、成る程と思いました。「平和と愛は口づけし」とありますように、平和を告げることは、愛を告げることでもあります。「よきサマリア人の譬え」は、皆さんも知っておられると思います。ルカ福音書10章25節以下です。
主イエスはこの譬え話を通して、「私の隣人とは誰か」を主題とはしませんでした。「私の隣人とは誰か」は、私が中心に立って、私と親しくなる隣人はいないかと捜し求めるのです。しかし、主イエスは、「誰がこの人の隣人となったのか」を問いかけました。誰がおいはぎに襲われ、傷を負って倒れた人の隣人となったのか。傷を負って倒れた人が中心で、誰がこの人の隣人になったのかを問われたのです。そして主イエスは語られました。「行って、あなたも同じようにしなさい」。あなたも行って、この人の隣人になりなさいと語られました。
②エフェソ書の言葉で言えば、あなたも「平和の使者」として遣わされ、「平和の福音」を告げ知らせるのだと言うことです。「実に、キリストはわたしたちの平和であります」。この「平和の福音」を告げ知らせる「平和の使者」として遣わされるのです。とてもとても、私には無理だと思うかもしれません。
アッシジのフランシスコの「平和を求める祈り」があります。
「わたしを、あなたの平和の道具としてお使いください」と祈っています。
この世界には、緊迫した紛争地帯に遣わされる「平和の大使」もいるでしょう。しかし、私どもは大それた「平和の大使」ではなく、小さな「平和の使者」となって、「平和の福音」「平和の祈り」を携えて、主から遣わされて行くのです。
お祈りいたします。
「実に、キリストは私たちの平和であります。今、十字架のキリストの御前で、私どもの義しさ、怒り、腐った根性から生まれる腐った言葉を打ち砕いて下さい。打ち砕かれ悔いる心をもって、十字架のキリストに立ち帰らせて下さい。私どもにも、平和の福音を携えて、小さな平和の使者として遣わして下さい。この世界の平和のために執り成し祈る平和の使者として下さい。
この祈り、私どもの主イエス・キリストの御名により、御前にお捧げいたします。アーメン」。
