「後悔から悔い改めへ」
エゼキエル33:10~11
マタイ26:69~27:10
主日礼拝
井ノ川勝
2025年4月13日
1.①誰の人生にも後悔することが必ずあります。後悔のない人生はないと思います。誰もが自分の過去に、後悔する思いがあります。あの時、別の選択をしていたら、私の人生は大きく変わっていたのに。あの失敗がなければ、私は別の道を歩んでいたのに。悔やんでも、悔やんでも悔やみきれない過去があります。後悔の念に捕らわれてしまいますと、心がいつも過去へ引っ張られてしまいます。将来へ向かって一歩を踏み出すことが出来なくなります。伊勢の教会で伝道していた時、教会の月報に、ある教会員が「後悔、先に立たず」という文章を綴っていました。後悔が先に立てば、後悔することはない。後悔することが後に立つから後悔ばかりをしている。この教会員も後悔する過去を引きずりながら、信仰生活を送っていたのだと思いました。
主イエスの地上の歩みを綴った福音書の中に、取り返しのつかない後悔の出来事に直面した人物がいました。ペトロとユダです。いずれも主イエスの弟子です。いずれも主イエスを裏切ることをしました。ペトロは主イエスなど知らないと三度も打ち消しました。ユダは銀貨30枚で、主イエスを祭司長、長老たちに売り渡しました。しかし、いずれも主イエスを裏切ったことの大きさに気づき、激しく涙を流しながら後悔しました。ところが、その後の歩みにおいて、ペトロとユダは対照的な歩みをしました。ペトロは立ち直り、再び主イエスの弟子として立てられました。しかし、ユダは自ら首をくくって命を絶ちました。いずれも主イエスを裏切り、激しく後悔しながら、何故、ペトロは立ち直り、ユダは自ら命を絶ったのでしょうか。
マタイによる福音書は特に、ペトロとユダの二人の弟子に注目しながら、主イエスの受難物語を綴っています。
②主イエスは弟子たちと最後の晩餐を執られた後、ゲツセマネで夜を徹して祈られました。ところが、イスカリオテのユダの裏切りにより、主イエスは捕らえられてしまいました。弟子たちは皆、主イエスを見捨てて逃げ去ってしまいました。しかし、ペトロだけが主イエスの様子を心配し、夜中、こっそりと大祭司の中庭に入って行きました。下役たちが座って、たき火にあたっており、ペトロもそこに紛れ込みました。すると召し使いの女が近寄って来て言いました。「あなたもガリラヤのイエスと一緒にいた」。ペトロは皆の前で慌てて打ち消しました。「何を言っているのか、分からない」。ペトロは門の方へ移動しました。すると他の召し使いの女が、ペトロに目を留めて言いました。「この人はナザレのイエスと一緒にいました」。ペトロは再び誓って打ち消しました。「そんな人は知らない」。しばらくして、そこにいた人々が近寄って来て言いました。「確かに、お前もあの連中の仲間だ。言葉のなまりで分かる」。ペトロは呪いの言葉さえ口にしながら誓い始めました。「そんな人は知らない」。
その時、鶏が鳴きました。ペトロは最後の晩餐の席で、主イエスの言葉を想い起こしました。「鶏が鳴く前に、あなたは三度、私を知らないと言うだろう」。ペトロは門の外に出て、激しく泣きました。ペトロが主イエスを裏切った出来事です。
ペトロに問いかけた人々は、いずれも召し使いの女、そこにいた下役たちです。何の権威も持っていません。ペトロをユダヤの議会に召喚する権威もありません。ペトロは公の法廷の場面ではなく、日常生活の平凡な場面で、三度も主イエスなど知らないと打ち消し、主イエスを裏切りました。それは私どもの日常生活にも起こることなのです。
ここで注目すべきは、ペトロに問いかけた召し使いの女の言葉です。「あなたもイエスと一緒にいた」。言い換えれば、「あなたもイエスと共にいた」。実は、この言葉は、マタイ福音書が最も大切にしている言葉です。マタイ福音書は主イエスの誕生の物語から始まっています。主の天使が神の言葉を伝えました。
「『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる』。これは『神は私たちと共におられる』という意味である」。
主イエスはインマヌエルの神、われらと共におられる神としてお生まれになりました。そしてマタイ福音書の結びも、この言葉で結ばれています。甦られた主イエスが、裏切った弟子たちを呼び集め、最後に語られた御言葉です。
「私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」。
「主があなたと共におられる」。この御言葉こそ、マタイ福音書が語る福音です。私どもへの喜びに知らせです。ところが、ペトロは、「あなたもイエスと共にいた」という問いかけ、福音に対して、「然り」「そうです」と答えられず、打ち消しているのです。「私はそんな人など知らない」。「私がイエスと共にいたなら、呪うべきことだ」。
2.①マタイ福音書の受難物語は、ペトロの記憶が土台となって生まれたと言われています。従って、一つ一つの出来事が、鮮やかに情景を思い浮かべることが出来ます。しかし、不思議です。ペトロは後に、最初の教会の中心的な指導者となりました。そのようなペトロにとって、後悔、失敗、挫折の出来事は面目の立たないことです。消し去りたい過去の出来事です。それなのに何故、自らにとって都合の悪い後悔、失敗、挫折の出来事を受難物語に残しておいたのでしょうか。ペトロの後悔、失敗、挫折は、ペトロだけでなく、私どもも経験することだからです。
ペトロの後悔は、人前で激しく泣く涙を伴うものでした。大の大人が人前で激しく泣くことなど、滅多にすることではありません。ペトロが激しく泣いた、その後悔の涙には、どのような意味が込められていたのでしょうか。最後の晩餐の席で、主イエスは弟子たちに向かって、衝撃的なことを語られました。「今夜、あなたがたは皆、一人残らず、私につまずく」。そしてゼカリヤ書の御言葉を引用して、こう語られました。
「主は羊飼いであるわたしを打つ。すると、羊の群れであるあなたがたは散らされることになる」。
主イエスのこの御言葉に断固として異議を唱えたのは、ペトロでした。
「たとえ、他の弟子たちがあなたにつまずいても、私だけは決してつまずきません」。
しかし、主イエスはペトロに語られました。
「よく言っておく。今夜、鶏が鳴く前に、あなたは三度、私を知らないと言うだろう」。
しかし、ペトロはその言葉にも納得しません。主イエスに向かって激しく答えました。
「たとえ、あなたと一緒に死なねばならなくなっても、あなたを知らないなどとは決して申しません。私はあなたに最後まで従って行きます」。
ところが、それから数時間後、ペトロは三度、「主イエスなど知らない」と打ち消しました。その直後、鶏が鳴きました。ペトロは主イエスの御言葉を想い起こし、門の外に出て、激しく泣きました。主イエスの御言葉通りのことが起こりました。主イエスの御言葉の前で、ペトロの決死の決心はいとも簡単に崩れ去りました。主イエスの御言葉の前で、主イエスを三度も打ち消し、最後まで主イエスに従えなかった自らを、激しく泣いて後悔しました。主イエスの御言葉が中心に立った時、ペトロの激しく泣く後悔が生まれました。
②それに対して、ユダの後悔はどのような後悔だったのでしょうか。ユダは夜が明けると、ユダヤの議会で、主イエスに有罪判決、死刑の判決が下り、ローマの総督ピラトに、主イエスが引き渡されたことを知りました。それを知ったユダは後悔しました。ここにも「後悔した」という言葉が用いられています。銀貨三十枚で主イエスを、祭司長、長老たちに売り渡したのはユダです。銀貨三十枚は奴隷を売り渡すお金に相当します。労働者の四日分の賃金です。ユダは主イエスを裏切りました。しかし、まさか死刑の判決が出るとは思ってもみませんでした。ユダは後悔して言いました。
「私は罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました」。
そして祭司長、長老たちに、銀貨三十枚を返そうとしました。しかし、彼らは答えました。「我々の知ったことではない。お前の問題だ」。ユダは銀漢を神殿に投げ込み、そこを離れ、出て行き、首をくくって自ら命を絶ちました。
ペトロもユダも、主イエスを裏切り、激しく後悔しました。自分の存在が引き裂かれる程の後悔をしました。しかし、その後悔の仕方には決定的な違いがありました。ペトロは主イエスの御言葉の前で、自らの罪を知り、激しく涙を流し、後悔しました。主イエスの御言葉がペトロの真ん中に立ちました。しかし、ユダはペトロのように、主イエスの御言葉の前では後悔しませんでした。主イエスの御言葉がユダの真ん中に立たなかったのです。そこに決定的な違いがありました。主イエスの御言葉の前で激しく涙を流し、後悔したペトロは、後に、再び主イエスの御言葉の立ち帰り、弟子として立ち直る道が与えられました。しかし、主イエスの御言葉の前で後悔しなかったユダは、主イエスの御言葉に立ち返ることをせず、自ら命を絶つ道を選びました。
3.①ペトロとユダとの後悔を、語り直した御言葉があります。伝道者パウロが語った御言葉です。コリントの信徒への手紙二7章8節以下です。新約326頁。伝道者パウロがコリントの教会の信徒へ書いた手紙です。
「あの手紙によってあなたがたを悲しませたとしても、今は後悔していません。確かに、あの手紙が一時的にせよ、あなたがたを悲しませたことは知っています。たとえ後悔していたとしても、今は喜んでいます。あなたがたが悲しんだからではなく、悲しんで悔い改めたからです。あなたがたが悲しんだのは神の御心に適ったことであって、私たちからは何の害も受けなかったのです。神の御心に適った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせ、この世の悲しみは死をもたらします」。
ここに繰り返し用いられる言葉があります。「後悔」と「悔い改め」です。元の言葉はギリシャ語ですが、とてもよく似た言葉です。しかし、意味するところは全く違います。共に「後から」という言葉が文頭にあります。「後悔」は「後から悔いる」。「悔い改め」は「後から向きを変える」。
伝道者パウロはコリントの教会の信徒に対して、先の手紙で、かなり厳しいことを書きました。伝道者として、コリントの教会の信徒の罪を指摘する必要があったからです。パウロが涙を流しながら書いた手紙、「涙の手紙」と呼ばれています。かなり厳しいことを書いたので、パウロは後悔をした。しかし、パウロは語るのです。
「たとえ後悔していたとしても、今は喜んでいます。あなたがたが悲しんだからではなく、悲しんで悔い改めたからです」。
自分たちの罪を悲しみながら、悲しんで悔い改めた。そのことをパウロは喜んでいる。そしてパウロは語る。
「神の御心に適った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせ、この世の悲しみは死をもたらします」。
悲しみには二種類ある。後悔には二種類ある。神の御心に適った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせる。この世の悲しみは死をもたらす。神の御心に適った悲しみとは何でしょうか。後悔しても、悔い改めて神に立ち帰ることです。この世の悲しみは後悔しても、神に立ち帰ろうとせず、自分一人で何とかしようとすることです。
「悔い改める」。この言葉は旧約聖書、新約聖書一貫して語られる重要な言葉です。聖書の中心にある福音です。主イエスの宣教の第一声もこの言葉から始まりました。
「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて、福音を信じなさい」。
「悔い改める」を漢字で言い換えると、「かいしん」となります。「かいしん」には二種類あります。心を改める「改心」。心を回す「回心」です。いくら自分が決心して、心を改めて、新しいことを始めようと決心しても、すぐに元に戻ってしまいます。私どもが日常生活で経験していることです。それに対して、心を回す「回心」は、自分で自分の心を回すのではありません。神が私どもの心を回して下さるのです。神の御言葉が私どもの心を回すのです。聖書が語る「回心」はこちらの方です。それ故、「悔い改める」という言葉には、「向きを変える」「方向転換する」「立ち帰る」という意味があります。主の御言葉によって、主に向きを変えさせていただき、主に立ち帰るのです。
②ペトロとユダの後悔、かいしんも、伝道者パウロが語ったこの御言葉と重なり合うのです。ユダは主イエスを裏切り、後悔しました。しかし、ユダは主の御言葉の前で後悔したのではありませんでした。後悔しながら、自分の力で心を改め、何とかしようとしました。その結果、自ら命を絶つことになりました。ペトロも主イエスを裏切り、激しく涙を流し、後悔しました。しかし、ユダと決定的に異なったのは、主イエスの御言葉を想い起こし、主イエスの御言葉の前で、激しく涙を流し、後悔しました。そして主イエスの御言葉が後悔したペトロの心を回し、悔い改めさせ、向きを変えさせ、再び主に立ち帰らせる道を拓いたのです。
ペトロが三度、主イエスなど知らないと打ち消した時、鶏が鳴き、主イエスの言葉を想い起こし、外に出て激しき泣き、後悔しました。その時、想い起こした主イエスの御言葉はこの言葉でした。
「鶏が鳴く前に、あなたは三度、私を知らないと言うだろう」。
ペトロは十字架につけられた主イエスを見捨てて、失意の中で故郷ガリラヤに帰り、再び漁師の仕事を始めようとしました。ところが、甦られた主イエス・キリストが、先回りして、ペトロの前に立たれ、挫折したペトロを迎えて下さったのです。そしてペトロを始め、弟子たちに語られた。
「あなたがたは行って、すべての民を弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じたことをすべて守るように教えなさい。私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」。
ペトロは「あなたもイエスと共にいた」と問われ、三度も打ち消しました。しかし、十字架にかかり、甦られた主イエスは、失意の中で故郷に帰ったペトロを先回りして迎え、ペトロに語るのです。
「私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」。
ペトロは最後の晩餐の席で、主イエスが語られたもう一つの言葉を想い起こしました。涙を流しながら後悔の涙ではなく、悔い改めの涙を流しました。
「しかし、私は復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く」。
十字架に向かわれた主イエス御自身が、主イエスを裏切り、故郷へ逃げ去って行く私を先回りして迎えて下さり、私を再び主イエスの弟子として召し、立たせて下さる。甦られた主イエスの前で、主イエスの御言葉の前で、ペトロは主イエスの御言葉によって悔い改めさせられ、向きを変えさせられ、主に立ち帰ったのです。主イエスの弟子として新たな召しを与えられ、立たせられ、遣わされたのです。
4.①新しい年度を迎えました。私ども教会の歩みを導くものは、ただ主の御言葉のみです。私は伝道者として召され、遣わされてから42年目を迎えました。ひたすら御言葉を語って来ましたが、後悔すること多くありました。しかし、その都度、主の御言葉によって打ち砕かれ、悔い改めさせられ、主に立ち帰り、主に新たな召しを与えられ、御言葉を語り続けて来ました。
伝道者にとって大きな喜びは、受洗者が与えられることです。ああ、ここに生きた神の御業を見ることが赦されます。先週の礼拝も、北陸学院の高校生が洗礼を受けられ、来週イースター礼拝にも、北陸学院の高校生が洗礼を受けられます。神の御業を目の当たりにし、喜びに溢れます。洗礼は主に立ち帰る、悔い改めの出来事です。
伝道者にとって最も辛いこと。それは共に礼拝を捧げ、主にある交わりをして来た教会員、その御家族の葬儀を行うことです。そこでも御言葉を語らなければならない。これは厳しいことです。伝道者42年の歩みにおいて、中でも厳しい葬儀は、伊勢の教会で、17歳、20歳の教会員の息子、娘さんの葬儀を行ったことです。いずれも事故で突然亡くなりました。両親にとっては後悔の思いでいっぱいです。後悔しても、後悔しても、大切なわが子の命は戻って来ない。葬儀には高校生、大学生の同級生が会堂を満たしました。そこで一体どのような御言葉を語ればよいのでしょうか。伝道者といえども、語るべき御言葉を持ち合わせていないのです。
20歳の教会員の娘さんは、大学2年生の時、春山登山で遭難し、亡くなりました。幼児の時からお母さん抱かれて、教会の礼拝に来ていました。教会の幼稚園、教会学校で育った娘さんでした。
もう一人の17歳の教会員の息子さんは、高校の卒業式を控えた夜、交通事故で亡くなりました。教会員のお母さんから電話を受け、自宅で初めて対面しました。葬儀で何を語ったのでしょうか。ただひたすら、主を憐れんで下さい。主よ、何故、このようなことが起きたのですかと、主に向かって叫び続ける説教となりました。しかし、その葬儀が終わった後、お父さんが毎週、礼拝に出席されるようになりました。そしてやがて洗礼を受けられました。その後、長老にも選ばれました。今でも長老として奉仕をされています。息子さんが高校卒業を間近にし、何故、亡くなったのかは分かりません。しかし、後悔に満ちた悲しみの中にあって、主が両親の心を主に向けさせて下さり、主に立ち帰らせて下さり、主の御前で、主の御言葉の前で、涙を流させて下さった。十字架にかかり、甦られた主イエス・キリストが、先回りをし、二人の前に立ち、悲しみの中でくずおれる二人を迎え入れて下さった。悲しみの中で主に向かって向きを変えさせられ、悔い改めさせられ、主によって立ち上がらせてもらった。そこにも主の御業が働かれた。
三十年伝道した伊勢の教会を離れる時、この御夫妻から息子さんの葬儀の時のことを想い起こす会話をしました。
②本日から受難週が始まりました。受難週の主日礼拝で、交読詩編51編を朗読しました。七つの「悔い改めの詩編」の中で、中心に立つ詩編です。その19節にこのような御言葉があります。
「神の求めるいけにえは砕かれた霊。神よ、砕かれ悔いる心をあなたは侮られません」。
私どもの後悔が主の御言葉によって砕かれ、悔い改めさせられ、主に立ち帰る道が拓かれた。それが主イエス・キリストの十字架と甦りの出来事で、私どもにも起こったのです。そして今、神の御前に立つこの礼拝で、神が求めるいけにえはただ一つです。「神の求めるいけにえは砕かれた霊。神よ、砕かれ悔いる心をあなたは侮られません」。
お祈りいたします。
「主よ、失敗し、挫折し、後悔ばかりをする私どもです。心が過去ばかりに向いてしまい、将来に向かって一歩を踏み出せないのです。しかし、私どものために十字架にかかり、甦られた主イエス・キリストが、先回りをし、私どもの正面に立ち、迎え入れて下さるのです。主の御前で涙を流させて下さい。主の御言葉によって私どもの心の向きを変えさせ、悔い改めさせ、主に立ち帰って生きる者とさせて下さい。世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいると約束された、甦られた主イエス・キリストと共に、将来に向かって一歩を踏み出させて下さい。
この祈り、私どもの主イエス・キリストの御名により、御前にお捧げいたします。アーメン」。