「後悔と悔い改め」
エゼキエル18:30~32
マタイ26:69~27:5
主日礼拝
井ノ川 勝
2024年2月4日
1.①能登半島地震から一ヶ月が経ちました。家族を失った悲しみは一層深まり、家族との思い出がいっぱい詰まった家、故郷を失った痛みは一層増しています。先の見えない長い長い避難生活は、心も体も生きる力をすり減らす日々です。先週も、被災地からの映像、報告が様々な形で伝えられて来ました。中でも私どもの心に深く刻まれた涙と言葉がありました。倒壊した家屋の下敷きになり、助け出せなかった家族に対し、「申し訳ない」と後悔の涙を流し、後悔の言葉を述べていました。「何故、家族を助けて上げられなかったのか」と、自分で自分を責めていました。その後悔の涙と言葉に触れ、私どもも心痛め、涙を流しました。
私どもの人生に、避けることの出来ないもの、絶えずつきまとうものがあります。それは後悔です。取り返しのつかない出来事が起きた時、私どもは後悔します。況してや、家族の命を失った時、悔やんでも悔やみ切れません。もう一度、取り戻したい、元に戻したいと思っても、どうすることも出来ません。もう手遅れです。過去の悲しみの出来事、過ち、失敗、挫折が、現在の私どもを苦しめます。立ち上がらせなくします。将来へ向かって心の向きを変え、一歩を踏み出すことなど出来ないのです。
②私どもは元日に起きた大震災により、時間が止まった日々を過ごして来ました。しかし、大惨事の中で、悲しみの中で、時は経過し、新しい年を迎えてから一ヶ月が経ち、2月を迎えました。来週の水曜日から受難節が始まります。主イエスの地上での最後の一週間を綴った受難物語を、福音書は多くの頁を裂いています。取り分け受難物語に集中しています。この朝、私どもが聴きましたマタイ福音書は、他の福音書に比べて、取り分け主イエスとペトロ、ユダの物語を中心として描いています。舞台の中心に立たれるのは、勿論、主イエスです。そして、主イエスの弟子であるペトロとユダが交互に舞台に現れています。マタイ福音書は、ペトロとユダを対比しながら、受難物語を展開しています。ユダの最後の場面を描いているのも、マタイ福音書だけです。
ペトロとユダ、共に主イエスの弟子でありながら、主イエスを裏切った弟子です。ペトロは三度、主イエスを知らないと否みました。ユダは銀貨30枚で主イエスを売り渡しました。ペトロもユダも、主イエスを裏切ったことを後悔しました。後悔の涙を流しました。ところが、その直後、ペトロとユダは全く異なった道を歩むことになりました。ペトロは悔い改めて、再び主イエスの弟子として再生し、立ち直りました。しかし、ユダは首をつって死ぬという自殺の道を選びました。何故、ペトロとユダは、共に主イエスを裏切るという後悔の罪を犯しながら、全く異なった道を歩むことになったのでしょうか。
2.①加藤常昭先生が昨年のクリスマスに、『慰めとしての教会に生きる』という著書を出版されました。恐らく、この本が加藤先生の最後の著書となることでしょう。私ども伝道者、教会に生きる者への遺言書でもあります。その中で特に心惹かれた文章があります。「絶望において知る慰め・絶望における信頼」。加藤先生が伝道者として絶えず問い続けた問題があった。それは、キリスト者の自殺です。
父の許で働いていた青年が、戦地から帰って来て自殺した。大学の卒業式の日、八木重吉の詩を教えてくれた友人が自殺した。若草教会で伝道していた時、教師検定試験の直前に、洗礼を受けた高校生が家出をし、教会で与っていたが行方不明になり、探しに探したが、富山で自殺をしていた。髙倉徳太郎という日本を代表する伝道者の死が自殺であったことが、弟子の伝道者が書かれた『髙倉徳太郎伝』で明らかにされた。北海道家庭学校の校長で、優れた教育者であった谷昌恒さんが消息を絶ち、自殺をされた。何故、洗礼を受け、キリスト者として生きて来た者たちが、自ら死を選ばなければならなかったのか。これは伝道者としていつも問い続けた深刻な問いとなった。この問いは私どもにも問われていることです。
主イエスが選ばれた12人の弟子。それは今日の教会の原型でもあります。主イエスの12人の弟子は皆、主イエスが捕らえられると、主イエスを見捨てて逃げ去った弟子です。その中に、主イエスを裏切り、自殺したユダがいる。それをどのように捕らえればよいのか。教会は初めからこの深刻な問題を抱えた主の群であったのです。教会はこのような深刻な問題を抱えたまま、それでも尚、主の教会として立ち続けて行くことが出来るのか。教会は今、自ら死を選ばなければならないような絶望の淵にいる者たちに対して、語るべき言葉を持っているのかどうかが、厳しく問われているのです。
②ユダは12人の弟子の中でも賢い弟子でした。主イエスから信頼され、会計係を託されました。毎日、主イエスと言葉を交わし合うことが多かったと思われます。そのようなユダが何故、主イエスを裏切り、銀貨30枚で主イエスを引き渡す企てを立てたのでしょうか。
最後の晩餐の場面で、主イエスは弟子たちに向かって語られました。
「はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている」。弟子たちは非常に心を痛めて、代わる代わる言いました。「主よ、まさかわたしのことでは」。弟子たち一人一人が主イエスを裏切ることに心当たりがあったから、主イエスの言葉に動揺しました。ユダはその時、こう答えた。「先生、まさかわたしのことでは」。他の弟子は皆、「主よ」と呼びかけた。ところが、ユダだけは「先生」と呼びかけています。ユダは主イエスに対し、「主よ」と呼びかけられない。救い主として疑っていたのかもしれません。
ユダは最後の晩餐の直後、銀貨30枚で主イエスを大祭司に売り渡しました。銀貨30枚は、旧約聖書の律法では、奴隷を売り渡す時の値段です。主イエスは奴隷の値段同然で売り渡されたことになります。ユダの企ては成功しました。そのユダが何故、自殺をしなければならなかったのか。その場面をマタイ福音書は丁寧に描いています。
ユダは主イエスに有罪の判決が下ったのを知って後悔し、銀貨30枚を祭司長たちや長老たちに返そうとして言いました。「わたしは罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました」。祭司長、長老たちは答えた。「我々の知ったことではない。お前の問題だ」。そこでユダは銀貨を神殿に投げ込んで立ち去り、首をつって死にました。
ユダは、主イエスが罪のない方だと知っていた。それ故、裁判でまさか死刑の判決が下されるとは思わなかった。十字架へ引き渡されるとは思ってもみなかった。私が主イエスを銀貨30枚で売り渡しても、すぐに保釈されると思っていた。ユダが立てた企てが、思い通りに行かずに、崩れてしまった。ユダは主イエスを裏切ったことを後悔し、首をつって自殺しました。ユダの中心には、自分の立てた企てがあり、それが思い通りに行かなかった。想定外の出来事が起きた。主イエスを十字架へ引き渡し、取り返しのつかないことをしてしまったと後悔し、自殺の道を選んだのです。
3.①他方、ユダと並んで登場するペトロはどうなったのでしょうか。最後の晩餐の席で、主イエスは弟子たちに向かって語られました。
「今夜、あなたがたは皆、わたしにつまずく。わたしを見捨てて逃げ去って行く」。
ペトロは一人立ち上がり、断固として反論しました。
「たとえ、みんながあなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません」。
しかし、主イエスは語られました。
「はっきり言っておく。あなたは今夜、鶏が鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう」。
ペトロは力を込めて語ります。
「たとえ、あなたと共に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」。
最後の晩餐の後、主イエスは夜の闇の中で、捕らえられてしまいました。弟子たちは皆、主イエスを見捨てて逃げ去りました。しかし、ペトロ一人は、主イエスの様子を心配し、大祭司の屋敷の中庭まで行き、様子を探りました。そこにいた下役たちと一緒に座って、たき火にあたりました。そこへ一人の女中が近寄って来て言いました。「あなたもガリラヤのイエスと共にいた」。
ペトロはそれを打ち消して言いました。「何のことを言っているのか、わたしには分からない」。
ペトロが立ち上がり、門の方へ行くと、他の女中がペトロに目を留めて言いました。「この人はナザレのイエスと共にいました」。
ペトロは再び打ち消しました。「そんな人は知らない」。
しばらくして、そこにいた人が近寄って来て言いました。
「確かに、お前もあの連中の仲間だ。言葉のなまりで分かる」。
ペトロは呪いの言葉さえ口にしながら誓いました。私が偽りの言葉を語っているのなら、呪われてもよい。「そんな人は知らない」。
するとすぐ鶏が鳴いた。ペトロは主イエスの言葉を想い起こした。「鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」。
ペトロは門の外へ出て、激しく泣きました。最後まで主イエスに従いますという自分の誓いを貫くことが出来ず、主イエスが予告された通りに、主イエスを裏切ってしまった。ペトロは後悔の涙を激しく流しました。
ペトロの信仰の中心にあったのは、「主イエスと共にいる」ことでした。「主イエスと共にいる」ことが喜びでした。生活の拠り所でした。弟子としての召命の土台でした。それ故、主イエスに誓ったのです。「最後まで私はあなたと共にいます。あなたと共に死にます」。ところが、公の裁判の場所ではなく、日常生活の場所で、しかも権力を持った人からではなく、女中という何の権力もない者から三度も問われました。「あなたもイエスと共にいた」。ペトロは三度も打ち消した。「そんな人など知らない」。自分の信仰の最も大切な言葉、「主イエスと共にいる」ことを打ち消したのです。しかも大切な主イエスに向かって、「そんな人など知らない」と打ち消したのです。ペトロのつまずきは、日常生活のささいな場所で、ささいな言葉につまずきました。それは私どもにも起こるつまずきです。
②ユダも、ペトロも、主イエスを裏切り、後悔の涙を流しました。しかし、同じ過ちを犯しながら、ユダが自殺の道を選んだのに対し、ペトロは何故、後に弟子として立ち直ることが出来たのでしょうか。再生の道へと導かれたのでしょうか。
ユダの中心にあったのは、「自分の企て」でした。自分の企てが思い通りには行かなかった。想定外であった。それ故、後悔し、自殺の道を選んだ。しかし、ペトロの中心に立っていたのは、「主イエスの言葉」でした。「あなたは三度わたしを知らないと言う」。主イエスを裏切った時、取り返しのつかないことをしてしまった時、真っ先に主イエスの言葉を想い起こした。主イエスの言葉を想い起こし、激しく後悔の涙を流した。
しかし、ペトロは後に、最後の晩餐の席で語られたもう一つの主イエスの言葉を想い起こしました。
「しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く」。
ペトロは主イエスを裏切り、弟子として挫折し、失意のまま故郷ガリラヤへ逃げ帰って行きました。ところが、十字架につけられ、死なれた主イエスが甦り、先回りして、挫折したペトロの前に立ち、自分の懐に迎え入れたのです。その時、ペトロは忘れていた、この主イエスの言葉を想い起こしました。
「しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く」。
主イエスのこの言葉が、ペトロの後悔の涙を悔い改めの涙に変えたのです。
「後悔先に立たず」と言われます。悔いが先に立ったら、後悔することはない。悔いは後に立つから後悔するのです。しかし、取り返しのつかない後悔の先に、甦られた主イエスが先回りして立って下さった。甦られた主イエスは、11人の弟子たちをガリラヤの山へ呼ばれました。12人ではなく、ユダを欠いた11人の弟子。そこに挫折し、傷ついた主の群があります。しかし、甦られた主イエスは挫折した弟子たちを、呼び出されます。そして再び主の弟子として召し、立たせて下さるのです。
「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」。
そして甦られた主イエスは最後にこう結ばれた。
「見よ、わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」。
「主イエスと共にいる」ことを三度も打ち返したペトロ。しかし、裏切り、挫折したペトロに向かって、甦られた主イエスは語られるのです。
「見よ、わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」。
4.①ユダも、ペトロも、主イエスを裏切り、後悔しました。しかし、ユダは後悔のままでしたが、ペトロは主イエスの言葉によって、後悔から悔い改めへと導かれました。後悔と悔い改めはどこが違うのでしょうか。後悔は私どもの心が過去にひっぱられることです。過去の悲しみの出来事、過ち、失敗、挫折に心が引っ張られ、現在の私どもをがんじがらめにします。将来へ心を向けて、歩み出すことが出来なくなります。悔い改めるは、改心、心を改めることとは違います。心を改める改心は、自分がどんなに頑張っても、また元に戻ってしまいます。「かいしん」は、もう一つあります。心を回す回心です。向きを変えることです。方向を転換することです。しかし、私どもが自分で心を回すのではありません。主イエスが私どもの心を回して下さるのです。過去に引っ張られる心を、将来へと向けさせて下さる。そして主と共に将来へ一歩を踏み出すのです。しかし、そのためには私どもの過去を清算しなければなりません。私どもの悲しみの出来事、過ち、失敗、挫折を解決しなければ、将来へ向かって一歩を踏み出すことは出来ません。
吉祥寺教会の竹森満佐一牧師が説教で、しばしば「後悔」と「悔い改め」を語りました。後悔はするけれども、悔い改めない方が教会員にいたからでしょうか。
私どもは後悔という病に罹ってしまうと、心塞ぎ、立ち上がれず、抜け出せなくなります。どうしたら後悔という病から解き放たれるのか。私どもは後悔しても、悔い改めることはしない。それでは、悔い改めはどうしてできるのでしょうか。竹森牧師は語られます。「それは、ただ誰かに愛されることによるほかはないのであります。誰から自分のために死んでくれるほどに愛してくれることが起こらないかぎり絶望なのです。自分の力ではどうにもならないのであります。われわれの絶望は募るばかりであります」。
②主イエスを裏切り、主イエスの弟子としての過去の失敗、挫折に捕らえられて、漸く故郷ガリラヤに戻ったペトロに、甦られた主イエスは先回りして、後悔に満ちたペトロの前に立たれ、ペトロを迎え入れました。その時、ペトロは主イエスのこの言葉を想い起こした。
「しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く」。
そして甦られた主イエスの懐の中で、主イエスが十字架の上で上げられた絶望の叫びの意味を知ったのです。
「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」。
十字架は神から見放された場所です。何の救いもない、絶望の極みです。しかし、その十字架に神の御子イエスが立って下さった。取り返しのつかない、後悔に満ちた私どもの悲しみ、過ち、失敗、挫折、絶望を全て、神の子イエスが十字架で担って下さった。自らの命と引き換えに、自らの命が滅びても、絶望の極みで倒れ伏し、後悔の涙、絶望の涙を流す私どもを、悔い改めさせ、生かそうとされたのです。どんなに私は神から見棄てられた、絶望の極みに落ちたと思えても、そこに私どもの絶望を背負われた十字架の主イエスが立って下さる。そして神によって甦らされた主イエスは、「見よ、わたしは世の終わりまで、いつもあなたと共にいる」と語りかけ、将来へ向けて共に一歩を踏み出させて下さるのです。
説教の冒頭で、加藤常昭先生の文章を紹介しました。「絶望において知る慰め・絶望における信頼」。この言葉は、過去の過ちに引っ張られ、後悔に満ち、立ち直ることの出来ない伝道者に向かって、ルターが語った言葉です。絶望におして知る十字架の主イエスの慰めです。慰められた絶望です。
5.①先週の月曜日、石川地区の牧師会が金沢南部教会で行われました。地震で被災された輪島教会の新藤豪牧師が車でいつもの倍の時間をかけて出席されました。その牧師会で新藤牧師と共に学んだのが、近藤勝彦先生の『キリスト教教義学』です。そこに書かれてあった言葉が心に刻まれました。
「キリストの出来事以前に起きたあらゆる人類の悲惨も、それ以後に起きた大災害や戦火や虐殺の悲嘆も、これから起きるかもしれない自然的、ならびに人為的な巨大な破壊の悲劇の予感も、イエス・キリストの苦難の中に、つまり神の犠牲の中に取り込まれ、その中で踏み直され、贖われる」。
私どもが担い切れない、取り返しのつかない、後悔に満ちた過去の悲しみ、過ち、失敗、挫折、絶望を、主イエスが担い、踏み直して下さる。そして私どもを悔い改めさせ、前へ向き直させ、共に歩んで下さる。悔い改める、それは主に立ち帰って、主と共に生きることです。後悔の涙を悔い改めの涙へと方向転換して下さる甦られた主イエス・キリストが、私どもと共にどこまでも、どんなことがあっても共にいて、共に生きて下さる。それこそが、甦られた主イエスが語られたこの言葉です。挫折した弟子たちを立ち上がらせた言葉です。
「見よ、わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」。
お祈りいたします。
「私どもには取り返しのつかない過去の過ちがあります。自分で背負い切れない失敗があります。後悔に満ちて、前へ向いて立ち上がることが出来ません。その痛み、悲しみを知っておられる主イエスが、十字架という絶望の極みに立たれ、全てを担って下さったのです。後悔に満ちた私どもの前に、甦られた主イエスが立たたれ、悔い改めさせ、前へ向かって共に一歩を踏み出させて下さるのです。主よ、絶望において知るあなたの慰めに生かして下さい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる、この慰めに生かして下さい。後悔の涙から悔い改めの涙へと向きを変えさせて下さい。
この祈り、私どもの主イエス・キリストの御名により、御前にお捧げいたします。アーメン」。