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「復活の主から託された使命に生きる」

イザヤ52:7~12
マタイ28:16~20

主日礼拝 教会創立記念礼拝

井ノ川 勝

2023年5月7日

00:00 / 38:39

1.①先週、長く共に礼拝生活を続けて来ました吉田正孝さんが、82歳で逝去されました。訃報を聞かれ、驚かれた方も多かったと思います。4月2日の受難週礼拝を共に捧げ、言葉を交わしたばかりであったからです。その後、体調を崩され、入院をされ、末期の癌であるとの宣告を受けられました。コロナ禍で面会することに制限がある中で、私も家族の一員となって面会することが出来ました。教会からの祈りを届け、讃美歌を届けることが出来ました。死に打ち勝ち、甦られた主イエス・キリストが、生きる時も死ぬ時も、正孝さんをいのちの御手の中に置いて下さいますからね、と語りかけましたら、正孝さんは頷いておられました。それから一時間半後、息を引き取られるとは思ってもみませんでした。


 前夜祈祷会、葬儀で、吉田正孝さんの人生の歩み、信仰の歩みを辿りながら、そこに神の摂理の御手の働きがあったことを実感しました。輪島市門前でお生まれになった正孝さんは、中学を卒業後、大阪で左官の見習いに入られました。中学を卒業したばかりの青年が、大人社会、職人の世界に身を置いて生きる。これは並大抵なことではなかったと思われます。正孝さんは、どんなことがあっても揺るがない人生の教科書が必要だと実感するようになりました。そこで聖書の通信講座の学びを2年間、労働で疲れた体でありながら夜眠る前と、月2回の休みの日に行いました。やがて見習い期間が終わり、金沢に戻られ、和江さんと結婚され、左官業を始められた。1974年の正月、余りにも自分の願いと掛け離れた生活をしていることを実感し、志を新たにして生活を始めようと思った。ところが風邪で一週間寝込んでしまった。仕事にも行けず、この十数年の自らの歩みを振り返った時に、自分の弱さと罪深さを実感し、恐ろしくなった。その時、一人で聖書読んでいるだけでは駄目で、共に祈り、共に神を信じる群れが必要であることを実感した。その時、以前、金沢教会の前の建物で工事をしていた時、日曜日、教会員が礼拝を捧げた後、笑顔で礼拝堂から出てくる姿を見たことを思い出した。神さまを礼拝したら、あのように笑顔になれる。私もこの教会の礼拝の群れに加わりたいと思った。1月13日の日曜日の朝、正孝さんは和江さんに、教会に行こうと誘われた。和江さんはいつもであったら、どうぞあなた一人で行ってらっしゃい、私は家にいますからと答えるのに、その日に限って断れない何かがあった。そして1974年6月2日のペンテコステ、聖霊降臨日に、正孝さんと和江さんは夫婦共に洗礼を受けられました。


 正孝さんは自らの信仰の歩みを振り返り、こう綴っています。今から100年前、ウィン宣教師が福音を携えて、日本、金沢に来られなければ、金沢教会は誕生しなかった。金沢教会が誕生しなければ、私はキリストと出会っていなかった。妻の和江さんと共に教会生活を送ることもなかった。娘の和美さん、息子の正仁さんに幼児洗礼を授けることもなかった。北陸学院で働くこともなかった。全ては神の導きであった。ウィン宣教師の墓前で、愛唱讃美歌「慈しみ深き、友なるイエスは」を、涙を流しながら讃美し、主に感謝を捧げました。



②本日は教会創立142周年の記念礼拝、ウィン宣教師召天記念礼拝を捧げています。午後には、野田山のウィン宣教師墓前祈祷会が行われます。北陸伝道にとって、金沢教会の歩みにとって、とても大切な日です。北陸伝道と金沢教会の歩みは、日本伝道を志したトマス・ウィン宣教師とその妻イライザ・ウィンが、アメリカ北長老教会によって日本に派遣されたことから始まりました。ウィン宣教師26歳、イライザ夫人24歳でした。当時、日本は世界から遅れをとっていた後進国でした。しかし、その日本人にもキリストを伝えたい、キリストによって救われてほしい、という篤い祈りと志がありました。そのために安定した生活を捨て、様々な危険と困難が待ち受けているにもかかわらず、遙か遠い、まだ見たことのない日本を目指して旅立ちました。ウィン宣教師とイライザ夫人を日本伝道に送り出した背後には、実に多くのアメリカの教会の牧師、信徒たちの祈りと献金の捧げ物があったことを忘れてはなりません。自分たちの日本伝道への幻を、若き宣教師夫妻に託したのです。 


 宣教師たちはまず横浜に上陸し、横浜から日本の各地へ、伝道へと派遣されました。ウィン宣教師夫妻が横浜に上陸したのは、1877年(明治10年)12月26日でした。遣わされるそれぞれの地がまだ伝道の未開拓の地でした。ウィン宣教師夫妻に示された地は、北陸・金沢でした。ウィン宣教師は石川県中学師範学校、後の第四高等学校の英語と理科の教師として遣わされました。しかし、目的は北陸の地に、キリストを伝えることでした。


 金沢を目指して旅立ったのは、1879年(明治12年)9月23日でした。しかも乳飲み子を抱えての旅でした。当時はまだ鉄道の整備がなされていませんでした。横浜から金沢への旅は困難を極めました。敦賀に辿り着いた時、海を眺めながらウィン宣教師は呟きました。「ここは世界の地の果てではあるまいか」。敦賀港から定期便に乗って金沢に向かいました。ところが海は大しけで、ウィン宣教師夫妻の大切な品が海の中に吹き飛ばされてしまいました。伝道用の小冊子、衣類、結婚記念品を失いました。金石港の近くに辿り着いても、しけのため着岸できず、3日間待たされました。天候が回復しない中、舟に乗り換えて、逆巻く波頭を越えて、漸く上陸しました。ウィン宣教師夫妻が金沢に足を踏み入れたのは、1879年(明治12年)10月4日でした。金石港の近くに、ウィン博士上陸記念碑が建てられています。翌日、長町の住居で最初の礼拝が捧げられました。こうして北陸伝道の第一歩が踏み出されました。


ウィン宣教師夫妻を、日本伝道、北陸伝道へと駆り立てたものは何であったのでしょうか。それはご復活された主イエス・キリストが弟子たちに向かって語られたこの御言葉を、ウィン宣教師夫妻も聴いたからであったと思われます。ご復活された主イエス・キリストが語られた大宣教命令と呼ばれています。キリスト教会の伝道の歩みは、この主イエス・キリストの大宣教命令から始まりました。


「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。見よ、わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」。


 「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」。この「すべての民」の中に、日本人もいる、北陸に生きる日本人もいる。ウィン宣教師夫妻は、ご復活された主イエス・キリストから日本伝道、北陸伝道の召しを受け、遣わされたのです。



2.①私はいつもこのご復活された主イエス・キリストの御言葉に触れますと、めまいがします。ここで主イエスは弟子たちに向かって、ガリラヤで伝道しなさい。同胞の民イスラエルの民に伝道しなさいとは語られませんでした。すべての民をわたしの弟子にしなさいと語られました。ご復活の主イエスは世界伝道の幻を抱いておられた。そして世界伝道の幻を弟子たちに託されたのです。これは驚くべきことです。


 しかも世界伝道の幻を託された弟子たちは僅か11人でした。皆、主イエスが十字架につけられると、主イエスを見捨てて逃げ去った弟子たちです。主イエスがお選びになった弟子は12人でした。これは共同体が成り立つ数でした。ところが、ユダが主イエスを売り渡し、自殺してしまったので、一人欠けているのです。弟子たちの群れに欠けがありました。弟子たちの伝道の体制がまだ整っていないのです。しかし、ご復活された主イエスは、欠けのある11人の弟子たちをガリラヤの山へ招かれました。弟子たちがご復活された主イエスとお会いしたのは、この場面が初めてでした。


弟子たちはご復活された主イエスの御前でひれ伏し、礼拝を捧げました。しかし、疑う者もいました。11人の弟子たちの内、2,3人の弟子たちが、十字架につけられ死なれた主イエスがご復活されたことを疑ったのではありません。「弟子たちはイエスに会い、ひれ伏した。そして疑った」と訳すことも出来ます。そういたしますと、ご復活された主イエスの御前でひれ伏し礼拝した11人の弟子たち全てが、目で見ながらも、ご復活された主イエスを疑ったことになります。主イエスが選ばれた12人の弟子の一人が欠けただけでなく、残った11人の弟子たちもご復活の主イエスを疑う、不信仰な欠けだらけの弟子の群れであったのです。


ところが、ご復活された主イエスは欠けだらけの弟子に、自ら近寄って来られました。そしてこの欠けだらけの弟子の群れに、世界伝道を託されたのです。「すべての民をわたしの弟子にしなさい」。何という驚きでしょうか。何という無謀なことを、ご復活された主イエスは弟子たちに託されたことでしょうか。この欠けだらけの弟子こそ、今日の私ども教会であるのです。



②私どもの教会はいつも伝道する人員が揃っているわけではありません。伝道する体制が整っているわけではありません。いつも欠けがあるのです。長老に欠員がある時もあります。ご復活の主イエスがウィン宣教師夫妻に北陸伝道を託された時も、強固な伝道一団が北陸に遣わされたのではありません。ウィン宣教師とイライザ夫人のたった二人です。「ここは世界の地の果てではあるまいか」とウィン宣教師が呟いた北陸伝道に、ご復活の主イエスが託したのは、ウィン宣教師とイライザ夫人の二人だけであったのです。ご復活の主イエスから遣わされたこの二人から、北陸伝道が始まりました。


 私どもは主に訴えます。人員が揃わないと伝道出来ません。体制が整なわないと伝道出来ません。しかし、どのような状態になったら、愈々伝道の体制、人員が整ったと言えるのでしょうか。ご復活の主イエスはそのような考え方はなさいません。ご復活の主イエスは欠けだらけの弟子たちに命じられるのです。


 わたしは天と地の一切の権能を、父なる神から授かり、それを今、あなたがたに託す。神の権能とは何でしょうか。あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にすることです。主イエスの弟子にすることは、父と子と聖霊の名によって洗礼を授けることです。主イエスから託された福音を伝えることです。伝道がどんなに困難であっても、洗礼を受ける者がなかなか与えられなくても、語っても語っても福音を受け入れてもらえなくても、しかし見よ、わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。ご復活の主イエス・キリストが世の終わりまで、いつもあなたがたと共におられる。ここにすべての民をわたしの弟子にする世界伝道の唯一の支えがあるのです。それ故、ウィン宣教師とイライザ夫人二人だけでも世界伝道は始めることが出来る。欠けだらけの弟子たちの群れ・教会であっても、世界伝道は始めることが出来る。



3.①ウィン宣教師、イライザ夫人が金沢で伝道を始めてから半年後の1880年(明治13年)4月1日、7名の受洗者が与えられました。最初の洗礼式、聖餐が行われました。浄土真宗の地盤である金沢で洗礼を受け、キリスト者となって生きることは、命懸けのことでした。その年の9月には、信徒13名が連著して、「金沢教会設立願」を日本基督一致教会中会に提出しました。伝道開始から僅か1年後のことです。伝道開始から僅か1年で、教会建設の志が生まれた。これは異例の早さであり、驚くべきことです。北陸伝道は教会建築を目指していました。それだけウィン宣教師、イライザ夫人の北陸を愛する愛、その地に生きる日本人への福音伝道に情熱と言葉に力があったということです。更に、その土台には、「見よ、わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と語られたご復活の主イエス・キリストがおられたからです。「金沢教会設立願」には、13名の信徒の北陸伝道、金沢教会建設の篤い志と祈りが込められています。


「昨年の明治12年、金沢でキリスト教伝道が始まり、講義所に集められ、遂に主の大いなる恵み、聖霊の感化により、我らは生まれながらの罪人であることを、神の面前で告白し、イエス・キリストの名によって、ウィン宣教師より洗礼を受けました。これからは主の栄光をこの地に輝かし、主の教えを広く人々に知らせたいと願います。我ら少数の信者であるけれども、主の助けをいただいて、金沢の町にキリストの名によって、教会を建設することを願い申し上げます」。


 そして翌年1881年(明治14年)5月1日、大手町の狭い部屋で、金沢教会建設式を行いました。この日が金沢教会創立記念日となりました。金沢教会建設式に出席した信徒は19名。5名の洗礼式が行われ、長老1名、信徒1名の按手、任職式が行われました。教会を建設することは教会堂を建てることではありません。御言葉を語る伝道者を立て、教会を牧会する長老、執事を立てることです。本日も長老と執事の按手、任職式を行いました。教会創立記念日より142年間、金沢教会は長老を立て続けて来ました。そのことが教会建設にとって欠くことの出来ないことだからです。



②ウィン宣教師とイライザ夫人は、20代、30代、40代と最も生気溢れる命を、北陸伝道と金沢教会建設のために捧げて下さいました。しかし更に、私がウィン宣教師に感銘を受けるのは、人生の最晩年を北陸伝道と金沢教会のために捧げて下さったことです。金沢を離れた後、大阪で伝道され、更に満州に渡られ、大連で伝道をされました。新しい伝道地を求めて、大連を離れた直後、イライザ夫人は台所で突然倒れ、急逝されました。59歳でした。ウィン宣教師はその後、隠退され、アメリカに帰国されました。しかし、ウィン宣教師の伝道の志は、日本、北陸、金沢にありました。このように綴っています。


「しかし、私の心はやはり日本にあった。それでどうしても日本に来ねばならないと思い、青年の時おのが生涯を日本に捧げようと覚悟した通りに、生命のある限りは日本におらねばならぬと考えて、昨年6月また来朝した。この国にある間は、私は不肖ながら日本のために救いの道を宣伝したい。少数の者のためにでもよいから伝道したい。どうか私の宣べ伝えたことを研究し信じていただきたい。これが私の願いである」。


 ご復活の主イエス・キリストの大宣教命令を新たに聴かれたのです。「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」。ウィン宣教師が再び金沢に来られ、在住されたのは、1930年(昭和5年)10月でした。ウィン宣教師79歳でした。翌年1931年(昭和6年)2月8日の主の日、その日は吹雪の寒い朝でした。ウィン宣教師は金沢教会の礼拝説教者として立つために、会堂の最前列の椅子に着席していました。会衆と共に讃美歌を歌い、司式者の聖書朗読と祈りに耳を傾けていました。その祈りが終わろうとしていた時に、ウィン宣教師は突然倒れ、息を引き取られました。手には礼拝で語られる予定であった説教原稿が握られていました。説教題は「イエスの奇跡」、聖書はヨハネ福音書の結びの言葉、20章30~31節でした。


「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであることを信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである」。


 ウィン宣教師、地上での最後の説教となりました。翌週の主日礼拝で代読されました。その説教の結びはこう綴られていました。伝道者魂が注がれた説教の結びです。


「なにゆえ、私が今朝この説教をいたすか。それは私はこの説教を聴いて誰でもイエスを信じ、限りなき生命を受けなさるお方があるならば、どんなに嬉しかろうと思うからである。私はここにイエスを救い主と信じなさるお方があると信ずる。そのお方に勧める。あなた方の今なすべきことはイエスにあなた御自身を捧げ、そして主に救いを祈ることである。しからばヨハネの言葉が真理であることを経験されるのである。私が経験しているように、あなた方も同じ経験をせられるように願ってやまぬ。主御自身が語られたお言葉の中に、『我に従う者は・・生命の光を得べし』ということがある。


 信じている人はこの肉眼で美しい景色を見るように、心眼で限りなき生命を見ることができる。『生命の光を得べし』とあるが、あなた方はこの生命の光を有しておられるかどうか。何とぞ、ヨハネの言葉をお受け下さい。そして主イエスをお信じなさい。これは私の衷心からの願いである」。



4.①ご復活の主イエス・キリストの大宣教命令、「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたすべてを守るように教えなさい。見よ、わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」。


 この主イエスのご命令は、言い換えれば、ご復活の主イエス・キリストから使命を託されて、遣わされて生きることです。ここに私どもの生き方の土台があります。私ども一人一人は、キリストのご復活の証人として、この日本で、北陸で、キリストは生きておられることを証しする使命を託されて、遣わされて生きているのです。ウィン宣教師も、イライザ夫人も、金沢教会142年の歴史を生きた伝道者も、長老も、信徒も、吉田正孝さんも、そして私ども一人一人も、ご復活の主イエス・キリストから使命を託されて、遣わされて生かされているのです。



 お祈りいたします。


「欠けだらけで、不信仰な主の弟子たちです。しかし、ご復活された主イエス・キリストは私どもを世界伝道へと遣わされます。すべての民をわたしの弟子にしなさい。見よ、わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。ご復活された主イエス・キリストの大宣教命令に押し出されて、私どもはキリストの復活の証人として、家庭へ、職場へ、学校へ、社会へと遣わされて生きるのです。私どもの存在を通して、主イエス・キリストは生きておられることを証しすることが出来ますように。主の伝道の器として、私どもを用いて下さい。


 この祈り、私どもの主イエス・キリストの御名により、御前にお捧げいたします。アーメン」。

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