「復活の主と共に道を進め」
詩編119:120~136
ルカ24:13~27
主日礼拝
井ノ川 勝
2024年4月7日
1.①昨年1月、カトリックの信仰に生きた作家、加賀乙彦さんが93歳で逝去されました。加賀さんは60歳を前にして洗礼を受けられました。洗礼を受けられた後、何故、私が洗礼を受けるようになったのかを、カトリックの聖堂で講演をされました。「キリスト教への道」という題の講演です。
その中で、こういうことを語られています。ある会で、プロテスタントの神学者・北森嘉蔵牧師と一緒になった。北森牧師は私の小説の愛読者でもあった。その時、北森牧師からこう言われた。
「日本人は山ばかり眺めていて、ちっとも登り始めんのです。しかし信仰は登り始めること、つまり一歩を踏み出すことなんです」。丁度、自分の聖書の読み方に限界を感じていた私ははっとしたというのです。山ばかり眺めていた私の背中を押した言葉となったというのです。
山ばかりを眺め、あれこれ思案して、山登りの知識は豊かになっても、山登りは始まりません。信仰は登り始めること、一歩を踏み出すことです。問題は、どうしたら一歩を踏み出すことが出来るのかです。
3月31日の主の日、主イエス・キリストのご復活を、多くの方々と共に、お祝いすることが出来ました。主イエス・キリストは甦られ、生きておられる。復活祭の福音を聴きました。甦られた主イエス・キリストに導かれて、私どもは新しい年度の教会の歩みを始めようとしています。
②主イエス・キリストの甦りの出来事から教会の歩みは始まりました。しかし、主イエス・キリストの甦りの出来事は、多くの人の躓きとなりました。疑いの的となりました。主イエス・キリストの甦りの出来事は、私どもの生き方とどのように関わるのでしょうか。そのことが最も明確に、生き生きと語られている御言葉が、今朝、私どもが聴いたルカによる福音書24章13節以下の御言葉です。エマオへ向かう二人の弟子に、甦られた主イエス・キリストがお会いした物語です。この物語は、教会に生きる私ども一人一人が、自分たちにも起きた出来事として愛して止まない物語となりました。
主イエスが甦られた日の夕べ、日曜日の夕べ、エルサレムからエマオへ向かう二人の弟子に、甦られた主イエス・キリストが現れました。その時のことを、この一句で言い表しました。
「二人の弟子が話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた」。
主イエスの甦りの出来事とは何か。最も明確に、生き生きと言い表している御言葉です。二人の弟子は、主イエスが甦られた朝、エルサレムにいました。そこで墓を訪ねた婦人たちから聞きました。「主イエスは甦られ、生きておられる」。しかし、二人の弟子は、主イエスが甦られたことを信じることが出来ませんでした。疑った。その話題を論じ合いながら、エマオへの地を歩いて時、甦られた主イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められたのです。
主イエスが本当に甦られたのか。それを確かめるために、自分たちの方から主イエスを探しに行ったのではないのです。主イエスの甦りを証明するために、書斎に綴じ込もって、様々な文献を読みあさったのではないのです。甦られた主イエスの方から近づいて来て、一緒に道を歩き始めて下さるのです。私どもと共に道を歩いて下さる。これこそが、主イエスの甦りの出来事であったということです。
カトリックの信仰に生きた画家ルオーが、この場面の絵を描いています。エマオへ通じる一本の真っ直ぐな道を、三人が歩いています。その後ろ姿を描いたものです。真ん中に甦られた主イエスがおられる。その両横に二人の弟子がいます。一人はクレオパ、もう一人の名は記されていません。しかし、ルオーはもう一人を女性として描いています。クレオパの妻として描いています。甦られた主イエスと語り合いながら、道を歩く二人の弟子が描かれています。
2.①甦られた主イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。ところが、二人の弟子の目は遮られて、主イエスだとは分かりませんでした。二人は暗い顔をして話し合いながら、重い足を引きずって歩いていました。甦られた主イエスはその話し合いの輪の中に加わり、共に歩き始めました。何故、二人の弟子は暗い顔をしていたのでしょうか。
この日の朝、エルサレムにいた二人の弟子は、主イエスの墓を訪ねた婦人たちから聞きました。「主イエスは甦られ、生きておられる」。しかし、二人の弟子は主イエスが甦られたことを信じることが出来ませんでした。主イエスの甦りを疑った。何故でしょうか。それ以上に重くのしかかっていたのが、主イエスが十字架で亡くなった出来事でした。十字架の死の現実の重さでした。二人は語ります。
「主イエスは神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。私たちはこの方こそが、イスラエルを解放して下さると望みをかけていました。それなのに、私たちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするために引き渡し、十字架につけてしまったのです」。
十字架につけられるということは、神に審かれ、神から見棄てられ、神に呪われるという救いようもない出来事です。そのような十字架の死を死なれた主イエスが、死人の中から甦られたと信じることなど出来なかったのです。主イエスの十字架の死の出来事は、二人の弟子が歩んでいた道が閉ざされる出来事であったのです。
死は私どもの歩んでいた道を閉ざします。共に歩んでいた家族、信仰の仲間の死、私どもの先を歩んでいた恩師の死。死の出来事は、私どもの歩んでいた道を閉ざします。その先の道が見えなくなります。
②説教の冒頭で紹介した作家。加賀乙彦さんは、元々は東京拘置所で、死刑囚、無期懲役囚と面会する精神科医でした。そこで一人の死刑囚と出会います。一流の大学を出て、知的で、文学を愛し、聖書も貪るように読み、北森嘉蔵牧師の『神の痛みの神学』も愛読している。母の執り成しの信仰により、服役中にカトリックの洗礼を受けました。他の死刑囚と違って、死との向き合い方が異なっている。そのことに加賀さんは興味を持つようになります。しかも自分と同じ年です。その死刑囚を題材として、小説『宣告』が書かれました。加賀さんは語ります。この死刑囚との出会いもまた、加賀さんを洗礼へ導く出来事となりました。
「私どももある日、突然、死の宣告を受ける。死が突然やって来る。その時、私どもの歩んでいた道は突然閉ざされてしまう」。その意味で、私どもは誠に不安定で、危うい道を歩んでいることになります。
しかし、そのような私どもに、死に打ち勝たれた、甦られた主イエス・キリストが近づき、共に道を歩んで下さるのです。甦りの主イエスが共に歩まれることにより、新しい道を拓いて下さるのです。
二人の弟子は信仰の急所を突くような言葉を語っています。
「ところが、仲間の婦人たちがわたしたちを驚かせました。婦人たちは朝早く墓へ行きましたが、墓の中は空っぽで、主イエスの御遺体を見つけられませんでした。そこに天使が現れ、告げました。『主イエスは甦って、生きておられる』。ペトロを始め、仲間の者たちが何人か墓へ行ってみたのですが、墓の中は空っぽで、主イエスとお会いすることは出来ませんでした」。
主イエスは甦られた。それは墓の中が空っぽであるだけでは、確かではないということです。甦られた主イエスとお会いしてこそ、主イエスは甦られた出来事が確かであると言えるということです。エマオへ向かう二人の弟子も、「主イエスは甦って、生きておられる」という知らせは聞いた。しかし、甦られた主イエスとお会いしていない。いや、二人の弟子は甦られた主イエスとお会いしているにもかかわらず、目が遮られて、そのお方が甦られた主イエスだとは分からなかった。それ故、暗い顔をし、重い足を引きずりながら道を歩いていたのです。
私ども一人一人は、それぞれ道を歩いて生きて来ました。自分の力で、自分の能力で道を切り拓き、歩んで来ました。道と途上で、様々な出来事に直面し、一人で嘆き、苦しみ、悲嘆に暮れ、涙を流し、頭を抱え込み、立ち往生して来ました。しかし、甦られた主イエス・キリストが御自身が私どもに近づいて来られ、私どもと共に歩んで下さったのです。あの場面も、この場面も、私一人が思い煩っていたのではない。絶望の叫びを上げていたのではない。甦られた主イエスが共におられたのです。ただ私どもの目が遮られて、甦られた主イエスが見えなかっただけなのです。
3.①道を歩きながら、主イエスは嘆かれました。
「ああ。物分かりが悪く、心は鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち」。
物分かりが悪い、愚かである。私どもの愚かさはどこに現れるのか。ひとえに、心が鈍い、鈍感であることです。甦られた主イエスが近づき、共に歩んで下さっておられるにもかかわらず、そのお方が甦られた主イエスであることに気づいていない。見えていない。そして主イエスが甦られ、生きておられることを信じようしない。疑ってばかりいる。主イエスが繰り返し語られた御言葉の出来事、主イエスの甦りの出来事が、今、目の前で起こっているのもかかわらず、それを信じようとしない。そのような鈍さが私どもにはあります。
説教セミナーで加藤常昭先生が何度も繰り返された御言葉があります。この御言葉は、渡辺善太牧師から何度も聞かされた御言葉であるということです。説教者として忘れてはならない御言葉です。詩編119編130編の御言葉です。
「御言葉打ち開くれば光を放ちて、愚かな者をさとからしむ」。
私どもの愚かさ、鈍さが打ち砕かれるのは、私どもが御言葉をどう理解したかではない。御言葉自身が開かれ、光を放って下さる時です。
ある神学者が説教学講義でこのようなことを語っています。説教者として身につまされることです。
「何故、説教が退屈なのか。何故、会衆は退屈な説教に、眠ってしまうのか」。
説教の言葉が自分とは関係ないと思ってしまうからだ。自分に向かって語られている言葉であれば、退屈はしないし、居眠りはしないというのです。本当にその通りです。聖書の言葉をいくら説明しても、この御言葉はあなたに向かって語られた御言葉なのだと告げられなければ、御言葉は届かないのです。
②主イエスは歩きながら、聖書をどのように読むべきなのか、いや聴くべきなのかを説き明かしておられるのです。主イエス自ら歩きながら聖書講義をされておられる。聖書の手ほどきをされている。羨ましいことです。聖書は私どもが書斎に閉じこもって、学者のように研究する御言葉ではない。私どもが道を歩きながら聴くべき御言葉です。私どもの生活の言葉です。主イエスは将に、歩く生きた聖書として、生活の中に御言葉を説き明かしておられるのです。やはり詩編119編105編の御言葉です。
「あなたの御言葉は、わたしの道の光、わたしの歩みを照らす灯」。
主イエスは歩きながら、弟子たちの心の鈍さを嘆いておられます。
「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光にはいるはずだったのではないか」。
主イエスが何度も語られ、弟子たちが何度も聴いた御言葉が、あなたがたの目の前で起こったのだと告げています。
「人の子は必ず多くの苦しみを受け、十字架で殺され、三日目に復活することになっている」。
「必ず~する」。神の御業として必ず起こる出来事だと、主イエスは何度も語られた。弟子たちは何度も聞いた。それが今、目の前で起こったにもかかわらず、信じようとしない。自分たちのために語られた御言葉として聞かなかったのです。それ故、主イエスの十字架の出来事も、甦りの出来事も、自分たちのために起きた出来事であったとは、受け留められなかったのです。自分たちの心の鈍さが目を遮り、近づいて共に歩んで下さる甦られた主イエスを見させなくさせたのです。
甦られた主イエスは弟子たちの心の鈍さを取り除くために、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明されました。
この「説明された」という言葉は、「解釈された」という意味です。また、「通訳された」という意味でもあります。今、桜が満開の兼六園に、多くの外国人観光客が訪れています。ガイドが語る兼六園の成り立ちを、通訳を通して聞けば、兼六園の美しさが違った形で見えて来ます。聖書の御言葉も、自分で読んだだけでは分からない。通訳する人が必要です。聖書の御言葉が自分に向かって語られた御言葉であることを、通訳する人がどうしても必要です。それこそが甦られた主イエスです。そして甦られた主イエスによって立てられた説教者であるのです。
聖書全体は一体何を語っているのか。この場合の聖書は、モーセとすべての預言者が証言した旧約聖書を意味しています。聖書全体は、主イエス・キリストを証ししています。甦られ、生きておられる主イエス・キリストと私どもがお会いするために、聖書の御言葉が語られるのです。通訳されるのです。
甦られた主イエスは道を歩きながら、聖書の御言葉を説き明かされました。日は段々傾き、夜の闇が辺りを覆って行きます。しかし、二人の弟子の心に、御言葉が迫って来ました。二人は後に語り合いました。
「道々お話になったとき、聖書を説き明かしてくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」。
私どもも経験する御言葉体験です。御言葉が私に向かって語られた時、心が静かに燃える経験をするのです。
4.①説教の冒頭で紹介した作家・加賀乙彦さんを洗礼へと導いたのは、門脇佳吉神父でした。門脇神父が『道の神学』という本を書かれています。その中で、私どもの信仰は「キリスト教」と呼ぶべきではなく、「キリスト道」こそ、ふさわしいと語っておられます。主イエスが語られた教えを頭で知識として理解するのが、私どもの信仰ではない。キリストの道を主イエスと共に歩いて行くことこそが、私どもの信仰である。
そして門脇神父はこの書物で、松尾芭蕉と道元と主イエスを取り上げられます。共通するのは、「道を歩く旅人」である。芭蕉は道を歩いた俳諧の旅人、道元は道を歩いた求道者(ぐどうしゃ)。求道者は元々仏教から生まれた言葉で、教会では求道者(きゅうどうしゃ)と呼んでいます。主イエスは自ら「わたしは道であり、真理であり、命である」であると語られた、御自身が「道」である方です。甦られた主イエス・キリストが、二人の弟子と共に道を歩まれた。同行二人(どうぎょうににん)となられた。そこにキリストと共にキリストの道を歩むキリストの共同体・キリストの教会が誕生したのです。
二人の弟子は目指すエマオの村に近づき、到着しました。日は傾いていました。しかし、主イエスはなおも先へ行かれる様子でした。甦られた主イエス・キリストの目指す地はエマオではなく、道はなお先に続いていたのです。死を突き抜けたいのちの道へ進んで行かれるのです。私ども教会の歩みも、甦りの主イエスと共に、いのちの道を進んで行くのです。
②詩人・島崎光正さんが、「エマオ途上」と題する詩を綴っています。二分脊椎症で、いつも死と向き合いながらも、甦られた主イエスがいつも私と向き合って下さり、共に道を歩み続けて下さる信仰に生きました。
「エマオ村に向う
足の重い二人の弟子に
復活(よみがえり)のイエスは加った
それとは知れず
互いに
話はアネモネの花のように心にはずみ
虫ばまれた丸木橋の上では
イエスが一番先に渡り
また三人で並んで旅をいった」
「アネモネ」は復活のいのちの象徴です。「蝕まれた丸木橋」は死の象徴です。死の象徴である蝕まれた丸木橋を、甦られた主イエスが先に行かれるのです。だから続く弟子たちも蝕まれた丸木橋から落ちることはなかった。死を超えるいのちの旅を、甦られた主イエス・キリストと共に続けることが出来たのです。復活の主と共に、いのちの道を進め。ここに新年度の歩みを始めた私どもキリストの教会の姿があるのです。
お祈りいたします。
「悲しみが、苦しみが、私どもの歩む道を塞ぎます。死の出来事が私どもの道を遮断します。道の上で立ち往生し、途方に暮れる私どもです。しかし、甦られた主イエス・キリスト御自身、私どもに近づき、共に歩んで下さるのです。新たないのちの道を拓いて下さるのです。主よ、私どもの鈍い心を打ち砕いて下さい。私どもの遮られた目を開いて下さい。甦られた主イエス・キリストが生きて、共に歩んで下さるお姿を見させて下さい。新しい年度の教会の歩み、どのような試練に遭遇しても、甦られた主イエス・キリストと歩調を合わせて、進ませて下さい。
この祈り、私どもの主イエス・キリストの御名により、御前にお捧げいたします。アーメン」。