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「復活の主イエスは立ち続ける」

詩編118:1~18
ヨハネによる福音書21:1~14

主日礼拝

井ノ川勝

2025年4月27日

00:00 / 39:23

1.①昨日、キリスト教保育連盟愛知・岐阜・三重クラブの保育者の講習会が名古屋教会で行われ、私は「キリスト教保育とは何か」という主題で講演をしました。120名の保育者が出席しました。そこも話したことです。

 画家ミレーは貧しい農夫を好んで描きました。そこにこそ美があると見たからです。「落ち穂拾い」と「晩鐘」の二つの有名な作品の間に、もう一枚の絵を描いています。「歩きはじめ」という絵です。農家の庭での農夫の家族の一場面を描いた作品です。農家の庭で、屈み込んだお母さんが後ろから幼児であるわが子の左右の腕に手を添えて、しっかりと支えています。幼児の前には、頑丈な体をしたお父さんが、どっかりと腰を下ろして、大きく両手を拡げ、おいでおいでをしています。幼児は今、お母さんの手を離れて、大きく両手を拡げたお父さんの大きな胸に向かって、ひとり歩きを始めようとしています。誰にでも経験のある不安が入り交じった、はじめの一歩です。

 幼児保育は、はじめの一歩を踏み出す幼児に、一体、何を土台として据えるのかが問われます。一人の人間としてはじめの一歩を踏み出す時に、何を土台に据えるのかが問われます。

 新しい学期を迎え、今朝の礼拝には、北陸学院の高校に入学された新入生も出席しています。高校生活というはじめの一歩を踏み出そうとしています。その時に、何を土台に据えてはじめの一歩を踏み出そうとしているのか。そのことが問われています。高校生だけではありません。今、主の御前で礼拝を捧げている私ども一人一人は、礼拝からはじめの一歩を踏み出します。私ども一人一人が、何を土台に据えてはじめの一歩を踏み出そうとしているのか。それはいつも問われていることです。


②先週の主の日、日曜日、主イエス・キリストの甦りをお祝いするイースターの礼拝を捧げました。北陸学院の高校生が洗礼を受けられました。イースターの喜びを分かち合うことが出来ました。

 この朝、私どもが聴いた御言葉は、甦られた主イエスが、ガリラヤのティベリアス湖畔で、弟子たちにお会いした場面です。でも、とても不思議です。何故ならば、直前の20章で、甦られた主イエスは、主イエスを裏切り、家に閉じこもっていた弟子たちに現れました。弟子たちは甦られた主イエスとお会いし、いのちの息を注がれ、喜びに満たされ、立ち直りのはじめの一歩を踏み出したばかりでした。ところが、弟子たちは故郷のガリラヤに戻り、漁師の職業に戻っています。喜んで新たな思いで、主イエスに従おうと志し、はじめの一歩を踏み出しましたが、うまくいきません。すぐに挫折してしまいました。故郷のガリラヤに逃げ帰り、再び漁師として新たな一歩を踏み出そうとしました。ペトロを初めとする七名の弟子たちです。

 今日の御言葉は、私によって、恐らく生涯忘れることの出来ない御言葉となりました。今から5年前の2020年4月上旬、新型コロナウイルスの感染が急激に拡大し、金沢市にも緊急事態宣言が出されました。4月12日のイースター礼拝は、礼拝出席に制限を設けなければなりませんでした。礼拝堂に集まった者は僅か数十名でした。洗礼式も延期となり、聖餐も中止、愛餐会も中止となりました。主イエス・キリストの甦りをお祝いする喜びのイースター礼拝が、心痛むイースター礼拝となりました。信仰生活で味わった最も辛い経験となりました。説教壇に立ち、招きの言葉を朗読していた時に、涙が溢れました。それから長い日々、先の見えないコロナとの闘いの日々が始まりました。私どもの信仰の足腰は何度もくずおれる経験をしました。なかなかはじめの一歩を踏み出せない恐れに、縛り付けられました。しかし、そのような中で、この御言葉が今の私どもに何を語りかけようとしているのか。甦られた主イエスがはじめの一歩を踏み出せない私どもに向かって、何をしようとされたのか。ひたすら御言葉に聴こうとしました。コロナ禍での、私どもの信仰の第一歩が、この御言葉にありました。


2.①甦られた主イエスとお会いし、喜んではじめの一歩を踏み出そうとした弟子たちでしたが、うまくいきません。すぐに挫折してしまいます。故郷ガリラヤに逃げ帰り、再び漁師をして新たな一歩を踏み出そうとしましたが、それもうまくいきません。再び挫折を味わいました。知り尽くした漁場でしたが、夜通し漁をしても、一匹も魚が捕れませんでした。漁師としては屈辱的なことでした。夜が明けて、疲れ果てて岸辺に帰って来ました。

 しかし、夜通し、岸辺に立たれていた方がいました。甦られた主イエスです。しかし、弟子たちにはそのお方が、甦られた主イエスだとは分かりませんでした。甦られた主イエスは、再び挫折し、故郷ガリラヤに逃げ帰った弟子たちの後を追いかけて来られました。そして夜通し漁をしている弟子たちを、岸辺に立って見守っておられたのです。夜通し漁をしても、一匹も魚が捕れない弟子たちの焦燥感、徒労感を、じっと見つめておられたのです。一匹も魚が捕れないという挫折を味わい、くずおれる弟子たち。しかし、甦られた主イエスは夜通し、岸辺に立ち続けて下さるのです。今日の中心聖句です。

 5年前、コロナとの長い闘いは、イースター礼拝から始まりました。礼拝に集いたくても集えない。共に主を礼拝するために、讃美歌を歌いたくても、歌うことが出来ない。キリストのいのち・聖餐に与りたくても、与ることが出来ない。先頭に立って、信徒の皆さんの信仰の歩みを導かなければならない伝道者である私自身がくずおれてしまい、立ち上がることが出来ませんでした。そのような中で、伝道者である私を慰めたのは、ドイツの伝道者ハンス・リルエ牧師の黙想の言葉でした。この聖書の御言葉を黙想した『海辺のキリスト』という書物でした。リルエ牧師は、ヒットラー率いるナチスに抵抗し、捕らえられ、獄に入れられました。ナチスとの闘いに疲れ果て、立ち上がれない状況に陥りました。そのようなリルエ牧師を慰めた御言葉こそ、この御言葉だったのです。

「すでに夜が開けた頃、イエスが岸に立っておられた」。

リルエ牧師はこのように黙想します。

「甦られた主イエスが岸に立ち続けておられる。ここに福音の全てが語られている」。

更に、リルエ牧師は語ります。

「神の民の一人が、孤独と悲しみの中で一人いる時、また苦しい戦いを失意の中で戦っている時、いつでも神は彼の許へ来てくださる。将に、そのことが、イエス・キリストにおいて、神が人となられたということである。私どもを無駄な骨折りと徒労の夜から、人生のあらゆる敗北から立ち上がらせるために、甦られた主イエスは岸に立ち続けておられる」。

何故、甦られた主イエスは夜通し、岸に立ち続けておられるのか。徒労と失意の中で、くずおれてしまった私どもを立ち上がらせるためです。そのために、甦られた主イエスは夜通し、動じることなく、立ち続けて下さるのです。甦られた主イエスがどんなことがあっても立ち続けて下さる。そこにくずおれた私たちを立ち上がらせ、新たな一歩を踏み出させる根拠があるのです。


②甦られた主イエスは、夜明け頃、失意の中で岸に帰って来た弟子たちに尋ねました。

「子たちよ、何かおかずになる物は捕れたか」。

弟子たちは答えます。「捕れませんでした」。

主イエスは語られます。

「舟の右側に網を打ちなさい。そうすれば捕れるはずだ」。

弟子たちは主イエスのお言葉通り、網を打ちました。すると、大漁の魚が網の中にかかりました。その時、主イエスの愛しておられた弟子が叫びました。

「主だ」。「あのお方こそ、甦られた主イエスだ」。

 ペトロは「主だ」という叫びを聴き、以前にも全く同じ出来事があったことを想い起こしました。ペトロが人間を採る漁師となって、主イエスに従うことになった出来事です。この時、ペトロは裸で漁をしていました。裸のままで甦られた主イエスにお会いするのは失礼だと思い、慌てて上着を纏いました。そして湖に飛び込んで、泳いで、真っ先に甦られた主イエスにお会いしようとしました。上着を纏って泳いだら、泳ぎづらくなります。しかも岸まで200ペギス、96メートルです。しかし、こういうところに、ペトロのおっちょこちょいな性格がよく表れています。いかにもペトロらしい動作です。この場面を思い浮かべると、微笑ましくなります。

 甦られた主イエスは岸辺で、炭を興し、その上にパンと魚を焼いておられました。甦られた主イエスは弟子たちに語られました。

「今捕った魚を何匹か持って来なさい」。

そこでペトロが網を陸に引き上げると、153匹の魚が網に掛かっていました。しかも、それだけ大漁の魚が掛かっても、網は破れてはいませんでした。ペトロは一匹一匹、主から与えられた恵み、魚の数を数えたのでしょう。何故、魚の数が記されているのでしょうか。153という数字は当時の世界の民族の数だと言われています。甦られた主イエスは全世界の民を、福音の網に掛けるために、夜通し立ち続けておられたのです。全世界の民を福音の網に掛けるという、主からの恵みの手応えを、弟子たちに味わわせたのです。


3.①甦られた主イエスは弟子たちに語りかけます。

「さあ、来て、朝の食事をしなさい」。

甦られた主イエスは、夜通し漁をして、疲れ果てた弟子たちのために、炭を興し、パンと魚を焼いて、朝の食事の用意をして下さいました。甦られた主イエスはパンを取り、弟子たちに分け与えられました。そして魚を取り、弟子たちに分け与えられました。弟子たちは誰も、「あなたはどなたですか」と問いただそうとはしませんでした。このお方が甦られた主であると分かっていたからです。甦られた主イエスと弟子たちとが、朝の光を浴びながら、朝の食卓を執られる。日常生活の匂いがプンプンする場面です。甦られた主イエスとお会いすることは、日常生活から掛け離れたことではなく、日常生活の匂いがプンプンする出来事なのです。

 今日の御言葉は、復活祭の次の主の日に読まれて来ました。教会はこの主の日を特別な日として重んじて来ました。復活祭の朝に、洗礼を受けた方々が、初めてキリストのいのち・聖餐に与る日であったからです。この日を、「生まれたばかりの乳飲み子のような者の日」と呼びました。ペトロの手紙一2章の御言葉が朗読されました。

「生まれたばかりの乳飲み子のように、理に適った、混じりけのない乳を慕い求めなさい。これによって成長し、救われるようになるためです。あなたがたは、主が恵み深い方だということを味わったはずです。主のもとに来なさい」。

 聖餐の時の招きの言葉となりました。甦られた主イエスが朝の食卓を整えて下さる。これが今日のキリストのご復活のいのちに与る聖餐の原形となりました。このいのちの食滞へ、疲れ果ててしまった私どもを招いて下さるのです。キリストのいのちによって、くずおれた私どもを主の弟子として立たせるためです。主の弟子として新たな一歩を踏み出させるためです。イースター礼拝において、私どもはキリストのいのち・聖餐に与りました。今朝は聖餐の用意はありません。しかし、甦られた主イエスは私どものために、いのちの糧である御言葉を備えて下さったのです。


②説教の冒頭で紹介しましたが、昨日、キリスト教保育連盟愛知・岐阜・三重クラブの保育者講習会が、名古屋教会で行われました。私がかつて伝道・牧会していた伊勢の山田教会、常盤幼稚園の牧師と保育者5名も出席されていました。講習会が終わった後、現在の幼稚園のこと、昔の幼稚園の想い出等を話す機会がありました。そこで想い起こしたことがありました。

 常盤幼稚園は、アメリカのカンバーランド長老教会の教育宣教師ミス・ジェッシー・ライカーにより、1913年(大正2年)に創立されました。伊勢で最初の幼稚園です。町の人々からも信頼され、文部省からも教育功労賞を得ました。ところが、太平洋戦争が勃発しますと、一転し、敵国人と見なされ、アメリカに強制送還させられました。35年間、自分の全てを注ぎ込んだ幼稚園の想い出の品を一切持ち帰ることは許されませんでした。第二の故郷である伊勢に骨を埋めるため、お墓まで購入していました。戦後、伊勢に帰る機会はありませんでした。

 敗戦後、ライカー先生の志を受け継いだのが、幼稚園の主任・玉置房子さんでした。山田教会の長老もされました。この玉置房子さんが肺炎で急逝され、その葬儀を行いました。その日は日本基督教団総会の第一日目でした。葬儀を終えて、教団総会へ向かいました。池袋の会場に到着した時は、既に一日目の議事が終了していました。二日目の朝、私は聖餐礼拝の司式と説教をする務めが与えられていました。しかし、玉置房子さんが突然亡くなられた悲しみ、喪失感、また葬儀に全てを注いでいましたので、聖餐礼拝の説教の準備は全く出来ていませんでした。しかも葬儀を終えて、慌てて教会を飛び出したので、講壇の上に眼鏡を置き忘れてしまいました。聖書の御言葉だけは既に選んでありました。イザヤ書40章6~8節でした。

「すべての肉なる者は草、その栄えはみな野の花のようだ。

 草は枯れ、花はしぼむ。主の風がその上に吹いたからだ。

 まさしくこの民は草だ。草は枯れ、花はしぼむ。

 しかし、私たちの神の言葉はとこしえに立つ」。

 私どもは誰もが死に直面し、草のように枯れ果て、花のように萎んで行きます。しかし、私たちの神の言葉はとこしえに立ち続けます。とこしえに立ち続ける神の言葉によって、草のように枯れ果て、花のように萎んで行く私どもの命が、主に用いられるのです。私どもの命はやがて過ぎ去って行きます。しかし、私どもを生かした神の言葉はとこしえに立ち続けるのです。あなたはそれでよいではないかと、イザヤ書は語るのです。

 ガリラヤの湖で、夜通し立ち続けた甦られた主イエスは、ペトロに大漁の奇跡を味わわせました。そのペトロがペトロの手紙一で、イザヤ書のこの御言葉を引用しました。しかし、一箇所変えました。「神の言葉」を「主の言葉」に変えました。

「しかし、私たちの主の言葉はとこしえに立つ」。

「主」は、甦られた主イエスです。しかし、甦られた主イエスの言葉はとこしえに立ち続ける。甦られた主イエス御自身が、「神の言葉」そのものです。従って、このように言うことも出来ます。

「しかし、甦られた主イエス・キリストはとこしえに立ち続ける」。

私どもの人生の最後に立つのは、死ではありません。死に勝利された、甦られた主イエス・キリストこそ、とこしえに立ち続けるのです。とこしえに立ち続ける甦られた主イエスが、草のように枯れ果て、花のように萎んで行く私どもを、主の弟子として立たせて下さるのです。主の器として、主の恵みを注がれて、主の御用のために用いて下さるのです。こんな幸いなことはありません。

 様々な暴風が吹き荒れて、私どもは倒れてしまうことがあるでしょう。しかし、甦られた主イエス・キリストはどんなことがあっても立ち続けて下さる。倒れた私どもを起こし、主の御用のために立たせて下さるのです。甦られた主イエスと共に、新たな一歩を踏み出させていただくのです。


 お祈りいたします。

「様々な試練に直面し、疲れ果て、くずおれてしまう私どもです。しかし、甦られた主イエスは立ち続けて下さいます。揺れ動くことなく立ち続けて下さいます。倒れた私どもを起き上がらせ、主の御用のために立たせて下さいます。草のように枯れ、花のように萎む私どもを、しかし、甦られた主よ、あなたの器として用いて下さい。

 この祈り、私どもの主イエス・キリストの御名により、御前にお捧げいたします。アーメン」。

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