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「心の目が開かれて」

詩編22:23~31
ルカ24:28~49

主日礼拝

牧師 井ノ川勝

2024年4月14日

00:00 / 34:46

1.①多くの方が目に見えるものこそが確かである、と信じて生きています。目に見える確かなものを手にするために、生きています。果たして、目に見るものこそが確かなものなのでしょうか。

 聖書の中にこういう御言葉があります。

「目に見えるものは、見えないものから成り立っているのです」。

 私どもの命に目を留めて見ましょう。私どもは自分の知恵と力で生きていると思っています。しかし、私どもの命は誰一人、自分の意志で生まれて来たのではありません。神さまから与えられた命を生きています。そして私どもの命は、目に見えない神さまに導かれているのです。

 3月31日の主の日、十字架にかけられ、墓に葬られた主イエス・キリストが甦られた復活祭をお祝いしました。主イエス・キリストが甦られた出来事こそ、目に見えない神が生きておられる。私どもと共に生きておられることを、証しする出来事であったのです。

 

この朝、私どもが聴いたルカによる福音書24章は、主イエス・キリストが甦られた出来事が、私どもにとって一体どのような出来事であったのか、明確に語られている御言葉です。主イエスは甦られて、何をされたのでしょうか。弟子たちにお会いになられました。甦られた主イエスの方から、弟子たちを探され、お会いになられました。主イエスが甦られたということは、甦られた主イエスが私どもに出会って下さる出来事であるということです。それが今、ここで、私どもにも起きていることです。

 ルカ福音書24章には、甦られた主イエスが弟子たちにお会いなられた二つの出来事が語られています。一つはエルサレムからエマオへ向かう二人の弟子に、甦られた主イエスが出会われた出来事。もう一つはエルサレムの11人の弟子たちに、甦られた主イエスが出会われた出来事です。

 ところが、弟子たちはそのお方が甦られた主イエスだとは分からなかったのです。不思議なことです。甦られた主イエスのお姿が変わり果てていたからではありません。弟子たちの目が遮られていたからです。言い換えれば、十字架にかけられ、殺された主イエスが甦られ、現れるとは、信じることなど出来なかったからです。信じることなど出来ない。それが目を塞いでいたのです。

 

2.①主イエスが甦られた日曜日の夜、11人の弟子たちは主イエスの甦りの知らせを聞いてはいましたが、信じることが出来ず、部屋に閉じこもっていました。そこに甦られた主イエスが弟子たちを探し出し、訪ねられ、現れました。甦られた主イエスは弟子たちの真ん中に立たれ、いつものように挨拶をされました。「あなたがたに平和があるように」。

 ところが、弟子たちは甦られた主イエスを見て、大いに喜んだのではありませんでした。恐れおののきました。何故、恐れおののいたのでしょうか。亡霊を見ているのだと思ったからです。主イエスを裏切った弟子たちに、主イエスが幽霊となって、それこそ「恨めしや」と言って現れたと思ったからです。

 それを見た甦られた主イエスが弟子たちに語られました。とても重要な御言葉です。復活信仰が最も生き生きと語られている御言葉です。

「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある」。

 主イエスが三度も繰り返している言葉があります。「わたしを見なさい」。弟子たちも主イエスを見ているのです。しかし、弟子たちの目には亡霊、幽霊としか見えない。しかし、主イエスは語られます。「わたしを見なさい」。心の目を開いて見なさい。「わたしの手や足を見なさい」。主イエスは亡霊として甦られたのではありません。十字架の釘痕がある手と足をもって、体をもって甦られたのです。「まさしくわたしだ」。この御言葉は、「わたしこそ生ける神である」ことを表す時に用いる御言葉です。

 ここでとっても面白いのは、主イエスのユーモアに溢れた御言葉であるからです。

「わたしの手や足を見なさい。まさくしわたしだろう。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたが見ているとおり、わたしには肉も骨もあるではないか」。

 亡霊、幽霊には肉も骨もない。しかし、わたしは肉や骨を伴い、体をもって甦った。そのわたしがあなたがたと対面しているのだ。さあ、よく見なさい。こう言って、主イエスは手と足をお見えになりました。ところが、弟子たちは喜びのあまりまだ信じられず、不思議がった。面白い反応です。目の前の主イエスの手と足を見ると、確かに十字架の釘痕があった。主イエスは確かに甦られた。弟子たちは喜んだ。しかし、喜びに溢れながらも、まだ主イエスの甦りを信じられないで、不思議がった。これはどういうことなのでしょうか。主イエスの甦りの出来事は、自分たちの知恵からはみ出る出来事だからです。自分たちの知恵の納まる出来事であるならば、理解し、納得出来る。しかし、主イエスの甦りの出来事は、自分たちの知恵からはみ出る出来事であるから、理解し、納得出来ないのです。主イエスは甦って、自分たちの目の前に立っておられる。主イエスの甦りを喜びながらも、しかし、まだ信じられない。納得出来ないでいるのです。それは私どもの姿でもあります。

 

多くの画家が聖書を題材として絵を描いています。中でも、主イエスが登場する聖書の場面の絵を描いています。取り分け、主イエスが十字架につけられた場面の絵は数多くあります。それに比べて、主イエスが甦られた場面の絵は少ないように思えます。描きづらいのかもしれません。中でも、心惹かれ絵は、レンブラントの絵です。エマオの家で、甦られた主イエスが二人の弟子と夕食を採られた場面の絵です。牧師室にそのコピーの絵が飾ってあり、その絵をよく観ては、黙想します。

レンブラントはオランダの家庭の食卓として描きました。テーブルを前にして甦られた主イエスは椅子に座り、パンを裂かれています。二人の弟子も椅子に座っています。テーブルですから、甦られた主イエスの足が見えます。レンブラントが主イエスの甦りで強調したのは、足でした。幽霊には足はない。しかし、主イエスは体をもって甦られたから、足がある。しかも、その主イエスの足がとても太いのです。顔よりも太い。その太い甦りの両足でしっかりと大地を踏みしめています。そこに主イエスの甦りを、レンブラントは見たのです。

 私どもが生きる大地です。揺れ動く不安定な大地です。私どもの苦しみの汗、悲しみの涙が染み込んでいる大地です。しかし、私どもが生きる大地に、甦られた主イエスの太い両足をしっかりと踏みしめて、私どもと共に道を歩み、生きて下さるのです。

 

3.①甦られた主イエスは弟子たちに現れて、喜びながらも信じられず、不思議がっている弟子たちに、何をされたのでしょうか。エマオの二人の弟子にも、エルサレムの11人の弟子たちにも、二つのことをされておられます。一つは食事を共にされました。

 甦られた主イエスは弟子たちに尋ねます。「ここに何か食べ物があるか」。弟子たちは焼いた魚を一切れ差し出しました。主イエスは魚を取って、むしゃむしゃと美味しそうに食べられた。幽霊は肉も骨もないから、お腹が空かない。しかし、主イエスは体をもって甦られたから、お腹が空かれた。それもそのはずです。弟子たちと最後の晩餐を執られたのは、木曜日の夕べでした。それから金曜日に十字架につけられ、死んで墓に葬られた。そして日曜日の早朝に、甦られた。エマオに向かう二人の弟子に出会われ、今夜中に、エルサレムの11人の弟子たちに出会われた。三日間、何も食べておられない。

 甦られた主イエスは、エマオの家で二人の弟子と共に食卓に与り、エルウサレムで11人の弟子たちと共に食事をされた。食事を通して、弟子たちと交わりをされた。食事を通して、甦られた主イエスが生きて居られることを信じるようになった。甦られた主イエスが何よりも重んじられたことは、食事でありました。

 

椎名麟三という作家がいました。教会生活をしながら、主イエスの甦りだけは信じることは出来ませんでした。ある日の礼拝で、ルカ福音書20章の御言葉が説き明かされました。甦られた主イエスがエルサレムにいる11人の弟子たちの前で、焼いた魚を食べる場面です。自分の心の内にあった壁がガタガタと崩れる経験をした。主イエスの甦りの出来事は、焼いた魚をむしゃむしゃと美味しそうに食べる日常生活の中に起きた出来事であった。主イエスは果たして甦られたのかどうかを、様々な書物を読んで頭で納得し、証明する出来事ではない。焼いた魚を食べるという生活の匂いがぷんぷんする出来事であった。私どもが喜んだり、落胆したり、涙を流したりする日常生活の食卓の中に入り込んで来られた出来事であった。

 椎名麟三は生活の匂いがプンプンする中でこそ、人間の真実な姿があることを小説で追求し、描いて来ました。主イエスの甦りの出来事は私どもの生活の匂いと掛け離れたところで起きた出来事ではない。生活の匂いがする中に、入り込んで来た出来事であった。そのことを知らされた時、心の内にあった主イエスの甦りへの疑いの壁ががたがたと崩れた経験をした。

 

4.①甦られた主イエスが弟子たちに出会われて、何をされたのか。一つは共に食事をされました。もう一つは何をされたのでしょうか。聖書を説き明かされました。エルサレムからエマオへ向かう二人の弟子は、日曜日の朝、主イエスが甦られた知らせを聞きました。しかし、主イエスが甦られたことを信じることは出来ませんでした。それ故、二人は暗い顔をしてエマオへの道をとぼとぼと歩いていました。

 その二人の弟子に、甦られた主イエス自ら近づいて来て、共に道を歩き始められました。しかし、二人の弟子の目が遮られていたので、その方が甦られた主イエスだとは気づきませんでした。主イエスは二人の心の鈍さを取り除くために、道を歩きながら、聖書を説き明かされました。主イエスの聖書の学び会は道を歩きながら行われた。書斎に閉じこもって、聖書を知識として頭で学ぶのではありません。人生の道を歩きながら、日々の生活の道を歩きながら、そこでこそ聴くべき御言葉が、聖書の御言葉です。しかも甦られた主イエスから直接、御言葉の説き明かし、手ほどきを受けるのですから、こんな幸いなことはありません。モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体に亘り、御言葉を説き明かされた。この場合の聖書は旧約聖書です。主イエスが来られる前の御言葉です。しかし、ここで主イエスは聖書の解釈をされています。聖書の翻訳、通訳をされています。聖書全体は一体何を語っているのか。それはただ一つのことなのだ。それは何か。聖書は主イエス・キリストを証しする御言葉であるということです。

 エルサレムにいた11人の弟子たちに現れた甦りの主イエスは、焼いた魚を食べられ、お腹が満たされた後、やはり聖書の御言葉を説き明かされました。モーセの律法と預言者の書と詩編、すなわち、聖書全体に亘って説き明かされました。ここでも聖書は「わたしについて書いてある事柄が、実現する」のだと語られています。聖書は主イエス・キリストを証ししている。主イエス・キリストが生きておられることを証ししている。

 実は、主イエスが弟子たちと、ガリラヤからエルサレムへの道を、共に歩んで来られました。その道の途上で、主イエスが何度も繰り返し語られた御言葉がありました。

「メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する」。

その御言葉が今、実現した。わたしは甦って、生きて、あなたたちの前にいるのだ。この出来語こそ、聖書が証ししていることなのだ。御言葉があなたがたの生活の中に、道を歩む人生の中に、生きた出来事となって入り込んで来たのだ。

 

日曜日の夜、夕礼拝が終わった後、観るテレビドラマがあります。三浦しをんさん作『舟を編む』をドラマにしたものです。2012年に本屋大賞を受賞した作品です。辞書の編集に情熱を傾ける出版社のチームの物語です。辞書は言葉の大海を航海する舟である。辞書を開くと、言葉と出会います。言葉が持っている意味を知ります。この言葉にはこのような意味があったのだ、と驚きます。否定的な意味しかないと思っていたのに、元は肯定的な意味だったことを知り、励まされます。新しい言葉と出会うことによって、暗い顔が明るくなり、私どもの道を歩き足取りも変わります。重い足取りが軽やかな足取りとなります。それ故、辞書を開いて、言葉と出会ってほしい。それが辞書編集者の願いです。

 私どもは日々の生活の中で、辞書を開くように、聖書を開きます。聖書は開かれることを待っている御言葉です。聖書を開くと、御言葉と出会います。生きた命の御言葉と出会います。生きた命の御言葉が私どもの歩みを変えるのです。生きた命の御言葉こそ、甦られ生きておられる主イエス・キリストです。聖書のどの頁を開いても、飛び出す絵本のように、甦られた生ける主イエス・キリストが飛び出し、あなたと出会って下さるのです。主イエスはあなたのために、十字架でいのちを献げて下さった。主イエスはあなたのために、死に打ち勝ち、甦って下さった。主イエスはあなたのために、生きた命の御言葉を唇に授けて下さるのです。これはあなたのための御言葉と言って、御言葉を食べさせて下さるのです。主イエスは語られました。

「人はパンだけで生きるのではない。神の口から出る一つ一つの言葉によって生きる」。

 詩編は語ります。

「御言葉が開かれると光が射し出で、無知な者にも理解を与えます」。「あなたの御言葉は、わたしの道の光、わたしの歩みを照らす灯」。

 

5.①甦られた主イエスはエマオで、二人の弟子の家に招かれました。「主よ、一緒にお泊まり下さい」。客として招かれた主イエスが、卓主となって、パンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになられました。その時、二人の弟子の目が開かれました。パンを裂かれるお方こそ、甦られた主イエスだと分かったのです。5つのパンと2匹の魚で、5千人を満腹させた出来事の場面と同じ動作を執られた。最後の晩餐の席で、パンを裂かれ、杯を授けられた場面と同じ動作を執られた。パンを裂かれる主イエスの動作に、はっとした。目を見張った。その時、目が開かれた。甦られた主イエスだと分かったのです。

 エルサレムの11人の弟子たちも、甦られた主イエスが魚を食べられ、聖書の御言葉を説き明かされた時、心の目が開かれました。このお方こそ、甦られた主イエスであると知りました。甦られた主イエスは食事を通し、聖書の御言葉の説き明かしを通して、弟子たちの目を開かせて下さるのです。ここに主イエスは甦って、生きておられる。甦りの主イエスを見るまなざしを与えて下さるのです。

 甦られた主イエスが生きて、私どもと向き合っておられる。それを見た時、エマオの二人の弟子は語り合いました。

「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」。心が熱くなる御言葉経験をしたね。

 

先程紹介した画家レンブラントの、エマオの食卓での甦られたキリストの絵。オランダの家庭の食卓として描いていました。テーブルを前にして、甦られた主イエスが二人の弟子と共に、椅子に座っておられる絵です。しかし、この絵はオランダの家庭の食卓ではなく、オランダ改革派教会の聖餐の食卓の絵であると言われています。甦られた主イエスが座られている椅子は、聖餐の食卓です。甦られた主イエスが裂かれたパン。「これはあなたがたのために、わたしが十字架で裂かれた体です」。甦られた主イエスが差し出された杯。「これはあなたがたのために、わたしが十字架で流された血です」。更に言えば、「これはあなたがたのために、わたしが死に打ち勝った体と血です」。

 甦られた主イエスは、私どもが目で見、耳で聴き、鼻で嗅ぎ、口で味わい、手で触れるまでに、親しく交わって下さる。主イエスは甦って生きて、御言葉を説き明かしながら、私どもと共に道を歩んで下さる。甦られた主イエスと共に歩む道は、死で行き止まりになる道ではない。死に打ち勝ついのち道として下さったのです。

 

 お祈りいたします。

「主よ、私どもの心は鈍いのです。心の目は閉じたままなのです。甦られた主イエスが私どもに近づき、共に道を歩んで下さっておられるにもかかわらず、それに気づいていないのです。私一人の力で力んで道を歩んでいると思っているのです。主よ、御言葉を説き明かして下さい。命のパンを食べさせて下さい。鈍い心を開いて下さい。目を開かせて下さい。主イエスは甦って生きておられることを見させて下さい。私どもの歩む道を、いのちの道として下さい。

 この祈り、私どもの主イエス・キリストの御名により、御前にお捧げいたします。アーメン」。

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