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「恐れるな、しっかり立って見よ」

出エジプト記14章9~25節
ヨハネによる福音書6章16~21節

主日礼拝

井ノ川勝 牧師

2025年9月14日

00:00 / 35:00

1.①私どもの人生において、また、信仰生活において、しばしば大きな壁にぶち当たることがあります。将来の道が閉ざされ、進むべき道が見えなくなることがあります。そのような状況に直面した時、私どもはどうすればよいのでしょうか。ただ、もがき、叫ぶしかないのでしょうか。

 そのような時、私どもは聖書の御言葉に耳を傾けます。聖書の御言葉を通して、神が、今日、この私に向かって語りかけて下さるからです。聖書は遠い遠い昔の出来事を語りながら、しかし、今日、私に向かって神が語りかけて下さる生ける御言葉なのです。

 この朝、私どもは出エジプト記14章の御言葉を聴きました。エジプトで奴隷であった神の民が、神の力強い御手によって、エジプトから導き出された出来事が語られています。出エジプトの出来事と呼ばれています。エジプトで、日々、過酷な労働を強いられていたイスラエルの民が、神によって立てられたモーセに導かれ、奴隷の家・エジプトを脱出することが出来た。それは大きな喜びでした。

 しかし、エジプトを脱出した直後、すぐに大きな試練に直面しました。前方は海で行き止まり、後ろは追いかけて来たエジプトの軍勢に塞がれてしまう。イスラエルの民は八方塞がりに遭遇しました。どうすることも出来ない。捕らえられて再び、エジプトに連れて行かれるしかない。絶対絶命のピンチに直面しました。

 

イスラエルの民は目を上げました。追い迫るエジプト人の姿が見えました。イスラエルの民は非常に恐れ、主に向かって叫びました。同時に、先頭に立つモーセに向かって叫びました。

「エジプトに墓がないから、荒れ野で死なせるために私たちを連れ出したのですか。私たちをエジプトから導き出すとは、一体何ということをしてくれたのですか。荒れ野で死ぬよりはエジプト人に仕えるほうがましです」。

 イスラエルの民が繰り返し語っている言葉があります。「エジプト」です。「エジプトに」「エジプトから」「エジプト人に」。イスラルの民が見ているものは、エジプト人です。エジプト人の脅威です。それ故、恐れに捕らえられて、びくびくしているのです。

 イスラエルの民がもう一つ繰り返している言葉は、「荒れ野」です。イスラエルの民は、荒れ野に導かれることを願っていました。何故ならば、荒れ野で、いかなる束縛からも解放されて、われらの神、主を礼拝することが、出エジプトの目的であったからです。エジプトでは現人神であるファラオ、エジプトの王、皇帝礼拝を強いられていたからです。ところが、イスラエルの民が切に願っていた荒れ野に導かれながら、それを否定するのです。

「エジプトにはわれわれの墓がないから、荒れ野で死なせるために、連れ出したのですか」。「われわれを何故、荒れ野に導き出したのですか」。「荒れ野で死ぬよりは、エジプト人に仕えるほうがましです」。荒れ野でわれわれの神を礼拝するよりは、エジプトに帰りたい、奴隷でよいと言い出したのです。

地上を歩む神の民の危機は外からやって来ます。エジプトの軍勢が追い迫る危機です。しかし、「外からの危機」以上に、神の民にとっての危機は、「内からの危機」です。エジプトから導き出して下さった主なる神に対して一つになれない危機です。これこそが神の民にとって深刻な危機なのです。

 

2.①この時、モーセが語られた言葉が重要です。神がモーセを通して語りかけた御言葉です。

「恐れてはならない。しっかり立って、今日あなたがたのために行われる主の救いを見なさい」。

 「恐れるな」。神が繰り返し語られる御言葉です。主イエスが繰り返し語られる御言葉です。聖書に、実に366回も語られています。よく丹念に、根気強く調べたものです。一年が365日ですから、神は毎日、毎日、私どもに語りかけておられることになります。言い換えれば、私どもは毎日、毎日、恐れている。縮こまっている。びくびくしている。解き放たれていないのです。何故、私どもは恐れるのでしょうか。私どもが恐れているものが、目の中に飛び込んで来るからです。イスラエルの民にとっては、エジプト人でした。

 それでは、私どもは一体何を見るのでしょうか。「今日、あなたがたのために行われる主の救いを見なさい」。「今日」という言葉が強調されています。明日ではないのです。いつかではないのです。今日、今、恐れの中に閉じ込められているあなたがたのために、神は生きて働かれ、救いの御業を行って下さる。神の救いを見なさい。生きて働かれる神を見なさい。

 「見よ」。聖書の中で最も小さな言葉です。しかし、繰り返し繰り返し神が語られる重要な御言葉です。「見よ」という小さな言葉の中に、聖書の全ての福音が凝縮されているのです。

 見よ、今日、神はあなたと共におられるではないか。見よ、今日、神はあなたのために、生きて働かれているではないか。私どもが生きて行くためには、肉眼、肉の目だけでは限界があります。心の目、霊のまなざしが、どうしても必要です。それは神が御言葉を通して与えて下さるまなざしです。

伊勢の教会の幼稚園で、毎週、園児に御言葉を語っていました。「私たちには顔にある目だけでなく、もう一つ、神さまは目をくださったんだよ」。そう言うと、園児は繰り返し聞いていますから、答えます。「それは心の目でしょう。神さまを見る目でしょう。イエスさまを見る目でしょう」。そして手を胸に当てて、「心の目はここにあるんだよね」と答えます。

 

神がモーセを通して語られた御言葉に注目しますと、「しっかり立って見よ」と語られています。以前の新共同訳では、「落ち着いて見よ」という言葉でした。落ち着いているから、しっかり立つことが出来るのでしょう。しかし、今、絶対絶命のピンチに置かれているのです。とても落ち着いてなどいられないのです。膝ががくがくして、しっかり立つことなど出来ないのです。恐れに捕らえられて、座り込んでいるのです。何故、神はそのような状況を知りながら、「恐れるな、しっかり立って見よ、落ち着いて見よ」と語られるのでしょうか。

 その直後に、神はこう語りかけておられます。

「主があなたがたのために戦われる。あなたがたは静かにしていなさい」。

主があなたがたのために、先頭に立って戦っておられる。しっかりと立って、揺らぐことなく戦っておられる。それ故、「あなたがたは静かにしていなさい」。静かにしているということは、何もしていないのではないのです。この「静かにしていなさい」という言葉こそ、「落ち着いて見よ」「しっかり立って見よ」と響き合っています。見ることに集中すること。見ることに存在を懸けること。そこに私どもの信仰の戦いがあるのです。主が私どものために、今日、行われる救いの御業がある。主が私どものために、今、先頭に立って戦っておられる。それを見よ。生きて働かれる主に、私どもの心の焦点を合わせる。それこそが静かにしていること。落ち着いていること。しっかり立つことだ、と主は言われるのです。

 私どもの日々の生活、信仰生活には、予期せぬ苦しみ、悩み、悲しみ、試練が襲い懸かります。恐れに取り囲まれて、おどおどしてしまいます。どうしたらよいのか分からなくなります。いろいろな方から相談を受けます。私も牧師でありながら、その苦しみ、悩みの重さを知り、おどおどしてしまいます。適切な答えが見つからずに、頭を抱え込んでしまいます。しかし、最後に必ず言う言葉があります。「主に委ねましょう」。「主に委ねて祈りましょう」。主に委ねることは消極的なことではありません。主が私どものために、しっかり立って戦って下さるから、私どもは主に委ねることが出来るのです。主に委ねて、主が生きて働かれることを見るのです。主に委ねることは、主の生ける働きを見ることなのです。

 

3.①モーセは主の言葉に促されて、海に向かって手を伸ばしました。主は夜通し強い東風で海を退かせ、海の中に乾いた地を敷かれました。イスラエルの民は、主が敷かれた乾いた地を通って、向こう岸に渡ることが出来ました。この出来事を通して、真実の意味で、出エジプトの出来事が成し遂げられたのです。「乾いた地」は、神が海の中に敷かれた「いのちの道」です。

 創世記の第1章、聖書はこの冒頭の御言葉から始まりました。

「初めに神は天と地を創造された」。

神は、「光あれ」と語られ、最初の創造の御業を行われました。第二日目に天を創造され、第三日目に地を創造されました。神は語られました。

「天の下の水は一か所に集まり、乾いた所が現れよ」。「神は乾いた所を地と呼び、水の集まった所を海と呼ばれた」。ここで注目すべきは、「乾いた所」を地と呼んでいることです。この「乾いた所」「乾いた地」を、出エジプト記14章では、海の中に敷かれた「乾いた地」「乾いた所」と呼んでいるのです。出エジプトの出来事は、神の新しい創造の御業であったことが強調されているのです。そして神の新しい創造の御業は、今日、あなたがたにも起こっていることを告げているのです。神の創造の御業は過去の出来事ではなく、新しい創造の御業として、今日、あなたがたにも起こるのです。

 イザヤ書43章は、神の新しい創造の御業を語っています。旧約1114頁。

「しかし、ヤコブよ、あなたを創造された方、

 イスラエルよ、あなたを形づくられた方、主は今こう言われる。

 恐れるな。私があなたを贖った。私はあなたの名を読んだ。

 あなたは私のもの。

 あなたが水の中を渡るときも、私はあなたと共におり、

 川の中でも、川はあなたを押し流さない。

 火の中を歩いても、あなたは焼かれず、炎もあなたに燃え移らない。

 私は主、あなたの神、イスラエルの聖なる者、あなたの救い主」。

 イスラエルの民が国滅ぼされ、捕囚の民として、異郷の地バビロンで70年に及ぶ生活を強いられていました。しかし、預言者第二イザヤは語ります。神は新しい出エジプトの御業を行って下さる。新しい創造の御業を行って下さる。バビロン捕囚からの解放という御業を行って下さる。それ故、主の御業を見よう。

 

海の中に敷かれた乾いた地。ある註解書は語ります。これは出産用語で、「産道」だと言います。英語で「産道」を「水を通った道」と言います。新しい命は羊水を通り、産道を潜り抜けて誕生します。狭くて暗い道ですが、将に、いのちの道です。海の中に神が敷かれた乾いた地、いのちの道を潜り抜けて、神の民は新しく造り変えられるのです。神に向かって不平不満をぶつけたイスラエルの民でした。

「荒れ野で死なせるために私たちを導き出したのですか。私たちをエジプトから導き出すとは、一体何ということをしてくれたのですか」。

神に向かって呟くイスラエルの民が、海に敷かれたいのちの道を潜り抜けた時に、主の救いの御業を見、神に向かって賛美するようになるのです。

「主に向かって私は歌おう。なんと偉大で、高くあられる方。

 主は馬と乗り手を海に投げ込まれた。

 主は私の力、私の盾。私の救いとなられた。

 この方こそ私の神。私はこの方をほめたたえる。

 私の父の神。私はこの方を崇める。

 主は戦人。その名は主」。

出エジプト記15書は「海の歌」と呼ばれています。聖書の中で最も古い歌です。最も古い讃美歌です。この歌の特徴は、主語が「われわれ」ではなく、「私」です。単数形です。神の民一人一人に現れた主の救いの御業です。それは同時に、われわれに現れた神の救いの御業でもあります。「私の歌」は「われわれの歌」。それが讃美歌です。神への賛美において、神の民は一つとされるのです。

 海の中に敷かれたいのちの道を潜り抜けた者は、新しく創造され、新しい出エジプトを経験し、私どもを捕らえるあらゆる恐るべき力から解き放たれ、神を賛美する人間とされるのです。

 出エジプトト記14章の結びでこう語られています。

「イスラエルの人々は海の中の乾いた所を進み、水は彼らの右と左で壁となった。こうして、主はこの日、イスラエルをエジプトの手から救い出された。イスラエルはエジプト人が海辺で死んでいるのを見た。イスラエルは、主がエジプト人に行われた大いなる業を見た。民は主を畏れ、主とその僕モーセを信じた」。

 神の民の危機は、神の好機です。神の民のピンチは、神のチャンスです。それ故、今日、私どものために生きて働かれる主の御業を見、主を賛美して、一つになって歩むのです。

 

4.①伝道者パウロは、この出来事を心に刻みながら、御言葉を綴っています。コリントの信徒への手紙一10章です。新約306頁。水の中を潜り抜けて新しく造り変えられる。この出来事は驚くべきことに、洗礼の出来事だと、パウロは語ります。確かに、洗礼を昔は全身、水の中に浸りました。古い私が死に、新しい私として甦り、新しく造り変えられるからです。そして、パウロは語ります。

「あなたがたを襲った試練で、世の常でないものはありません。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えてくださいます」。

 あなたがたを襲った試練で、世の常でない、人間として耐えられないものはない。しかし、私どもは反論します。神さま、今度ばかりは、とても耐えられないですよ。人間離れしていますよ。しかし、神は真実な方である。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、それに耐えられるよう、試練と共に、逃れる道をも備えて下さる。

 真実な神が備えられる「逃れの道」こそ、「わたしは道であり、真理であり、命である」と語られた主イエス・キリストです。主イエス・キリストこそが、「逃れの道」「いのちの道」です。

 主イエスが歩まれた十字架の道。それは水と火の中を潜り抜ける神の審きの道です。本来であれば、神に不平不満を語り、神の義しさに生きられない私ども罪人が歩むべき滅びの道でした。しかし、私どもに代わって主イエスが十字架の道を歩んで下さり、水と火の道を潜り抜けて下さった。それ故、十字架の道は救いの道、いのちの道となったのです。私どもが試練の時に逃れる逃れの道となったのです。

 

 

「主こそ私の力、私の盾。私の救いとなられた。

  この方こそ私の神、私はこの方をほめたたえる」。

 出エジプト記15章の「海の歌」は、主イエス・キリストの十字架の死と甦りの出来事を通して、私ども神の民・教会の歌となりました。

 私どもの人生において、信仰生活において、神の民・教会の歩みにおいて、様々な試練が襲い懸かります。しかし、神は今日、私どもに向かって語りかけるのです。

「恐れるな。しっかり立って、今日、あなたがたのために行われる主の救いを見なさい」。「主があなたがたのために戦われる。あなたがたは静かにしていなさい」。主に委ねて、主の生ける救いの御業を見なさい。

 

 お祈りいたします。

「主に向かって不平不満ばかりを呟く私どもです。試練の中で、一つになれず、分裂してしまう私どもです。しかし、主は今日、私どものために生きて働かれ、救いの御業を行われます。主の生ける御業を見させて下さい。主イエス・キリストから生ける霊のまなざしを与えて下さい。主の生ける御業を今日も見て、一つになって神を賛美して地上を歩む神の民として下さい。

 この祈り、私どもの主イエス・キリストの御名により、御前にお捧げいたします。アーメン」。

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