「恐れるな、自分の小ささを」
詩編14:1~7
ルカ12:4~7,22~34
主日礼拝
井ノ川勝
2024年7月14日
1.①先週の火曜日、中部教区の婦人研修会が富山で行われました。久しぶりに対面で行われました。二百名近い出席がありました。金沢教会からも9名の方が出席されました。遠隔地の地区の教会のために、ライブ配信も行われました。とても祝福された会であったと報告を受けました。主題は「女性・教会・メンタルヘルス(心の健康)」。講師は石丸昌彦先生でした。キリスト者の精神科医です。石丸先生は、今日の社会が課題としている大切な問題に関して、講演をされ、次々と書物にまとめておられます。自死の問題、精神障害の問題、子育ての問題。そして最近、まとめられたのは、老いの問題です。『老いと祝福』という書物を書かれました。それらの問題をキリスト教信仰の視点で論じておられます。
老いの問題は全ての人の問題です。私どもは日々、歳を取り、老いて行きます。昨日まで出来たことが、段々と出来なくなります。治らない病を抱え、病と向き合って生きなければならなくなります。いつ死が訪れるのか不安になります。将来に対する不安、心配があります。
しかし、若者も様々な不安と心配を抱えて歩んでいます。社会全体が下り坂になっている今日、若者が将来に希望を持つことが難しくなっています。将来への不安と心配を抱えながら生きています。
先月、礼拝後、教会懇談会が行われ、6つの分団に分かれて、教会の今後の歩みについて懇談しました。この10年間の教会の歩みの統計が報告され、厳しい数字が示されました。教会はこの世にあって伝道する主の群れです。教会もまたこれからの歩みを見据えると、様々な不安と心配を抱えています。
今、主に呼び集められた私ども一人一人が、様々な不安と心配を抱えて主の御前に立っています。不安と心配がある。それは言い換えれば、思い悩むことがある。思い煩うことがあります。「思い煩う」という言葉は面白い言葉です。思い煩う余り、心を煩ってしまう。心が病んでしまう。心が千々に乱れることです。心が幾つも分裂して、焦点が定まらなくなることです。どこに焦点を合わせればよいのか、分からなくなってしまう。これは誰にでも起こることです。
②私が伊勢の教会で伝道していた時、クリスマスに受洗50年を迎えた方のお祝いをしました。教会から記念の聖書を贈呈します。表紙に「祝受洗50年」「山田教会」という文字が刻印されています。表紙の裏に、私が聖書の言葉とお祝いの言葉を記します。いつも記していた聖書の言葉は、詩編94編17~19節の御言葉でした。
「主がわたしの助けとなってくださらなければ、わたしの魂は沈黙の中に伏していたでしょう。『足がよろめく』とわたしが言ったとき、主よ、あなたの慈しみが支えてくれました。わたしの胸が思い煩いに占められたとき、あなたの慰めが、わたしの魂の楽しみとなりました」。
ある聖書は最後の言葉をこう訳しています。
「あまりにも多くの思い煩いが、わたしの心を押し潰そうとするとき、あなたの慰めがわたしの魂に新しい息吹を与えてくださいます」。
受洗50年の記念の聖書を贈呈された教会員が、この御言葉は将に、私の信仰生活そのものだと感想を述べられました。そして自らが洗礼を受けられた時の想い出を語られました。私は21歳の時、大阪の天満教会で、木村清松牧師から洗礼を受けました。お祝いの聖書には、木村清松牧師の肉太の墨字で二つの言葉が記されていました。
「信仰が始まると心配がなくなる。心配が始まると信仰がなくなる」。「天の力に癒し得ぬ悲はあらじ」。
いかにも木村清松牧師らしい言葉です。戦前、戦中、戦後と、思い煩いの多い人生でしたが、いつもこの言葉を心に刻んで歩んで来ました。主に導かれて信仰の歩みが支えられて来ました。
2.①今日の御言葉は、主イエスが弟子たちに語られた御言葉です。しかも主」イエスは弟子たちに向かって、「わたしの友よ」と呼びかけておられます。これは珍しいことです。それだけに注目すべき呼びかけです。主イエスは私どもの友となって下さる。友であるということは、自分の思いを打ち明けて下さる関係にあるということです。それだけ信頼すべき親しい関係になって下さったということです。しかも、天の神に向かって、「あなたがたの父」と呼んでいます。主イエスはここで驚くべき言葉を語られています。
「あなたがたの天の父は、あなたがたの髪の毛までも一本も残らず数えられている。だから、恐れるな」。
私が伊勢の教会で副牧師をしていた時、主任の冨山光一牧師が金沢教会の伝道礼拝で、この御言葉を説き明かしています。冨山牧師の十八番の説教です。『だから恐れることはない』という題の伝道説教集になっています。冨山牧師から説教で何度も聞きました。行きつけの床屋の主人に、髪の毛は何本あるのか尋ねた。先生の髪の毛は大分薄くなっているから7万本ぐらいではないですかと言われた。百科事典で調べたら40万本とあった。
主イエスは語られました。「5羽の雀が2アサリオンで売られているではないか。だが、その1羽さえ、神がお忘れになるようなことはない」。マタイ福音書では主イエスは、「2羽の雀が1アサリオンで売られているではないか」。文語訳では「2羽の雀は1銭」とあった。冨山牧師は語ります。そうすると1羽はおまけ。しかし、おまけの雀さえ、神がお忘れになることはない。それどころか、あなたがたの髪の毛までも一本も残らず数えられている。これは民衆への福音を唱えた山室軍平がよく用いられた言い回しです。
私どもは自分の髪の毛でありながら、自分の髪の毛が何本あるかも数えたことはありませんし、知らないのです。しかし、あなたがたの命を造られ、あなたがたの命を誰よりも大切にしておられる天の父は知っておられる。「あなたがたの天の父は、あなたがたの髪の毛までも一本も残らず数えられている」。それは言い換えれば、こういうことです。私どもが心の奥に仕舞い込んでいる不安も心配も、思い悩むことも思い煩いも、ひとつも残らず父なる神は知っておられるということです。だから恐れるな。
②主イエスが繰り返し語られた言葉があります。「恐れるな」。嵐の海に直面し、溺れかかった弟子たちに、「恐れるな」と語られました。群衆に囲まれてたじろぐ弟子たちに向かって、「恐れるな」と語られました。そして今日の御言葉において、「恐れるな」との呼びかけと共に、「思い悩むな」「思い煩うな」と呼びかけておられます。恐れに取り憑かれている私ども、思い煩いに囲まれている私どもを、恐れから、思い煩いから解き放とうとされているのです。
主イエスのこの御言葉も注目すべき言葉です。
「あなたがたのうちだれかが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか」。
私は文語訳に心惹かれます。
「汝らの中(うち)たれが思い煩ひて、身の長一尺を加へ得んや」。
面白い訳です。「身の長一尺」と言われても、すぐに長さが思い浮かんで来ません。一尺は約30.3センチです。私どもがどんなに思い煩っても、30センチ寿命を延ばすことは出来ない。自分の命でありながら、自分の手で30センチの寿命すら延ばせないのだ、と主イエスは言われるのです。
先週、驚くべき知らせが飛び込んで来ました。先月の地区交換講壇礼拝で、金沢南部教会で御言葉を語りました。詩編90編の残りの日々を正しく数える知恵を与え給えという詩人の祈りに祈りを合わせました。礼拝の前と後で、親しく会話を交わした方は、北陸学院の高校生の時に、金沢教会で上河原雄吉牧師から洗礼を受けられた方です。その後、金沢南部教会に移られ、中心となって信仰生活を送られた方です。私どもが地区の婦人会において、親しく交わりをされた方です。ベッドで寝ている時に心臓が止まり、亡くなられました。いつも信仰の背筋を真っ直ぐにされ、先頭に立って教会で奉仕をされていた方です。信じられない思いで、その知らせを聞きました。今でも受入が難い思いでいます。その訃報を聞き、改めて、主イエスのこの御言葉を想い起こしました。
「汝らの中(うち)だれか思い煩ひて、身の長一尺を加へ得んや」。
「あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか」。
自分の命を30センチですら延ばせない私どもです。私どもの命は主の御手の中にあります。
しかし、主イエスは語られます。空の鳥、野の花、誰にも顧みられないような小さな命にすら、天の父は御手の中で支えて下さる。況してや、あなたがたの命に対して、天の父はどれ程大切な存在として、御手で支えて下さることか。だから思い煩うな。
3.①今日の御言葉は、マタイによる福音書6章25節以下、山上の説教でも語られています。そちらの方を心に留められている方も多いと思います。しかし、ルカ福音書だけが書き留めた主イエスの御言葉があります。
「小さな群れよ、恐れるな」。「恐れるな、小さな群れよ」。
直前で主イエスはこのようにも呼びかけています。
「信仰の薄い者たちよ」。「信仰が薄い」という言葉は、「信仰が小さい」という意味です。「信仰の小さい者たちよ」。信仰が全くないのではありません。信仰はあるのです。天の父を信じ、主イエスを信じているのです。しかし、「あなたの信仰は何と小さいことか」、と主イエスは語りかけておられます。
「信仰の小さい者よ」、「小さな群れよ」。主イエスは立て続けに呼びかけておられます。私は伝道者として、いつも主イエスのこの呼びかけを聴いています。
先程も述べましたが、先月、教会懇談会が行われ、これからの教会の歩みについて話し合い、祈りを捧げました。コロナ前の礼拝出席者は120名でしたが、今は80名になっています。ライブ配信の出席者は20~25名です。小さな群れが益々小さくなって行く。どんどん小さくなってしまい、主の群れ・教会は衰退してしまうのではないか。伝道者でありながらそのような不信仰、恐れに取り憑かれてしまうのです。私が出席した分団で、ある教会員が語られました。「教会員が50名以上与えられていることは恵まれているんですよ」。肝っ玉の据わった信仰に、伝道者の不信仰、恐れは打ち砕かれました。本当にそうだなと思いました。
私はしばしば太平洋戦争中の牧師のことを想い起こします。教会は敵国の信仰ということで厳しい圧力を受けました。信仰が恐れに取り囲まれ、礼拝に出席する方は僅かになりました。金沢教会も、伊勢神宮の前の山田教会も、5,6名となりました。礼拝出席者がどんどん減って行く中で、上河原雄吉牧師も、冨山光慶牧師も厳しい伝道の戦いの日々でした。伝道者であっても小さな信仰になってしまう。教会はこのまま衰退してしまうのではなかと恐れる取り憑かれる。しかし、そこでこそ、主イエスのこの御言葉を聴いたのです。
「信仰の小さい者よ、小さな群れよ、恐れるな」。「恐れるな」と主イエスは語られるのです。
②「小さな群れよ」。主イエスが弟子たちの交わり、教会の交わりを、主の群れと呼んでいます。明らかに羊の群れを意味します。しかも百匹の羊がいるような大きな群れではありません。20匹、30匹の小さな羊の群れです。しかし、羊の群れには必ず羊の群れを一つにする羊飼いが必要です。その羊飼いこそ、「小さな群れよ、恐れるな」と語られる主イエスなのです。
日本のプロテスタント教会の草創期の伝道者に、植村正久牧師がいます。富士見町教会で、「キリストを縮小するなかれ」という題の説教をしています。これは信仰の急所を突いた説教です。植村牧師の代表的な説教です。私どもの信仰が何故、小さくなってしまうのか。信仰の肝っ玉が据わらなくなってしまうのか。キリストを小さくしているからです。キリストの御業を見くびっているからです。そこに私どもの不信仰があるのです。キリストは私どもが考えるような小さなお方ではない。私どもの思いを遙かに超えて、御業を行われた。大いなる救い主である。それ故、キリストを縮小して、あなたがたの信仰を小さくするな。
「小さな群れよ、恐れるな」。何故、主イエスは「小さな群れよ、恐れるな」と語られるのでしょうか。主イエスは更に、このように語られました。
「あなたがたの父は喜んで神の国をくださる」。
主イエスによって示された天のあなたがたの父の懐は、何と大きいことか。それは迷い出た一匹の羊をどこまでも捜し求め、見つけたら大いに喜んで迎え入れた羊飼いの懐です。放蕩に身を持ち崩した息子を、自ら見つけ、走り出し、抱きしめ、迎え入れた父の懐です。私どもの不安、心配、思い煩い、不信仰を、全て受け留めて下さる天の父の大いなる懐です。
あなたがたの天の父は、喜んで神の国を下さる。「神の国」、それは「神の支配」という意味です。「神の大いなる御手が働かれる」ことです。それは将来のことでもありますが、主イエスにおいて既に、今、ここでも働かれているのです。あなたがたの父は喜んで大いなる御手を働かせて下さる。私どもの小さな信仰の目から見れば、伝道が行き詰まり、教会は衰退しているように見えるかもしれない。しかし、あなたがたの父は喜んで大いなる御手を、あなたがたのために働かせて下さる。それ故、「小さな群れよ、恐れるな」と主イエスは語られるのです。
4.①主イエスはここで、弟子たちに、「わたしの友よ」と呼びかけました。これは珍しいことです。主イエスの友とされることにより、私どもは天の神を、「あなたがたの父よ」「私どもの父よ」と親しく呼ぶことが出来るようになったのです。どんなに心配に捕らわれても、思い煩いに取り憑かれても、「私どもの父よ」「わたしの父よ」と親しく呼びかけることが出来る。天の父が大いなる御手の働きを、小さな私どものためにして下さるのだと信じることが出来る。
しかし、そのために、主イエスは十字架の上で、私どものために命を注がれなければならなかったのです。そこにこそ天の父の大いなる御手が働かれた。神の御子の命とあなたがたの命は等しい重さを持っている。同じ値打ちを持っている。あなたは私の大切な友、そして私どもは、どのような時にも、「天のわれらの父よ」、と呼ぶことが出来る。それがどんなにか大きな恵みであり、喜びであることか。だから恐れるな。
②神学生の時、鎌倉雪ノ下教会の教会堂建築が行われていました。加藤常昭先生は授業で、教会堂建築の神学的な意味を講義されました。新会堂は長椅子から個別の椅子になるとの説明がありました。日本の教会堂としては珍しいことでした。金沢教会も以前の会堂では長椅子でしたが、新しい会堂では個別の椅子になりました。何故、長椅子ではなく、個別の椅子にするのですか、その神学的な意味は何ですか、と尋ねました。加藤先生から意外な答えが返って来ました。
今は平和な時代を生きているかもしれない。しかし、世界も、日本もいつ戦争の時代が訪れるか分からない。恐れが主の群れを支配すると、礼拝を捧げる人数も急激に少なくなって行く。また主の群れは脆いところがあり、教会の中に対立があると、一挙に礼拝する群れが減少して行くことがある。
そのような時、重い長椅子を片付けることは難しい。個別の椅子なら片付けやすい。そして自由の椅子を配置し、礼拝する形を整えることが出来る。金沢教会もコロナ前の会堂の椅子の配置と、今は配置は随分異なっています。聖餐卓、説教卓を囲むような椅子の配置になっています。加藤先生の説明を聞き、そこまで考えて会堂建築をされているのかと驚きました。
しかし、どのような椅子の配置になりましても、主イエスのこの御言葉が礼拝の真ん中に立つのです。
「小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる」。
最後に、同じルカが綴った御言葉に目を留めます。主イエスの御言葉と響き合っている御言葉です。使徒言行録20章28節(新約254頁)。ルカと一緒に伝道した伝道者パウロがエフェソの教会の長老に語った遺言説教です。伝道者が常に心に刻む御言葉です。
「どうか、あなたがた自身と群れ全体とに気を配ってください。聖霊は、神が御子の血によって御自分のものとなさった神の教会の世話をさせるために、あなたがたをこの群れの監督者に任命なさったのです」。
主の群れ・教会は何よりも、神が御子の血で贖い取られた神の教会です。その神の教会を牧するために、伝道者、長老、そして信徒一人一人が召し出されたのです。
お祈りいたします。
「小さな信仰の中に、いっぱい不安があり、心配があり、思い煩いが溢れています。その時、キリストを小さくしています。天の父の懐が見なくなっています。そのような不信仰な私どものために、十字架でいのちを注いで下さった主よ。わたしの友よ、私どもの父よと呼びかける道を拓いて下さった主よ。恐れるな、小さな群れよと呼びかけて下さった主よ。どうか天の父の御手の働きが今、ここでなされていることを見させて下さい。恐れることなく、小さな主の群れとして前進させて下さい。
この祈り、私どもの主イエス・キリストの御名により、御前にお捧げいたします。アーメン」。