top of page

「成熟した人間になろう」

エゼキエル33:10~20
エフェソ4:1~16

主日礼拝

牧師 井ノ川 勝

2023年8月27日

00:00 / 36:10

1.①誰もが願っていることがあります。それは、成熟した人間になりたい。人間として成熟したいということです。今のままで留まっていたくないということです。人間として成熟した存在となって行く。これは一生の問題です。死に直面するまで問われることです。生きるということは、成熟した人間を目指して成長し続けて行くことでもあります。

 今朝、聴いたエフェソの信徒への手紙4章に、このような御言葉が語られていました。

「わたしたちは、もはや未熟な者ではない」。「成熟した人間になり、成長するのです」。

 ここに、この朝、私どもが追求する「成熟した人間になり」という言葉が語られています。「成熟した人間」という言葉は「大人となり」という意味でもあります。従って、「もはや未熟な者ではない」は「もはや子どもではない」という意味でもあります。私どもはいつまでも子どものままで留まってはいられない。大人となって、しかも成熟した人間となって、成長して行くのです。それでは、人間として成熟するとはどういうことなのでしょうか。成熟した人間とはどのような存在なのでしょうか。

 

②エフェソの信徒への手紙を書いたのは、最初の教会の中心的な伝道者であったパウロです。パウロは、人間の成熟を語る時に、個人の問題として語っていません。教会が成長して行くことと関連して語っています。成熟した人間になることと、教会が成長して行くこととは、一つのことであると語っています。私どもが洗礼を受け、キリスト者となって教会に連なることは、人間として成熟して行くことと繋がっているのです。

 私自身しばしば振り返ることがあります。それは私自身だけでなく、ここにおられる一人一人が感じていることでもあると思います。もし、私が洗礼を受けず、キリスト者にならず、教会に連なって生きることをしなかったら、今の私ではなかった。人間としてもっともっと未熟であったのではないか。信仰はその人の生き方、考え方、人格、人間をも形造って行くものだと改めて思うのです。教会は私どもの外になるのではなく、教会と私どもとは一体であるのです。

 森有正というキリスト者であり哲学者であった方が、『内村鑑三』という本を書かれています。内村鑑三に関する本は数多く出版されていますが、この本はその中で最も小さな書物です。それだけに森有正が、内村鑑三に注目している一つのことが語られています。内村鑑三は教育勅語が拝読されている時に、拝礼しなかったことから、不敬罪に問われ、第一高等学校の教師を罷免されました。高校の日本史にも記されている有名な不敬事件です。森有正は語ります。内村鑑三は近代日本社会において、自立して生きた日本人であった。成熟した人間として生きた日本人であった。その理由はどこにあるのか。神の面前で、神の呼びかけに責任をもって応えて生ようとした。そこに自立した人間、成熟した人間の姿がある。人々のまなざし、世間の目ではなく、神のまなざしの前で、神の呼びかけに責任をもって応えて生きようとした。それが内村という人間を形造った。

 伝道者パウロも今日の御言葉の冒頭で語ります。

「あなたがたは神から招かれ、呼びかけられたのですから、その招き、呼びかけにふさわしく歩みなさい」。

 

2.①ここで注目してほしいことがあります。伝道者パウロが語る「成熟した人間」という言葉は、実は複数形ではなく、単数形が用いられています。ということは、教会に連なる教会員の中で、ある人は成熟した人間、ある人はまだ未熟な人間であると判別するのではないということです。成熟した人間は未熟な人間を批判し、切り捨てるのではなく、むしろ執り成して行くのです。手助けして行くのです。そのようにして一人の成熟した人間となって行くのです。教会はキリストに連なるキリスト者の交わりです。私どもが一人の人間として譬えられているのです。キリストに連なる一人の人間として成熟しているかどうかが問われています。それは同時に、教会の成長、成熟と一つのことであるということです。

 ここでパウロが語る「成熟した人間」が、どのような文脈の中で語られているのか、改めて聴きましょう。

「わたしたちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ち溢れる豊かさになるまで成長するのです。こうして、わたしたちは、もはや未熟な者ではなくなり」。

 私どもが成熟した人間であることは、一体どこで計られるのでしょうか。神の子である主イエス・キリストに対する信仰と知識において一つとされているかどうかです。主イエス・キリストは何者であり、私どものためにどのような御業をされたのか。そのキリストに対する信仰と知識において、私どもが一つにされることです。それは言い換えれば、キリストの呼びかけに、私どもが常に新たに、一つとなって応答して行くことが、キリストへの信仰と知識です。キリストが聖書を通し、説教を通して、私どもに呼びかけて下さる。私どもは祈りと賛美を通して、常に新たに応答して行く一つの群れとなることです。それが明らかにされるのが、何よりも主に向かって礼拝を捧げる私どもの姿勢であるのです。キリストに対する信仰と知識とが不明確になる。キリストを見失ってしまう。その時、キリストに連なる私どもは成熟さを失うのです。

 それ故、キリストに連なる私どもは、キリストへの信仰と知識を明確にし、キリストの呼びかけに応えて、愛に根ざして真理を語り、あらゆる面で、頭であるキリストに向かって成長して行くのです。

 

②先週、夏期休暇をいただき、娘たちと会う機会がありました。娘が4歳のわが子に、絵本を読んでいました。とても哲学的な絵本なんだよと言って、読み聞かせていた絵本は、ヨシタケ・シンスケ著『ふまんがあります』でした。題名がとても面白い。どんな絵本なのか興味深く聞いていました。女の子がお父さんに、子どもとしての不満をぶつけるのです。「わたしは、いま、おこっている。なぜなら、おとなは、いろいろと、ズルいからだ」。「パパ、わたしは、ふまんがあります!」。女の子はお父さんに面と向かって、いろいろな不満をぶつけます。お父さんは正座して、娘の不満を受け留め、応えて行きます。「どうして、おとなは、よるおそくまで、おきているのに、こどもだけ、はやく、ねなくちゃいけないの!」。「それはねぇ・・」とお父さんは応えます。「子どもが寝た後、さんたさんが来て、子どもの様子を聞きに来るからなのさ」。

 娘の不満に対して、お父さんの応えは、娘と一緒に、夢を見るような応えをしているところに特徴があります。笑いながら、絵本の読み聞かせを聞きながら、教会の群れにも当てはめることが出来るなと思いました。

 地上の教会はいろいろな面で成熟していない、未熟なところがあります。教会に連なる牧師、長老、信徒にも未熟なところがあります。教会に対して、「わたしには不満があります」と言われたら、様々な点が挙げられるでしょう。教会に対する不満を言われたら、牧師、長老であっても受け留め切れないところがあります。教会に対する不満から、教会から離れて行った教会員も多くいます。そのことを心に留めると、心が痛みます。しかし、そこで大切なことは、教会の頭であるキリストが、私どもの教会に対する不満を受け留めて下さり、私どもに一つの幻、ビジョンを見させて下さることです。キリストへの幻、ビジョンです。

 ここで面白いと思うのは、伝道者パウロが詩編68編19節の御言葉を引用して語っていることです。

 キリストは天にまで昇られたというのですから、低い所、地上に降りて来られたのではないでしょうか。この降りて来られた方が、すべてのものを満たすために、もろもろの天より更に高く昇られたのです。パウロが描くキリストのイメージです。教会はキリストの体であり、その頭はキリストである。キリストの頭は天にまで突き出てしまわれた。私どもが帰るべき天の故郷を備えて下さった。しかし同時に、キリストの体、手足は地上にある。天の故郷に帰るその日まで、私どもはキリストの体に連なる手となり、足となって働くのです。キリストの体に連なる手となり、足となり、キリストの心をわが心とし、キリストの御言葉をわが御言葉とすることにより、成熟した人間とされて行くのです。

 

3.①今朝も、全てのキリスト教会の信仰の土台にある「使徒信条」を告白しました。聖書の福音を凝縮したものです。「使徒信条」を唱えながら、皆さんの中で、心に引っかかったことがあると言われる方がいるかもしれません。「我は父なる神を信ず。我は子なる神キリストを信ず。我は聖霊を信ず」。ここまではアーメンと言える。しかし、問題は次の言葉である。「我は聖なる公同の教会を信ず」。「我は教会を信ず」。教会は破れに満ちている。とても教会を信ずとは言えない。教会に対する不満はたくさんある。しかし、にもかかわらず、教会はやはり信ずべきものなのです。教会はキリストの体、その頭はキリストである。我は教会を信ず。

 エフェソの信徒への手紙4章は、教会とは何かと問いかける時に、必ず挙げられる大切な御言葉の一つです。ここで注目すべきは、「一つ」という言葉が実に7回も繰り返されていることです。

「体は一つ、霊は一つ、希望は一つ、主は一人、信仰は一つ、洗礼は一つ、神は唯一」。

 地上の教会はしばしば、人間の罪により分裂するという悲しい出来事に直面して来ました。しかし、教会は本来一つである。何故ならば、神は唯一、主は一人、体は一つ、霊は一つ、洗礼は一つ、信仰は一つ、希望は一つであるからです。これらの言葉は礼拝の時に、あるいは洗礼式の時に、牧師が主に代わって呼びかけ、会衆がそれに応答する、交読文のような言葉であったのではないかと言われています。ここにも主の呼びかけに応答して生きる一つの主の群れの姿があります。

 主は一人、教会は一つ。しかし、教会に連なる私ども一人一人に、キリストの賜物のはかりに従って、様々な恵みが与えられています。賜物は多様です。ある人は使徒、ある人は預言者、ある人は福音宣教者、ある人は牧者、教師とされています。御言葉を語る者だけではありません。この後には、様々な奉仕をする者が続くのです。主から与えられた賜物は多様です。一人一人が主の召しを与えられ、主の召しに応えて歩むのです。一つの教会を形造る手となり、足となって、喜んで奉仕するのです。

 

②島崎光正さんという二分脊髄という障がいを負われた詩人がいました。「坂に向かって」という詩があります。仲間と一緒に車椅子で坂道を上がって行く時の詩です。

「車いすのスポークは朝の光に濡れながら、

 いま坂を登ってゆく」

このように歌い始めて、長い詩が続き、このように結びます。

「友よ さらに

 風に向かって、道を辿ろう

 遅い一歩一歩は

 前進への確証

 招きへの応答

 存在は声だ」。

 風に逆らって車椅子で坂道を登って行くのは、厳しいことです。遅い一歩一歩です。将に人生の歩みと重なり合います。信仰生活と重なり合います。しかし、仲間と励まし合いながら遅い一歩一歩を登って行く。遅くても前進して行く。その前進とは、招きに応え続けることです。存在は声だ。お互い時々励まし合うかもしれない。しかし、黙って一所懸命に車椅子を漕ぐだけかもしれない。しかし、存在そのものは、神の招きに応える声になっていると言うのです。

 エフェソの信徒への手紙4章は、主の呼びかけから始まりました。「あなたがたは神に招かれたのですから、その招きにふさわしく歩みなさい」。「あなたがたは神に呼ばれたのですから、その呼びかけにふさわしく歩みなさい」。「あなたがたは神に召し出されたのですから、その召しにふさわしく歩みなさい」。この招く、呼ぶ、召すという言葉が、職業という言葉にもなりました。

 神の招き、神の呼びかけが、私という存在を形造っている。その存在そのものが、神の呼びかけにお応えする声となっている。疲れもある、苦しみもある、もう諦めてしまおうという誘惑もある。何故、私だけがこんなに重荷を背負わなければならないのかという呟き、不満もある。しかし、主の呼びかけに応える私どもの存在を形造る声は、喜びの声になっている。主の召しに応える喜びの声になっている。

 主の召しに応えて、一人一人に多様な賜物が与えられ、その賜物を生かして奉仕の業に励み、キリストの体を造り上げて行く。「奉仕に業に適した者とされ」とあります。「適した者とされ」は面白い言葉です。「脱臼を整復する」という意味です。柔道の競技中に、組み合い、肩を脱臼してしまう。その脱臼した肩を元通りに治す。教会に連なる私ども一人一人は、主から与えられた賜物を生かしながら、脱臼してしまった信仰の仲間の治療をするのです。共に苦しみ、共に慰め合う教会の姿がここにあります。

 

4.①「成熟した人間」という言葉は、「全き人」「完全な人間」という意味でもあります。そのように訳している聖書の方が多いと言えます。「成熟した人間」は「全き人」であり「完全な人間」である。そう言われますと、私どもにはとても無理ですと思ってしまいます。「全き人」「完全な人間」は、主イエス・キリストしかいないと思ってしまいます。実際、そのように指摘される神学者もいます。しかし、「全き人」「完全な人間」である主イエス・キリストに連なることにより、私どもも成熟した人間にされて行くのです。カルヴァンはキリストは魂の医者だと言いました。脱臼した私どもの痛みを癒し、元の状態に回復させる医師です。しかし、私どもも言葉と存在を通して、キリストの癒しを実行するのです。脱臼した部分を癒し、元の部分に戻すのです。

 伝道者パウロは語ります。

「キリストにより、体全体は、あらゆる節々が補い合うことによってしっかりと組み合わされ、結び合わされて、おのおのの部分は分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆくのです」。

 今年の教会学校の夏期学校は、「教会はキリストの体、キリストは頭」という御言葉から、幼稚科、小学科が分級で様々な制作をしました。小学科低学年は、頭、胴体、手、足からなるキリストの体を造りました。一つ一つの部分が関節により結び合わさっています。体の部分を繋ぐ関節こそ、キリストの愛です。

 伝道者パウロは冒頭で、主の招きから語り始めました。

「あなたがたは、神から呼ばれたのですから、その呼びかけにふさわしく歩みなさい」。

そして、こう続けて語りました。

「一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ちなさい。愛をもって互いに忍耐し、平和のきずなで結ばれて、霊によって一致を保つように務めなさい」。

主の呼びかけに応える私どもの歩みは、愛をもって互いに忍耐する歩みでもあります。

 

②夫婦の生活、親子の生活、教会生活、いずれにしても、共に生き、共に歩む生活には、「我慢」を伴います。我慢強い人間こそ成熟した人間であるとほめられることでしょう。しかし、「我慢」という言葉は元々良い意味ではありませんでした。元々は仏教の用語のようです。「我慢」の「我」は、我に執着するの我です。「我慢」の「慢」は高慢の慢です。我に執着して高慢になるという意味だそうです。我慢強いというのは、我を決して失うまいとして、我にしがみつくように生きることです。

 しかし、聖書が語るのは「愛をもって互いに忍耐し」です。「我慢」とは違います。「忍耐する」ということは、我を失わないために、じっと我慢することではありません。「受け入れる」という意味です。従って、「愛をもって互いに忍耐し」は、「愛をもって互いに受け入れ合いなさい」ということです。受け入れることにより、愛をもって忍耐するのです。主から与えられたそれぞれの賜物を受け入れ合いながら、愛をもってお互いキリストの体として補い合い、しっかり組み合わされ、結び合わされて、頭であるキリストに向かって成長し、成熟した人間となって行くのです。共に歩む教会員の賜物の豊かさに驚きながら、歩調を合わせて歩んで行くのです。

 

 お祈りいたします。

「主がこの私にも呼びかけて下さいました。それ故、キリストの体に連なる手とされ、足とされました。主から与えられた賜物を、喜んで主のために用いさせて下さい。共にキリストの体に連なる部分を重んじ合い、補い合い、励まし合いながら、しっかりと組み合わされ、結び合わされて、頭なるキリストに向かって成長し、成熟した人間とならせて下さい。完全なる人キリストの愛によって結び合わされ、愛をもって互いに受け入れ合い、主の召しにふさわしく、共に歩ませて下さい。

 この祈り、私どもの主イエス・キリストの御名により、御前にお捧げいたします。アーメン」。

bottom of page