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「揺るぎなき祝福に生きる」

民数記 6章22~27節
コリントの信徒への手紙二 13章1~13節

井ノ川 勝 牧師

2026年7月12日

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2026.7.12. 「揺るぎなき祝福に生きる」

       民数記6:22~27,コリント二13:1~13


1.①私どもが今、捧げている礼拝は、招きの詞で始まり、祝祷で終わります。神がこの朝、私ども一人一人の名を呼ばれ、私の許に来なさいと招いて下さり、神の御前に立つことが赦されました。礼拝は私どもが今朝は礼拝に行こうと決心することから始まるのではなく、神の招きから始まります。それ故、礼拝の冒頭で、神の招きの詞が朗読されます。

「全地よ、主に向かって喜びの声を上げよ。

 喜びながら主に仕えよ。

 喜び歌いつつその前に進み出よ」。

 礼拝は祝祷で終わります。「祝祷」という言葉は、しばしば誤解を生みます。私どもが神の祝福を祈ると理解されます。あるキリスト教団が新しい式文を作成しました。葬儀の式文も新しくしました。葬儀は棺に納められている故人と、地上で捧げる最後の礼拝でもあります。それ故、葬儀の最後も「祝祷」で終わります。しかし、そのキリスト教団は、葬儀の最後の「祝祷」を「終祷」、終わりの祈祷と変えました。悲しみの葬儀に、祝祷はふさわしくないと理解したからです。しかし、これが誤解です。

 「祝祷」は、私どもが神に向かって、祝福を祈るのではありません。神が私どもに祝福の宣言をして下さるのです。それ故、「祝福」と言った方がふさわしいと言えます。私どもが今、捧げている礼拝、あるいは6月には4名の方の葬儀を行いました。礼拝において、葬儀において、私どもはここで何をしているのでしょうか。神の祝福の宣言を聴くのです。神の祝福があなたがたにあることを確信するのです。礼拝を捧げ、祝福の宣言を聴き、神の祝福を受けた。しかし、それにもかかわらす、悲しみや苦しみに直面したら、神の祝福がないのではありません。病に罹ったら、神の祝福がないのではありません。死に直面したら、神の祝福がないのではありません。生きる時も死ぬ時も、健やかな時も病む時も、喜びの時も悲しみの時も、どのような時にも、神の変わらざる祝福があなたがたにある。神の揺るがない祝福があなたがたにあることを、神は宣言して下さるのです。神の祝福がある。それは言い換えれば、神はどんなことあっても、日々の生活にあって、あなたがたと共に生きておられるということです。

 

私どもの礼拝の最後に、葬儀の最後に、祝祷があります。神の祝福の宣言です。そこで用いられる御言葉があります。その御言葉を今朝の礼拝で聴いたのです。一つは民数記6章24~26節です。祭司アロンの祝福の言葉です。

「主があなたを祝福し、あなたを守られるように。

 主が御顔の光であなたを照らし、あなたに恵みを与えられるように。

 主が御顔をあなたに向けて、あなたに平和を賜るように」。

ああ、ここにこの御言葉があったのか。そう思われた方もいるかもしれません。

 もう一つがコリントの信徒への手紙二13章13節です。キリストの祝福、父、子、聖霊なる三位一体の神の祝福です。

「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にありますように」。

 私どもが礼拝で、神の祝福を受けて、信仰の歩みを始める。そこには様々な問題が起こる。しかし、神の祝福を受けて生きるとは、どういうことなのでしょうか。

 

2.①先週の月曜日、北陸学院大学の礼拝で、大学生に向かって説教をしました。7月の主題は「勇気」でした。勇気を主題とする御言葉を説き明かしました。サッカーのワールドカップで、日本のチームは残念ながら、後一歩のところで敗戦しました。日本チームの勇気ある戦いが称賛されました。勇気とは、どんな困難なことがあっても立ち向かうこと。どんなに苦しいことがあっても、挫けないこと。勇気とは立ち向かう勇気であると、私どもは受け留めています。

 そのような時に、「こころの友」という月刊紙の7月号が教会に届きました。その中の、こういう言葉が目に留まりました。「弱さを受け入れる勇気」。私どもは弱さを受け入れる勇気が必要である。自分の弱さを受け入れることは、容易なことではありません。私どもは自分の弱さを受け入れようとしません。自分の弱さを受け入れたら、受験競争に負けてしまう。会社の出世争いに負けてしまう。それ故、自分の弱さを受け入れられない。しかし、そのことによって苦しんでいる方は多くいます。

 この朝、私どもが聴きましたコリントの信徒への手紙、10章~13章が一つのまとまりとなっています。伝道者パウロが感情を丸出しにして、涙を流しながら書いた「涙の手紙」とも呼ばれています。

この個所に繰り返し出て来る言葉が、「弱さ」です。「弱さ」が主題となっています。信仰生活において、「弱さ」をどうのように捉えるのかは、重要なことでもあります。

 ギリシャ半島にあるコリントの教会は、伝道者パウロの伝道によって生まれた教会です。しかし、コリントの教会は様々な問題を抱えていました。教会員同士が対立していました。自らの強さを誇り、弱い信仰者を裁く者もいました。弱さを受け入れようとしない。また、伝道者パウロに対して、反発する人も多くいました。「パウロ先生は面と向かっては弱腰だが、離れていると強気になる」と言って批判する人もいました。「パウロ先生の手紙は重々しく力強いが、実際に会ってみると弱々しい人で、話もつまらない」と批判する人もいました。伝道者パウロの弱さを批判する者もいました。

 パウロは三度目のコリント教会への訪問を計画していました。そしてこう語ります。「そちらに行ったら、今度は情けはかけません」。激しい言葉です。「容赦しない」という意味です。パウロとコリントの教会の関係が緊張関係にあることを表してします。

 パウロは肉体に一つの棘を負っていました。病を抱えていました。そのつげを取り去ってほしいと、何度も主に祈りました。しかし、主は答えられた。「私の恵みはあなたに十分である。力は弱さの中で完全に現れるのだ」。それ故、パウロは語りました。「だから、キリストの力が私に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。なぜなら、私は弱いときにこそ強いからです」。

 直前の12章で語られていたことです。

 

それを受けて13章でも、パウロは弱さを語っています。3~4節です。

「キリストはあなたがたに対して弱い方ではなく、あなたがたの内になって強い方です。キリストは弱さのゆえに十字架につけられましたが、神の力のゆえに生きておられるからです。私たちもキリストにあって弱い者ですが、あなたがたに対しては、神の力のゆえにキリストと共に生きるのです」。

 ここでパウロが語る私どもの弱さ、キリストの弱さとは、どのような意味を込めているのでしょうか。コリントの教会の問題点は、弱さを受け入れない点にありました。それがどこに現れるかと言えば、愛することにおいてです。愛することの出来ない弱さ。そこに罪がある。主イエスが何よりも強調されたことは、愛の戒めに生きなさいということでした。神を愛し、自分を愛し、共に生きる隣人を愛して生きなさい。愛の交わりに生きなさい。そこに教会の交わりがある。しかし、私どもは神を愛することにおいても、自分を愛することにおいても、共に生きる隣人を愛することにおいても破れている。愛の破れがある。愛することが出来ない。赦すことが出来ない。そこに私どもの弱さがある。罪がある。

 伝道者パウロはそのような教会の現実を受け止めて、語られます。自分を吟味しなさい。自分の信仰を吟味しなさい。あなたがたは自分自身のことが分からないのですか。あなたがたの内にイエス・キリストが生きておられるではないか。愛の破れを来している教会の交わりの中に、しかし、キリストは生きておられるではないか。あなたがたの内にいるキリストを知った時、自分自身が誰であるかを知る。

 キリストはあなたがたに対して弱い方ではなく、あなたがたの内にあって強い方である。しかし、キリストは私どもの弱さのゆえに十字架につけられましたが、神の力のゆえに甦らされて生きておられる。それ故、私たちもキリストにあって弱い者ですが、あなたがたに対しては、神の力のゆえにキリストと共に甦らされて生きるのです。

 

3.①ある方が、この3~4節の御言葉は、洗礼の出来事を語っている。洗礼式の時に語られた言葉、讃美歌ではないか。パウロが繰り返し、あなたがたは初心に帰りなさいと語ります。初心に帰ることは、洗礼の出来事に立ち帰りなさいということです。

 洗礼は、私ども古い人間がキリストと共に十字架につけられて死に、キリストと共に新しい人として甦らされて生きることです。キリストの十字架の死と甦りの出来事を追体験することです。それがこの御言葉なのです。

 キリストはあなたがたに対して弱い方ではなく、あなたがたの内にあって強い方である。しかし、キリストは私どもの弱さのゆえに十字架につけられましたが、神の力のゆえに甦らされて生きておられる。それ故、私たちもキリストにあって弱い者ですが、あなたがたに対しては、神の力のゆえにキリストと共に甦らされて生きるのです。

 さあ、私どもの信仰の原点、初心に立ち帰ろう。洗礼式に歌った讃美歌を共に歌おう。ここから始めよう。キリストにあって愛の交わりを始めよう。私が願うことはただ一つ。あなたがたを倒すためではなく、建てるためである。愛の家を建てるためである。

「終わりに、きょうだいたち、喜びなさい。初心に帰りなさい。励まし合いなさい。想いを一つにし、平和に過ごしなさい。そうすれば、愛と平和の神があなたがたと共にいてくださいます」。

 そしてパウロは最後を、祝祷で結ぶのです。祝福の宣言で結ぶのです。愛の破れを来しているコリントの教会が、しかし、キリストの祝福の中にあることを確信するのです。

「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にありますように」。

 

富士見町教会の初代牧師・植村正久牧師が、この祝祷の御言葉一句で、説教をしています。「理想的祝辞」という題の説教です。なぜキリストの恵みが真っ先に告げられているかと問うて、こう答えます。

 私どもが神の愛を知り、聖霊の交わりの中にあることを感じるのは、主イエス・キリストの恵みを経験するからである。パウロはキリストの愛が私たちを捕らえて離さないと語っています。キリストの愛、われを挟めり。

 そして植村正久牧師は、スコットランドの盲人牧師であったジョージ・マセソンの讃美歌を翻訳して、紹介します。マセソン牧師のよく知られた讃美歌に、讃美歌21の529「主よ、わが身を、とらえたまえ、さらばわがこころ、解き放たれん」があります。それと共に、1954年版讃美歌の360です。残念ながら讃美歌21には納められていません。愛する妹との別離に直面して作詞したと言われています。

 神は私を決して手放さないほどに愛しておられる、神は決して私どもを見放すことはない。そのような主の愛を歌い、主の愛に応える献身を歌った讃美歌です。

 「私を決して手放すことのない愛よ、疲れた魂をあなたの内に憩わせてください。あなたから与えられたこの命を、あなたに献げてお返しします。

 私の頭を持ち上げる十字架よ、あなたから逃げることのできない、塵なるわたしをも、永遠の命の花をば咲かせてください」。

 逃れようにも逃れられない主イエス・キリストの愛の中で、祝福と平安を知る。そこに根ざして、父なる神の愛と、聖霊の交わりもまた確かな祝福となる。

 

4.①私が大学生の時、青山学院大学短期大学の宗教主任に、鈴木有郷先生がおられました。アメリカ合同メソジスト教会の宣教師として派遣されました。『アブラハム・リンカンの生涯と信仰』という本を書かれています。30年間大学で奉仕され、アメリカに帰国される時に、これまでの説教、文章をまとめて一冊の書物を出版されました。『砕かれた魂~人間の人間らしさ~』。その中で、アメリカの地方の教会の礼拝に出席した時、老牧師が礼拝の最後で捧げた祝祷が心に深く刻まれた。アイルランドの移民が伝えた祝祷と言われている。「アイリッシュ・ブレッシング」。旅立ちの時に捧げられた祝祷ではないかと言われている。鈴木有郷先生も、大学の卒業式に祝祷として捧げたと言う。

「あなたの前に歩むべき道が常に開かれるように。

 風があなたの背中を優しく押すように。

 太陽があなたの顔を温かく照らすように。

 雨があなたの田畑をしとしとと潤すように。

 そしてまた会う日まで、

 願わくは、慈しみの神が、あなたをしっかりと御手のうちに置き給い、

 あなたに平安を賜るように」。

 

私どもは礼拝の最後で祝祷、祝福を受けて、それぞれの場所へと遣わされます。旅立って行きます。もしかしたら、これが地上で受ける最後の祝福になるかもしれません。しかし、私どもはキリストの確かな祝福の中で、生き、死ぬのです。

 教会の葬儀では、死者に冥福を祈ることはしません。生きる者も、死ぬ者も、キリストの確かな祝福の中にあると確信するからです。私どもは亡くなった方のことを心配する必要はないのです。死に勝利した揺るがない確かなキリストの祝福の御手の中にあるからです。祝祷、祝福の宣言は同時に、神から派遣されることでもあります。私どもの命は死で終わるのではない。葬儀で終わるのではない。ここから神によって、新しく旅立つのです。天の故郷を目指して旅立つのです。それ故、礼拝の最後も、葬儀の最後も、この祝福の宣言を聴くのです。

「主があなたを祝福し、あなたを守られるように。

 主が御顔の光であなたを照らし、あなたに恵みを与えられるように。

 主があなたに向けて、あなたに平和を賜るように。

 主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と

共にありますように。アーメン」。

 

 お祈りいたします。

「どのような時も、キリストの愛が私どもを捕らえて離さないのです。キリストは私どもを見捨てることも、見放すこともないのです。確かなキリストの愛の中にありながら、神への愛を失う私どもです。自分自身すら愛せない私どもです。共に生きる隣人を愛し、赦せない私どもです。私どもの思いを遙かに超えて、主よ、どうか私どもを主の愛で捕らえて下さい。打ち砕かれ悔いる心をもって、キリストの愛に生きる主の群れを形造らせて下さい。主の愛に応えて、主の愛を運ぶ器として用いて下さい。主の祝福の中で、遣わして下さい。

 この祈り、私どもの主イエス・キリストの御名により、御前にお捧げいたします。アーメン」。

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