「明日に向かってパンを投げよ」
コヘレト11:1~6
ヨハネ6:41~51
主日礼拝
井ノ川勝
2025年6月29日
1.①6月、私は三名の方の葬儀に出席しました。上旬に、妻の父の葬儀を東京の教会で行いました。中旬に、金沢教会の方々とも親しい交わりにあり、キリスト教幼稚園の保育者でもありました、白銀教会の横江栄子さんの葬儀に出席しました。そして昨日、共に礼拝を捧げ、信仰の歩みをして来た、教会員の濱鍛治勝義さんの葬儀がこの礼拝堂で行われました。親しい方の死に直面した時に、私どもの命は死と向き合っていることを実感いたします。私どもは死と向き合いながら生きていることを、改めて思わされます。
先週の月曜日、牧師室にいましたら、ある方が訪ねて来ました。教会堂の前の掲示板に掲げてある説教題を見た。「明日に向かってパンを投げよ」。どういう意味なのですかと尋ねて来られました。そして自分が今、抱えて悩みを話されました。私はその方のために祈りました。そうしたら、その方も続けて祈られました。私は何年かぶりに神さまに祈りをした。今は教会を離れているが、以前は教会に通っていた。神さまに自分の悩みを打ち明けたら、顔の表情が明るくなり、「ありがとうございました」と言って、帰って行かれました。説教題の「明日に向かってパンを投げよ」。聖書の御言葉から採った題です。聖書の御言葉には、人の心を捉える力があると、改めて思いました。
②「明日に向かってパンを投げよ」。本日の説教題は、今、私どもが聴きましたコヘレトの言葉11章1節の御言葉から付けたものです。
「あなたのパンを水面に投げよ。月日が過ぎれば、それを見いだすからである」。
パンを水面に向かって投げる。こんな無駄なことはありません。一体どういう意味なのでしょうか。元々は海上貿易の譬えから生まれたと言われています。船にパンや物資を積んで、海の彼方の国々に届ける。ところが、途中、嵐が襲い掛かり、荒波に直面し、難船してしまう。全ての苦労が水の泡となってしまう。しかし、海の彼方に、パンを求めている人々がいる以上、諦めずに、何度も何度も、船にパンを積み込んで航海を試みる。そうすれば必ず報いが与えられる。
そこから転じて、私どもの愛の業を意味するようになりました。私どもの愛の業は、パンを水面に投げるようなもの。相手が愛の業を喜んで受け止めてくれるとは限らない。報われないことが多い。しかし、たとえ、直ぐに報われなくても、諦めずに、愛の業を励み続けなさい。あなたのパンを水面に投げつけなさい。そうすれば月日が経って、必ず報われる。
私が大学生時代、教会の青年会で、大学のキリスト教のサークルで、よく歌った讃美歌があります。近ごろ、歌われなくなった讃美歌です。報いを望まず愛の業に励もうという讃美歌です。讃美歌21-566。コヘレトの言葉の11章の御言葉から生まれた讃美歌です。
「むくいを望まで、人に与えよ、こは主のとうとき、みむねならずや、
水の上に落ちて、流れしたねも、いずこの岸にか、生いたつものを」。
2.①「あなたのパンを水面に投げよ。月日が過ぎれば、それを見いだすからである」。
この御言葉と響き合う御言葉が、同じ11章6節で語られています。
「朝に種を蒔き、夕べに手を休めるな。うまくいくのはあれなのか、これなのか、あるいは、そのいずれなのか、あなたは知らないからである」。
明日に向かって種を蒔け。蒔いたどの種が実を結び、どの種が実を結ばないのかは分からない。多くの蒔いた種が実を結ばないかもしれない。しかし、必ず実を結ぶ種がある。それだから、明日に向かって、諦めずに種を蒔き続けなさい。
「明日に向かってパンを投げよ」。「明日に向かって種を蒔け」。教会は、パンと種を、御言葉のパン、御言葉の種として受け止めて来ました。何よりも、教会の伝道の業を表す御言葉として受け止めて来ました。教会の伝道の業は、御言葉のパンを水面に投げるようなもの。御言葉の種を蒔くようなもの。その多くは報われない、徒労に終わるように見える。教会は効率の悪い、無駄なことをしているように見えるかもしれない。しかし、たとえ効率が悪くとも、無駄であったとしても、御言葉のパンを投げなければ、御言葉の種を投げなければ、実を結ばない。たとえ少なくとも、必ず実を結ぶことを信じて、明日に向かって御言葉のパンを投げるのです。明日に向かって御言葉の種を蒔くのです。
②コヘレトの言葉11章、12章に、若者に向かって語りかける御言葉があります。私が大学生時代、学生伝道の集会で、よく語られた御言葉です。
「若者よ、あなたの若さを喜べ。若き日にあなたの心を楽しませよ。心に適う道を、あなたの目に映るとおりに歩め」。
「若き日に、あなたの造り主を心に刻め」。
当時の平均年齢は40歳に満たなかったと言われています。戦乱は絶えませんでした。誠に不安定な時代でした。明日、何が起こるのか全く分からない日々でした。若き日々は瞬く間に過ぎ去って行く。もしかしたら今日という日が、人生最後の一日になるかもしれない。それ故、今日なすべきことは何なのかを主に尋ね求めて、生きよ。何よりも、あなたの若き日に、あなたの造り主を心に刻んで生きよ。
このコヘレトの信仰を最もよく言い表したのは、宗教改革者ルターでした。ルターが語った有名な言葉があります。
「たとえ明日、終わりが来ようと、私は今日、りんごの木を植える」。
明日、世界の終わりがやって来る。人生の終わりがやって来る。今日が最後の一日となる。今日、りんごの木を植えても、明日、終わりが来たら、りんごの実りを得られない。こんなに空しく、無駄なことはない。しかし、ルターは語ります。私どもの信仰、生き方は、このことに尽きると言うのです。
「たとえ明日、終わりが来ようと、私は今日、りんごの木を植える」。
「明日に向かってパンを投げよ」。「明日に向かって種を蒔け」。この御言葉も、将に、そのような終末信仰を言い表しています。明日終わりが来ようと、あなたは今日、何をなすのか。
3.①金沢教会は4月から新しい聖書翻訳、『聖書協会共同訳聖書』を用いています。新しい聖書翻訳で、訳が最も変わったのが、コヘレトの言葉です。なぜならば、コヘレトの言葉の新しい解釈がなされたからです。東京神学大学の小友聡先生が、そのためにコヘレトの言葉を巡る新しい本を書かれました。『コヘレトの言葉を読もう~「生きよ」と呼びかける書』また、「こころの時代」というテレビ番組で、コヘレトの言葉を説き明かされました。「それでも生きる」という表題で、講義をされました。
コヘレトの言葉は、聖書の中でも、独特な音色を奏でています。始まりが独特です。
「空の空、空の空、一切は空である」。
また、結びもこの言葉で結ばれています。
「空の空、一切は空である」。
「空の空」という言葉が、「なんという空しさ、なんという空しさ、すべては空しい」と理解されて来ました。従って、コヘレトの言葉は、生きることは何と空しいことかと嘆く、虚無主義者の言葉、厭世主義者の言葉と受け止められて来ました。
しかし、小友先生は語られます。「空」という言葉には、「束の間」という意味がある。私どもの命、人生は束の間。それだから、人生は何と空しいことかと嘆くのではない。何も手が着かず、呆然と諦めるのではない。人生は束の間だから、今日をいかに生きるかが問われる。今日、なすべきことは何かを尋ね求め、今日を積極的に、肯定的に生きて行く。明日、終わりがあるから、今日を大切に生きるのです。明日、死があるから、今日を掛け替えのない一日として生きるのです。それこそが、コヘレトの言葉を貫く信仰なのです。
②9章7節以下に、このような御言葉があります。
「さあ、あなたのパンを喜んで食べよ。あなたのぶどう酒を心楽しく飲むがよい。神はあなたの業をすでに受け入れてくださった。いつでも衣を純白に、頭には香油を絶やさないように。愛する妻と共に人生を見つめよ、空である(束の間の)人生のすべての日々を」。
これまで、この御言葉は、どうせ明日、死ぬのだから、最後は食べて、飲んで楽しもうという、享楽的な言葉として受け止められて来ました。しかし、この御言葉こそ、コヘレトの言葉の信仰が最もよく表れています。昨日、濱鍛治勝義さんの葬儀を行いました。家族が亡くなったということを実感するのは、食卓です。いつもいた食卓に、家族の姿が見られない。寂しさが増します。それだけに、亡くなった家族の思い出として想い起こされるのは、共に食卓を囲み、食事をした日常の日々です。あの時、こんな言葉を交わしたね、と思い出します。
明日、終わりが来るからこそ、一回一回の食卓が掛け替えのないものとなるのです。一回一回の家族との食卓が一期一会となるのです。
「さあ、あなたのパンを喜んで食べよ。あなたのぶどう酒を心楽しむがよい」。この御言葉は、享楽的な言葉ではありません。小友先生は、「飲み食い賛美」と呼んでいます。一回一回の家族との食卓の交わりを大切にし、この食卓を備えて下さった神を賛美する言葉なのです。
表題の「コヘレトの言葉」。「コヘレト」とは、あだ名です。「集会を司る者」という意味です。人々を集会へ招き何をするのでしょうか。生きるための知恵を語るのです。私どもを生かす御言葉を語るのです。それ故、昔の聖書では、「伝道の書」と呼ばれていました。コヘレトは個人主義者ではありません。私どもを生かす命の御言葉を共に聴き、命の糧を分かち合う祝卓の交わりを重んじます。明日、終わりが来るからこそ、何よりも一人ではなく、共同体の交わりの中で生きようと勧めるのです。
4.①先週の主の日、石川地区交換講壇礼拝が行われました。私は若草教会で説教の奉仕をしました。若草教会の山本正人牧師より、教会学校でも子どもたちに説教をしてほしいと依頼されました。しかも、その日の教会学校教案誌『教師の友』の聖書の御言葉の指定がありました。ヨハネ福音書5章39節以下の、主イエスが語られた御言葉でした。
「あなたがたは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を調べているが、聖書は私について証しをするものだ。それなのに、あなたがたは、命を得るために私のもとに来ようとしない」。
教会学校に出席されているのは、幼稚園児、小学生、中学生の10名程でした。子どもたちに向かって、こんな説教をしました。
皆さんが読んでいる絵本の中に、飛び出す絵本があります。絵本を開くと、ノアの箱舟が飛び出して来ます。ノアとその家族が飛び出して来ます。ぞう、きりんが飛び出して来ます。だから、私どもは次に何が飛び出して来るのか、わくわくしながら絵本を開きます。それでは、聖書を開くと誰が飛び出して来るのでしょうか。イエスさまは語りました。聖書を開くと、イエスさまが飛び出して来るんだ。どの頁を開いても、イエスさまが飛び出して来るんだよ。飛び出して来たイエスさまは、私どもに何を語りかけるのでしょうか。この御言葉の直後に、イエスさまこう語られました。それがこの朝、私どもが聴いた御言葉です。
「私は、天から降って来た生けるパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる」。
驚くべき御言葉です。私は命のパン。私を食べる者は、永遠に生きる。イエスさまは自分の命を差し出し、私は命のパンだから、私を食べて生きなさいと言われます。しかも私を食べたなら、死んでも生きる。永遠に生きる。自分の顔をちぎり、私は命のパンだから、これを食べて、元気を出しなさいと、悲しんでいる子どもに差し出したヒーロー、皆さん知っているよね。そう、アンパンマンです。作者のやなせたかしさんは、カトリックで洗礼を受けていると言われています。アンパンマンは自分の命を差し出し、犠牲にしてまで、子どもたちを生かします。イエスさまも自分の命を差し出し、愚生にしてまで、私どもを生かします。しかも死を超えて生かして下さる。アンパンマンの原形は、そう、イエスさまなのです。
父なる神さまは、明日、終わりが来るかもしれない私どものために、明日に向かってパンを投げて下さいました。そのパンこそ、天から降って来た命のパン、イエスさまだったのです。
②昨日、濱鍛治勝義さんの葬儀を行いました。10年前から透析の日々でした。そして2年前から入院の日々でした。何度も、自宅、病院を、教会員と共に訪問しました。共に讃美歌を歌い、御言葉に聴き、祈りを捧げ、キリストの命、パンとぶどう汁の聖餐に与りました。「濱鍛治さん、聖書を読みますから、そのままで聴いて下さいね」と言いますと、必ず御自分の大きな聖書を開かれました。聖書には至るところ、様々な色の線が引かれてありました。様々な書き込みがなされていました。聖書を読むと言うより、聖書を読み込んでいました。
濱鍛治さんにとって聖書は耳で聴くものではなく、目で見て、確かめ、心に刻み付け、口で食べて生きる命の御言葉でした。命のパンである御言葉、命のパンである主イエス・キリストを食べなければ、私は今日を生きることが出来ない。死に打ち勝って生きることは出来ない。たとえ明日、終わりが来ようと、私は今日、命のパン・御言葉を食べて生きる。
5月の上旬、娘さんからお電話をいただきました。父は食欲が低下し、衰弱し、体が弱っている。父が今、何を望んでいるのか、いろいろと尋ねるけれども、うんと首を縦に振ってくれない。家に帰ろうか。教会から平日の30分の聖餐小礼拝の案内が来ているけれども、出席しようか。それでは牧師さんに来てもらおうかと尋ねたら、唯一、うんと首を縦に振った。翌日、濱鍛治さんを訪ねました。体は大分弱っていました。ベッドの上で横になっていました。耳元で、濱鍛治さんの愛唱讃美歌「慈しみ深き共なるイエスは」を賛美しました。そしてロマ書8章の御言葉を読みました。
「死も、どんな力も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から私たちを引き離すことはできない」。
濱鍛治さんに呼びかけました。「濱鍛治さん、どんな状態になっても、死に打ち勝たれた主イエス・キリストの命の御手の中にあるのですからね」。濱鍛治さんは、うんと頷かれていました。讃美歌を通し、聖書の御言葉により、命のパンである御言葉を、生けるキリストを口に入れて食されたのです。命の御言葉により、癒されたのです。それから奇跡的に食欲が回復し、笑顔が多くなりなりました。
先週の木曜日も、いつものように食事をされ、看護師に笑顔を応え、透析に向かわれました。それだけに、木曜日の昼過ぎ、娘さんから父が亡くなったとの知らせを受けて驚きました。7月の夏期訪問で再びお会い出来ず、心残りがあります。
5.①「明日に向かってパンを投げよ」。コヘレトの言葉は、私どもに語られます。一人一人の魂に向かって、パンを投げよ。命のパン・御言葉を投げよ。私ども教会の使命がここにあります。そのために、父なる神が明日終わりが来るかもしれない私どもに、明日に向かって投げられた命のパンこそ、主イエス・キリストです。私どもは命のパンである主イエス・キリストを食べながら、命の糧として生きるのです。死を超えて生きると約束されています。たとえ明日終わりが来ようとも、私は今日、命のパン・御言葉を食べて生きるのです。主は教会に生きる私どもに語られます。明日に向かって、一人一人の魂に、命のパン・御言葉を投げて生きよ。
お祈りいたします。
「主よ、明日どうなるのか、恐れと不安の中にあります。しかし、あなたは今日も、私どもの唇に、命のパン・御言葉を食べさせて下さるのです。命のパンを食べて生きよと語られるのです。いや、主イエス御自身が、私こそ命のパン。私を食べて生きなさい、死を超えて生きると語られるのです。主よ、命のパンで私どもを生かして下さい。明日に向かって、一人一人の魂に、命のパンを投げる教会の使命に生かして下さい。
この祈り、私どもの主イエス・キリストの御名により、御前にお捧げいたします。アーメン」。