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「来たれ、わたしの許に」

ホセア書11:1~4
マタイによる福音書11:25~30

主日礼拝

井ノ川勝

2024年9月8日

00:00 / 37:13

1.①私どもはそれぞれの場所で、責任を負いながら生きています。家庭、学校、職場、教会で、それぞれが責任を負って歩んでいます。母としての責任があります。教師としての責任があります。学生もクラスにおいて、クラブにおいて、様々な責任を担っています。教会でも様々な奉仕を、多くの方が責任をもって担っています。責任というものは、誠に重いものです。責任の重さというものがあります。その重圧、重荷は、その責任を負うた者でなければ分からないものがあります。また、自分が負うている責任の重さを、他の誰かに委ねることも出来ません。それ故、自分が負うている苦悩、重荷を、誰にも打ち明けることが出来ず、一人で苦しんでいることがあります。私ども一人一人がそのような苦悩、重荷を負いながら生きているのではないでしょうか。

 

最近、読んだ本の中に、きたやまおさむさんの『「むなしさ」の味わい方』があります。精神科医の立場から、「むなしさ」を考察したものです。自分が望んでいたものが得られない。大切なものが失われてしまった喪失感とむなしさは関係しています。北山修と聞きますと、今の高校生、大学生はご存じないと思いますが、私どもの世代では、フォークソングのグループの歌手として知られています。デビュー曲が天国から帰って来た酔っ払いという奇想天外な歌で、世間を驚かせました。しかし、その後は硬派の道を辿り、心が通い合わない悲しみ、虚しさ、朝鮮半島の分断の悲しみを歌いました。「悲しくてやりきれない」という歌があります。サトウハチローさんの詩です。

「胸にしみる 空のかがやき 今日も遠くながめ 涙をながす

 悲しくて 悲しくて とても やりきれない

 このやるせない モヤモヤを だれかに告げようか。

 白い雲は 流れ流れて 今日も夢はもつれ わびしくゆれる

 悲しくて 悲しくて とても やりきれない

 この限りない むなしさの 救いはないだろうか」。

私どもを包み込むむなしさは、どうすることも出来ず、取り返しがつかず、救いようがない。心の中のモヤモヤ、イライラを吐き出したくても吐き出せない。心の溜め池にどんどん溜まって行く。出るのはため息ばかり。

 「あの素晴らしい愛をもう一度」という歌があります。愛することはお互いが見つめ合うのではなく、一つのものにまなざしを注ぎ、共感することである。生きる目標、生きるために必要な真理。その一つのことにまなざしを注ぎ、共感し、共有し、励まし合いながら歩んで行く。歌の中でも歌われます。「あのとき、同じ花を見て、美しいと言った二人の、心と心が今はもう通い合わない」。

 この歌は恋愛歌でもあり、同時に、北山修さんと同じグループにいた加藤和彦さんとの関係を歌った歌でもありました。同じ人生の目標、真理を共有し合っていた二人の心が通い合わなくなる。言葉が通じ合わなくなる。その悲しみを歌った歌でもありました。加藤和彦さんは自死されました。精神科医である私が彼の傍らにいながら、何故、彼を救うことが出来なかったのか、見殺しにしたのか。自分で自分を責めています。その悲しみ、むなしさが語られています。

 問題は、私どもの心の中に溜まったモヤモヤ、イライラをため息のように吐き出す時、一体、誰に向かって吐き出すのかです。吐き出す相手がいなければ、益々心の溜め池に、モヤモヤ、イライラは溜まって行くばかりです。

 

2.①元旦に、能登半島に大きな地震が起こり、甚大な被害を及ぼしました。また先週は台風が襲来し、大雨が短時間に集中して降り、河川が氾濫し、大きな被害をもたらしました。予期せぬ自然災害に直面した時、私どもは住み慣れた自宅を離れ、避難所に逃げ込みます。避難所に逃げ込めば安全であり、安心だからです。それと同じように、私どもの人生には思い掛けない出来事が、突然襲い掛かります。自分一人の力では、到底太刀打ち出来ません。そのような時に、私どもが逃げ込む避難所が、是非とも必要です。人生の避難所、魂の避難所です。その避難所こそ、私どもの主イエス・キリストなのです。主イエス・キリストが今朝も、私ども一人一人に向かって呼びかけ、招いておられるのです。

「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」。元の言葉は、「わたしが、あなたがたを休ませてあげよう」となっています。他の誰でもない、このわたしが、あなたがたを休ませて上げようと呼びかけ、招いておられるのです。

 私は大学1年生の時、大学に講義に来ていた牧師に招かれて、その牧師が牧会していた教会の礼拝に出席するようになりました。渋谷の代々木公園の裏の高台にある教会でした。教会というところは不思議なところで、いろいろな方が神さまに呼ばれ、招かれているのだと思いました。ある方は、日曜日の朝、散髪に行く途中、教会の前を通りかかった。教会から讃美歌が聞こえて来た。教会の看板を見たら、この御言葉が目に飛び込んで来た。

「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。わたしが休ませてあげよう」。

 讃美歌とこの御言葉に招かれて、教会堂の中に初めて足を踏み入れた。外から階段を昇って礼拝堂に入る教会堂でした。髪を切ることよりも神の招きに従った。その方はやがて洗礼を受けられました。主イエスのこの御言葉は、多くの方々を主イエスの懐へと招き入れる掛け替えのない御言葉となりました。

 

誰もが日々、重荷を負い、心も体も疲れ果てています。誰もが休みたいと切望しています。しかし問題は、私どもにとって安らぎとは何かです。一体どうしたら真実の安らぎが得られるのかです。休みの日、朝遅くまで寝込み、家でくつろぐことがあります。休みの日、旅行に出かけることがあります。人混みの中で、疲れ果てて帰って来ることがあります。気分転換にはなっても、真実の安らぎが得られたと言えないことがあります。

ある方は語ります。私が背負っている責任の重さは、他の人に任せることなど出来ないから、休むことなど出来ない。日曜日でも働き続けなければならない。また、ある方は語ります。平日、休みなく働き続けて、様々な重荷を負いながら歩んでいる。日曜日に礼拝に出席する。教会でも様々な奉仕を担っている。責任の重さを担っている。とてもとても休めることなど出来ない。

 主イエスがここで語られている御言葉に、改めて目を留めますと、とても不思議な言葉であることに気づきます。

「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげよう」。

わたしの許に来て、重荷を下ろして休みなさいとは、主イエスは語られていません。明らかに、重荷を負うたまま、わたしの許に来て、休みなさいと語られています。重荷を負うたまま休むことなど出来るのでしょうか。

 ここで主イエスが語られる「重荷」という言葉は、他の人がどうしても代わることの出来ない重荷です。私がどうしても背負わなければならない重荷です。たとえば、母親が胎児を身ごもった時の、命の重さです。その命の重さは母親が負わなければならない重さです。父親が代わることの出来ない命の重さです。主イエスの許で、改めて自分が背負っている重荷の意味を気づかされるのです。

 主イエスが語られる「休ませてあげよう」。この言葉は「新しい、新鮮な命が与えられる」という意味でもあります。炎天下、山道を歩き続ける。水筒の水もなくなってしまった。喉がからからになり、足取りが重くなる。そのような時に、新鮮な水がほとばしり出ている泉を発見した。腰を下ろして、一杯の水を飲む。水が体に染み込んで、「ああ、生き返った」と歓声を上げる。そのような安らぎです。

 また、「休ませてあげよう」という言葉には、「新たな息が注がれ、新たな呼吸をする」という意味もあります。心の中に溜まった淀んだ空気を吐き出し、大きく新呼吸をして、新鮮な空気を吸い込み、新たな呼吸をする。そのような安らぎです。新たに生きようとする力が与えられる安らぎ、休みです。しかし問題は、それがどのようにして、主イエスから与えられるのかです。

 

3.①実は、主イエスの呼びかけの言葉、招きの言葉は、更に続くのです。

「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎが得られる」。

不思議な言葉です。わたしがあなたの重荷を取り去るとは語られていないのです。むしろ、「わたしの軛を負いなさい」と語られる。自分が背負っている重荷だけでも精一杯なので、その上、更に、主イエスの軛を負いなさいと、新たな重荷を背負わされたら、たまったものではない。その重荷に私どもは潰されてしまうではないか。一体、主イエスはここで何を語られているのでしょうか。「わたしの軛を負いなさい」とはどういうことなのでしょうか。

 「軛」とは、牛の首にはめる道具です。田畑を耕す時に、牛の首にはめて、真っ直ぐに歩くように、農夫が促します。軛はしばしば一つの穴ではなく、二つの穴が開いていいました。二頭の牛の首にはめるためです。その方が一遍に田畑を耕すことが出来るからです。

 主イエスが「わたしの軛を負いなさい」と語られる時、主イエスが備えられた軛にも二つの穴が開いているのです。一つの穴には私の首を通すのです。もう一つの穴には誰の首を通すのでしょうか。主イエス御自身の首を通す穴です。主イエスは私どもと共に軛に首を通され、私どもと共に歩んで下さるのです。しかも主イエスは自分がはめられた軛に力を込めて歩まれますので、私どもの体が浮いてしまうようになります。主イエス御自身が私どもの軛をも負うて、力を込めて歩いて下さるのです。

 主イエスによって、「わたしの軛を負いなさい」と語りかけられる時、私どもが負うている重荷が、主イエスから託された軛、重荷として捉え直されるのです。主イエスから託された重荷、軛だから、主イエスが共に担って下さるのです。主イエスが責任をもって、私どもの軛を負うて下さるのです。それ故、主イエスは語られるのです。

「わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」。

 

先々週、東京神学大学から夏期伝道実習の神学生、小林光恵神学生が派遣され、金沢教会で一週間、奉仕をされました。神学生を囲む懇談会で、献身の証しを聞きました。一人の方を、主は捕らえ、教会へ導き、洗礼を授け、キリスト者とし、更に、献身の志を与え、神学校へ導き、伝道者として立てようとされている。そこに生ける神の御業が働かれた。その生ける神の御業は私どもにも、今、働かれているのです。

 パン作りの職人を目指し、専門学校で学び、大手のパン屋に就職をされました。自分が愛を込めて作ったパンを、一人でも多くの人に届けて、食べてもらいたい。パンの仕事は朝が早い。朝4時から仕事が始まり、終わるのは夜の10時。自らのパン職人の業を上司から認めてもらうために努力を重ねる。いつの間か、お客さんのためではなく、上司に評価してもらうために、パンを作るようになっていた自分を発見した。職場の人間関係にも悩んだ。心も体も疲れ果てた時、下宿をしていた近くに教会があるのに気づき、礼拝に出席するようになった。金沢教会と同じ伝統を受け継ぎ弦巻教会でした。主イエスの呼びかけ、招きの言葉を聴いたのです。

「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげよう」。

礼拝の説教の言葉を通して、自分が負うている重荷を、主イエスから託された軛として受け留め直したのです。その時、主イエスから新たな使命が与えられたのです。

「人はパンだけで生きるのではない。神の口から出る一つ一つの言葉によって生きる」。

主イエスという命のパンを伝える伝道者となろう。主イエスという命のパンに生かされる人を、一人でも多く与えられるように、主よ、私を用いて下さい。主イエスから新たな軛、使命が託されたのです。小林神学生に起きた主からの召しは、私どもにも起こることなのです。

 

4.①ここで注目すべきは、主イエスが自らを、「わたしは柔和で謙遜な者だから」と称していることです。「だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい」と語られるのです。「柔和で謙遜な者」とは、道徳的な意味ではありません。マタイ福音書において、「柔和」という言葉は大切な場面で、主イエスが三度用いられています。

 最初に用いられたのは、5章5節です。主イエスが山の上で語られた説教、山上の説教の冒頭にある8つの幸いの教えです。その中の第三の幸いの教えです。

「柔和な人々は、幸いである。その人たちは地を受け継ぐ」。

二度目はこの11章の主イエスの招きの言葉です。三度目は21章5節です。主イエスがろばの子に乗られ、エルサレムに入城される場面です。その時、主イエスはゼカリヤ書9章49節の御言葉が成就したと語られました。

「シオンの娘に告げよ。『見よ、お前の王がお前のところにおいでになる。柔和な王で、ろばに乗り、荷を負うろばの子、子ろばに乗って』」。

主イエスは軍馬に跨がり、武力で人々を支配される王ではない。子ろばに乗る柔和な王として来られた。「柔和で謙遜な者」とは、どこまでも身を低くされる王です。十字架の死に至るまで、身を低くされ、私どものあらゆる重荷を、罪の重荷を背負って下さる王として来られたのです。

 「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい」。この主イエスの呼びかけの言葉は、「あなたの重荷を主に委ねよ」、と呼びかける言葉でもあるのです。詩編55編23節の御言葉と響き合います。

「あなたの重荷を主にゆだねよ、主はあなたを支えてくださる。主は従う者を支え、とこしえに動揺しないように計らってくださる」。

私どもには自分の重荷を委ねられるお方が来て下さったのです。そのお方こそ柔和で謙遜な王、主イエス・キリストなのです。

主イエスのこの招きの言葉は、しばしばこの御言葉だけが取り上げられます。しかし、大切なことは、どのような流れの中で、主イエスのこの御言葉が語られたのかです。それが重要です。主イエスは父なる神に祈られています。

「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした。すべてのことは、父からわたしに任されています。父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のはかに、父を知る者はいません」。そしてその後に、この御言葉が続くのです。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげよう」。

 父なる神の御心は知恵ある者や賢い者には分からない。むしろ幼子には分かる。主イエスは、「幼子のようにならなければ天の国には入れない」とも語られました。何故、主イエスは幼子を重んじられるのか。幼子は自分の存在全てを、母親に委ねなければ生きられない存在だからです。幼子のように、主に委ねよ。それが「わたしの軛を負い、わたしに学びなさい」でもあるのです。

 

知恵ある者、賢い者の代表は律法学者でした。律法学者は律法通りに生きることを強いました。それが神の御心であると強調しました。しかし、多くの人々は律法通りに生きられない。律法が重荷としてのし掛かり、押し潰されそうになっていました。しかし、主イエスは「山上の説教」で、新しい律法の言葉を語られました。私どもを生かす言葉です。「空の鳥、野の花を見よ。天の父は小さな存在すら生かしているではないか。況してや、あなたがたはなおさらではないか。それ故、思い煩うな」。「天におられる神に向かって、アッバ、父よ、わたしの父よ、と呼ぼうではないか」。

 それ故、「わたしの軛を負いなさい」。それは主イエスが語られた新しい御言葉を軛として負い、新しい御言葉によって生かされて生きよ、という呼びかけでもあるのです。

 最後に、主イエスは直前で、誠に厳しい言葉を語られました。

「コラジン、お前は不幸だ。ベトサイダ、お前は不幸だ」。この「不幸」という言葉は、「ウーアイ」という呻きから生まれました。神の御言葉を聞いても悔い改めないことを、主イエスは呻きながら嘆いているのです。このような御言葉の背景には、主イエスの弟子たちの伝道の挫折があったと思われます。それは私ども教会の姿です。伝道者の姿です。しかし、主イエスは弟子たちの伝道の挫折を共に呻かれるのです。そして弟子たちの先頭に立って、「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます」と、天の父に向かって心を高く上げ祈られるのです。そして、伝道の挫折を経験し、うな垂れている弟子たちに向かって語られるのです。

「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」。

 

 お祈りいたします。

「重荷を負うて、疲れ果てている私どもです。しかし、主は私どもを招かれます。疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげよう。主は私どもに新たな軛を負わせます。新たな御言葉の軛、新たな使命を負わせ、主の許から私どもを遣わされるのです。挫折と失敗を繰り返す私どもです。しかし、柔和で謙遜な王、主に委ねて、私ども一人一人を主の御用に用いて下さい。

 この祈り、私どもの主イエス・キリストの御名により、御前にお捧げいたします。アーメン」。

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