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「死者は復活して朽ちない者とされ」

創世記1:26~31
コリント一15:42~58

主日礼拝

牧師 井ノ川 勝

2023年10月1日

00:00 / 39:39

1.①先々週、教会員の高橋弘滋さんの葬儀が、この礼拝堂で行われました。施設で生活されていた弘滋さんは、急に具合が悪くなり、病院に搬送され、息を引き取られました。病院からご遺体が教会に運ばれ、娘さんの夢宇美さんと、御遺体の前で祈りを捧げました。夢宇美にとって、お父さまはただ一人の家族でした。その大切なただ一人の家族が失われる。それは深い悲しみです。更に、愛するお父さんの体が火葬に伏し、灰となってしまう。もはやお父さまの体を見ることが出来なくなってしまう。それはとても耐えられないと、涙を流されていました。私どもの地上の交わりは、体を通した交わりです。誠に具体的なことです。そして死を迎えること、別れは、その体がもはや見えなくなる、交われなくなるという具体的なことです。

 教会員が葬儀依頼書を書いて、もって来られます。葬儀の時に歌ってほしい讃美歌、朗読してほしい聖書の御言葉、紹介してほしい略歴が記されています。なかには、このようなことを言われる方もいます。私の遺体が棺に納められたら、私の死に顔を参列者の方に見られないようにしてほしい。皆からじろじろ見られたら、恥ずかしいと言うのです。死を迎えること、別れは具体的なことです。もうそのお顔が見られなくなる。最後に一目みたいという思いは、体を通した親しい交わりをして来た方にとって、切実な思いでもあります。

 死に支配された体。もはや起き上がることのない体。言葉を交わすことの出来ない体。骨と灰になってしまう体。死の現実の前で、伝道者は言葉を失います。語るべき言葉を失います。しかし、そこで尚、伝道者は言葉を語らなければなりません。それは厳しいことです。神が言葉を与えて下さらなければ、死を前にして言葉を語ることなど出来ません。

 この朝、私どもが聴いた御言葉は、コリントの信徒への手紙一15章の御言葉です。ここには、私ども人間が死んだ後、一体どうなるのか。終わりの日の出来事が語られています。伝道者パウロが語った御言葉です。一体、何故、伝道者パウロがこのような御言葉を語ることが出来たのか。これは誠に驚きです。パウロは終わりの日の出来事を語ること、死んだ人間が終わりの日にどうなるのか。それは将に、神秘、奥義だと語っています。神さまが示して下さらなければ語ることの出来ない御言葉です。

 

②私ども教会の信仰は、過去に与えられた恵みを数えます。現在、与えられた恵みを数えます。そして将来、与えられる恵みを数えながら、今を生きます。私どもの将来に起こることとは何でしょうか。いろいろな出来事を数えることが出来るでしょう。しかし、私ども共通に起こる将来の出来事は、死がやって来るということです。誰も死を避けることは出来ません。将来、訪れる死を見据えながら、私どもは今、どのような信仰に生きるのでしょうか。今朝も礼拝で、「使徒信条」を告白しました。「使徒信条」は教会が信じている福音が短い言葉で、明確に語られています。神から与えられた過去、現在の恵みを数えながら、将来、神から与えられる恵みを数えています。どのような恵みを数えているのでしょうか。「身体のよみがえりを信ず」。

 私どもの体は滅びるが、霊魂は永遠に生きる。私ども日本人が考える、神道が唱える「霊魂不滅を信ず」ではありません。「身体のよみがえりを信ず」。これが神が将来、私どもに与えられる恵みだと告白しているのです。それは一体、どういうことなのでしょうか。キリストが死人の中から甦られた出来事は、終わりの日、私どもも身体をもって甦らされる初穂、先駆けなのだと言うのです。この将来の恵みを明確に語っている御言葉が、コリントの信徒への手紙一15章の御言葉なのです。

 

2.①伝道者パウロは語ります。

「兄弟たち、わたしはこう言いたいのです。肉と血は神の国を受け継ぐことはできず、朽ちるものが朽ちないものを受け継ぐことはできません」。

 誠に厳しい言葉です。私どもが身に負うている肉と血は、私どもが生きているしるしです。肉と血なくして生きることは出来ません。しかし、大切な肉と血も神の国を受け継ぐことは出来ない。朽ちていくものだと言うのです。そうであるならば、一体、死の荒波を潜り抜けて、神の国まで残るものなどあるのでしょうか。

 クリスマスにヘンデルのメサイアが演奏されます。かつて市民クリスマスでは、市内の教会員が出演して、栄光館でメサイアの演奏が行われたと聞いたことがあります。日本人が最も親しんでいる演奏です。その最後の幕は、キリストの甦り、そして終わりの日の私どもの甦りの出来事です。そこで演奏され、歌われる御言葉が、コリントの信徒への手紙一15章51節以下の御言葉です。トランペットの高らかな響きと共に、この御言葉が歌われます。終わりの日を告げるラッパの音色は、天から鳴り響いて来る。その時、神秘としか言いようのない神の御業が行われる。

 「ラッパが鳴ると、死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます。この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを必ず着ることになります。この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着るとき」。

 私どもは朽ちるべきもの、死すべきもの。この御言葉が繰り返されます。私どもは滅ぶべきもの、何一つ神の国を受け継ぐべきものを持っていないものです。しかし、驚くべき神の御業が私どもに起こるのです。この朽ちるべきものが朽ちないものを着せられ、この死ぬべきものが死なないものを着せられる。終わりの日、死んだ私どもに起こる神の御業は、新しい服を神が着せて下さることです。しかも朽ちない服、死なない服です。

伝道者パウロが洗礼の出来事で繰り返し語った言葉です。「キリストを着る」。「キリストを身に纏う」。洗礼式の時、私どもの古い人間がキリストと共に十字架につけられ、死んだのです。そしてキリストと共に死人の中から新しい人間として甦らされたのです。キリストという新しい服を着せられたのです。キリストを着たのです。それは目に見えない服でした。しかし、終わりの日、私どもが身に纏う朽ちない服、死なない服、キリストという服は目に見える服なのです。

 伝道者パウロは「霊の体」で甦るとも言っています。主イエス・キリストを死人の中から甦らせた神の霊が宿り、神の霊によって潔められ、生かされている体です。

 

②伝道者パウロは語ります。

「この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着るとき」、聖書のこの御言葉が実現する。

「死は勝利にのみ込まれた。

 死よ、お前の勝利はどこにあるのか。

 死よ、お前のとげはどこにあるのか」。

 この御言葉は、イザヤ書25章8節とホセア書13章14節の御言葉が合わさったものです。しかし、主イエス・キリストの甦りの出来事によって、御言葉が変えられています。恐らく、教会が礼拝の中で歌った讃美歌です。葬儀の時に歌った讃美歌です。「死よ、お前が勝利をしたのではない。キリストこそが勝利をされたのだ」。キリストの勝利を歌う復活祭の讃美歌です。

 私どもが人生の最後に聞く言葉は何でしょうか。私どもの命の最後に語られる言葉とは何でしょうか。「あなたの家族は亡くなりました」、「ご臨終です」でしょうか。いや、違います。「死はキリストのいのちに呑み込まれた」です。私どもの命が死に呑み込まれるのではない。死がキリストのいのちに呑み込まれたのです。キリストが死に打ち勝ち、甦られたことにより、私どもの命の流れが変えられたのです。命から死へではなく、死から命へと転換させられたのです。

 ここで注目すべき御言葉があります。伝道者パウロがキリストの勝利の讃美歌を歌った後、この御言葉を語られていることです。

「死のとげは罪であり、罪の力は律法です」。

 一体どういう意味なのでしょうか。ある方が面白い言葉を用いています。

死と罪と律法とが三国同盟を結んで、堅固なスクラムを組んでいる。その堅固なスクラムを崩せるものはいない。そして死と罪と律法が、私どもを滅びの穴に閉じ込め、外側からかんぬきを掛けて、出させないようにしている。私どもは滅びるしかない。

私どもが何故、死を恐れるのでしょうか。死の恐ろしさはどこにあるのでしょうか。私どもの体が弱り、寿命が尽きて、死を迎えることにあるのではありません。死はとげを持っている。死は針を持っているのです。死のとげ、死の針に刺されたら、致命傷になり、私どもは滅びるのです。死には私どもを神から引き離そうとする罪の力が働くのです。神から引き離され、神から見捨てられたら、私どもは滅びるのです。死には罪の力が働く。それはどこで分かるのでしょうか。律法という鏡に映る自分の姿を見た時に、分かるのです。

伝道者パウロは、ローマの信徒への手紙7章で、このように叫びました。「わたしは律法という鏡に映し出される自分自身を見た。自分の望む善を行わず、望まない悪を行って、自分ではどうすることも出来ない。わたしは何と惨めな人間なのだろうか。死に定められたこの体から、だれが救ってくれるのだろうか」。

宗教改革時代に生まれた『ハイデルベルク信仰問答』は、最初で語っています。律法は、神を愛し、自分を愛するように、隣人を愛することを求める愛の戒めです。しかし、私どもは生まれながらにして、神も、隣人をも憎む傾きを持っていて、罪の力に支配されていて、どうすることも出来ないのです。パウロの叫びは私どもの叫びなのです。

カトリックの信仰に生きた作家に、島尾敏雄がいました。代表的な作品は、『死の棘』です。この御言葉から採られた題名です。「死のとげは罪である」。「死の棘は罪である」と訳している聖書もあります。島尾敏雄が『死の棘』で主題としていることは、夫婦の愛とその破れです。結婚式の時に、読まれる創世記の御言葉があります。

「男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる」。

夫婦は主にあって結ばれて、一つの体となって生きる。ところが、一つの体に生きていた夫婦の愛が破綻し、一つの体が分裂してしまう激しい痛みを負う。それを島尾敏雄は死のとげ、死の棘として、生々しく描いています。思いやりの深かった妻が、夫の情事のために、神経に異常を来してしまう。狂気のとりことなって取り憑かれたように、夫の過去を暴き立てる妻。ひたすら詫び、許しを求める夫。誠に激しく、生々しい夫婦のやり取りを描いています。愛に生きられない、愛に破綻した夫婦の姿を通して、「死のとげは罪であり、罪の力は律法である」という御言葉を説き明かし、再生出来ない夫婦の救いようのない苦悩、地獄のような日々を描いています。『ハイデルベルク信仰問答』が語る、神と隣人を愛することの出来ない罪の傾きに生きる私ども人間の悲惨さを描いています。

 

3.①「死のとげは罪であり、罪の力は律法です」。こう語ったパウロは、その直後に、こう語るのです。

「私たちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に、感謝しよう」。

キリストの勝利の讃歌を賛美するのです。パウロが歌うキリストの勝利の讃歌は、この讃美歌です。

「死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか」。

 パウロはひたすらにキリストに目を注ぎます。キリストに起きた出来事に、目を注いでいます。主イエス・キリストは十字架で、肉体の死を死なれたのではありません。自らの体に、死のとげ、死の棘を負われたのです。滅びをもたらす致命傷を負われたのです。神との関係がら切り離された死を死なれたのです。神から見捨てられた死を死なれたのです。神の御手が届かない陰府にまで降られたのです。それ故、十字架の上で叫ばれたのです。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになられたのですか」。

 しかし、主イエス・キリストは3日目に甦られ、死のとげ、死の棘を打ち砕かれました。死と罪と律法との三国同盟の堅固なスクラムを打ち砕かれました。三国同盟が手にしていた死と陰府の鍵を奪い返されました。今、水曜日の祈祷会で学んでいるヨハネの黙示録はこう語っています。

「わたしは生きている。一度は死んだが、見よ、世々限りなく生きて、死と陰府との鍵を持っている」。

私どもはもはや死ととげ、死の棘を刺され、神との関係から切り離された、滅びに至る死を死なないでよくなったのです。

 

②金沢教会が伝道して生まれた教会に、若草教会があります。その初代牧師は、神学校を卒業して、赴任された加藤常昭牧師と加藤さゆり牧師でした。加藤さゆり牧師は2014年8月23日に、86歳で逝去されました。加藤さゆり牧師逝去後、加藤常昭牧師が加藤さゆり牧師説教集をまとめ、出版されました。『主が、新しい歌を』です。その中に、加藤さゆり牧師が鎌倉雪ノ下教会で行われた説教が収められています。ローマの信徒への手紙8章のこの御言葉を説き明かされています。口語訳です。

「しかし、わたしたちを愛して下さったかたによって、わたしたちは、これらすべての事において勝ち得て余りがある。わたしは確信する。死も生も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、力あるものも、高いものも深いものも、その他どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのである」。

 キリストの勝利の讃歌です。今日の御言葉の讃美歌と同じ音色を奏でている讃美歌です。加藤さゆり牧師は語ります。葬儀の席で、御遺族は家族の御遺体の前で、死の力に打ちのめされて、うな垂れ、ただただ無力な悲しみの涙を流しているように見える。しかし、実は、キリストの勝利の前から、死の方がとぼとぼと、肩を落として、退散している姿を、私どもは信仰のまなざしで見るのである。

 加藤さゆり牧師の説教集の題名は、『主が、新しい歌を』です。この題名は、詩編40編から採られたものです。

「主は、わたしに新しい歌を、わたしたちの神への賛美を授けてくださった」。

私どもが主に、新しい歌を歌うのではない。主が、私どもの口に新しい歌を授けて下さった。キリストの勝利の讃歌を授けて下さったのです。それ故、御遺体となった家族を前にしても、骨と灰となった家族を前にしても、キリストの勝利の讃歌を、涙を流しながらも歌うのです。

「死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に、感謝しよう」。

 

4.①加藤さゆり牧師の葬儀は、鎌倉雪ノ下教会で行われました。親しい交わりにあったドイツの友人、神学者クリスティアン・メラー牧師から弔電が届きました。

「愛する加藤さん!悲しい知らせです。あなたは書いてこられました。妻が土曜日、午前10時、眠りに就いたと。長い舌癌、そしてリンパ腺癌の病苦は終わりました。神が眠らせてくださいました。神がお定めになったとき、再びみ手に取られ、こう呼びかけてくださるためです。『起きなさい、さゆり、甦りの朝だよ!』と。

 だがしかし、あなたには無限につらいことですね。もはや、さゆりが、あの静かな仕方で、あなたの傍らにいないことは。もはや、あなたと共に祈ってくれないことは。あなたを独りぼっちでこの世に遺して逝ってしまわれたことは。長く共に生きました。一緒にいて幸せでした。喪失の悲しみは肉体に食い込み、何よりも、こころに食い込みます。

 あなたに神の慰めが降ってきてくださいますように。あなたの血を流すような苦しみを癒してくださるために来てくださいますように。多くの、本当に多くの仲間のキリスト者が、木曜日にはあなたを囲むでしょう。その先頭にお子さんたちが、お孫さんたちがいますね。キリストの甦りのメッセージがあなたを捉え、この厳しい時に、励ましてくださいますように。

 あなたのことを思っています。あなたと一緒に祈っています。こころから挨拶を送ります。あなたのクリスティアン・メラー」。

 メラー牧師の慰めの弔電の下地になっている御言葉が、コリントの信徒への手紙一15章の甦りの信仰です。

 

②伝道者パウロは終わりの日の甦りの信仰を語りながら、このような言葉で結んでいます。

「わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです」。

 終わりの日、キリストが呼びかけて下さる。「起きなさい、甦りの朝だよ」。その甦りの朝を待ち望みながら、キリストの勝利の讃歌を歌いながら、主から与えられた一日一日、主の業に励んで行くのです。いつ死が訪れるか分かりません。私どもの業は途中で中断するかもしれません。しかし主に結ばれているならば、私どもの労苦が決して無駄になることはないのです。「無駄である」という言葉は、伝道者パウロが15章で繰り返し用いた言葉です。「死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです。そして、キリストが復活しなかったならば、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です」。「無駄である」、虚しい、空っぽという意味です。しかし、パウロは語る。主イエス・キリストは確かに甦られた。それ故、甦られたキリストに固く立って動かされず、たとえ労苦に満ちていても、主の業、主の宣教の業に今日も励むのです。「主イエス・キリストは甦られ、生きておられる」。「われは身体のよみがえりを信ず」。

 

 お祈りいたします。

「死のとげが私どもに突き刺し、神との関係を引き裂き、滅びへもたらそうとします。しかし、十字架の上で、主イエス・キリストが死のとげを負われ、死のとげを打ち砕いて下さったのです。それ故、私どもは死を前にしても、キリストの勝利の讃歌を歌いながら、主の業に励むことが出来るのです。甦られたキリストよ、どうか私どもを固く立たせて下さい。私どもの労苦が決して無駄にならないとの確信を持たせて下さい。この祈り、私どもの主イエス・キリストの御名により、御前にお捧げいたします。アーメン」。

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