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「残りの者として生きよ」

列王記上19:1~18
ローマの信徒への手紙11:1~6

主日礼拝

井ノ川 勝

2024年5月5日

00:00 / 35:17

1.①3月12日、元日に起こった能登半島地震で被災された輪島教会に、有志の牧師と共に訪れました。その日は冷たい雨が降っていました。土台から半壊した輪島教会の会堂の前に立った時、町はしいんと静まり返っていました。

昨年の11月、石川地区の牧師会を輪島教会で行い、牧師会の後、うどん屋に行き、うどんを食べながら歓談しました。そのうどん屋も全壊していました。

どんよりとした空が見え、雨漏りのする礼拝堂で祈りを捧げました。礼拝堂から出た時、教会堂の屋根を見上げました。そこには十字架が倒れることなく、立ち続けていました。被災された町を見守っているようでした。十字架に架かり、甦られた主イエスは、今、被災された人々に、被災され、避難所で礼拝を捧げている輪島教会の新藤牧師に、教会員に一体どのような御言葉を語りかけておられるのだろうか、と思い巡らしました。その時、想い起こした御言葉が、エリヤ物語、列王記上19章の御言葉でした。

 

私は大学1年生の時、大学の講義に来ていた牧師に導かれ、その牧師が牧会する教会の礼拝に出席するようになりました。大学2年生の時、その教会で洗礼を受けました。大学3年生になる時、ドイツの留学から帰国された近藤勝彦先生が、東京神学大学の専任講師になられると共に、私どもの教会の主任牧師になられました。毎年夏になりますと、近藤牧師は旧約聖書の御言葉を集中して説教されました。最初に採り上げられたのが、エリヤ物語でした。その時の説教を今でも鮮明に覚えています。今でもその時、聞いた説教の御言葉によって生かされていると言えます。取り分け、エリヤ物語の19章の御言葉は、私を伝道者へと献身させた御言葉にもなりました。この御言葉によって、伝道者としての召命を与えられました。

 3年前、近藤勝彦先生の説教集が出版されました。近藤先生の12冊目の説教集です。説教集の題名は『死のただなかにある命』。エリヤ物語とエレミヤ書を説き明かされた説教集です。説教集の表紙の絵は、レンブラントが描きました「洞穴で横たわるエレミヤ」です。暗い洞穴でうずくまるエレミヤは、エレミヤの心を表しています。私はその絵を観ながら、エリヤとも重なり合うと思いました。エリヤも洞穴でうずくまった預言者だからです。エリヤとエレミヤの二人の預言者に共通するもの。それは共に神の御言葉を語る預言者として挫折し、召命がぐらつき、主に向かってこのような叫びを上げたからです。

「主よ、もう十分です。わたしの命を取り去って下さい。わたしはもはや御言葉を語れません。あなたの召しに応えて生きることなど出来ません」。

 一体、エリヤはどのような場面で、このような叫びを主に向かって上げたのでしょうか。

 

2.①エリヤはカルメル山で、バアルの預言者450人、アシェラの預言者400人と、たった一人で戦いました。どちらの神が真の神なのか、その真偽を決する戦いでした。エリヤはたった一人で、その戦いに勝利しました。「主こそ神、主こそ神である」。その賛美の歌声がカルメル山に響き渡りました。ところが、エリヤにとって勝利の出来事は、最大の危機となりました。妃イゼベルは激怒して、エリヤの命を取り去れ、明日のこの時刻まで生かしておくな、との命令を下しました。

 エリヤはカルメル山からベエル・シェバまで逃げました。イスラエルの最北端から最南端まで逃げた。更にエリヤは従者を残し、たった一人で、国境を越え、荒れ野へ逃げ込みました。エリヤは疲労困憊し、一本のえにしだの木の下に座り込み、主に向かって叫びました。

「主よ、もう十分です。わたしの命を取り去ってください。わたしは先祖にまさる者ではありません」。

 私の命はちっぽけな命です。先達の信仰に比べても、ちっぽけな信仰に過ぎません。主のために十分な働きなど、何一つ出来ないのです。こんな私が生きている値打ちなど何一つありません。

 エリヤはえにしだの木の下で、心も体も疲れ果て、眠ってしまいました。その時、主の御使いがエリヤに触れて語りかけました。

「起きて食べよ」。見ると、枕元に焼き石で焼いたパン菓子と、水の入った瓶が置いてありました。エリヤはそのパン菓子を食べ、水を飲みました。そしてまた横になりました。主の御使いはもう一度戻って来て、エリヤに触れ、語りかけました。

「起きて食べよ。この旅は長く、あなたには耐え難いからだ」。

 御使いは主なる神から遣わされたものです。御使いの言葉は主なる神の言葉でもあります。あなたの使命はここで終わったのではない。あなたの旅はこれからも続くのだ。それ故、起きて食べなさい。エリヤは起きて食べ、飲みました。主が備えられた食べ物により、エリヤは力づけられました。そして40日40夜、歩き続け、遂に神の山ホレブに到着しました。ホレブの山はかつて、挫折したモーセが、主なる神から出エジプトという新たな召しを与えられた山です。主なる神はその同じ山ホレブにエリヤを導くために、「起きて食べよ」と命じられたのです。

 

エリヤは洞穴に入り、夜を過ごしました。暗い洞穴に入り込んだエリヤ。それは将にエリヤの心の状態を映し出しています。まだ預言者としての召命がぐらついているのです。その時、見よ、主の言葉がエリヤに語りかけられました。「エリヤよ、ここで何をしているのか」。

エリヤは答えました。

「わたしは万軍の神、主に情熱を傾けて仕えてきました。ところが、イスラエルの人々はあなたとの契約を捨て、祭壇を破壊し、預言者たちを剣にかけて殺したのです。わたし一人だけが残りました。彼らはこのわたしの命をも奪おうとねらっています」。

主は語られました。「そこを出て、山の中で主の前に立ちなさい」。

その時、見よ、主がエリヤの前を通り過ぎて行かれました。主の御前に、非常に激しい風が起こり、山を裂き、岩を砕きました。しかし、風の中に主はおられませんでした。風の後に地震が起こりました。しかし、地震の中にも主はおられませんでした。地震の後に火が起こりました。しかし、火の中にも主はおられませんでした。風、地震、火、いずれも旧約聖書では、神の御臨在と深く関わる出来事です。しかし、風、地震、火の中には、主はおられなかったと断言しています。元旦の能登半島地震で輪島でも、地震、火事は起こりました。しかし、風、地震、火の中に、主はおられなかった。

それでは主は一体どこにおられるのでしょうか。火の後に、静かにささやく声が聞こえました。口語訳聖書では、「静かな細き声」と訳していました。私は」この訳に心惹かれます。

主は風、地震、火の中におられるのではなく、静かな細き声となって語りかけて下さる。御言葉を通して、「わたしはここにいるではないか」と、御自分の御臨在を現し、語りかけて下さるのです。主は静かな細き声で語りかけて下さる。それ故、耳を傾け、心を傾けないと主の言葉は聴き取れないのです。

 静かな細き主の声を聴いたエリヤは、外套で顔を覆い、出て来て、洞穴の入り口に立ちました。主はエリヤに語りかけました。

「エリヤ、ここで何をしているのか」。同じ問いかけです。

エリヤは答えました。再び同じ言葉で返答しました。

「わたしは万軍の神、主に情熱を傾けて仕えてきました。ところが、イスラエルの人々はあなたとの契約を捨て、祭壇を破壊し、預言者たちを剣にかけて殺したのです。わたし一人だけが残りました。彼らはこのわたしの命をも奪おうとねらっています」。

 主はエリヤに語りかけました。

「行け、あなたの来た道を引き返し、ダマスコの荒れ野に向かえ」。

 洞穴から出て来なさい。そして行きなさい。来た道を引き返せ。イスラエルの北端を越え、ダマスコの荒れ野へ向かえ。そこでわたしはあなたに新しい使命を託す。「行け」。主が新たな使命を託す時に語られる、派遣命令です。同じホレブの山で、エジプトから逃げて来たモーセに向かって、主が「出エジプト」という新たな使命を託した時にも語られました。「今こそ、行きなさい」。

主は挫折したモーセに、エリヤに、静かな細き声で語りかけ、新たな使命を託され、「今こそ行きなさい」と派遣されるのです。それは今、私どもにも起こることなのです。

 

3.①先週の4月29日、加藤常昭教師の葬儀が鎌倉雪ノ下教会で行われました。4月15日、95歳の誕生日を迎えられたばかりでした。加藤常昭先生は金沢教会と親しい交わりにあった牧師でした。金沢教会が伝道して生まれた若草教会の初代牧師でした。元日の夕べ、加藤常昭先生からお電話がありました。地震で金沢教会は大丈夫か、能登の教会、輪島教会は大丈夫かと、心配しておられました。それが加藤先生と交わした最後の言葉となりました。

 加藤先生が鎌倉雪ノ下教会で行われた説教の中で、エリヤ物語のこの場面を触れている御言葉があります。そこで強調されていたことは、「その先でなお」です。

「われわれの力尽き、望み尽き、もう死にたいと思っているその先でなお、いや、むしろ、その先でこそ、神の声が聞こえた。しかし、それはまことに小さな声であり、一日のいのちを生かすに足るだけのひとつのパン、一杯の水を与える神の恵みのわざの中で始まったのであります」。

 「主よ、もう十分です。わたしの命を取り去ってください」。命が尽きようとするその先でなお、主は一切れのパンと一杯の水を備えて下さる。主よ、あなたはどこにおられるのですか」と、主を見失ってしまったその先でなお、主は静かな細き声で語りかけて下さる。「わたし一人だけしか残らなかった」と嘆くその先でなお、主は語りかける。「わたしはなお、あなた一人を残した」。その先でなお、語りかける主の静かな細き声で、挫折したエリヤは再び預言者として立ち直り、新たな使命を与えられ、遣わされて行くのです。

 

エリヤ物語の19章の御言葉に、誰よりも心を留めた伝道者がいました。伝道者パウロです。ローマの信徒への手紙11章2節以下(新約289頁)で、エリヤ物語の19章の御言葉を引用しながら、こう語られています。

「神は、前もって知っておられた御自分の民を退けたりなさいませんでした。それとも、エリヤについて聖書に何と書いてあるか、あなたは知らないのですか。彼は、イスラエルを神にこう訴えています。『主よ、彼らはあなたの預言者たちを殺し、あなたの祭壇を壊しました。そして、わたしだけが残りました。彼らはわたしの命をねらっています』。しかし、神は彼に何と告げているのか。『わたしは、バアルにひざまずかなかった七千人を自分のために残しておいた』と告げておられます。同じように、現に今も、恵みによって選ばれた者が残っています」。

 わたしはバアルにひざまずかなった七千人を自分のために残した。現に今も、恵みによって選ばれた者が残っている。伝道者パウロは、それはわれわれキリスト教会であると語っているのです。ただ神の恵みによって選ばれ残った者たち。教会は残りの者の信仰に生きて来たのです。「残りの者の信仰」は旧新約聖書を貫く大切な信仰です。「わたし人だけが残った」。その言葉が最初に出て来るのが、エリヤ物語の18章、19章なのです。

 「わたしはバアルにひざまずかなかった七千人を残した」。七千人という人数は多いように思えます。しかし、イスラエルの民の中では僅かな者たちです。一握りの存在です。しかし、それは同時に、まだ目に見えない神の恵みによって残された七千人でもあります。

日本のプロテスタント教会の礼拝で、数千人の礼拝を捧げている教会はないでしょう。最も多い教会で400名の礼拝です。金沢市民46万人の中で、主の日、金沢教会で礼拝を捧げているのは、コロナ前で122名、現在は80名の礼拝です。一握りの者たちです。このような一握りの者たちで一体どんな神の業、伝道が出来るのだろうか、何も出来ないではないか、と思ってしまいます。しかし、神は恵みによって残された一握りの僅かな者を通して、新しい大いなる御業を始めて下さるのです。そのために、私ども一人一人が神の恵みによって残され、主の群れに立てられているのです。

伝道者パウロがコリント伝道で挫折した時に、主がパウロに語りかけました。

「恐れるな。語り続けよ。黙っているな。わたしがあなたと共にいる。この町には、わたしの民が大勢いるからだ」(使徒言行録18章9~10節)。

 

4.①説教の冒頭で、近藤勝彦牧師のエリヤ物語の説教集を紹介しました。その中で、「わたし一人だけが残りました」という言葉を、このように説き明かしておられます。驚くべき言葉です。

「『わたし一人だけ残った』と預言者は言えないし、キリスト者は言ってはなりません。なぜなら、苦難の中で、『ただ自分一人が』と本当に言い得るのは、すべての人の神からの離反を負って、十字架にかかられたイエス・キリストのもだからです。あの十字架で主イエス・キリストはまさしく本当に一人残されました。そしてその主お一人の苦難と死があるゆえに、恵みによって残された七千人がいます。私たちもまた主の恵みによって残された一人ではないでしょうか。信仰の召命を受けて戦っているのは私一人ではありません。私たちは皆、主イエスの戦いとその恵みの勝利を伝えるだけです」。

 そした更に、近藤牧師はこう語られます。

「バアルに膝まずかない七千人が恵みによって残され、神の民の使命を果たします。その約束の中で、『行け、あなたの来た道を引き返し、ダマスコの荒れ野に向かえ』という派遣の言葉も聞きます。そこに着いたなら油を注げ、後継者を立てよ、と言うのです。それが神の恵みによる派遣です。その人々が神の恵みの信仰を生きるでしょう。信仰の喜びをもって、使命を引き継ぐでしょう。恵みの信仰とその使命は、継承されるに違いありません。私たちに与えられた神の召しと派遣は、継承します。世の終わりまで継続されるに違いありません。キリスト教会の信仰と使命、礼拝と伝道は、世の終わりまで継続されます。神の恵みの力は絶えることがないからです」。

 

本日は教会創立143周年記念礼拝、ウィン宣教師召天記念礼拝を捧げています。礼拝後、ウィン宣教師墓前祈祷会が野田山の墓地で行われます。出から「今こそ行きなさい」との召しと派遣命令を受けて、トマス・ウィン宣教師、イライザ夫人は北陸金沢の地へ遣わされました。20代半ばでした。金沢地に足を踏み入れたのは、1879年(明治12年)10月4日でした。翌日、長町の屋敷で、ウィン宣教師、イライザ夫人の二人だけで礼拝を始められた。それが北陸伝道の第一歩となりました。全てはその小さな礼拝から始まりました。

 伝道開始から1年半後の1881年(明治14年)5月1日、大手町の狭い部屋で、金沢教会建設式が行われました。これは異例の早さであり、驚くべきことです。神の御業が働かれたのです。この日が教会創立記念日となりました。信徒は19名。5名の洗礼式が行われました。長老1名、執事1名の任職式・按手が行われました。教会を建てることは教会堂を建てることではありません。御言葉を語る伝道者を立て、教会を牧会する長老、執事を立てることにあります。

 ウィン宣教師とイライザ夫人は、19年間腰を据えて伝道され、北陸伝道、金沢教会の礎を築かれました。ウィン宣教師は北陸金沢で伝道された後、大阪で伝道され、満州に渡られ、大連で伝道されました。その後、満州の各地で伝道され、隠退を決意され、母国アメリカに戻られました。しかし、再び、主から「今こそ行きなさい」との御声を聴きました。驚くべきことです。こういう文章を綴っています。

「しかし、私の心はやはり日本にあった。それでどうしても日本に来ねばならないと思い、青年の時おのが生涯を日本に捧げようと覚悟した通りに、生命のある限りは日本におらねばならぬと考えて、昨年6月また来朝した。この国にある間は、私は不肖ながら日本のために救いの道を宣伝したい。少数の者のためにでもよいから伝道したい。どうか私の宣べ伝えたことを研究し信じていただきたい。これが私の願いである」。

 ウィン宣教師が再び金沢に来られ、在住されたのは、1930年(昭和5年)10月でした。ウィン宣教師79歳でした。翌年1931年(昭和6年)2月8日の主の日、その日は吹雪の寒い朝でした。ウィン宣教師は金沢教会の礼拝説教者として立つために、会堂の最前列の椅子に着席していました。会衆と共に讃美歌を歌い、司式者の聖書朗読と祈りに耳を傾けていました。その祈りが終わろうとしていた時に、ウィン宣教師は突然倒れ、息を引き取られました。手には礼拝で語られる予定であった説教委原稿が握られていました。説教題は「イエスの奇跡」、聖書はヨハネ福音書の結びの言葉、20章30~31節でした。その説教は翌週の主の日の礼拝で、代読されました。金沢教会での最後の説教となりました。説教の最後はウィン宣教師の切なる祈りです。

「なにゆえ、私が今朝この説教をいたすか。それは私はこの説教を聴いて誰でもイエスを信じ、限りなき生命を受けなさるお方があるならば、どんなに嬉しかろうと思うからである。私はここにイエスを救い主と信じなさるお方があると信ずる。そのお方に勧める。あなた方の今なすべきことはイエスにあなた御自身を捧げ、そして主に救いを祈ることである。しからばヨハネの言葉が真理であることを経験されるのである。私が経験しているように、あなた方も同じ経験をせられるように願ってやまぬ。主御自身が語られたお言葉の中に、『我に従う者は・・生命の光を得べし』ということがある。

 信じている人はこの肉眼で美しい景色を見るように、心眼で限りなき生命を見ることができる。『生命の光を得べし』とあるが、あなた方はこの生命の光を有しておられるかどうか。何とぞ、ヨハネの言葉をお受け下さい。そして主イエスをお信じなさい。これは私の衷心からの願いである」。

 私どもも今、この礼拝で、甦られた主イエスから静かな細き声を聴くのです。「今こそ行きなさい」。主から新たな使命を託されて、生けるキリストを伝えるために遣わされるのです。

 

 お祈りいたします。

「エリヤのように、エレミヤのように、私どもも挫折を経験し、私はもう駄目ですと嘆きます。しかし、私どもの力が尽きたその先でなお、主は私どもに静かな細き声で語りかけます。今こそ、行きなさい。挫折した私どもに新たな使命を託し、遣わされるのです。教会創立記念を迎えたこの日、多くの先達の信仰と祈りと使命を新たな心をもって受け継がせて下さい。主が恵みによって残された一握りの僅かな者を通して、主よ、あなたの大いなる御業を現して下さい。

 この祈り、私どもの主イエス・キリストの御名により、御前にお捧げいたします。アーメン」。

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