「沈んだ顔つきから解き放たれて」
詩編30:2~13
マタイによる福音書6:16~18
主日礼拝
井ノ川勝
2025年5月11日
1.①先週、金沢教会は教会創立144周年の記念の日を迎えました。北陸の地に、144年という実に長い年月、教会は立ち続けて来ました。この144年の間に、実に多くの方々が教会に導かれ、洗礼を受けられ、キリスト者として、この教会で信仰生活を送られました。神が与えて下さった大きな恵みを、感謝をもって受け止めることが出来ました。
しかし同時に、教会に導かれながらも、洗礼へと至らず、教会から離れて行かれた方も多くおられたことを、私どもは悲しい思いをもって受け止めています。何故、キリストの福音に触れながらも、洗礼へと至らなかったのでしょうか。いろいろな理由があるかもしれません。その一つはキリストの福音に対する誤解があります。キリストを伝道するということは、誤解を一つ一つ取り除くことでもあります。キリストの福音に対する誤解の中に、こういうことがあります。信仰は私どもを束縛する。私どもを縛り付けて、自由を奪ってしまう。私が私らしくあることを奪ってしまう。しかし、これは大きな誤解です。キリスト信仰はむしろ、様々な束縛から私どもを自由にし、解き放ってくれます。私が最も私らしく生きることが出来ます。それ故、信仰は喜びなのです。
金沢教会と親しい交わりにある教会に、鎌倉雪ノ下教会があります。鎌倉雪ノ下教会が、聖書の福音を主題別に問答形式でまとめた書物に、『雪ノ下カテキズム』があります。『鎌倉雪ノ下教会教理・信仰問答』です。この本はドイツ語にも訳されています。『日本のカテキズム』という題名になっています。「喜び」から始まっています。従って、「喜びのカテキズム」とも呼ばれています。主イエス・キリストと出会って、神の子とされた私どもは、天の父なる神を、「私の父よ」「私たちの父よ」と喜んで呼ぶことが出来るようにされています。
実は、日本のプロテスタント教会の誕生も、主イエス・キリストによって、天の父なる神を、「アッバ、父よ」「私の父よ」「私たちの父よ」と、喜んで呼ぶ祈りから始まりました。それが今日の横浜海岸教会です。キリスト信仰の基調音は喜びです。様々な束縛から私どもを解き放ち、自由にし、私が私らしく生きる喜びに生かされるのです。
②この朝、私どもが聴いた御言葉は、主イエスが山の上で、弟子たちに向かって語られた「山上の説教」と呼ばれる御言葉です。主イエスに従う弟子として生きる。それこそが喜びであると語っています。その「山上の説教」の中で、今日の御言葉の主題は、「断食」です。「断食」、食を絶って、ひたすら神へ心も体も向けて、祈りに集中する。それは喜びと掛け離れた行為で、歯を食いしばって行う苦しみの修行ではないかと思ってしまいます。主イエスもまた、暗い顔つきをして断食をしている方を見かけています。しかし、主イエスは私どもに問いかけます。そのような暗い顔つきをして信仰生活をすることが、私どもの信仰なのだろうか。
新しい聖書、聖書協会共同訳では「暗い顔つき」と訳しています。以前の新共同訳では「沈んだ顔つき」と訳しました。その前の口語訳では「陰気な顔つき」と訳しました。主イエスは問われます。断食もまた、喜びの顔に生きることではないか。これは当時としては、誠に挑戦的な問いかけでした。しかし、主イエスが語られた福音の急所が、ここにあると言えます。
本日は「山上の説教」の中の、僅か数節、短い御言葉を読みました。しかし実は、6章1~18節までが一つのまとまりとなっています。ここには信仰生活にとって、三つの大切なことが語られています。施し、祈り、断食です。祈りの中には、「主の祈り」が語られています。この三つは、言い換えれば、献げること、祈ること、断食することです。この三つの内、献げること、祈ることは、今日でも私どもの信仰にとって大切なこととして受け継がれています。それに対して、断食はどうでしょうか。どうも今日の教会が断食を重んじているとは言えません。マタイによる福音書の立派な註解書がありますが、この箇所の御言葉を省いています。断食は今日の教会はもはや大切な信仰となっていないと受け止めたのかもしれません。
しかし、そうだからと言って、主イエスが語られたこの御言葉が、今日ではもはや不要な御言葉だとは言えません。主イエスがこの断食を巡る御言葉を通して、今日の私どもに何を語りかけているのかを聴き取ることが重要なことです。
2.①断食ということで、忘れられない想い出があります。私はカトリックの幼稚園に入園しました。それが私のキリスト教との出会いでした。カトリック教会の礼拝堂で、「アッバ、父よ」「天にましますわれらの父よ」と呼びかける祈りを習いました。卒園式の後、茶話会が行われました。食事をしながら、幼稚園の想い出の話が弾みました。ところが、園長である黒い服を身に纏った神父さんは、前の前の食事を摂られませんでした。手を組んで祈っているように見えました。神父さんはお腹が痛いので、食事を摂られないのだと思いました。しかし、今から振り返れば、卒園式は3月の下旬です。主イエス・キリストの十字架の御苦しみを覚える受難週と重なっていたと思われます。神父さんは断食をして祈っておられたのです。しかし、受難週に教会全体が断食して祈りをする習慣は、受け継がれていません。
断食というのは、日常生活の大切な営み、食事を絶ち、心も体も神に向け、ひたすら祈りを捧げることです。主イエス御自身は、断食をどのように受け止められたのでしょうか。今日の御言葉から分かりますように、断食そのものを否定されることはありませんでした。しかし同時に、断食を積極的に推進されることもありませんでした。むしろ断食に込められた信仰的な意味を問われました。
主イエスはいつも弟子たちと食卓を共にされました。徴税人、罪人とも食卓を共にされました。喜びの食卓を囲みました。そのような主イエスの姿を見た律法学者たちは批判をしました。また、洗礼者ヨハネの弟子たちが主イエスに尋ねられました。
「私たちとファリサイ派の人々はよく断食をするのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食をしないのですか」。
主イエスは答えられました。
「花婿が一緒にいる間、婚礼の客はどうして悲しんだりできるだろうか。しかし、花婿が取り去られる日が来る。その時、彼らは断食することになる」。
「花婿」とは、主イエス御自身です。花婿イエスが一緒にいる間、婚礼の客はどうして悲しんだりするのか。喜びの食卓を共にするではないか。しかし、花婿イエスが取り去られる日が来る。十字架の死を意味しています。その時、彼らは悲しみ、断食することになる。
断食は悲しみの行為です。愛する友、愛する家族を喪ったら、悲しみの余り、食事も喉に通らなくなります。しかし、断食において、私どもが悲しむべきものとは何なのでしょうか。主イエスは断食を巡る御言葉の直前で、「だから、こう祈りなさい」と、「主の祈り」を弟子たちに教えられました。そして更に、「主の祈り」の中で最も大切な祈りを語り直されました。それが断食の直前の御言葉となりました。
「もし、人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたをお赦しになる。しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない」。
「主の祈り」の中で、私どもが口ごもる祈りの言葉です。私どもは人の過ち、罪を赦せないからです。私どもが断食してまで、悲しまなければならないことはこのことだと、主イエスは語られるのです。人の罪を赦せない私どもの罪はそれ程深い。それをよく知っておられる主イエスが、「主の祈り」の中に、日々祈る祈りとして、罪の赦しの祈りを盛り込まれたのです。私どもは人の過ち、罪を赦せない自らの罪の重さを悲しみ、主に向かってひたすら祈ります。「主よ、われらを憐れんで下さい」。
②さて、ここで改めて、主イエスが語られた今朝の御言葉に注目したいと思います。
「断食するときには、偽善者のように暗い顔つきをしてはならない。彼らは、断食しているのが人に見えるようにと、顔を隠すしぐさをする」。
断食は神の御前で行うものです。人々の目から隠された行為です。ところが、人に見るように、人に見せびらかすように断食を行っている者がいる。主イエスが6章で、信仰生活の三つの基本的な行為として語られている、施し、祈り、断食は、本来神の御前で行うことであり、人の目から隠されたところで行うものです。このような信仰的な行為を、人に見えるように、人に見せびらかすように行った時に、その行為は偽善となります。暗い顔つき、沈んだ顔つきで断食して、人々に見せびらかす時に、いかにも信仰深い行為をしていると人々の目に映ります。
「偽善者」という言葉は面白い言葉です。元々は「役者」という意味です。当時、お面を被って、その役を演じました。偽善者のように暗い顔つきのお面を被って、本心を表さず、信仰深い役者を演じている。それが真実に、人の過ち、罪を赦せない自分の罪を悲しみ、悔い改めの断食となっているだろうか、と主イエスは問われるのです。
信仰生活は神のまなざし、主イエスのまなざしの許で、人々のまなざしから解き放たれる自由と喜びの道です。しかし、やはり人々のまなざしから自由になれない私がいるのです。私は大学生の時、教会に導かれ、礼拝に出席するようになりました。やがて祈祷会にも出席するようになりました。皆さん、とても流暢に祈られます。自分の番がどんどん近づいて来る。緊張して、何をどう祈ったらよいのか頭が混乱します。そしてたどたどしい祈りをする。そこでは神に向かう祈りではなく、人々のまなざしを気にした祈りになっています。
献げものもそうです。一人一人が神から与えられた恵みに感謝して、喜んで自由に献げるものです。神のまなざしの許で献げられるものです。しかし、そこにも人のまなざしが忍び込んで来ます。自分が献げるものと人々が献げるものとを比べてしまうのです。そこで人間的な評価をしてしまうのです。
それは断食にも起こるのです。神のまなざしの許で行う断食ではなく、人のまなざしを気にする断食となってしまうのです。しかし、主イエスは語られました。
「あなたの断食が人に見られることなく、隠れた所におられるあなたの父に見ていただくためである」。
花婿イエスは来られたのです。何故、花婿イエスは来られたのでしょうか。人の過ち、罪を赦せない私どもの罪の悲しみを知っておられるからです。人の過ち、罪を赦せない私どもの罪を私どもが自分一人で背負い込んだら、私どもはその悲しみの重さに押し潰されてしまうからです。それ故、花婿イエスは来られたのです。花婿イエスがあなたの罪を負うから、悔い改めてわたしに立ち帰りなさいと、立ち帰りの道を拓いて下さったのです。それは暗い顔つき、沈んだ顔つきから解き放たれる道です。だから主イエスは語られるのです。
「花婿がいる間、婚礼の客はどうして悲しんだりできるだろうか。断食して悲しんだりはしない。喜びの食卓を共にするではないか」。
3.①今日の御言葉で、恐らく皆さんがどういう意味だろうかと思われたのは、この御言葉ではないでしょうか。
「あなたは、断食をするとき、頭に油を塗り、顔を洗いなさい」。
どういう意味なのでしょうか。皆さんの多くが愛唱聖句として大切にしている御言葉の一つが、詩編23編だと思います。
「主は私の羊飼い。私は乏しいことがない」。この御言葉から始まる詩編です。詩編23編の中に、こういう御言葉があります。
「私を苦しめる者の前で、あなたは私に食卓を整えられる。
私の頭に油を注ぎ、私の杯を満たされる」。
主は私の頭に油を注いで下さる。喜びの油です。喜びの油を注ぎ、杯を恵みで満たし、喜びの食卓へ招かれる。主イエスは詩編23編の御言葉と重ね合わせるようにして、この御言葉を語られていると言えます。主は喜びの油を頭に注がれた。さあ顔を洗いなさい。暗い顔、沈んだ顔、陰気な顔を洗い落とし、喜びの顔で神の御前で断食をしようではないか。
②主イエスがここで語られる「暗い顔つき」という言葉は、福音書ではもう一箇所、重要な場面で用いられています。ルカによる福音書24章17節です。(新約158頁)。エマオへ向かう二人の弟子の顔は、「暗い顔」をしていました。何故、二人は暗い顔をしていたのでしょうか。花婿イエスが十字架につけられ、殺されてしまったからでしょうか。この日、日曜日の朝早く、主イエスは甦られました。「主イエスは甦って、生きておられる」。この喜びの知らせは、この二人の弟子にも伝えられたのです。にもかかわらず、日曜日の夕べ、エマオへ向かう二人の弟子の顔は、「暗い顔」「沈んだ顔」をしていました。花婿イエスが甦って生きておられるという喜びの知らせを、信じることが出来なかったからです。
ところが、甦られた主イエス御自身が暗い顔をして歩いていた二人の弟子に近づいて来られ、共に夕暮れの道を歩かれました。歩きながら、主イエスは聖書全体に亘り、御言葉の説き明かしをされました。やがてエマオの二人の弟子の家に到着し、主イエスを夕食に招かれた。お客として招かれた主イエスが、食卓の主人となって、パンを取り、祝福して裂き、二人にお渡しになった時、二人の目が開かれました。主イエスは甦られて生きておられることが分かった。その途端、主イエスのお姿が見えなくなった。しかし、二人は互いに言い合った。「道々、聖書を説き明かしながら、お話しくださったとき、私たちの心は燃えていたではないか」。二人の弟子は暗い顔、沈んだ顔から解き放たれて、喜び溢れた顔になっていました。そして喜び勇んで、夜中にもかかわらず、今来た道を引き返し、エルサレムにいる弟子たちに告げ知らせました。「主は本当に甦って、私たちに現れた」。
4.①先週、教会員の娘さんからお電話がありました。入院している父の体が少しずつ弱って来た。いろいろと問いかけても、いつものような反応がない。「牧師先生に来てもらいたいですか」と尋ねると、「うん」と頷かれたそうです。翌日、病院を訪ねました。耳元で讃美歌を歌い、聖書の御言葉を読み、祈りを捧げました。甦られた主イエスが弟子たちに語られた最後の御言葉です。「見よ、私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」。
耳元で語りかけました。私どもの人生の最後に立つのは、死ではない。死に打ち勝たれ、甦られた主イエスが立たれる。そして私どもに向かって語りかけられる。「見よ、私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」。教会員は私の語りかけに対して、「うん、うん」と頷いていました。その顔は暗い顔つきではありませんでした。沈んだ顔つきではありませんでした。死に打ち勝たれ、甦られ生きておられる主イエスが、死の恐れ、死の不安から解き放って下さり、世の終わりまで私と共にいて下さる確信から生まれる平安な顔でした。
讃美歌21-525は、ドイツの福音主義教会が歌って来た讃美歌です。元の歌詞は、「喜びの師匠イエス」「喜びの親分イエス」が来て下さった喜びを告げる讃美歌です。悲しみよ、去れ。喜びの師匠イエス、喜びの親分イエスが来て下さったのだから。わが悲しみの霊から解き放たれ、喜びの顔で歌う。わが喜びの師匠イエス、わが喜びの親分イエスを喜ぶ。
②本日、主イエスの「山上の説教」の断食の御言葉と共に、詩編30編の御言葉を聴きました。詩編30編は、主イエスが甦られ、生きておられる。主イエスの甦りの光の中で、私どもの祈りとなる御言葉です。
「主よ、あなたは私の魂を陰府から引き上げ、墓穴に下る者の中から生かしてくださいました」。
「夕べには涙のうちに過ごしても、朝には喜びに歌がある」。
新共同訳では、「泣きながら夜を過ごす人にも、喜びの歌と共に朝を迎えさせてくださる」。
「あなたは私の嘆きを踊りに変え、私の粗布を解き、(悲しみの帯を解き)、喜びの帯とされた」。
「主よ、私を憐れんでください。主よ、私の助けとなってください」。
「わが神、主よ、とこしえに、あなたに感謝します」。
甦られた主イエスによって、沈んだ顔から解き放たれた喜びの賛美の顔があります。
最後に、もう一つ話をさせて下さい。昨日、聾唖の女性と、その通訳者である金沢元町教会の教会員が訪ねて来られました。最初に金沢教会に来られた時は、暗い顔、沈んだ顔でした。しかし、昨日は明るい喜びの顔でした。今、洗礼を受けるために準備をしているそうです。甦られた主イエスがこの方にも訪れ、捕らえて下さったからです。ウィン宣教師の北陸伝道に興味を持ち、金沢教会の庭にある北陸伝道100周年の記念碑を見学に来られました。先週、ウィン宣教師の召天記念礼拝を捧げ、午後、ウィン宣教師の墓前で祈祷会を捧げましたと伝えましたら。ウィン宣教師の墓地に今から行きますと答えられました。
金沢教会の庭にある北陸伝道100周年の記念碑には、ウィン宣教師の愛唱聖句が英語で綴られています。テサロニケの信徒への手紙一5章16~18節の御言葉です。
「いつも喜び、絶えず祈り、全てに感謝しなさい」。
主イエスが語られた断食の心は、この聖句で語られていると言えます。
お祈りいたします。
「悲しみの霊が、不安の霊が私どもを取り巻き、恐れを抱かせ、暗い顔、沈んだ顔にします。しかし、喜びの親分である甦られた主イエスが来て下さったのです。悲しみよ、去れ、恐れよ、去れと宣言されました。施す時も、祈る時も、断食する時も、甦られた主の御手で私どもを捕らえて下さい。主を喜び歌う顔をあなたに向けさせて下さい。
この祈り、私どもの主イエス・キリストの御名により、御前にお捧げいたします。アーメン」。