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「波濤の中を歩け」

出エジプト14:5~25
マタイ14:22~33

主日礼拝

牧師 井ノ川 勝

2024年1月7日

00:00 / 40:56

1.①新しい年を迎えた元日の夕べ、大きな地震の揺れに直面しました。誰もがこれまで経験したことのない大きな揺れでした。長い時間の揺れでしたので、恐怖を感じました。しかしこの時、能登半島ではもっと激しい揺れに直面し、甚大な被害を及ぼしていました。特に輪島と珠洲において、多くの命が失われ、家族との思い出が詰まった家が倒壊し、多くの方が厳しい避難生活を続けています。孤立したままの集落もあります。私どもが親しんでいる朝市通り一体は焼け野原となりました。この光景をテレビや写真で見て、呆然喪失いたします。

 金沢教会と親しい交わりにあります輪島教会は会堂が半壊し、牧師館も一部破損しました。教会員の家も倒壊した家もあります。新藤豪牧師も教会員も全員、避難生活を行っています。主の日の朝、破損した牧師館に集まり、僅かな者で礼拝を捧げ、被災した一人一人のために祈りを捧げています。

 新しい年は大地震に見舞われるという波乱の幕開けとなりました。改めて、私どもが立っている大地、歩んでいる大地が盤石なものではなく、いかに不安定なものであり、揺れ動くものであるかを思い知らされました。

 

②日本にも来られたことがありますドイツ人の神学者ティリッヒは、第二次世界大戦下、ヒットラー率いるナチスに抵抗し、アメリカに亡命しました。戦後もアメリカに留まって神学、説教をされました。世界に大きな影響を与えた神学者の一人です。そのティリッヒが敗戦後に語った説教があります。「地の基は震え動く」という題の説教です。イザヤ書24章18節以下の御言葉を説き明かしたものです。

「地の基は震え動く。地は裂け、甚だしく裂け、地は砕け、甚だしく砕け、地は揺れ、甚だしく揺れる。地は、酔いどれのようによろめき、見張り小屋のようにゆらゆらと動かされる。地の罪は、地の上に重く、倒れて二度と起き上がることはない」。

 ティリッヒは説教の冒頭で語ります。預言者が語ったこの御言葉の前で、私どもはもう何も言えません。一つ一つの言葉がまるでハンマーの一撃です。私どもはこれらの言葉を何の感情も理解もなしに、何十年、いや幾世紀も聞き流して来ました。しかし今、自然災害だけでなく、戦争という歴史的な出来事によって、私どもはこの厳しい現実に直面しました。地の基は震え動く。そのような不安定な状況の中でこそ、私どもは今日、私どもに語りかける神の御言葉を聴くのです。

 地震によって、戦争によって、私どもが今まで確かなものであると信じていたものが揺れ動く、崩れ去って行く。私どもの足もとを支えていた確かな土台が揺れ動き、崩れ去って行く。地の基が激しく震え動く今、私どもにとって揺れ動かない確かなものは何なのでしょうか。私どもは何を揺れ動かない確かなものとして信じて歩めばよいのでしょうか。

 

2.①新しい年の最初の主の日に与えられた御言葉は、マタイ福音書14章22節以下、嵐の湖の上を歩かれた主イエスとペトロの出来事です。真夜中、湖の上で、逆風を受け、波は逆巻き、立ち往生する弟子たちを乗せた舟。それは教会を現していると言われて来ました。ところが、この一大事の時に、主イエスは舟に乗っておられなかったのです。何故なのでしょうか。

 主イエスは弟子たちだけを強いて舟に乗せ、向こう岸へ先に行かせました。主イエスは一人祈るために山に登られました。一人で祈る時を確保するためでした。主イエスの日々激しい伝道の闘いは、一人で静かに祈ることなくして生まれませんでした。恐らく、山の上から弟子たちが漕ぎ出した舟が見えていたことでしょう。舟を漕ぐ弟子たちを覚えながら、主イエスは一人、山の上で祈りを捧げておられました。

 ところが、日は傾き、夜の闇が覆った頃、舟は逆風を受け、波は逆巻き、湖の真ん中で立ち往生してしまいました。夜の闇に包まれ、何も見えなくなる。しかも足もとは揺れ動く。弟子たちは不安になった。死を恐れたに違いない。元日の午後4時過ぎに地震が起こり、被災された方は救助を求めながらも、夜の闇がどんどん深くなる。余震は止むことなく続く。一人取り残され、不安に包まれ、死への恐怖を感じたと思われます。

 弟子たちは真っ暗闇の嵐の湖の上で、叫んだと思います。「主よ、何故、この一大事に、あなたはいて下さらないのですか」。「主よ、あなたは何故、私どもを放っておかれるのですか」。「主よ、助けて下さい。私どもは死にそうなのです」。

 

②弟子たちの叫びは、山の上で一人祈っておられた主イエスに届いた。弟子たちが今、夜の闇の中で、嵐に直面していることを、死の恐れの中にいることを、主イエスは知っておられたと思われます。それ故に、主イエスは真夜中、嵐の湖の上を歩いて、弟子たちに近づいて来られたのです。恰も、主がおられないように見える現実の只中に、しかし、主イエスは来て下さるのです。

 ところが、弟子たちは近づいて来られる主イエスが主イエスだとは分からなかった。幽霊だと見間違えたのです。主イエスに助けを求めながらも、しかし、真夜中、嵐の湖の上を歩いて主イエスが来られるとは思ってもいなかったからです。恐れて取り乱す弟子たちに向かって、主イエスは語られました。

「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」。

短い言葉ですが、一つ一つの言葉がとても重要な言葉です。中でも重要な言葉は「わたしだ」です。何気ない言葉のように思えますが、主イエスが語られた御言葉の中で、取り分け重要な言葉です。「わたしだ、わたしがここにいるではないか」。

 出エジプト記3章14節に、羊飼いであったモーセがホレブの山で、神と出会い、神から同胞の民をエジプトから脱出させなさいと使命を与えられる場面があります。モーセの召命の出来事です。モーセが主なる神に尋ねました。「私を新たな使命に召し出すあなたの名は一体何か」。主なる神は答えられました。「わたしはあってあるもの」、「わたしはある、わたしはあるという者」。神が神であられることを現す名です。この言葉と響き合う言葉こそ、主イエスが語られたこの御言葉です。「わたしだ」。マタイ福音書が強調する言葉で言えば、「わたしはあなたと共にいる神である」、「インマヌエルの神である」。わたしはどんな時にも、どんなことがあっても、どんなに厳しい状況であっても、私どもの望みが終果て、死への恐れと不安の只中であっても、あなたと共にいる神なのだ。だから、恐れるな、安心しなさい。「安心しなさい」という言葉は、「勇気を出しなさい」という意味でもあります。

 

3.①ペトロは主イエスの言葉を聴き、勇気を与えられ、嵐の舟の中に立ち上がります。そして主イエスに答えます。

「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください」。

「主よ、あなたでしたら」。これは明らかに、主イエスの言葉「わたしである」を受けています。「主よ、あなたはあなたですね」。「主よ、あなたはどんな時にも共にいて下さる神ですね」。「それなら、わたしに命令して、水の上を歩いて、あなたのところへ行かせて下さい」。

 主イエスは招かれます。「来なさい」、「わたしの許に来なさい」。ペトロは主イエスに呼ばれ、招かれて、舟から降りて水の上を歩いて、主イエスの許へ進んで行きました。波濤の中を歩く。波逆巻き、風吹き荒れる中を歩く。ここに教会の姿があります。教会に連なる私どもキリスト者の姿があります。その時、頼りになるものは、ただ一つです。私どもと向き合い、私どもに真っ直ぐにまなざしを注ぎ、私どもに語りかけて下さる主イエスの御言葉です。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」。主イエスの御言葉のみを信じて、波濤の中を歩むのです。

ところが、強い風に気を取られ、ペトロは怖くなり、沈みそうになりました。ペトロは必死に叫びました。「主よ、助けてください」。「主よ、われを助け給え」。ペトロのこの叫びは、教会の祈りとなりました。礼拝の大切な祈りとなりました。祈りは主に向かって叫ぶことです。「主よ、われを助け給え」。今、輪島教会の牧師館に数名の者が集まり、祈りを捧げています。避難所に教会員の数名の者が集まり、祈りを捧げています。被災された全ての者を代表して祈りを捧げています。いや叫びを上げています。「主よ、われらは沈みそうです。主よ、われらを助け給え」。

 

②ペトロは何故、真っ直ぐに水の上を歩けず、沈みそうになったのでしょうか。沈みかけたペトロに、主イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、引き上げられました。その時、主イエスはこう語りかけました。

「信仰の薄い者たちよ、なぜ疑ったのか」。

「信仰の薄い」、「信仰が小さい」という意味です。「あなたの信仰は小さい。なぜ、疑ったのか」。この「疑う」という言葉は、面白い言葉です。「二つのものを同時に見る」「二心」という意味です。二つのものを同時に見ると、焦点が定まらず、心がばらばらになり、心が分裂してします。一つのものを真っ直ぐに信じて見ることが出来なくなる。それが疑うことです。ペトロは最初、向かい合って立っておられる主イエスを真っ直ぐに見つめ、主イエスの御言葉のみを信じて、水の上を一歩、また一歩と歩き始めた。ところが、「風を見て怖くなった」。以前の口語訳はそう訳していました。これも面白い言葉ですね。風は見ることは出来ない。しかし、風が自分に向かって吹いて来て、思わず風を見た。主イエスを真っ直ぐに見つめていたその目を離してしまった。風を見たので、真っ直ぐに信じていた主イエスの言葉が吹っ飛んでしまった。その時、信仰の足がぐらついて、沈みそうになったのです。

しかし、主イエスはすぐに手を伸ばし、捕らえて、引き上げて下さった。沈まないようにして下さった。

 

4.①主イエスとペトロが舟に乗り込むと、風が静まりました。舟の中にいた人たち、弟子たちはこう言って、主イエスを拝みました。礼拝しました。「本当に、あなたは神の子です」。弟子たちの信仰の告白です。教会の主イエスへの信仰告白となりました。この嵐の湖の出来事を通して、一本の信仰の線がくっきりと浮かび上がって来ます。「わたしである」、「あなたですね」、「あなたは神の子です」。

 「本当に、あなたは神の子です」。この信仰告白は、マタイ福音書の中で、重要な場面でも語られています。マタイ福音書の頂点と言われている箇所です。あるいは底辺と言った方がふさわしいかもしれません。主イエスが十字架にかけられた場面です。十字架こそ嵐の湖よりももっともっと厳しい現実です。神から見棄てられた陰府です。神から突き放され、審かれた深き淵です。そこに主イエスは立たれた。真昼でありながら、全地は真っ暗になった。主イエスは十字架の上で、大声で叫ばれた。

「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」。

その時、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け、地震が起こり、岩が裂け、墓が開いた。十字架の主イエスを見て、ユダヤ人たちは躓きました。自分たちが期待していた救い主の姿とは、余りにも掛け離れていたからです。ところが、ローマの百人隊長、異邦人だけが、十字架の主イエスを見て、こう告白しました。「本当に、あなたは神の子です」。これは驚くべき信仰の告白です。ユダヤ人が躓いた十字架の主イエスに神の子の姿を見る。十字架の主イエスにこそ、神が神であられることを見る。わたしだ、わたしはここにいるではないか。ここに神が生きておられるではないか。あなたですね。あなたこそ神の子ですね。神から見放されたような深き淵に陥っても、あなたこそわれわれと共に生きて下さる神ですね。十字架の主イエスの前に、ローマの百人隊長はひざまずいて、礼拝したとも言えるのです。

 

②2024年元日の能登半島地震に直面し、2007年3月25日に起きた能登半島地震、あるいは、2011年3月11日に起きた東日本大震災を想い起こされた方もいると思います。何度も何度も大地が揺らぎ、荒波が押し寄せます。東日本大震災が起きた2011年3月11日、東京神学大学は卒業式が行われている只中でした。卒業生がそれぞれ主から遣わされた地へ、伝道者として旅だって行く。学長の近藤勝彦先生が式辞を語られていた時でした。卒業生の中には被災地、石巻の教会へ派遣される者もいました。

 近藤先生が東日本大震災に直面した時期に、銀座教会で語られた説教をまとめ、説教集として出版されました。説教集の題名は『確かな救いー廃墟に立つ十字架の主』。その説教集の「前書き」で、近藤先生はこのように語られました。

「東日本大震災の激震が襲ったのは、東京神学大学では卒業式の最中でした。卒業生たちは北海道や四国、九州なでに、伝道者として赴任して行きます。中には甚大な津波被害を受けた東北の石巻に赴任して行く卒業生もいます。

 私たち地震も大震災と原発事故により深刻なダメージを受けました。しかし、喪失や破壊によって激しく傷ついた多くの魂と共に、神の御言葉を聞かなければなりません。それが本当に必要なことではないでしょうか。また、それができなければならないと思います。どのような荒廃や廃墟の中にも、否、その中にこそ、復活の主イエス・キリストの十字架は立ち続けます。廃墟に立つ十字架の主がおられます。それゆえに、霊的に支え、慰め、立ち上がらせる全能の主の福音を生き生きと語り伝えなければなりません。そのために聖霊の助けを切に祈り求めたいと思います」。

 神から見棄てられ、神がおられないような廃墟の只中に、十字架の主イエスが立たれる。荒廃と絶望の中にある私どもの先頭に立って、十字架の主イエスは叫んで下さる。「わが神、わが神、なぜわたしをお見棄てになったのですか」、「主よ、われらを助け給え」。廃墟に立たれた十字架の主イエスは、陰府まで降られ、闇を引き裂き、死を打ち破り、嵐を静め、父なる神によって甦らされた主イエス・キリストです。どんな廃墟の中にあっても、神はあなたと共に生きておられることを現されたインマヌエルの神です。

 輪島教会の新藤牧師、教会員数名の被災地での小さな礼拝、祈りを通して、神はあなたがたと共に生きておられることを証しされているのです。

 

5.①元日の夕べに大きな地震に直面し、翌朝、テレビの映像を通して映し出される被災地の状況、震災の被害の甚大さに言葉を失い、震えが止まりませんでした。揺れ動く心を抱えたまま、メールを開きました。石川地区は毎日、牧師が交代で福音メールを青年に届けています。1月の第一週は、小松教会の松島保真牧師が担当でした。震災の翌朝の御言葉は、イザヤ書54章10節の御言葉でした。この御言葉は、説教の冒頭で紹介したティリッヒの説教「地の基は震え動く」でも取り上げている御言葉でもありました。私はこの御言葉によって、揺れ動く魂が本当に慰められました。イザヤ書54章7節以下から朗読します。(旧約1151頁)。

「わずかの間、わたしはあなたを捨てたが、深い憐れみをもってわたしはあなたを引き寄せる。

 ひととき、激しく怒って顔をあなたから隠したが、とこしえの慈しみをもってあなたを憐れむと、あなたを贖う主は言われる。

 これは、わたしにとってノアの洪水に等しい。

 再び地上にノアの洪水を起こすことはないと、あのとき誓い、今またわたしは誓う。

 再びあなたを怒り、責めることはない、と。

 山は移り、丘が揺らぐこともあろう。

 しかし、わたしの慈しみはあなたがたから移らず、

 わたしの結ぶ平和の契約が揺らぐことはないと、あなたを憐れむ主は言わ

れる」。

②私の妻の北陸学院小学校の同僚が、能登島の両親の家に帰省し、被災しました。能登島の様子もテレビで映し出され、厳しい被災状況が映し出され、心配していました。避難所で生活されていたようですが、一昨日メールで連絡を取ることが出来ました。メールに、能登島に懸かる虹が写っていました。神が人間を代表するノアと結ばれた虹の契約を想い起こした。緊張の日々の中で、ほっと一息つけたと記されていました。その虹の写真を見て、再びイザヤ書54章10節の御言葉を心に刻みました。

 どんなに大地が引っくり返った状況であろうと、神は天と地を結ぶ平和の契約が揺らぐことはないと語られる。そして私どもはこの御言葉を語った預言者第二イザヤよりも、もっと確かな神の約束に立つことが出来る。神が遣わされた神の御子イエスが十字架に立たれ、陰府にまで降られ、甦らされ、私どもと共に生きて下さることにより、神と私どもを結ぶ平和の契約は揺らぐことはないとの確かさに立つことが出来るのです。

 主イエスを乗せた舟は湖の向こう岸、ゲネサレトに着きました。そこでも主イエスを待っていた人々がいた。病人、悲しみ、重荷を負う者たちがいた。主イエスが弟子たちを強いて舟に乗せ、湖の対岸へ出発させた目的がここにあった。

 教会という舟は波濤の中を進んで行きます。教会に連なる私どもキリスト者は波濤の中を歩んで行きます。主イエス・キリストとの出会いを待っている人々がいるからです。輪島の被災地にもいるからです。どんなに厳しい嵐の中であっても、甦られた主イエス・キリストは水の上を歩き、私どもに近づいて下さるのです。私どもと向き合って下さるのです。私どもに語りかけて下さるのです。「勇気を出しなさい。わたしだ。恐れるな」。ただこの主の御言葉を信じ、私どもは波濤の中を共に歩み続けるのです。

 

 お祈りいたします。

「主よ、われらを助けて下さい。大地が大きく揺らぐ日々の中にあって、私どもは叫んでいます。主よ、嵐の中にあっても、近づき、御手を伸ばし、溺れかけている私どもを捕らえ、引き上げて下さい。恐れるな、勇気を出しなさい。わたしはここにいる、と語りかけて下さい。神の御子が十字架で私どもの全ての重荷を背負って下さったことにより、わたしの慈しみはあなたから移らず、わたしの結ぶ契約が揺らぐことはない、との確かな約束の上に立たせて下さい。波濤の中にあっても、主の御言葉を信じ、その確かな約束を歩かせて下さい。

 この祈り、私どもの主イエス・キリストの御名により、御前にお捧げいたします。アーメン」。

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