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「涙が向かうところ」

列王記上17:17~24
ルカ7:11~17

主日礼拝

井ノ川勝

2025年7月6日

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1.①私どもが生きている世界は、毎日のように涙が流されています。毎日、大切な家族、友を喪い、葬儀が行われています。爆撃により、家族、友を喪い、涙を流し、嘆きながら、棺を運ぶ映像が伝えられて来ます。私どもの教会も、先々週、共に礼拝を捧げ、信仰の歩みをして来ました教会員を亡くし、涙を流しながら葬儀を行いました。私どもが生きる世界は、涙が流されなかった日は一日たりともないのです。涙が乾かなかった日などなかったのです。いつも、誰かが涙を流しています。日々、新たな涙が流されます。私どもが流す涙は、どこへ向かって流れて行くのでしょうか。空しく大地に落ちて、消えて行くのでしょうか。

 教会には毎日、様々な電話がかかって来ます。悲しみの知らせが飛び込んで来ます。朝に、夜に、電話が鳴ると、どきっとします。「先生、父が今、亡くなったのです」。涙を流している家族の許へ向かいます。そこで死と向き合います。悲しみと向き合います。涙と向き合います。伝道者といえども、おどおどします。そこで一体、どのような言葉を語ることが出来るのか。自分の内に、語るべき言葉など持ち合わせていない。死は私どもから、言葉を奪ってしまうのです。

 しかし、その時、伝道者である私が必ず心に刻む御言葉があります。それが、この朝、私どもが聴きましたルカ福音書7章11節以下の御言葉です。死と向き合う主イエス。棺と向き合う主イエス。墓へ向かう棺を止められる主イエス。一人息子を喪い、涙を流すやもめに向かい、「もう泣かなくともよい」と語りかける主イエス。「若者よ、起きなさい」と語り、息子を起き上がらせ、母の手に渡された主イエス。このような主イエスが、死を前にして、おどおどしている伝道者である私の先頭に立って、死と向き合って下さる。いのちの御言葉を語りかけて下さる。先立ち歩む主イエスの後から、私も家族の許へ駆けつけ、御言葉を取り次ぐことが出来る。この御言葉があるから、私も死と向き合って立つことが出来る。

 改めて思います。聖書は、私どもの人生のあらゆる場面に関わる御言葉を語っていると。

 

今日の御言葉は、ガリラヤ湖の南西にあるナインという町で起きた出来事です。悲しみの葬列、涙の葬列が、墓へ向かって、今将に、町の門を出るところでした。その葬列の中心に立っていたのが、夫に先立たれ、今また、信頼していた一人息子を喪ったやもめでした。やもめの涙は止まりません。町の人々も、棺を担ぎながら、棺の後から、悲しみと同情の涙を流しながら、重い足取りで歩いていました。

 しかし、その悲しみの葬列と対面した、もう一つの行列が、今将に、町の門から入って来ました。主イエスを先頭とする行列です。悲しみの葬列、涙の葬列と向き合う、いのちの行列です。教会の姿がここにあります。主イエスを先頭とするいのちの行列が、墓へ向かう悲しみの葬列を止めてしまったのです。この時、主イエスは何をなされたのでしょうか。どのような御言葉を語られたのでしょうか。

 「主はこの母親を見て、憐れに思い、『もう泣かなくともよい』と言われた」。

今日の中心聖句です。この一句に、ルカは特別な思いを込めています。

「主は彼女を見て、彼女を深く憐れみ、そして彼女に言われた」。

「彼女」という言葉を三度も繰り返しています。主イエスのまなざしが、涙を流す母親に注がれて、集中していることを表しています。しかもこの時、「イエス」ではなく、「主」と表現しています。「いのちの主」です。

 いのちの主である主イエスのまなざしは、愛する家族を亡くし、悲しみの中でくずおれ、涙に暮れている母親に注がれるのです。いのちの主である主イエスこそが、涙の意味を知り、悲しみを全存在で受け止めて下さるのです。

やもめの方から、主イエスに向かって、「主よ、憐れんで下さい」と願い、訴えていません。主イエスの方からまなざしを注がれ、深く憐れみ、語りかけられたのです。

 

2.①ここで注目すべき御言葉がります。「憐れに思い」。福音書は、主イエスの心の内面、感情をあまり描きません。しかし、ここでは違います。愛する一人息子を亡くされたやもめの涙を御覧になられた主イエスは、深い憐れみを抱かれました。この「憐れみ」は、私どもが抱く同情とは異なります。激しい内面を表す言葉です。感情がうなり声を上げる言葉です。この言葉は、父なる神と主イエスだけにしか用いられない言葉です。ルカが特別な場面だけにしか用いない言葉です。

 「放蕩息子の譬」で、放蕩に身を持ち崩した息子を見つけた父親が、「憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻しました」。この父親とは、父なる神を表しています。また、「良きサマリア人の譬」で、追い剥ぎに襲われて道に倒れたユダヤ人を見つけたサマリア人は、「その人を見て憐れに思い、近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注ぎ、介抱しました」。良きサマリア人は、私どもへの勧めでもありますが、同時に、主イエスを表してもいます。

 「憐れに思い」。元々は、「内臓」を表す言葉です。内臓が痛みますと、全身に痛みが走り、堪えられなくなります。七転八倒します。それ故、「憐れに思い」という言葉は、「はらわたが引き千切れる程、痛む」と訳されて来ました。

 主イエスが愛する家族を喪った者たちと向き合った、もう一つの場面があります。ヨハネ福音書11章、兄弟ラザロを喪ったマルタとマリアの姉妹です。姉妹の涙を御覧になられた主イエスは、自ら涙を流されました。そして、「憤りを覚え、心を騒がせ」ました。ここでも激しい心の感情を丸出しにされています。主イエスは鼻息を荒くし、怒りに満ちて死と向き合われました。愛する家族を無理矢理奪い、絶望のどん底に突き落とす死に対して、主イエスは真っ正面から死と向き合われました。それが出来るのは、主イエスしかおられません。死の厳しさ、悲しみ、痛みを心底知っておられるのは、主イエスだけです。

 

その主イエスが、一人息子を亡くしたやもめに向かって、ただひと言語られました。

「もう泣かなくともよい」。

この言葉を語ることの出来る方は、主イエスしかいません。伝道者である私が、愛する家族を亡くされ、悲しみの涙に暮れる御遺族に、この言葉を語ったならば、「あなたは何と非常識な伝道者なのか」と怒り出すことでしょう。何故、主イエスはこの場面で、この御言葉を語られたのでしょうか。一体どのような思いが込められているのでしょうか。涙を流すことを否定している言葉ではありません。主イエスは「平地の説教」(6章21節)でこう語られました。

「今、泣いている人々は、幸いである」。

悲しみの時に、涙を流すことを、誰よりも受け止めておられます。それでは、「もう泣かなくともよい」。どのような意味が込められているのでしょうか。

「あなたはもはや絶望の涙を流さなくともよい」。「あなたはもう空しい涙を流すことはない」。

あなたが流す涙の方向は変わるのだ。あなたが流す涙の意味は変わるのだ。涙の方向、涙の意味が、主イエスによって変えられた時、棺が向かう方向も、意味も変わるのです。死の方向、意味も変わるのです。詩編56編9節に、こういう御言葉があります。

「あなたは私のさすらいの日々を、数えてくださいました。私の涙をあなたの革袋に蓄えてください。あなたの記録にはそうするように書かれていませんか」。

 主イエスこそ、私どもが流す涙を一粒一粒無駄にすることなく、数え上げ、革袋に蓄えて下さる「涙の革袋」です。主イエスこそ、私どもが流す涙を受け止めて下さるいのちの主です。それ故、私どもは主イエスの懐に向かって、涙を流すのです。

 

3.①主イエスの方から、悲しみの涙に暮れるやもめに近寄り、棺に手を触れました。墓へ向かう棺を止めてしまわれました。当時の棺は担架のようなもので、蓋がなかったと言われています。それ故、主イエスは死んだ息子に、手を触れたと思われます。死者や、棺に手を触れる。それは汚れたことだと受け止める宗教もあります。しかし、主イエスは死者や、棺を汚れたものとは受け止められません。むしろ、憐れみをもって触れて下さいます。御自分の手を触れて、棺が向かう方向、死者が向かう方向を変えてしまわれるのです。絶望の死、空しい死ではなく、いのちへと向かわせて下さるのです。棺を止められた主イエスは、ひと言語られました。

「若者よ、あなたに言う。起きなさい」。

死者に向かって、「起きなさい」と語りかける。驚くべきことです。これも、主イエスだけしか語ることの出来ない言葉です。すると、死人は起き上がって、ものを言い始めました。主イエスは息子を母親にお渡しになられました。あなたの息子は死に支配されているのではない。あなたの息子は生きる時も、死ぬ時も、主のものである。「いのちの主のもの」として、主イエスは息子を母親にお返しになったのです。

 ナインの町で起きたこの出来事は、昔話ではありません。私どもが行う教会の葬儀でも起きているのです。私どもは、いのちの主イエスが葬儀の真ん中に立って、生きた御言葉を語り、御業を行って下さることを信じて、葬儀を行うのです。そうでなければ、死と向き合って、葬儀を行うことは出来ません。でも、皆さんの中で、疑問に思われる方がいるかもしれません。主イエスがこの時、行ったことと、同じことが、私どもの葬儀にも起きているのだろうか。主イエスは死んだ若者を起き上がらせることが出来た。しかし、私どもの葬儀では、棺に入れられた死者が起き上がることはないではないか。

 「起きなさい」。主イエスが語られたこの御言葉は、とても重要な言葉です。何よりも主イエス御自身が、死を味わわれた主です。しかも十字架で、神から見捨てられた絶望の死を味わわれました。しかし、主イエスは三日目に、甦らされました。絶望の死から、深い闇の墓から、起き上がられました。

 私どもは一人の例外なく、死に向かっています。やがて死ぬべき存在です。死の眠りに就きます。しかし、終わりの日の朝、いのちの主イエスは、私どもの名を呼び、語りかけます。

「わたしの愛する者よ、起きなさい」。

私どもは、いのちの主イエスの呼びかけを受けて、死の眠りから起き上がるのです。いのちの主と顔と顔とを合わせるのです。その終わりの日の朝の望みをもって、私どもも、いのちの主イエスのまなざしの中で、葬儀を行うのです。

 

「若者よ、起きなさい」。主イエスの御言葉によって、死んだ息子は起き上がり、母親の懐に返されました。それを見た人々は皆、恐れを抱き、言いました。

「偉大な預言者が我々の間に現れた」。

サレプタのやめもの死んだ一人息子を生き返らせた、預言者エリヤの再来だと思ったのでしょう。そして人々はこう言いました。

「神はその民を顧みてくださった」。そして、神を崇めました。「神は顧みてくださった」という御言葉は、「神が訪れた」という意味でもあります。私どもが流す涙、私どもの家族が向かう棺、私どもが向かう死。その方向を変えて下さり、その意味を変えて下さった「いのちの主」が、私どものところに来て下さったのです。

 

4.①昨年、水曜日の祈祷会で、ヘブライ人への手紙を共に黙想しました。4章15節以下(新約396頁)にこういう御言葉があります。

「この大祭司(イエス)は、私たちの弱さに同情(共に苦しむ)できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点で同じように試練に遭われたのです」。

そして5章7節以下。

「キリストは、人として生きておられたとき、深く嘆き、涙を流しながら、自分を死から救うことのできる方に、祈りと願いとを献げ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました。キリストは、御子であるにもかかわらず、多くの苦しみを通して従順を学ばれました。そして、完全な者とされ、ご自分に従うすべての人々にとって、永遠の救いの源となられました」。

 ヘブライ人への手紙は繰り返し語ります。主イエスこそ「憐れみ深い大祭司」である。私どもが経験するあらゆる悲しみ、嘆き、痛み、死。それを主イエス御自身、人となられて全て身に受けて下さった。それ故、主イエスは「憐れみ深い大祭司」として、私どもと共に苦しみ、共に悲しみ、傍らに立って執り成して下さる。愛する家族を亡くし、涙で祈れない私どもに代わって、祈って執り成して下さる。

 

私どもは異教者会の中で、キリスト者として日々生活しています。そこでどうしても避けることの出来ないことは、他宗教の葬儀に出席することです。北陸は真宗王国と言われているように、仏式の葬儀に出席します。私が以前、伝道していた伊勢では神道式の葬儀に出席します。そこでしばしば教会員から問われることがあります。お焼香をしてもよいのですか。榊を捧げてもよいのですか。しかし、その時、大切なことは、家族を亡くされた悲しみ、涙を共感することです。主イエスが抱かれた深い憐れみを、私どもも抱いて出席することです。家族のために、執り成し祈ることです。私どもも憐れみの小さな祭司となって、悲しんでいる友の傍らに立って、執り成し祈るのです。

 ナインの町で起きた葬儀での出来事を、いのちの主イエス・キリストにあって、今でも私どもは受け継いでいるのです。

 

 お祈りいたします。

「愛する家族を亡くされた方がいます。悲しみの涙が乾かない方がいます。しかし、いのちの主イエスは近寄り、深い憐れみをもって、まなざしを注いで下さいます。棺に、死者に手を触れて下さいます。『もう泣かなくともよい』と語りかけて下さいます。主によって、私どもの流す涙の方向が変えられました。棺が向かう方向が変わりました。死者が向かう方向が変わりました。いのちの主の懐に向かうものとされました。主よ、深い憐れみをもって、一人一人を執り成して下さい。

 この祈り、私どもの主イエス・キリストの御名により、御前にお捧げいたします。アーメン」。

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