「涙ぬぐわれる日を待ち望んで」
イザヤ25:6~10
黙示録21:1~8
主日礼拝
牧師 井ノ川 勝
2023年11月12日
1.①時の経つのは早いもので、今年も後半月で待降節を迎えます。本日の礼拝後、北陸学院高等学校ハンドベルクワイアによるハンドベルの演奏が行われます。本日の礼拝において、共に主を礼拝しています。ハンドベルの音色は勿論、一年中どの季節でもふさわしいのですが、やはりクリスマスの季節の音色として、一番ふさわしいのではないかと思います。堀岡満喜子校長に、今回のハンドベルの演奏のお願いの手紙を書きましたら、お返事をいただきました。金沢教会に天使の音色を届けたい。ハンドベルの音色はしばしば天使の音色であると言われます。ハンドベルの音色を表す最もふさわしい表現であると言えます。
救い主イエスが誕生した夜、夜通し羊の群の番をしていた羊飼いたちに、天使の大軍が現れて、神を賛美しました。
「いとたかきところには栄光、神にあれ、
地には平和、御心に適う人にあれ」。
クリスマスの賛美は天から始まりました。しかし、やがて天使たちは天に去って行き、地上は再び闇に包まれました。厳しい現実に戻りました。天使たちの賛美は消えてしまったのでしょうか。羊飼いたちは天使が告げられたように、ベツレヘムの馬小屋を訪ね、飼い葉桶の中の救い主イエスとお会いしました。羊飼いたちは、神をあがめ、賛美しながら厳しい現実に再び帰って行きました。天使たちのクリスマスの賛美は、地上の現実を生きる羊飼いたちに宿りました。羊飼いたちは神を賛美しながら、厳しい現実と向き合いながら生きる者となりました。
ハンドベルの音色は神を賛美する音色です。それ故、天使と音色と言われます。ハンドベルの音色は今日、この礼拝堂でだけ響き渡り、演奏が終わり、礼拝堂を出たら消えてしまう音色ではありません。ハンドベルの神を賛美する音色が、私どもの心に響き渡り、私どもも神を賛美しながら、それぞれの生活に帰って行くのです。生活の中で、厳しい現実の中で、ハンドベルの神を賛美する音色は響き続けるのです。
②私どもが生きる世界は日々、様々な叫び声が響き渡り、多くの涙が流されています。イスラエルとパレスチナ、ウクライナとロシアの厳しい悲惨な現実の映像が、毎日届けられます。子どもも、女性も、老人も、壮年も皆、涙を流しながら叫んでいます。爆撃によって全てのものを失った。この厳しい悲惨な現実と、どう向き合って生きて行けばよいのかと訴えています。神を助けて下さいと叫んでいます。日々、新たな涙が生まれ、新たな叫びが生まれる現実を、私どもは生きています。
先週の主の日、逝去者記念礼拝が行われました。礼拝後、野田山の教会墓地で墓前祈祷会、納骨式が行われました。多くの御遺族が出席されました。この一年間も、5名の教会員と御家族の葬儀を教会で行いました。特に、7月、8月、9月、10月と、毎月、逝去者があり、葬りが続きました。一つの涙が乾かない内に、また新たな涙を流しながら、家族、信仰の仲間の葬儀を行いました。この礼拝堂にも、多くの方の涙が流されました。この礼拝堂で、私どもは神を賛美し、ハンドベルの音色を聴くのです。
2.①私は昨日、一昨日と、北陸学院大学セミナーに出席しました。今年は全学部が大学で、学部毎に分かれてセミナーをしました。私は毎年、教育学部のセミナーに出席しています。将来、幼稚園、保育園、小学校の教師を目指している学生たちです。主題は「君たちはどう生きるのか」。「生きた座標軸を据えよう」「共に喜び、共に苦しむ交わりを造ろう」。2回の講演で主題を巡って講演をしました。
幼稚園では毎年、クリスマスになると、今年はサンタさんどんなプレゼントを持って来るのかな、園児たちの期待と夢が膨らみます。心の部屋にサンタさんを迎える準備をします。クリスマスの日、目を覚ましたら、枕元にプレゼントが置いてある。僕の部屋にもサンタさんが来てくれたんだ。サンタさんにお会いできなかったけれど、サンタさんは本当にいたんだ。園児たちは喜びに満たされます。
しかし、幼稚園の園児もやがて小学校中学年、高学年になると、なんだサンタさんはお父さん、お母さんだったのかと、夢が萎んで行きます。しかし、その時がとても大切です。キリスト教保育は目に見えないものに目を注ぐことにあります。松岡享子さんが『サンタクロースの部屋』という本で語っています。子どもの心の中にあったサンタクロースの部屋から、やがてサンタさんがいなくなる。去って行く。しかし、その部屋に何が宿るかがとても大切なことです。目に見えるものこそ確かである、との物資文明の中で生活している子どもたちが、目に見えないものに目を注ぎ、目に見えないものに支えられて生きていることを実感することがどんなに大切なことであるか。
サンタさんがいなくなった部屋に、本当のサンタさんである目に見えない神、主イエスが宿って下さる。キリスト教保育が指し示す大切な福音、喜びの知らせがここにあります。
②天使の大軍の讃美歌、クリスマスの賛美を最初に聴いたのは、夜通し羊の群の番をしていた羊飼いでした。クリスマスの歌声は真っ先に、羊飼いたちに届けられました。何故でしょうか。羊飼いたちは日々、涙を流す存在でした。主に向かって叫んでいる存在でした。羊飼いは神に選ばれたユダヤ人でありながら、神の律法に生きることが出来ず、神の選びから漏れてしまった。神の救いに与れないとの烙印を押された存在でした。仲間のユダヤ人から軽んじられていた存在でした。そのような羊飼いに真っ先に、天使を通してクリスマスの歌、福音が届けられたのです。
「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主キリストです。あなたがたは飼い葉桶の中に、布にくるまって寝ている乳飲み子を見つけるでしょう。これがあなたがたへのしるしです」。
羊飼いたちは夜中、ベツレヘムの馬小屋に出かけて行き、飼い葉桶の中に寝かされている幼子イエスとお会いしました。馬や牛のよだれが染み込んだ薄汚れた飼い葉桶。それは将に、私どもの心の部屋、私どもの存在を現している。しかし、私どもの汚れた飼い葉桶、部屋、存在の中に、幼子イエスが来て下さった。宿って下さった。羊飼いたちは見聞きしたことが何もかも、天使が語った通りであったので、夜の闇の中にあっても、神をあがめ、賛美しながら、再び厳しい現実の生活へ帰って行きました。
救い主イエスは私どもと同じ人間となられ、神から遣わされて来て下さいました。兄弟ラザロを亡くしたマルタとマリアを訪ねて下さいました。マルタとマリアの涙を御覧になられ、主イエスも涙を流されました。愛する家族を無理矢理奪い、絶望のどん底に突き落とす死の力に向かって、主イエスは死の力と真っ向から立ち向かい、激しく憤られました。大きな石で封印されたた墓に葬られたラザロに向かって、いのちの大声で叫ばれました。「ラザロ、出て来なさい」(ヨハネ11・28~44)。主イエスは私どもの涙を知り、叫びを知られるお方です。それ故、ヘブライ人への手紙で、こう語られます。
「キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました」(5・7)。
旧約聖書の詩編の詩人が主に向かって、このような叫びを上げています。
「あなたはわたしの嘆きを数えられたはずです。あなたの記録に、それが載っているではありませんか。あなたの革袋にわたしの涙を蓄えてください」(56・9)。
主イエスこそ、私どもが流す涙の意味を知っておられます。一粒一粒の涙が虚しく地に落ちて消えないように、記録に書き留め、革袋に蓄えて下さいます。主イエスこそ涙の革袋となって来て下さったのです。
主イエス・キリストは今、どこにおられるのでしょうか。十字架にかけられ、甦られた主イエス・キリストは、天に上げられ、父なる神の右におられます。涙の革袋キリストは天におられる。それ故、私どもは天に向かって涙を流すのです。
3.①ヨハネの黙示録を書きました伝道者ヨハネは、教会員の悲しみを知り、涙を知り、共に涙を流す伝道者でした。それ故、黙示録には、涙、泣くという言葉が散りばめられています。時代はローマ帝国の迫害の時代です。ローマ皇帝は生まれたばかりの小さなキリスト教会を目の敵にし、迫害しました。わたしこそ神の子であり、救い主であると称するローマ皇帝に、キリスト者たちはひざまずかなかったからです。皇帝礼拝を拒否し、主イエスこそ神の子、救い主として礼拝していたからです。伝道者ヨハネは教会員から無理矢理引き離され、エーゲ海のパトモスの島に流刑されました。教会員に向かって御言葉を語れなくすることにより、教会の命を絶とうとしました。毎日のように、キリスト者が捕らえられ、殺され、涙を流しながら葬りをしました。涙が乾くことはありませんでした。
伝道者ヨハネは主の日、パトモスの島で、数名の者と礼拝を捧げていました。その時、甦られた主イエス・キリストが現れ、天の幻、終わりの日の幻を見た。主の日の礼拝の只中で見た幻です。それが黙示録に書き記された御言葉となりました。今朝、私どもが聴いた21章は、その中心にある御言葉です。
私どもは歴史の将来に対して、どのような夢、幻を抱いているでしょうか。一時期、未来に対して、明るい希望が語られたこともありました。未来のユートピアが語られました。しかし、今はそのような未来を語る人はいなくなりました。むしろ、未来に対して、明るい希望が全く見えない。闇が幾重にも覆っている。未来に対し、悲観的に語る方がほとんどです。戦争が至るところで生じ、破滅があるだけだと語る方も多くいます。
しかし、黙示録は「未来」という言葉を用いません。未来は未だ来たらず。未だ来たらずの未来に希望を持つことは出来ない。黙示録が語るのは「将来」です。今将に来たりつつある方キリストを語ります。今将に来たりつつある神の新しい天と地を語ります。そこに希望を見るのです。神の幻はこう語ります。
「わたしはまた、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去って行き、もはや海もなくなった」。
神が造られた最初の天と最初の地、私どもが今、生きている世界はやがて過ぎ去って行きます。神が造られたものであるが故に、永遠に続くのではない。もはや海もなくなった。海が豊かな恵みを与えます。しかし、時には獣のように牙をむき、私どもの命を呑み込んでしまう恐ろしさも持っています。そのような海もなくなる。それでは終わりの日に何が起こるのか。神は新しい天と新しい地を創造して下さる。神の新しい創造が起こる。終わりの日に起こるのは、人間の破滅ではなく、神の新しい創造です。そこに終末の希望があるのです。更に、神の幻はこう語ります。
「更にわたしは、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、神のもとを離れ、天から下って来るのを見た」。
「エルサレム」。神の平和という意味を持っています。しかし、地上のエルサレムは戦乱を繰り返し、今尚、戦乱が続いています。多くの涙が流された地です。平和から最も遠い地です。この町に平和が来ないと、世界に平和が来ない。そのような象徴的な町です。神から遣わされた主イエスが十字架に掛けられた地です。しかし、終わりの日、神の許から新しいエルサレムが花嫁の姿をして天から下って来る。花婿キリストと結婚するためです。終わりの日に、神は平和の象徴である結婚式の祝いをもたらして下さる。神の平和と呼ばれる新しいエルサレムを神がもたらして下さる。
②主の日の礼拝で、このような神の幻を見た伝道者ヨハネは、天の玉座から神が語りかける大きな声を聴きました。
「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり」。
終わりの日、神は私どもを神の幕屋に招いて下さる。神は私どもと共に住んで下さる。神は私どもと共にいて下さる。ここで繰り返されていることは、「神、われらと共にいます」ことです。インマヌエルの神であられることです。主イエスが誕生する時、天使はヨセフに告げました。
「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる」。「その名は、『神は我々と共におられる』という意味である」(マタイ1・23)。
神が神の幕屋に私どもを招き、永遠に神が私どもと共に住み、永遠に神が私どもと共にいて下さる。神は永遠にインマヌエルの神でいて下さる。そこに終末の希望がある。神は語られます。
「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである」。
神はわれわれと共にいて下さり、何をされるのか。私どもの涙をことごとくぬぐい取って下さる。地上にあって、私どもの涙が乾くことはありませんでした。私ども人間の罪が生み出す悲惨な現実を前にして、何度も何度も涙を流して来ました。神はその涙をことごとくぬぐい取って下さる。涙の革袋であるキリストが私どもの涙をことごとくぬぐい取って下さる。地上にあって、私どもを苦しめた死はもはやなく、悲しみも嘆きも労苦ももはやない。終わりの日、神の幕屋にあるものは何でしょうか。あるのは神を賛美する喜びです。天使が奏でる賛美の音色です。神の幕屋は神への賛美で満ち溢れている。その神賛美の交わりの中に、私どもも招かれるのです。
4.①黙示録は讃美歌に満ち溢れています。私どもが礼拝で賛美した頌栄も、黙示録で歌われている讃美歌です。4章8節。
「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、全能者である神、主、
かつておられ、今おられ、やがて来られる方」。
地上の教会はローマ帝国の迫害の下、家族や信仰の仲間を失い、僅かな人数で涙を流しながら礼拝を捧げ、讃美歌を歌っています。しかし、神は天の幻を見させます。天上でも礼拝が捧げられています。そこにはかつて共に礼拝を捧げた信仰の先達、殉教の死を遂げた信仰の仲間が、讃美歌を歌っています。天上の礼拝と地上の礼拝で歌われる讃美歌がこだまし、共鳴しています。
「救いは、玉座に座っておられるわたしたちの神と、小羊のものである。
アーメン。賛美、栄光、知恵、感謝、誉れ、力、威光は、
世々限りなくわたしたちの神にありますように。アーメン」。
天上の礼拝で讃美歌を歌っていた一人が語りかけます。「泣くな、見よ、天上の礼拝で捧げられている賛美の声を」。天上の賛美のこだまが、地上で涙を流しながら賛美を捧げている小さな礼拝の群れに響いているではないか。終わりの日、神があなたがたの涙をことごとくぬぐい取って下さるではないか。
終わりの日、キリストが私どもの涙をことごとくぬぐい取って下さる。この神の幻を心を高く上げて見るからこそ、私どもは地上で涙を流しながらも、神を賛美しながら歩むのです。
主キリストは語られます。
「わたしはアルファであり、オメガである。初めであり、終わりである。渇いている者には、命の水の泉から価なしに飲ませよう。勝利を得る者は、これらのものを受け継ぐ。わたしはその者の神となり、その者はわたしの子となる」。
地上を生きる私どもの魂は渇き切っています。しかし、歴史の初めに立たれ、終わりに立たれるのは、主キリストです。死の力でも地上の権力者でもありません。それ故、主キリストは私どもを招かれます。渇いているあなたに、命の水を飲ませよう。主キリストが私どもを生かす命の水となって下さり、私どもの唇から神への賛美を絶やさないようにして下さるのです。
②この一年間、5名の教会員と御家族が逝去され、葬儀を行いました。一人一人が亡くなられる数日前、一週間前に、病院、自宅を訪ね、涙を流しながら讃美歌を歌いました。礼拝堂で御遺体を前にして、涙を流しながら讃美歌を歌いました。御遺体を火葬に伏す時も、涙を流しながら讃美歌を歌いました。神がわれらと共にいて下さるからこそ、キリストが涙の革袋であるからこそ、私どもは涙を流しながらも神を賛美し続けるのです。私どもの小さな神への賛美が、闇に覆われたこの地上のあらゆる場所に響き渡りますように。
お祈りいたします。
「私ども人間の罪が日々闇を造り出しています。悲惨な現実を造り出しています。涙が流されています。主に向かって叫んでいます。涙は虚しく地に流れ、叫びは虚しく地に響き渡ります。しかし、主よ、あなたは私どもと共におられる神です。涙の革袋です。私どもの涙を天に向かって流させて下さい。私どもの叫びを聴いて下さい。御手をもって導いて下さい。神が見せて下さる天上の礼拝、終わりの日の幻を仰ぎ見つつ、地上にあって神への賛美の歌声を絶やすことなく続けさせて下さい。私どもの小さな神への賛美が、天上の賛美に支えられ、地上のあらゆる場所に響き渡りますように。
この祈り、私どもの主イエス・キリストの御名により、御前にお捧げいたします。アーメン」。