「涙の前で、死に立ちはだかる主」
イザヤ書 25章6~9節
ルカによる福音書 7章11~17節
主日礼拝
矢澤 美佐子 副牧師
2026年2月15日
岩手県大槌町。海を見渡す丘の上に、ひっそりと一つの電話ボックスが立っています。遠くまで広がる青空を背に、白い木で手作りされた、白い電話ボックス。いくつもの小さなガラス窓を通して、やわらかな光が差し込みます。
扉を開けると、中には、「線のつながっていない黒電話」が置かれています。人々はこの電話を、「風の電話」と呼んでいます。周りには、丹精こめて育てられた花たちが、やさしく咲き広がっています。
耳に届くのは、鳥のさえずりと、頬をなでるように吹き抜けるやわらかな風の音だけです。
この場所に立つと、まるで澄み切った空気に満ちた礼拝堂で、ひとり、そっと神様の御前に立っているかのような、そんな感覚に包まれる、と多くの人が言います。
新幹線の新花巻駅から車でおよそ二時間。ローカル線とバスを乗り継げば、三時間以上。決して近い場所ではありませ。
それでも、日本全国から、そして世界各地から人々が訪れています。その歩みが途切れることはありません。
国を越え、言葉を越え、人々をここへ引き寄せるものは、一体、何なのでしょうか。なぜ、この線のつながっていない黒電話は、これほどまでに多くの人の心を呼び覚まし、その歩みを止めることがないのでしょうか。
ここを訪れた人は、線のつながっていない受話器をそっと持ち上げ、そっと耳にあてます。線はつながっていません。けれど、人は語りかけます。天国にいる大切な人に向かって。
「元気ですか」「本当の気持ちを、伝えたい」「もう一度、会いたい」 胸の奥に押し込めてきた名前を、もう一度、呼びます。その時、知るんです。「つながっている」、「天国のあの人と、つながっている」
2024年1月1日、能登半島地震が起こりました。この2年間で、災害関連死を含めて700人もの命が失われました。「夜、澄み切った空に、あまりにも美しく月が輝いていると、かえって悲しみが深まり、涙が止まらなくなる」、そう語る方もおられます。私は、この2年、御言葉を携えて、何度も被災地に通いました。震災の後の豪雨による浸水、土砂崩れ。家も家族も失った方々の深い喪失の中に寄り添い、私も、共に祈って参りました。
誰もいない礼拝堂にひざまずき、「被災地の方々を、金沢教会の方々を、主よ、どうか、救ってください」と、何度も祈りました。眠れない夜も、いくつもありました。
ある方が、静かに打ち明けてくださいました。「亡くなった娘の部屋に入ることができません」。
2年経っても、机もイスもそのまま。匂いも、ぬくもりも消えていません。頭では、前に進むべきだと分かっていても、世の中の速さについて行けません。悲しみが癒える歩幅は、人それぞれ違います。
こんな声も聞きました。「急がせる人よりも、そっと手を握り、待ってくれる人がありがたい」
涙の歩幅に合わせてくださる方。主イエス・キリストは、まさにそのお方です。
私たちは、「家族や、愛する金沢教会の方との優しい命のほほえみは、これからも続く」と思っています。「目の前にいるこの人は、明日も生きている」と思っています。しかし「死」は、それを一瞬で奪っていきます。
金沢教会でも、病や、感染症によって、大切な仲間を、一人、また一人と神様の御許へと送って参りました。「手を握ることもできない最期の別れ」、病室にも、葬儀にも、立ち会えなかったという痛みを、私たちも経験してきました。
そして、私たちは知っています。「死なない人は、誰一人いない」ということを。けれども、私たちは、どこかで思っているのです。「別れはいつか来る。けれど、今日ではない」と。しかし、別れはやってきます。
その時、問いが、浮かび上がってきます。「これから、生きていけるかしら?」、「一体、どこへ向かっていけばいいのか」
私たちは、ただ、死へ向かって、時を刻んでいるだけなのでしょうか。聖書は、この問いから逃げません。真っ正面から向きあいます。そして、今日、金沢教会のただ中に、救い主イエス・キリストが立っておられます。
主イエス救い。それは、一体、どのような救いなのでしょうか。
聖書は、ある一人の女性について記しています。夫と息子の三人の暮らし。やわらかな光の中で、ささやかな幸せがありました。しかし、ある日、突然、夫が亡くなってしまうのです。今も、私たちのすぐそばで起きている現実です。命が、引き裂かれ、残されたのは、母と、まだ小さい男の子。
母は、小さな息子を抱きしめながら、泣き崩れたことでしょう。「これから、どうやって、生きていけばいいの」
はじめに紹介しました。「風の電話」 人々は受話器をとって、亡くなった愛する人に話しかけます。「亡くなった人と話せる、はずがない」そう、言う人もいます。しかし、「ほんの少し前まで、隣で笑っていた人が、いなくなったとしたら」、「最期に手を握ることも、本当の思いを告げることも、できないままだったとしたら」。
私たちは、もう、立ち上がれません。私たちは、生きるために、「まだつながっている」という、希望が必要です。
「まだつながっている」。これは、本当に大きな「生きる力」となります。
受話器を耳にあてた時、シーンとした静けさの中で、風の音と、自分の命の鼓動が聞こえてきます。そして、多くの人がこう感じると言うのです。「受話器の向こう側に、あの人がいる」、「まだ、つながっている」、「今、よく分からないけれど、何か大きなものに守られている」、「神様かもしれない」そう思うことができると言うのです。
そして、大きな「生きる力」が与えられていくのです。
東日本大震災の後、ガーデンデザイナーで、詩人の佐々木格さんは、悲しむ人に寄り添う、繊細な感性と素晴らしい想像力で、この「天国につながる電話」を丘の上に置きました。
「つながっている」 神様と、天国と、あの人と。つながっている。話しかけることによって、悲しみが癒され、混乱していた考えが、静かに整理されていきます。必要以上に自分を責め、苦しんでいたことにも気づいていきます。
「言えなかった言葉を伝えられた」 この事が、どれだけ安らぎを与えることでしょう。
ロシアのウクライナ侵攻や、コロナ禍で、別れを告げる間もなく、愛する人を失った人たちも訪れています。悲しみのあまり、何ヶ月も、何年も、家に閉じこもってしまう人もいます。しかし、動けなかった人が、「神様と、天国と、あの人とつながる丘の電話を目指して」動き出します。閉ざされた心が開かれ、動き出すきっかとなります。
この場所を離れたあとも、悩み苦しみが、完全に消えるわけではありません。日常は続きます。けれど、「守られている」、「つながっている」この経験は、鮮明に残り続けます。あの丘の上の非日常の体験が、これからの日常を支えていきます。
この話しをお聞きになって、丘の上の「風の電話」に行ってみたい。そう思われた方も、いらっしゃるのではないでしょうか。あの遠い丘の上へ行ってみたい。そうです。多くの人が訪れています。
けれど――どうか、聞いてほしいのです。
あの丘の上に立つ「風の電話」は、はるか遠くにあるだけではありません。今、ここにあるのです。私たちが座っている、この場所に確かにあります。この静かな礼拝堂こそ、あの丘の上に立つ、「白い電話ボックス」なのです。
この礼拝堂は、神様と繋がっています。そして、お祈りは、「受話器を取ること」です。あのはるか遠い、丘まで行かなくてもいい。この礼拝堂は、神様と繋がっています。主は、もうここにおられます。私たちのすぐそばにおられます。
白い電話ボックスの、いくつもの窓ガラスから、やわらかな光が差し込みます。扉を開けると、中には、「線のつながっていない黒電話」。その周囲には、花たちがやさしく咲き、鳥のさえずりと、頬をなでるように吹き抜ける、やわらかな風。
そこへ行った多くの人が言うのです。「ここは、まるで、澄み切った空気に満ちた礼拝堂。そっと神様の御前に立っている、そんな感覚に包まれる」 教会に行ったことのない人も、そのように表現すると言うのです。
まさに私たちは、その場所にいます。
天国にいる亡くなった愛しい人を、うらやましいくらいにお守りくださる神様に、全てを、おゆだね致します。
そうして、安らぎが与えられます。祈りは、見えない受話器を取ること。手を合わせる時、私たちはいつでも神様とつながっています。家にいる時も、歩いている時も、神様はすぐ隣におられます。
今日の聖書の母も、きっとそうでした。神様に祈り、亡くなった夫にも、語りかけていたに違いありません。母の腕の中で幼い息子が、優しい瞳ですやすや安心して眠っています。「私が、しっかり生きて、夫の分までこの子を育てよう」 溢れる涙を心の奥にしまい、笑顔を見せて、生きていました。
当時の社会において、女性が家族を養うことは、決して容易ではありません。十分な仕事は得られず、やがて息子も、働き始めたでしょう。戦争の多い時代でした。今日の聖書の直前には、百人隊長の話が記されています。息子が兵士となって収入を得、母を支えたこともあったかもしれません。二人は支え合い、成長する息子に、亡き夫の面影が重なっていました。
母と息子だけで得られる収入。質素な生活です。しかし、目の前にほほえむ命があります。それだけで十分幸せ。母一人、子一人。そして、その子が成人した頃のことです。
聖書は、あまりにも簡潔に伝えます。「 ある母親の 一人息子が 死んで 」
この短い言葉が、私たちの胸を、刺し貫きます。この言葉だけで皆さんの中にも、ご自身の人生と重なり、涙が溢れ、顔を覆いたくなる方もおられるでしょう。この世は、厳しい。このようなことが起こるのです。
病だったでしょうか。戦死だったでしょうか。分かりません。温もりも、交わす言葉も、ほほえみも引き裂かれ、愛する我が子が冷たく横たわっています。凍った世界の中で、たった一人、母は、強烈な孤独に震えます。
涙は、燃えるように熱く、冷たくなった愛する我が子の上に、止めどもなく、流れ落ちるのです。
夫もいない。息子も、もういない。暗闇がささやきます。「あなたは、もう生きていても仕方がない」
愛する我が子を失った親の気持ちは、周囲の人に推し量ることはできません。
クリスマスの喜びの背後に、ベツレヘムでは、幼子の大虐殺が起こりました。救い主がお生まれになったことを聞いたヘロデ王は、自分の地位が奪われる恐怖に、心が支配されます。そして、徹底的に、主イエスを消し去るために、ベツレヘム一帯の、二歳以下の幼子を皆殺しにしたのです。これは、この世の「むき出しの罪」の姿です。
今でも、人の野心、欲望がこの世界を覆い、戦いの背後で、幼い命が犠牲になっています。その一人ひとりに、愛おしい名前があり、抱きしめる母がいて、成長を願う父がいます。ベツレヘム中に幼子の血が流れ、母たちの悲鳴がひびき渡りました。「慰められたい」と願う余力さえもうない。底知れない深い嘆きです。
今日の母は、もう一度、神様に向かうことができたでしょうか。風の電話へ向かうことができたでしょうか。祈る力も、残っていないかもしれません。
「主よ、優しい慰めの言葉だけでは、生きてはいけません。ぬくもりに包まれる、一時の優しさだけでは、乗り越えられません。まだ頑張れと言うのですか。まだ頑張らなくてはならないのですか。もう頑張れません 」死が、全てを絶望へと飲み込み、私たちも崩れ落ちる瞬間があります。そこで知ります。自分がどれほど、もろく弱い存在だったかということを。
あるキリスト者ご夫婦のお話を、聞かせて頂いたことがあります。お二人のお子さんがおられました。一人は障害があり、いらだった時には、激しくあばれることもありました。ご夫婦は、体力的にも精神的にも、とても疲れておられましたが、それでも深い愛を注ぎ、大切に育てておられました。もう一人の子は、そんな両親を気遣い、兄弟の世話もよくする優しい子でした。
ある日、家の前で遊んでいた時のことです。一人の子が事故で命を失ってしまいます。亡くなったのは、家族を支え、いつも優しく兄弟を助けてくれていた子でした。
嘆きの中で父親は、罪の告白をするように、声を震わせながら語りました。「何故、この子の方だったのか。何故、この子だったのか」 混乱し、もろく弱くなり、決して口にしてはならない思いが頭をよぎったと言うのです。そして、その時、本当に心の底から自分を恐ろしく思い、涙が止まらなかったと言うのです。
親の子供への愛は、自分の命を差し出しても守りたい命です。大きな愛を注いで来ました。それでも、死の衝撃の前で、人は崩れます。信仰者であっても崩れます。
死は、信仰の強さを、示す舞台ではありません。弱く、もろくなる。それでいいのではないでしょうか。
しばらくして、教会で証しをされた時、父親はこう話されました。
「私の信仰は、弱かった。死の前で、裸になり、聖い心もなく、罪があらわになり、祈ることもできませんでした。今、また起き上がることができているのは、あの時、教会が祈ってくれていたから、イエス様が、罪人の私を、それでも愛し、赦してくださったから。そう思うのです」
その後、残された子は、両親の愛と、教会の愛をしっかりと受け、洗礼を受けました。
教会と家族は、本当に、大きな喜びで包まれ、父親は、胸が熱くなったそうです。
私たちは、愛する人の死を前にした時、主イエスのように、愛をこめて、そばにいてあげられたらと思います。しかし、厳粛な死の時ですら、聖なる人としてそばに寄り添えず、みじめさをまとった罪人として立っています。
死の前で、全ての人が無力です。愛する人を死から救えない。自分自身を罪から救えない。
一体どうすれば、よいのでしょうか。
これほど傷ついた世界で、どうすれば、愛を手放さずに、聖らかな人として生きることができるでしょうか。答えは、私たちの内側にはありません。ただお一人、罪と闇のただ中へ入ってこられた方。圧倒的な愛をもって、罪と闇に立ち向かわれた方。神の子イエス・キリスト。
このお方によってのみ、罪に崩れた私たちは、抱きとめられます。死に引き裂かれた世界は、断ち切られず、つながり続けるのです。罪と死の力のただ中へ、主イエス・キリストは、たった一人、ひるむことなく、突き進まれます。
今、目の前に、息子を亡くし、泣き叫ぶ、葬儀の列が墓へと進んで行きます。町中の人が、母の苦労を知っています。重い。あまりにも重い葬列です。嘆きが地をひきずるように、みなが墓へと向かいます。人々は、目を伏せます。嘆きの深さに耐えきれず、遠ざかっていくのです。
しかし、主イエス・キリストは、違いました。主イエスは、ひるむことなく、その葬列に近づかれます。
そして、ただならぬ気迫をもって、葬列の先頭に立ちはだかるのです。死へと向かう行進を、その身体で、ふさがれるのです。命の主が、死の行進の前に毅然と立ちます。
主イエスの心は、今、燃えています。命の主が、全身を燃え立たせ、「これ以上、死に進ませはしない」と、死の行進を、こばまれるのです。死の力を、真正面から、その身に受け止められるのです。
そして主は、泣き崩れる母のすぐそばへ行かれます。主は、母を見つめます。
母を見つめ主イエスは、御自身の身が裂けるほどに、激しく身も心も打ち振るわせ、深く、深く、憐れまれます。
今日の聖書の「憐れみ」。これは、人間にはない、主イエス・キリストにしか使われることのない特別な言葉です。内臓がよじれるほどの痛みを伴う憐れみ。人の痛みを、自分の痛みとして引き受ける。神様の憐れみです。
母の嘆きが、主イエスのはらわたを引き裂きます。母の涙が、主イエスの身体を震わせます。
「もう、どうでもいい、慰められたくもない」と叫ぶ母の前で、主イエスは、退きません。身が裂けるほど激しく、全身を震わせ、燃え立つ心で、命をかけてこう仰せになります。
「もう泣かなくともよい」これは、一時の優しい、慰めではありません。
「もう泣かなくともよい」死は、終わりではないという宣言です。命が、ここに立っているという、勝利の宣言です。
主は、この御言葉を、十字架を見つめながら語っておられるのです。これから受ける鞭、裂かれる背中、吐きかけられるあざけり、流される血、息を引き取る激しい痛みの瞬間。全てをご存知のうえで言われたのです。「もう泣かなくともよい」 主イエスは、言葉だけでは終わりません。命をかけて実現されます。
主イエスは、静かに棺の中の息子に手を伸ばされます。この時代、死体は、汚れたものとされており、決して触れてはいけなかったのです。しかし、主イエスは、当時の習慣、常識を打ち破ります。愛の御手で、ためらうことなく触れられるのです。そして、仰せになります。「若者よ、あなたに言う。起きなさい」その瞬間、死はしりぞきます。そして、命は、呼び戻され、息子は、復活するのです。起きあがります。
母は、息子を抱きしめ、周囲の人たちは、喜び、主を讃美したことでしょう。信じられないような出来事です。しかし、そのようなことを主はなさったのです。母は、復活した命を抱きしめながら、一日一日を大切に生きたのです。
しかし、この救いの背後にある大きな代価を、その時、誰も知りません。
息子の命を助けた、主の愛の御手に、やがて十字架の大釘が打ち込まれることを、誰も知りません。
人を救い、愛を行う。私たちの生き方、考え方を否定する目障りなイエスという男。私たちの立場を脅かす者。気に入らない。殺してしまえ。人々は叫びます。「十字架につけろ、十字架につけろ」
これは、私たちの声です。自分を守り、神を排除する。私たちをどこまでも愛し抜き、救おうとしてくださる、救い主イエス・キリストを、私たちは、十字架につけ、殺すのです。
背中は鞭で打たれ、皮膚がさけ、血が流れます。茨の冠が押しつけられ、頭から血がしたたります。重い十字架を背負われ、よろめきながら歩かれる。「もう、泣かなくてもよい」
その姿を、あの母と息子が、見ることがあったでしょうか。そして、息子を救った、あの愛の御手に、大釘が打ち込まれます。それでも、主イエスは、退かれない。「もう、泣かなくてもよい」あの言葉を実現するためです。
私たちは、何も知らず、主イエスを十字架につけるのです。
十字架の上で、主は、息も絶え絶えに、痛みの中で、私たちに語ってくださいます。
「私は、あなたを、愛している。引き裂かれたあなたの大切な家族を、そのままで、終わらせはしない。あなたの愛する人を、死の暗闇に閉じ込めたままにはしない。あなたが、死を迎えたとしても、私は、あなたを、呼び起こす。
そのために、私は、あなたの罪を身代わりに負い、死を打ち破り、復活する。あなたも、私と共に、復活するんだ」
これが、「もう、泣かなくていい」この御言葉の重さです。
弱いように見えた十字架の死は、敗北ではありません。主の愛が、最後まで貫かれた、証しです。人々は、主イエスを十字架につけ、主は死にました。しかし、死の暗闇は、主イエス・キリストを閉じ込めることはできなかったのです。
復活の朝、墓は、空になり、命の主イエスが、永遠の王であることが、明らかになったのです。
それゆえ、私たちの命は、死で終わりません。愛する人の命も、闇に消えたのではありません。
あの母は、やがて知ったことでしょう。息子を抱きしめられたのは、主イエス・キリストが、身代わりに、命を差し出してくださっていたから。はっきりと知ったのです。
そして、父なる神の御声が、深いところから、聞こえて来ます。
「私は、あなたを救うために、私の愛する独り子を犠牲にした。これほど、あなたを愛する神は他にいない。安心して、私を信じ、その身を私にゆだねてほしい。その先に、死を超えた復活の命があるから」
同じ救いが、今も、私たちに起こっています。これまでも、金沢教会も、愛する方々を、神様の御許へ送って来ました。
そして、これからも繰り返されていきます。しかし、主イエス・キリストは、ひるむことなく死の行進を、しっかりと立ちふさいでくださいます。私たちの葬儀の例は、死への行進ではありません。私たちキリスト者は、死を打ち破り、死から復活された主イエス・キリストを先頭にした、神様の国へ、よみがえりの朝へと向かう、希望の行進です。
だから、主は、力強く仰せになりました。「もう泣かなくていい」 命令でも、急がせる言葉でもありません。私たちの涙は、この世で誰かを確かに愛してきた「愛の証し」です。
ですから主イエスは、同じ悲しみの涙の場所から仰せになるのです。
「私が、あなたを救う。だから、あなたは、もう、一人で、泣かなくともよい」
その、神の御声の方へと目を上げ、「あなたこそ、命の主、復活の主です」と、私たちは、ほほえみ返して、復活の希望をもって生きていきたいと思います。
