「涙の革袋の誕生」
詩編 56編9節
マタイによる福音書 2章2~10節
クリスマス礼拝
井ノ川 勝 牧師
2025年12月21日
2025.12.21. 「涙の革袋の誕生」
詩編56:9,マタイ2:13~18
1.①この一年間、世界の至るところで、一体どれくらいの涙が流されて来たことでしょうか。涙が流されなかった日は、一日たりともなかったことでしょう。毎日、映し出されるガザにおいて、ウクライナにおいて、子どもたちが、女性たちが、壮年たちが、老人たちが目にいっぱい涙を溜めて、涙を流していました。能登の被災地に生きる一人一人の涙が映し出されていました。世界に生きる一人一人の目の涙が乾くことはなかったのです。この一年間、流された涙は地球という器には納まり蹴れない程の涙が流されて来ました。
皆さんの中にも、愛する家族、大切な友人を喪った悲しみの涙が、乾かないのではないでしょうか。
②クリスマスは、救い主イエスの誕生の出来事です。救い主イエスが人間の姿をとって、私どものところに来て下さった出来事です。大いなる喜びの出来事です。ところが、主イエスの誕生直後、悲しい出来事が起こりました。ヘロデ王がベツレヘムとその周辺一帯の2歳以下の男の子を、一人残らず殺せという命令を下したからです。
救い主の誕生、新しい王の誕生。それはこの世の権力者であるヘロデ王を不安にさせました。自分の王座をやがて奪われるという恐れを抱かせました。そこで救い主が成長しないうちに、まだ幼子のうちに、命を摘み取ってしまおう考えたのです。誠に惨い権力者の欲望です。
その日、母親の腕に抱かれた幼子が兵士によって無理矢理に奪い取られ、母親の目の前でわが子が殺されるという、誠に悲惨な出来事が起こりました。ベツレヘムの町は、わが子を喪った母親たちの叫びがこだまし、母親たちの涙が止めども無く流されました。
2.①母親たちの涙と嘆きを心に留めた、この福音書を綴ったマタイは、預言者エレミヤの言葉を想い起こしました。この出来事が起こる500年以上も前に預言された言葉でした。
「ラマで声が聞こえた。激しく泣き、嘆く声が。
ラケルはその子らのゆえに泣き、慰められることを拒んだ。
子らがもういないのだから」。
「ラマ」はベツレヘムの別名です。「ラケル」は創世記の登場する族長ヤコブの妻です。悲しみの母の象徴です。ラケルの最初の子ヨセフは、腹違いの10人の兄たちの妬みを買い、エジプトに売られました。ラケルは生きながらにして、大切なわが子を失いました。ラケルは悲しみの中で、新しい命が与えられました。ところが、夫ヤコブと共にベツレヘムへ向かう途中、産気づきました。しかも難産でした。ラケルは自分の命と引き換えに、新しい命を出産しました。男の子ベニヤミンです。自分の手に愛するわが子を抱くことなく、ラケルは涙を流しながら息を引き取りました。ラケルの遺体は、ベツレヘムへ向かう道の傍らに葬られました。
ラケルは愛するわが子を喪った悲しみの母の象徴です。今日もまた、世界の至るところで、ラケルの涙が流されています。ラケルの涙がなくなることはなかったのです。
旧約聖書に「哀歌」、悲しみの歌があります。エレミヤの哀歌とも呼ばれました。愛するわが子を喪い、愛するエルサレム、祖国を失った母たちの悲しみの歌です。大切なわが子、大切な祖国を失った時、一体どこに向かって涙を流せばよいのでしょうか。空に向かって涙を流しても、地に向かって涙を流しても、空を打つ空しさを感じます。誰もその涙と嘆きを受け止めてくれないからです。しかし、エレミヤは語りかけます。
「娘シオンの城壁よ、心から主に向かって叫べ。
昼も夜も、川のように涙を流せ。休んではならない。
あなたの瞳を休ませてはならない。
立って、夜回りの始まる時に叫べ。
主の前で、心を水のように注ぎ出せ。
幼子たちの命のために、主に向かって両手を上げよ」。
何故、私どもの目の前で、こんなに悲惨な出来事が起こるのか。何故、惨い出来事が起こるのか。何故、不条理な出来事が起こるのか。誰も分からない。しかし、だからこそ、主に向かって叫べ、主に向かって涙を流せ。主なる神こそが、あなたの叫びも涙も受け止めて下さるからです。
②救い主イエスの誕生は、悲劇をもたらしました。ベツレヘムとその周辺一帯の2歳以下の男の子が、一人残らず犠牲となりました。何故、こんな悲劇が起きたのか。誰も分かりません。しかし、一つ確かなことがあります。救い主イエスの誕生によって、この世を支配している権力者の罪が明らかになったのです。私こそがこの世の王である。皆から崇められる神である。それ故、救い主の存在を認めないのです。救い主の前でひれ伏すことなど出来ないのです。それは私どもにもある罪なのです。私どもも自らをこの世の王、主人公として誇って生きています。神を認めようとせず、救い主の前でひれ伏そうとしないからです。
救い主イエスは人間の姿を取られました。しかも幼子としてお生まれになりました。この世の権力者ヘロデ王の前で、全く無力な幼子です。ヘロデ王の幼児虐殺を止めることなど出来なかったのです。この世に平和をもたらす救い主が、ヘロデ王の前で全く無力なのです。為す術がないのです。救い主イエスは何故、この世にお生まれになったのでしょうか。
詩編56編の詩人もまた、不条理は現実の前で、何故、何故と神に問いかけ、叫び、涙を流しながら生きていました。その詩人がこのように語るのです。
「あなたは私のさすらいの日々を、数えてくださいました。
私の涙をあなたの革袋に蓄えてください。
あなたの記録にそうするよう書かれていませんか」。
私どもの涙は空に向かって流しても、空しく地に落ちて消えて行くのでしょうか。詩人は神に向かって叫びます。主よ、あなたは私のさすらいの日々を、忘れることなく、数えて下さいましたね。私の涙を一粒も無駄にすることなく、あなたの革袋に蓄えて下さい。私の流した涙の意味を、主よ、あなただけが知っておられます。あなたの記録に一粒一粒の涙の意味を書き留めて下さい。
私どもの涙は天に向かって流れるのです。神に向かって流れるのです。神の御手にある革袋に向かって流れるのです。そして神が送られた救い主イエスこそ、「涙の革袋」なのです。私どもの涙を数え、蓄える涙の革袋なのです。
3.①スペインのチェリストに、パブロ・カザルスがいました。ヒットラーが私の前で演奏するように命じましたが、それを断固と拒みました。そのため厳しい戦いをしなければなりませんでした。祖国を追われ、プエルトリコに住んだ時、自分の小さな家を「飼い葉桶」と名付けました。救い主イエスがベツレヘムの飼い葉桶に宿られたように、私の小さな家・飼い葉桶に宿って下さる。厳しい戦いを強いられている私という飼い葉桶に宿って、生きて下さる。カザルスは飼い葉桶の信仰にひたすら生きました。カザルスが故郷の詩人が作ったクリスマス物語に曲を付けました。「飼い葉桶」という曲名です。このような詩が合唱されます。
「おお、涙が世界の上に落ちてくる。
幼な子の眠りのなかに、深い夢のなかに。人の心が泣いている。
閉ざされた目から落ちる涙、
どんなに深い悲しみがこの涙を生んでいることだろうか。
だがその涙の落ちていく先はあの飼い葉桶。
幼な子がそこにおり、そしてすぐに目をさます。
世界の死の闇を見抜く目を開く」。
私どもが生きる世界は、今で尚、権力者の覇権争いがなされています。自分こそが真実の王であることを力で誇示しています。私ども人間の罪によって悲劇が繰り返されています。尊い命が奪われ、母たちの涙が流されています。嘆きがこだましています。死の闇に覆われています。そのような世界の只中に、神の御子・主イエスが人間の姿を取られ、幼子にまでなられ、飼い葉桶に宿って下さったのです。世界の全ての涙を受け止めるためです。神が送られた涙の革袋は、飼い葉桶に宿られた救い主イエスであったのです。私どもの涙は飼い葉桶に向かって流れ落ちる。飼い葉桶に宿られた救い主イエスに向かって流れ落ちるのです。
②ヘロデ王の命令により、ベツレヘムとその周辺一帯の2歳以下の男の子が一人残らず殺されるという悲劇が起こった。ベツレヘムの悲劇です。その時、マタイは預言者エレミヤの言葉を想い起こしました。
「ラマで声が聞こえた。激しく泣き、嘆く声が。
ラケルはその子らのゆえに泣き、慰められるのを拒んだ。
子らがもういないのだから」。
エレミヤ書31章15節の御言葉です。(旧約1219頁)。預言者エレミヤがこの言葉を語ったのは、エルサレムに悲劇が起こったからです。戦いに敗れ、エルサレムは陥落し、ユダヤの国は滅びました。若者たちは捕虜となって、遠い異教の地バビロンへ連れて行かれました。バビロン捕囚の出来事です。若者たちが集結を命じられたのが、ラマ、ベツレヘムであったのです。母たちは涙を流して、わが子と別れました。もう二度と会うことはない。別れの涙を流しました。エレミヤは母たちの涙を見て、ラケルの涙と重ね合わせました。どんなに慰められても慰められることはない。慰めを拒む涙です。
しかし、その直後、エレミヤは誠に不思議な御言葉を語ります。
「主はこう言われる。あなたの泣く声を、目の涙を抑えなさい。
あなたの労苦に報いがあるからだー主の仰せ。
彼らは敵の国から帰って来る。
あなたの未来には希望があるー主の仰せ。
子らは自分の国に帰って来る」。
バビロン捕囚から70年後、息子たちがエルサレムに帰って来た時、もはや母たちの姿はなかったのです。息子と母は再会できなかったのです。涙は拭われなかったのです。それなのに何故、あなたの未来には希望があると語るのでしょうか。エレミヤの預言は実現しなかったのでしょうか。
しかし、あなたの子は帰って来たのです。その子こそ、神の御子イエスです。クリスマスの出来事でした。クリスマスの出来事は、地上においては、私どもに神の御子が与えられた喜びの出来事です。しかし、天上においては、父なる神が愛する独り子をこの世界に、異郷に遣わす決断をされた出来事です。愛する独り子を無力な幼子として、ベツレヘムの飼い葉桶に遣わす決断をされた出来事です。神の御子は宿られた飼い葉桶は、十字架への道を指し示しています。それ故、父なる神は愛する独り子を十字架に遣わされる決断をされた出来事でした。そこまでしなければ、私どもが打ち砕かれて、神に立ち帰ることがなかったからです。クリスマスは父なる神が愛する独り子を十字架へ遣わすという痛みを伴った決断があったのです。それ故、愛するわが子を失った母たちの涙、痛みを誰よりも身をもって知っておられるのです。そこに父なる神が送られた救い主イエスこそ、涙の革袋である意味があるのです。
4.①12月12日、クリスマスコンサートが礼拝堂で行われました。今年の主題は、「すべての人に、馬小屋の光を、飼い葉桶の光を~バッハの音楽にのせてマルティン・ルターおじさんのメッセージ」。パイプオルガン、聖歌隊の演奏。ルターおじさんと子どもたちの語らいがありました。
ルターはローマ・カトリック教会から分かれて生まれたプロテスタント教会の最初の牧師の家庭を築きました。5人の子どもが与えられました。毎年、家族皆で、ルターが作ったクリスマスの讃美歌を歌いました。それが讃美歌246「天のかなたから私は来ました」です。天使と子どもに分かれて歌います。ところが、1542年、長女のマグダレーナは13歳で亡くなりました。クリスマスの季節を迎えても、ルターを始め、家族の涙は乾きませんでした。今年はいつもの讃美歌を歌って、クリスマスをお祝いする気持ちにはなれませんでした。
しかし、ルターは日々祈りながら確信しました。救い主イエスは悲しんでいる人々、苦しんでいる人々のためにこそ来られたのだ。目に涙を溜めながらでも歌うことの出来るクリスマスの讃美歌を作ろうと決心しました。
「天のかなたから私は来ました」の曲に、新しい歌詞を作りました。
「天からみ使いの群れが来て、羊飼いたちに現れます。可愛い赤ちゃんが飼い葉桶に寝かされていると伝えます」。
「主イエス・キリスト、救い主が皆のためにお生まれです」。
「これはほんとに嬉しいこと。神様が私たちと同じになって、肉と血をもってお生まれです。これこそ私のほんとの兄弟」。
主イエス・キリストが私たちのほんとうの兄弟として、泣いている私たちのところに来て共に泣いて下さるとの思いが込められています。
「罪でも、死でも何が出来よう。まことの神が私の味方。悪魔も黄泉もしたいまま。それでも、み子が私の味方」。
「み子はあなたを見捨てない。この方にのみ信頼を。たとい試練が襲っても、この方にのみ委ねよう」。
「終わりの勝利はあなたのもの。神の子らとされたのだから。とこしえまでも神に感謝し、いつまでも耐え忍んで喜ぼう」。
ルターよその家族が涙を流しながらも、愛する長女を亡くしたルターの家族の只中に、神の御子が来て下さった確かな喜びを主に讃美しています。
②クリスマスは、「主よ、来て下さい」との祈りを篤くする時です。主は来て下さいました。幼子になって飼い葉桶に宿って下さいました。飼い葉桶から世界に光を放って下さいました。そして主は、終わりの日に再び来ると約束をされました。それ故、私どもは天に向かって涙を流しながら、「主、来て下さい」との祈りを篤くするのです。
聖書の一番最後に、ヨヘネの黙示録があります。その21章でこう語られます。私どもが生きるこの世界は過ぎ去って行き、新しい天と新しい地が来る。それは「新しいエルサレム」と呼ばれます。悲しみのベツレヘムでもなく、地上のエルサレムでもありません。地上のエルサレムは人間の罪が渦巻いています。涙と嘆きが耐えません。しかし、神は終わりの日に「新しいエルサレム」を備えて下さる。「エルサレム」、「神の平和」という意味です。真実の神の平和が実現する。天の玉座におられる神、十字架にかかり、甦られた小羊キリストが語られます。
「見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となる。神自ら人と共にいて、その神となり、目から涙をことごとく拭い去ってくださる。もはや死もなく、悲しみも嘆きも痛みもない。最初のものは過ぎ去ったからである」。
不条理な世界の中で、尚、涙を流しながら、何故、何故と問いながら生きる私どもです。しかし、終わりの日、小羊キリストが目から涙をことごとく拭い取って下さる。永遠に共にいて、住んで下さる。その約束を信じて、涙を流しながらも、涙の革袋・主イエスと共に歩んで行くのです。
お祈りいたします。
「悲惨な現実を前にし、涙を流す私どもです。何故、こんなことが起こるのと、日々主に問いかける私どもです。しかし、主は私どものところに来て下さったのです。飼い葉桶に宿る救い主として来られたのです。私どもの涙を受け止める涙の革袋となって下さったのです。それ故、私どもは主に向かって涙を流します。そして終わりの日、目の涙をことごとく拭い取って下さるとの約束を信じて、主と共に一足一足歩ませて下さい。今、涙を流している全ての涙を、主よ、受け止めて下さい。
この祈り、私どもの主イエス・キリストの御名により、御前にお捧げいたします。アーメン」。
