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「破れ口に立つ主イエス」

詩編106:19~23
マルコ15:33~39

井ノ川勝

井ノ川勝

2025年3月23日

00:00 / 39:56

1.①私どもの人生において、しばしば切羽詰まった状況に追い詰められることがあります。後一歩後退したら、私はもう立ち直れなくなってしまうところまで追い詰められることがあります。

 昨日も、この礼拝堂で葬儀が行われました。亡くなられた方は教会員ではありませんでしたが、教会の礼拝に何度か出席したことがあるので、妻の葬儀を教会でお願いしたいとのことでした。私どもは家族、友人の死を経験します。人生の最後には必ず死が訪れます。死の力は私どもを切羽詰まった状況に追い詰めます。将に、土俵際まで追い詰めます。聖書はそれを「破れ口」と言い表しています。

 東京神学大学で旧約聖書を教えておられた小友聡先生が、『絶望に寄り添う聖書の言葉』という本を書かれています。一般の出版社から出された本です。現代社会において、様々な出来事に直面して、絶望に陥っている。立ち直ることが出来ず、喘いでいる。そのような絶望に陥った人に、何とかして聖書の御言葉を届けたいという祈りから生まれた書物です。聖書の御言葉に生きた神の民は、何度も何度も切羽詰まった状況に追い詰められました。絶望のどん底に突き落とされました。そのような中で、神が語りかける御言葉を聴き、その御言葉によって立ち上がり、歩んで来ました。聖書はそのような中で生まれた御言葉です。それ故、聖書の御言葉こそ、絶望に寄り添う御言葉であることを、この本を通して伝えているのです。

 

受難節の歩みを続けています。主イエスの十字架の御苦しみの意味を尋ね求めながら歩む40日間です。受難節の中心に立つ御言葉があります。主イエスが十字架で語られた御言葉です。

「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」。

 絶望の叫びです。歴史の中で、世界の中で、様々な絶望の叫びが叫ばれています。それらの絶望の叫びの真ん中に立つのが、主イエスの十字架上の絶望の叫びです。しかも主イエスが叫ばれたアラム語の響きのままで伝えられました。昼間でありながら、全地は真っ暗になった。闇で覆われた。真っ暗闇の中で叫ばれた叫びです。

「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」。

 何故、神の御子である主イエスが十字架の上で、このような絶望の叫びを上がなければならなかったのでしょうか。私どもの信仰の要はこの一点に懸かっています。この問いかけに答えて歩むことが、私どもの信仰生活を健やかに形造るものとなります。

 

2.①私が伊勢の教会で伝道していた時、教会の書棚に、昔から読み継がれて来た本が並べられていました。その中に、古びた背表紙に赤字で「代祷」と書かれた文字が飛び込んで来ました。「代祷」、代わって祈る、執り成しの祈りという意味です。この本を書かれたのは、小塩力牧師でした。戦前、佐世保教会で伝道され、戦後、東京で開拓伝道され、井草教会で伝道されました。

敗戦後間もなく出版された説教集です。最初の頁に、聖書を代表する三つの執り成しの祈りが上げられています。恐らく、小塩力牧師の日々の執り成しの祈りであったと思われます。太平洋戦争において大きな罪を犯し、多くの犠牲者が生まれ、傷つき倒れ果て、将来へ生きる望みを失っている同胞の民を執り成す祈りです。三つの執り成しの祈りの内、最初の祈りが、モーセの執り成しの祈りでした。出エジプト記32章31~32節の御言葉です。旧約148頁です。

 エジプトで奴隷であった神の民は、神が立てられたモーセに導かれて、エジプトを脱出しました。約束の地を目指して荒れ野の40年の旅が始まりました。シナイ山の麓に辿り着き、モーセが神の民を代表してシナイ山で、神と十戒の契約を結び、十戒が刻まれた契約の板を授かりました。その時、麓ではモーセがなかなか帰って来ないので、神の民は不安になり、自分たちが身に着けていた装身具で金の子牛の像を作り、荒れ野の旅を導くわれわれの神であると崇めました。山の上では神がモーセと十戒の契約を結び、山の下では神の民が自分たちの手で偶像を作り、神として崇める。十戒の契約の板を持って山から降って来たモーセは、神の民が金の子牛を拝んでいる姿を見て、愕然とし、契約の板を地面に投げつけ、粉々にし、怒りを表しました。その時、モーセが神の民に代わって、神の御前で祈った執り成しの祈りが、出エジプト記32章31~32節の御言葉でした。

「ああ、この民は大きな罪を犯し、金の神を造りました。今、もしあなたが彼らの罪をお赦しくださるのであれば・・・」。

そこで祈りの言葉が途切れます。そして萎えた心を振り絞るようにして祈りの言葉を紡ぎます。

「もし、それがかなわなければ、どうかこのわたしをあなたが書き記された書の中から消し去ってください」。

モーセの必死な祈りです。その息遣いが聞こえて来ます。緊迫感が伝わって来ます。

「ああ、この民は大きな罪を犯し、金の神を造って拝んだ。今、もしあなたが彼らの罪をお赦し下さるのであれば・・。もし、それが叶わなければ、どうかこのわたしをあなたの書から消し去って下さい」。

神の書に記された名が消し去られる。それは滅びを意味します。大きな罪を犯したこの民の罪が赦されるのであれば、わたしの名があなたの書から消し去られ、滅びてもよい、とモーセは執り成し祈るのです。モーセの体を張った祈り、命を懸けた執り成しの祈りです。

 

このモーセの執り成しの祈りの出来事を綴ったのが、今朝、私どもが聴いた御言葉、詩編106編です。詩編106編は、神の民の出エジプトの出来事、荒れ野の40年の旅を綴った讃美歌です。歴史の中で起きた神の民の罪の出来事と、神の救いの御業が、何よりも礼拝の中で讃美歌として歌い継がれて来たのです。礼拝の中で神の救いの御業を賛美することを通して、神の民の信仰が受け継がれて来たのです。これはとても重要なことです。本日、特に注目したいのは、詩編106編の内、19~23節の御言葉です。旧約946頁。

「彼らはホレブで子牛の象を造り、鋳た像に向かってひれ伏した。

 彼らは自分たちの栄光を、草をはむ牛の象と取り替えた。

 彼らは自分たちを救ってくださる神を忘れた。

 エジプトで大いなる御業を行い、ハムの地で驚くべき御業を、

 葦の海で恐るべき御業を、成し遂げられた方を忘れた。

 主は彼らを滅ぼすと言われたが、主に選ばれた人モーセは、

 破れを担って御前に立ち、彼らを滅ぼそうとする主の怒りをなだめた」。

特に注目したいのが、最後の御言葉です。

「主に選ばれた人モーセは、破れを担って御前に立ち、彼らを滅ぼそうとする主の怒りをなだめた」。

モーセの必死の執り成しの祈りです。私は口語訳に心惹かれます。口語訳聖書はこう訳していました。

「それゆえ、主は彼らを滅ぼそうと言われた。しかし主のお選びになったモーセは、破れ口で主のみ前に立ち、み怒りを引きかえして、滅びを免れさせた」。

モーセは生きるか死ぬか、救われるか滅びるかの瀬戸際、破れ口に立って、主のみ怒りを身を挺して受け止め、引き返し、神の民の滅びを免れさせた。

ここに「破れ口」という言葉が用いられています。「破れ口」とは、堤防の決壊箇所です。堤防の一箇所でも決壊箇所が生じると、その小さな穴から水が怒濤のように吹き出し、洪水となって町を呑み込んでしまいます。また、「破れ口」は町の城壁の決壊箇所でもあります。神の民は荒れ野の40年の旅を終え、神から与えられた約束の地に辿り着きました。ダビデ王の時代、エルサレムの町に都を敷き、町を城壁で囲みました。敵軍からの攻撃を守るためです。難攻不落の城壁です。高くしっかりした城壁があるから、敵軍の攻撃を防ぐことが出来るのです。しかし、城壁の一部分に決壊箇所が生じると、その小さな穴から敵軍が怒濤のように押し入り、瞬く間に町を滅ぼしてしまいます。

 破れ口、生きるか死ぬか、救われるか滅びるかの瀬戸際です。その破れ口に神が選ばれたモーセが立って下さった。必死になって執り成し、神の怒りを引き返し、神の民の滅びを免れさせた。このモーセの執り成しの祈りに匹敵するのが、いや、それ以上の出来事が、主イエスの十字架の祈りであったのです。

 

3.①「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」。

何故、神の御子である主イエスが十字架上で、絶望の叫びを上げられたのでしょうか。この叫びを十字架の下で聞いたユダヤ人は皆、躓きました。「やはり、このイエスは、われわれが待ち望んでいた救い主ではなかった。このイエスは神から見捨てられて死んだ。滅びたのだ」。ところが、ただ一人、しかもローマの百人隊長だけが、十字架上の主イエスの叫びを聞いて、このように応答しました。「本当に、この人は神の子であった」。ローマの百人隊長の信仰告白です。何故、十字架上の主イエスの叫びを聞いて、「ここに真の神の子の姿がある」と信仰告白をすることが出来たのでしょうか。これも驚きです。不思議です。しかし、実は、ローマの百人隊長の信仰告白に、私どもも声を合わせて信仰を告白しようと招いているのです。マルコ福音書の頂点がここにあります。マルコ福音書はこのことのために書かれた福音書であるのです。

「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」。「本当に、この人は神の子だった」。

十字架上でこの絶望の叫びを上げた主イエスこそ、真の神の子の姿があるのです。ここに私どもの救いがあるのです。

 今月の3月11日、東日本大震災から14年目を迎えました。各地で記念の追悼が行われました。未曾有の大災害が起こり、大切な家族や友の命、想い出の詰まった家屋、街並みが一瞬にして津波で呑み込まれて行きました。そこでも絶望の叫びが上げられました。「神よ、何故、このような大災害が起きたのですか。何故、私どもの大切な家族の命が奪われなければならなかったのですか」。私どもが厳しい試練に直面して、絶望のどん底で神を呪う時に、このように吐き捨てます。「こんな神など、もう信じることなど出来ない」。「こんな神」と吐き捨てるのです。それが私どもの絶望の叫びです。

 ところが、主イエスは十字架上で絶望の叫びを上げられた時に、「こんな神など」とは吐き捨てなかったのです。

「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれた。神から見捨てられたような絶望の現実の中でも、「わが神、わが神」と叫び続けたのです。そこに私どもの絶望との決定的な違いがあります。

 

「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」。

十字架上の主イエスの叫びは、実は、詩編22編の冒頭の御言葉でもあります。旧約852頁。この詩編22編も詩編106編と同じように、礼拝の中で歌われた讃美歌です。讃美歌として歌い継がれて来た主の御業、主の御言葉です。主イエスも日々の生活の中で、詩編の御言葉を歌っておられました。主イエスは十字架の上でも、詩編22編の御言葉を賛美していたとも言えるのです。詩編22編はこういう御言葉から始まります。

「わたしの神よ、わたしの神よ、なぜわたしをお見捨てになるのか。なぜわたしを遠く離れ、救おうとせず、呻きも言葉も聞いてくださらないのか。わたしの神よ、昼は、叫び求めても答えてくださらない。夜も、黙ることをお許しにならない」。

更に、7節ではこういう言葉が続きます。

「わたしは虫けら、とても人とはいえない。人間の屑、民の恥。わたしを見る人は皆、わたしを嘲笑い、唇を突き出し、頭を振る。『主に頼んで救ってもらうがよい。主が愛しておられるなら、助けてくださるだろう』」。

十字架上の主イエスを嘲るユダヤの民衆の姿と重なり合います。恰も、十字架の主イエスの出来事を指し示しているような御言葉です。日々、この御言葉を口ずさんでおられた主イエスは、十字架上で将に、この御言葉が成就したのだと思われた。それ故、十字架上で主イエスは詩編22編の冒頭の言葉を叫ばれたとも言えます。

 詩編22編は礼拝の中で歌い継がれて来た讃美歌です。主イエスは十字架の上でも、この讃美歌を歌われた。それは十字架の上でも、主イエスは神を礼拝されていたということです。それがこの叫びです。

「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」。

一方で、「なぜわたしをお見捨てになったのですか」と、絶望の叫びを上げているのです。しかし、絶望しつつも、「こんな神など」と吐き捨てられません。むしろ、「わが神、わが神」と神にすり寄って行かれるのです。神に信頼していなければ、「わが神、わが神」と二度まで神に呼びかけることはありません。絶望しつつも神に向かうのです。絶望しつつも神に信頼し、神を呼び続けるのです。私どもが絶望のどん底に突き落とされた時、どこに向かっても叫ぶことが出来ない。これは救いのない絶望です。しかし、神から見捨てられたのではないかと絶望することがあっても、「わが神、わが神」と神を呼び続けることが出来る。このような命への道を切り拓いて下さったのが、十字架上の主イエスの祈りであったのです。

4.①十字架上の主イエスの叫び、祈りは、詩編106編で語られたモーセの執り成しの祈りと重なり合うところがあります。

「それゆえ、主は彼らを滅ぼそうと言われた。しかし主のお選びになったモーセは、破れ口で主のみ前に立ち、み怒りを引きかえして、滅びを免れさせた」。

 十字架こそ破れ口です。神の怒り怒濤のように押し寄せる突破口です。神の怒りの洪水に呑み込まれたら、私どもは滅びるのです。神が遣わされた神の御子を、私どもはこんな弱々しい救い主など役に立たないと言って、拒んで、十字架につけたのです。十字架の下で、ユダヤ人は主イエスを嘲りました。

「おやおや、神殿を打ち倒し、三日で建てる者、十字架から降りて自分を救ってみろ」。「他人は救ったのに、自分は救えない。メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう」。

十字架の主イエスを嘲るユダヤ人は、私どもを代表しています。私どももその場に居合わせたら、十字架の主イエスを罵ったことでしょう。いや、今日も日々の生活で、「こんな神など信じるものか」と嘲り、吐き捨てているのです。そのような罪の中に生きる私どもに向かって、神の怒りが十字架という破れ口を通して、怒濤のように押し寄せ、私どもを呑み込み、滅ぼそうとしているのです。しかし、十字架という破れ口に、まことの人となられた主イエスが立たれ、身を挺して神の怒りを受け止められたのです。そして自らの身をもって神の怒りを押し返し、私どもを滅びから免れさせて下さったのです。私どもが神から見捨てられたような絶望のどん底に突き落とされても、「わが神、わが神」と神を呼ぶ、命への道を切り拓いて下さったのです。

 ある神学者が「ルターにおける絶望」という文章を書いています。

「絶望とは、試練の際立った形であり、また、それ自身が、二重の働きをするのである。つまり、ひとつは破滅をもたらす絶望であり、これは、結局は、神に対する絶望として現れる。そしてもうひとつは救いをもたらす絶望であり、自分の力に絶望することによって、神へと導くのである。神に絶望する第一の絶望は、ルターからすれば明確な悪魔のわざである。こういう絶望が滅びをもたらすようになるのは、ただ、それが自分と神との交わりの終わりをもたらすときだけである。神との交わりのなかに絶望が位置づけられたとき、それは救いをもたらす絶望となる。それは福音的絶望となる」。

「破滅をもたらす絶望」を「救いをもたらす絶望」へと転換して下さったのが、十字架上の主イエスのこの叫びであったのです。

「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」。

破れ口・十字架上の主イエスの身を挺した執り成しにより、絶望の中でも神との生きた交わりが失われない命への道が拓かれたのです。ルターはそれをこう言い表しました。「慰められた絶望」。「絶望において知る慰め」、「絶望における信頼」。

 ルターは、罪を犯し、落ち込み、絶望の底にうずくまり、立ち上がれない若き伝道者に向かって語りました。

「大胆に罪を犯しなさい。そして大胆に主を信じなさい」。

 

主イエスは日々、詩編の御言葉を口ずさんでおられました。十字架上の最後の叫びも詩編の御言葉でした。恐らく、詩編50編の御言葉も日々口ずさんでおられたことでしょう。詩編50編15節にこういう御言葉があります。

「それから、わたしを呼ぶがよい。苦難の日、わたしはお前を救おう」。

私は口語訳に親しんでいます。

「悩みの日にわたしを呼べ、わたしはあなたを助け、あなたはわたしをあがめるであろう」。

十字架上で主イエスが私どものために、身を挺して執り成して下さったから、父なる神が私どもにこのように呼びかけて下さるのです。

「悩みの日にわたしを呼べ、わたしはあなたを助ける」。

父なる神のこの呼びかけがあるから、私どもは主イエス・キリストによって執り成されて、悩みの日にあっても、絶望の日にあっても、「わが神、わが神」と神を呼び続けることが出来るのです。

 

 お祈りいたします。

「どのような悩みの日にあっても、絶望のどん底にあっても、十字架の主イエスが私どもために身を挺して執り成して下さるのです。自らの命を犠牲にしてまで、私どもが絶望の中で滅びないように執り成して下さったのです。どのような時も、主イエスに執り成されて、わが神、わが神と、神に向かって呼ぶ命への道を切り拓いて下さったのです。慰められた絶望に生きさせて下さい。この祈り、私どもの主イエス・キリストの御名により、御前にお捧げいたします。アーメン」。

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