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「祈りかつ歌う知性」

詩編 40編2~12節
コリントの信徒への手紙一 14章13~25節

主日礼拝

井ノ川 勝 牧師

2026年1月25日

00:00 / 37:31

2026.1.25. 「祈りかつ歌う知性」

       詩編40:2~12、コリント一14:13~25


1.①金沢教会の伝道によって生まれた教会に、平和町の若草教会があります。初代牧師は神学校を卒業して赴任された加藤常昭牧師、加藤さゆり牧師でした。加藤さゆり牧師が亡くなられた後、鎌倉雪ノ下教会で語られた説教、聖書講話を加藤常昭牧師がまとめられ、説教集を出版されました。『主が、新しい歌を』。この説教集の最初にある詩編40編の御言葉から採られた題名です。

加藤さゆり牧師はこう語られます。ここで注意してほしい。「主に向かって新しい歌を」ではない。「主が新しい歌を」である。ここに詩人の信仰がある。

「私が主に向かって新しい歌を歌うのではない。私どもの内からは、主への新しい歌は生まれない。主が私の口に新しい歌を授けて下さった。それ故、主に向かって新しい歌を歌うことが出来る」。

 加藤さゆり牧師は舌癌を患われ、何度も手術を受けられました。私の口から祈りの言葉、讃美の言葉が出て来ない。しかし、主が私の口に新しい歌を授けて下さる。それ故、日々、主に向かって新しい歌を歌い、祈ることが出来る。

 詩編40編の詩人も、光の見えなく真っ暗な穴の中に陥っています。泥沼状態に置かれています。泥沼から抜け出そうと思い、もがけばもがく程、ずぶずぶと沈み込んでしまいます。数え切れない程の災いが絡みつき、私の心を圧迫し、息も出来ない状態になりました。しかし、主は苦しみ、悶える私の呻きを聴いて下さり、身を乗り出して、私を滅びの穴、泥沼から引き上げて下さった。主が私の口に新しい歌を授けて下さった。それ故、詩人は信仰の仲間と共に、身も魂も注ぎ出し、主に向かって、新しい歌を歌うのです。

「あなたこそわが助け、わが救い」。

 私ども教会の信仰がここにあります。教会の信仰は、どのような時も、信仰の仲間と共に、身も魂も注ぎ出し、主に向かって祈り、讃美することにあります。今日の御言葉で言えば、このようになります。

「霊で祈り、理性でも祈ることにしましょう。霊でほめ歌を歌い、理性でもほめ歌を歌いましょう」。

 

私はキリスト教主義の大学に入学し、大学の講義に来られていた牧師に導かれ、その牧師が牧会する教会の礼拝に出席するようになりました。大学2年のクリスマスに洗礼を受けました。大学3年生の時、ドイツの留学から帰って来られた近藤勝彦先生が教会の牧師になられました。また神学校の先生になられました。キリスト教主義の大学ですから、一時限目の授業と二時限目の授業の間に、毎日、チヤペルで礼拝が行われていました。大学の礼拝に、近藤勝彦牧師が初めて来られ、説教をされました。私は今でも、その時の説教を鮮明に覚えています。私の信仰の中心に立つ御言葉となりました。説教題は、「祈りかつ歌う知性」。聖書の御言葉は今日の御言葉でした。当時は口語訳でした。

「わたしは霊で祈ると共に、知性でも祈ろう。霊でさんびを歌うと共に、知性でも歌おう」。

 説教でこう語られました。大学は真理を探究する場である。そのために知性が求められます。そのような大学に、何故、神を礼拝する場所があるのか。それをよく考えてほしい。知性は祈りとなり、神讃美へと向かうためである。健康な知性は神への祈りとなり、神への讃美となる。どうか大学で様々な学びをし、真理を探究し、知性を身に付けようとしている大学生の皆さん、神に向かって祈りかつ歌う知性に生きて下さい。

 北陸学院の建学の精神にある聖書の御言葉は、「主を畏れることは知恵の初め」です。詩編111編10節、箴言1章7節の御言葉です。主を畏れる知恵こそ、神に向かって祈りかつ歌う知性です。

 

2.①今日、私どもが生きる世界を成り立たせ、世界の中心にあるものは、人間の知性、理性である。ほとんどの方がそのように考えるでしょう。科学、医学を始めとし、様々な分野で、人間の知性を結集し、未知の分野を開拓して来ました。科学技術は格段に進歩しました。これまで治療出来ない病を治せるようになりました。人間の手で生命をも造り出すことも可能となりました。神の領域に人間の知性が足を踏み入れるようになっています。もはや人間の知性に不可能なことはない。人間の知性が神の如くに崇められます。自らの知恵を誇るようになります。高慢に陥る危険性があります。

 しかし、まだまだ人間の知恵では分からないことが、いっぱいあります。宇宙、地球の成り立ち。人間の体の仕組み等です。人間の知性には限界があります。知性が打ち砕かれ、打ちのめされることがいっぱいあります。しかし、そこでこそ主を畏れることこそが知恵の初まりであることを知り、知性が神への祈り、讃美へと向かうのです。

 しかし、今日の世界において、特に日本において、知性が神への祈り、神への讃美へ向かうことは、希なこととなっています。言い換えれば、「霊なき知性」です。神の霊を抜きにした知性です。神の霊を抜きにした人間の知性、神への祈り、神への讃美へと向かわない人間の知性が、世界を支配しています。

 そのような世界の中で、私どもは教会へと呼び集められ、神に向かって祈り、讃美する信仰に生きています。

今日の御言葉は、伝道者パウロがギリシア半島にあるコリントの教会の信徒へ宛てた手紙です。中心はこの御言葉です。ここに私ども教会の信仰があるからです。

「霊で祈り、理性でも祈ることにしましょう。霊でほめ歌を歌い、理性でもほめ歌を歌いましょう」。

 霊でも祈り、讃美し、理性、知性でも祈り、讃美する。霊と知性とが一つになって、神に祈り、讃美する。この場合の理性、知性とは、神を知る理性、知性です。神はどのような神であり、神は私どもにどのような救いの御業を行われたのか。そのために私どもは聖書の御言葉に聴き、学ぶのです。しかし、私どもの知性には限界があります。聖書の御言葉に聴き、学んでも、神はここに生きておられる、主イエス・キリストは私どもと共に生きておられる。それが実感出来ない。そのために、神は私どもに神の霊、聖霊を注いで下さるのです。神の霊、聖霊に導かれながら、聖書の御言葉に聴き、学ぶ時に、神はここに生きておられる。主イエス・キリストは私どもと共に生きておられることが分かる、実感出来るのです。その時、私どもの口から、神への祈り、神への讃美が生まれて来るのです。それが霊で祈り、霊で讃美し、知性でも祈り、知性でも讃美する信仰なのです。

 

教会の中に、「霊なき知性の信仰」が生まれます。聖書の御言葉に聴き、学ぶことは熱心です。しかし、神の霊、聖霊を軽んじます。知性だけが重んじられます。知識偏重の信仰になりやすいのです。また逆に、「知性なき霊の信仰」が生まれます。これがコリントの教会の中にあったようです。聖書の御言葉に聴き、学ぶことを軽んじ、神の霊、聖霊が注がれたかどうかを重んじます。信仰が自己中心的になりやすいのです。「霊なき知性の信仰」も、「知性なき霊の信仰」も、いずれも私ども教会の信仰ではありません。教会の信仰は霊でも祈り、讃美し、知性でも祈り、讃美する信仰です。

 今日の14章の御言葉の中に、繰り返し語られている言葉があります。「異言」と「預言」です。それが対比して語られています。どのような意味でしょうか。「異言」は「異なった言葉」と書きます。神の霊に満たされ、自分だけにしか分からない言葉で、神に向かって祈り、讃美することです。伝道者パウロも異言を語りました。しかし、それは一人で祈る時、一人で讃美する時だけです。皆の前では異言は語るなと戒めます。周りの人には異言は分からないからです。言葉が分からなければ、共に祈ることも、讃美をすることも出来ないからです。異言は自分を造り上げるが、教会を造り上げることにはならないからです。

 パウロは面白いことを語っています。異言を語る人は、周りの人にとって外国人であり、外国語であると言うのです。言葉が通じ合わない、言葉が通い合わないからです。「外国人」という言葉は、「バルバルと話す人」という意味です。外国人の言葉が「バルバル」と聞こえたのでしょう。そこから生まれた言葉です。

 しかし、このことは説教者が注意しなければならないことです。説教がバルバルとしか聞こえない。分からない言葉となる危険性があります。説教が外国語になったら、共に神に向かって祈り、讃美することが出来なくなります。

 それ故、パウロは語ります。皆の前では「預言」を語りなさい。「預言」は神から預かった言葉です。今日の説教です。会衆に通じる言葉、会衆に分かる言葉です。会衆と共に神に祈り、讃美する言葉です。預言こそが、一人の人を慰め、励まし、造り上げ、同時に、教会を造り上げるのです。それ故、パウロは語ります。

「教会では、異言で1万の言葉を語るよりも、他の人たちを教えるために、理性によって5つの言葉を語るほうを取ります」。

1万の異言よりは、5つの預言が教会を造り上げる。

 

3.①本日礼拝後、信徒セミナーが行われます。信徒セミナーは、教会を造り上げる言葉を学び合うセミナーです。パウロは語ります。

「きょうだいたち、物の考え方については子どもとなってはいけません。悪事については幼子となり、考え方については大人となりなさい」。

私どもの信仰、物の考え方は、いつまでも子どもであるな。大人になりなさいと勧めます。私どもの物の考え方は、聖書によって養われます。聖書に聴き、学ぶことにより、神への知性を、信徒皆で深めて行くのです。神への知性が深まれば深まる程、神への祈り、讃美も深まり、豊かになって行くのです。それが教会を造り上げて行くのです。

 本日の信徒セミナーの主題は、「教会の信仰・礼拝・組織を確認しよう~『教会員手帖』を用いて~」です。「教会の信仰」とは何でしょうか。その中心にあるのは聖書です。また、宗教改革者たちは三つの教会の文書を重んじました。「三要文」と呼びます。「使徒信条」「十戒」「主の祈り」です。いずれも礼拝で唱える文書です。「使徒信条」は教会の信仰、「十戒」は教会の倫理、「主の祈り」は教会の祈りです。宗教改革者はこれらの三つの文章を問答形式で説き明かしました。信徒や求道者や子どもたちのための信仰教育のためです。それを「信仰問答」「カテキズム」と呼びました。代表的なものに、カルヴァンの『ジュネーヴ教会信仰問答』、『ハイデルベルク信仰問答』があります。

「カテキズム」という言葉は、「上から響かせる」という意味です。舞台の上で、声楽家や交響楽団が歌声を、楽器の音色を響かせる。それは会衆の心の琴線に触れて、共鳴し、共に神に祈り、讃美するようになるのです。「使徒信条」「十戒」「主の祈り」を共に学び、神への知性を深め、霊的にも深められ、共に神に祈り、讃美するようになる。それが教会を造り上げるのです。

 

14章の23節以下の御言葉は、加藤常昭牧師が説教とは何か、礼拝とは何かが最もよく言い表されている御言葉として、繰り返し説き明かされた御言葉です。

「教会全体が一か所に集まって、皆が異言を語っているところへ、初心者か信者でない人が入って来たら、あなたがたのことを気が変になっていると言うでしょう」。

 教会の礼拝にはいつも初めて礼拝に出席された方がいます。まだ洗礼を受けていない求道者が出席をします。礼拝を捧げている一人一人が、神の霊を受けて、バルバルと外国語を語り出す、皆に理解出来ない言葉を語り出したら、初めての方にとって、気が変になっているしか思えないでしょう。それが教会の礼拝ではないのです。それ故、パウロは語ります。

「しかし、皆が預言しているところへ、信者でない人か初心者が入って来たら、その人は皆から問いただされ、皆から批判されて、心に秘密が暴かれ、そのあげく、ひれ伏して神を拝み、『まことに、神はあなたがたの内におられます』と言い表すことになるでしょう」。

 初めて礼拝に出席された方が、そこで預言の言葉を聴きます。説教を聴きます。当時の礼拝は、説教者だけが説教していたのではなく、信徒が交代でキリストを証しする言葉を語っていました。御言葉に触れた初めての方は、自分の心の中に隠していた様々な悩み、苦しみを、痛み、悲しみを神に打ち明けます。これまで心を神に向けていなかった。神さまから離れた生活をしていたことに気付きます。自らの罪に気付きます。そしてそこで神の憐れみに触れます。主イエス・キリストが十字架で、あなたの罪も、悩みも、苦しみも、痛みも、悲しみも、病も、全て負って下さった憐れに触れます。ここに神が生きておられる。ここに生ける主イエス・キリストが生きておられる。生ける神のご臨在に触れます。「まことに、神はあなたがたの内に生きておられる」と、信徒と共に神に向かって祈り、讃美するようになる。「アーメン」「然り」と、共に唱和する。それが礼拝において起きている出来事なのです。

 預言の言葉が、説教の言葉が、初めての方の心にも届いたからです。言葉が通じ、通い合ったからです。言葉が生きた神の言葉として響いたからです。御言葉が心に琴線に触れ、共鳴したからです。

 

4.①実は、14章はこういう言葉から始まっていました。

「愛を追い求めなさい」。「霊の賜物、預言の賜物を熱心に求めなさい」。

伝道は愛することから始まります。愛していれば、相手に通じる言葉で、心通い合う愛の言葉を伝えたいと願います。「異言」は自分だけに通じる言葉で、相手に伝わりません。自己愛の言葉です。しかし、預言は愛の言葉であるから、相手に通じる言葉で伝えたい、届けたいと願います。そこに愛があるからです。加藤常昭牧師は、説教は「愛の言葉」「ラブレター」であると語りました。キリストの愛をあの方にも、この方にも、どうしても伝えたい。キリストの言葉があの方も、この方も慰め、立ち直らせ、生かして下さるからです。

 

今週の火曜日、北陸連合長老会牧師会が行われます。牧師会では午前中に、牧師が礼拝で語られた説教の演習を行います。どこに課題があるか。どうすれば会衆に生きた神の言葉として伝わるのか、学び合います。午後には、教会の信仰、教理の学びをします。教会を造り上げる言葉を学びます。もう一つ、この10年間していることがあります。「日々の祈りの手引きとなる祈り」を作成しています。信仰は日々の生活です。信仰生活は様々な場面に遭遇します。病気になった時の祈り。合格した時の祈り。不合格になった時の祈り。赤ちゃんが生まれた時の祈り。喜びも、悲しみも、様々な出来事に直面します。しかし、そこで神に向かって祈り、讃美する。信仰の友も、共に祈り、讃美して下さる。日々の祈りの手引きとなる祈りを作成しています。それを携帯用の冊子にする予定です。

 序文に「主の祈り」に導かれる祈り、「十戒」に導かれる祈りを記します。私は「十戒」に導かれる祈りを執筆する予定です。「十戒」と祈りは結び付かないように思えるかもしれません。しかし、私どもが親しんでいる教会の信仰である『ハイデルベルク信仰問答』は、三部から成っています。第一部が「人間の惨めさ」、「人間の罪」。第二部が「人間の救い」。第三部が「感謝」です。この「感謝」の項目に、「十戒」と「主の祈り」が位置づけられています。私ども改革派の「十戒」理解がここにあります。主イエス・キリストの十字架の御業により、私どもの惨めさ、私どもの罪が救われる。神の憐れみの感謝の応答として、私どもの生活を導く道しるべが、「十戒」と「主の祈り」なのです。

 「十戒」がキリストの憐れみにより、私どもにとって愛の戒めとなり、祈りとなり、神への讃美となるのです。それが日々の生活において、そして何よりも礼拝において、私どもの教会の群れが行っていることなのです。

 今朝も、この礼拝で、神の言葉が私どもに届けられています。

「霊で祈り、理性でも祈ることにしましょう。霊でほめ歌を歌い、理性でもほめ歌を歌いましょう」。

 

 お祈りいたします。

「主よ、御言葉を下さい。御言葉に触れる時、私どもがどんなに悲惨の中にあるかを知ります。御言葉に触れる時、どんなに惨めな私どもが、キリストに愛されているかを知ります。御言葉に触れる時、感謝の中で私どもが導かれていることを知ります。主よ、御言葉を下さい。

 今朝、初めて礼拝に出席された方が、御霊と御言葉により、『まことに神があなたがたの内にいます』と、私どもと共に、神に向かって祈り、讃美し、告白することが出来ますように。

 この祈り、私どもの主イエス・キリストの御名により、御前にお捧げいたします。アーメン」。

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