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「神との和解に生きよ」

詩編32:1~11
コリント二5:16~21

主日礼拝

牧師 井ノ川 勝

2023年9月24日

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1.①私どもは様々な力に取り囲まれながら生きています。それは目に見えない力です。目に見えない力が私どもを取り囲み、私どもを不安にさせます。脅かします。恐れさせるのです。その最たる力は、何と申しましても、死です。私どもは普段の生活において、死を余り意識しないで生活しているかもしれません。しかし、家族や、友人の死に直面した時に、私どもは改めて死に取り囲まれて生きていることを実感いたします。

 先週の水曜日の朝、いつものように朝の祈祷会が行われました。祈祷会が終わって間もなく、教会員からお電話がありました。施設で生活していた父が今朝、急に体調が悪くなり、病院に搬送された。間もなく息を引き取った。その声は涙に震えていました。死の知らせを聞きますと、伝道者でありましても、いつも緊張します。死と向き合うことが、どんなに厳しいことか。恐れを感じます。

 死は何故、恐ろしいのでしょうか。肉体が衰え、寿命が尽きることではありません。コリントの信徒への手紙を書きました伝道者パウロは、「死のとげ」「死の刺」という言葉を用いています。死にはとげがある。刺がある。私どもの命に致命傷を与えるとげがある。刺がある。それは一体何なのでしょうか。私どもを神から引き離し、滅びへともたらす力、罪の力です。神から引き離されることが、どんなに恐ろしいことか。それは私どもの命を滅びへともたらす。私どもは実は、そのような死の力に取り囲まれて生きているのに、死の真相に気づかないで生きているところがあります。

 しかし、このコリントの信徒への手紙二を書きました伝道者パウロは、私どもにどうしても知らせたいことがある。伝道者パウロの息遣いが聴こえて来るような、伝道者パウロのカッカ、カッカした熱い思いが伝わって来るような御言葉です。


②私は大学生の時、大学の講義に来ていた牧師に導かれて、教会の礼拝に出席するようになりました。渋谷の代々木公園の裏にある小さな教会でした。牧師は目をつぶって、一つ一つの御言葉を黙想するように、静かに語っていました。ところが、説教の核心部分になりますと、眼をきっと開き、全存在を懸けて力強く、口角泡を飛ばしながら御言葉を語りました。その時、礼拝堂が急に暗くなり、牧師と私だけに光が当てられ、浮かび上がるのです。恰も、牧師が私一人に御言葉を語りかけているような光景になります。牧師が眼をきっと開き、全存在を懸けて力強く御言葉を語られる。それは必ず、主イエス・キリストの十字架の出来事を語る場面でした。中でも、私どもが今朝、聴いたコリントの信徒への手紙二5章14節の御言葉を必ず語られるのです。「キリストの愛がわれらを駆り立てる」。「キリストの愛がわれらに迫る」。「キリストの愛がわれらを捕らえる」。そのように訳される御言葉です。しかし、牧師はこのように訳されました。「キリストの愛、われらを挟めり」。そして両手で両頬をぎゅっと挟む動作をされるのです。その時、私がイメージしたのは、物干し竿に干した洗濯物が風に飛ばないように、両側から洗濯ばさみでしっかりと挟む光景でした。

 私どもの人生にも、強風が突然吹いてきて、私どもを吹き飛ばそうとします。しかし、主イエス・キリストの愛が両側からわたしをぎゅっと挟み込んで私どもを捕らえ離さないのです。様々な目に見えない力が、私どもを取り囲んでいる。死の力が私どもを捕らえようとしている。しかし、どんな力もキリストの愛から私どもを引き離すことは出来ない。そのためにキリストが私どものために、十字架で命を注ぎ、愛を注いで下さった。キリストの愛が私どもを両側から挟み込むのです。たとえ死んでも、キリストの愛が私どもの両側から挟み込んで、離さないのです。

 

2.①伝道者パウロは主イエスの十字架の出来事に躓き、主イエスに敵対して生きて来ました。十字架であのようなみすぼらしく、弱々しく死んだ主イエスなど、私どもが待ち望んでいた救い主として信じることなど出来なかったのです。ところが甦られた主イエス・キリストがパウロに現れ、パウロを捕らえてしまった。パウロは180度転換させられ、キリストを伝える伝道者としての召しを受け、立たせられました。パウロの回心の出来事です。恐らく、パウロがその時経験したことが基になって、この言葉が生まれたと思います。「キリストの愛、われらを挟めり」。

 そしてパウロは一つの決心をしました。私は十字架につけられたキリスト以外、何も語るまい。十字架のキリストはユダヤ人には躓きとなるもの、異邦人には愚かなもの。しかし、たとえどんなに、あなたは愚か者と言われても構わない。十字架の言葉という愚かな福音を、説教という愚かな手段を用いて、愚か者に徹して、一筋に伝えること。これこそが主から与えられた使命である。

 十字架のキリストをひたすら語るパウロの言葉を聞いて、人々は実際、叫んだに違いない。「パウロは気が狂っている」。恐らく、それが基になって、パウロのこの言葉が生まれたのでしょう。

「わたしたちが正気でないとするなら、それは神のためであったし、正気であるなら、それはあなたがたのためです」。

元の言葉はもっと激しい言葉です。

「私たちが気が狂っているなら、それは神のため。正気であるなら、それはあなたがたのため」。

 十字架のキリストの前では、私どもはキリストの愛に迫られ、気も狂わんばかりにキリストの愛に応えようとする。熱狂的にキリストを愛する者とされる。しかし、あなたがたに十字架のキリスト、キリストの愛を語る時には、正気で、伝わる言葉で語る。そうでないと伝道することが出来ないからです。神に対しては熱狂的になり、人に対しては正気で語る。

 伝道者パウロは語ります。一人の方、主イエス・キリストは、私ども全ての人のために、十字架で死んで下さった。何故、主イエス・キリストは私ども全ての人のために、十字架で死んで下さったのか。その目的は、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分のために死んで復活して下さった方、主イエス・キリストのために生きるようになるためです。そこにあなたが生きる目的があるではないか。あなたが神から命を与えられた目的があるではないか。

 

②神学生時代、加藤常昭先生の講義で、私ども神学生に向かって、繰り返し読みなさいと言われた本があります。キリスト者であり、教育者であった谷昌恒さんの『ひとむれ』です。全6巻あります。谷昌恒さんは北海道家庭学校の校長でした。問題を起こした子どもたちを更生させる学校です。そこで語られた言葉を集めたものです。

 伝道者にとってとても大切なことは、神とだけ向き合うのではないことです。神とだけ向き合って、人と向き合わないのではない。キリストが全ての人のために死なれたのだから、神と向き合いながら、同時に、全ての人と向き合う。苦手な人とも向き合う。その時、問われるのは、人を捕らえるまなざしです。キリストのまなざしで人を捕らえ、考察することです。そのような言葉を、キリスト者であり、教育者である谷昌恒さんから学びなさいと言われたのです。谷昌恒さんが『ひとむれ』の中で、子どもたちに向かって、このように語られています。

「私たちは、自分がどんなにか醜い、卑しい、けちな人間にすぎないかを知っています。身のおきどころがない思いに責められることさえあるのです。それはまことに辛い苦しい自覚であります。絶対者の前に立たされ、自分がいかにみじめな存在であるかを知るのです。

 しかし、同時に私たちは神に赦されている、救われているという喜びを感じています。信仰者は、時に、人々の想像を越えて、しぶとく、強く、勇気に満ちていることがあるのです。普通の人がへこたれても、参らないのです。希望を失わないのです。

 深い慚愧(ざんき)と、強い信念と。反対の極にあると思われるこの二つのものが、信仰者の中に同居しているのです。恥じて懼れていて絶望におちいらず、固い信念が不遜さを感じさせないのです。私はそうでなければならないと思っています。

 神は私たちを過小にも、過大にも、誤り評価することはないと信じているのです。私たちのありのままを、神は見通しておられると安んじているのです。

 人間同士の感情では、そうはいかないのです。ある時は見くびられたと感じ、馬鹿にされたと思い、腹を立て、口惜しがるのです。しかし、買い被られても辛いのです。苦しいのです。重荷です。

 人間がお互いに知り合えることは限りがあり、偏りがあると思うのです。だから、誤解があり、執着があり、裏切ることもあるのです。

 神の前に立たされて、まるのまま見すえられていると思う時、恥ずかしさと安堵とを同時に覚えるのです。私たちはそこに生きていく上での土台をおくのです」。

 神の雨に立たされた時、私どもは、まるのまま見すえられている。恥ずかしさと安堵を同時に感じる。自分がどんなにか醜い、卑しい、けちな人間に過ぎないか、深い慚愧と同時に、このような罪ある私どもが神に赦され、救われている喜びを感じる。十字架のキリストのまなざしの下で、自分自身を見つめ直すのです。そこに私どもが生きる土台がある。

 

3.①伝道者パウロは語ります。

「だから、キリストと結ばれる者はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」。

 私は口語訳を愛唱しています。

「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った。見よ、すべてが新しくなったのである」。

 元の言葉には、「見よ」という小さな言葉があります。あなたをよく見てごらんと語るのです。キリストと結ばれた私どもは、新しく創造された。古いものは過ぎ去り、見よ、新しくなったではないか。一体、私どものどこが新しくされたのでしょうか。鏡に映っている私の顔を見ても、以前と同じではないかと思える。どこが新しくなったのか。キリストと結ばれて生きている。キリストの中に入れられて生きている。そのことこそが、見よ、新しくされていることなのです。たとえ死を迎えても、その新しさは失われないのです。死に直面しても、私どもはキリストと結ばれている。キリストの内にいるからです。死の力さえもキリストから私どもを引き離すことは出来ないのです。

 伝道者パウロは、キリストと結ばれた新しさを、「和解」という言葉で言い表しています。神学という学問は法学、医学と並んで、歴史のある学問です。ヨーロッパに大学が誕生した時、最初に設置されたのは、法学部、医学部、神学部でした。神学は教会の中だけに通用する学問ではなく、私どもが生きる世界、歴史をどのように捕らえるのか、世界、歴史と関わりのある学問です。今日の時代の鍵語となっているのは、「和解」です。「和解の神学」が改めて光が当てられています。しかし、和解することがどんなに難しく、困難であるかは、誰もが知っていることです。ロシアとウクライナとの和解は一体どのような形で行われるのか。第三者が仲介役に入るのか。今尚、先の見通しが全く立っていません。国と国、民族と民族の和解だけでなく、私どもの身近な所でも、和解、仲直りがどんなに難しいことか。身をもって経験しています。幼稚園の園児のように、けんかして、仲違いになっても、「ごんめんね」、「いいよ」と仲直り出来る柔らかな心が持てればと思ってしまいます。しかし、私どもの心は頑なで、自分が絶対に正しい、相手が間違っていると、お互いが思っていますから、和解することは困難です。和解出来ない現実、私どもの頑なな罪があります。

 

②伝道者パウロは語ります。人間同士の和解の根底に、神の和解の出来事があると。神の和解の出来事に根ざさないと、人間同士の和解も難しい。パウロはローマの信徒への手紙で、私どもは神に造られた存在でありながら、神と向き合って生きることを拒否した神の敵であったと語ります。神の敵であることは、神から憎まれ、滅ぼされる存在であることです。神の敵であった私どもが神と和解するためには、私どもの方から神に懇願する必要があります。「神よ、私どもは自分の罪を知りました。私どもは悔い改めます。どうかお赦し下さい。和解して下さい」。ところが、驚くべきことに、神の方から私どもに和解を願っているのです。キリストの願いです。

「キリストに代わってお願いします。神と和解させていただきなさい。罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の儀を得ることができたのです」。

 「和解」という言葉は、「交換」という意味でもあります。キリストの十字架において、神と私どもとの間に交換がなされた。このことを強調したのが、宗教改革者ルターです。十字架において、キリストは御自分の義を差し出された。私どもは罪しか差し出すものはなかった。キリストは私どもの罪を負われ、神から審かれ、私どもはキリストの義を纏って、救われた。誠に、私どもにとって有利か交換です。キリストにとって非利益な交換です。しかし、十字架において起こったのは、このような交換であったのです。それ故、私ども罪人が価なしに救われたのです。

    私どもの社会で、このような交換をしたら成り立ちません。交換は同等の値うちがあるから成り立つのです。しかし、神と私ども人間の交換は、このような不均衡な交換であったのです。

 

4.①パウロは、私ども伝道者は、主から「和解の言葉」を託された「キリストの使者」であると語ります。しかし、それは伝道者だけでなく、教会に生きる全ての者が、主から「和解の言葉」を託された「キリストの使者」として生きるのです。「キリストの使者」とは、キリストから遣わされた者です。キリストに遣わされて生きることです。これは大切な視点です。私は大学生の時、牧師が存在を懸けて語った「キリストの愛、われらを挾めり」。この御言葉を通して、キリストの十字架の出来事、神の和解の出来事に巻き込まれました。キリストと結ばれて新しく造り変えられた。キリストの使者として、遣わされて生きている使命を与えられました。私どもが何故、この家庭にいるのか。キリストから遣わされたからです。私どもが何故、この学校にいるのか。キリストから遣わされたからです。私どもが何故、この時代、この日本、この世界に生きているのか。キリストから遣わされたからです。私どもが何故、この教会にいるのか。キリストから遣わされたからです。たとえどんなに困難な課題があったとしても、キリストがあなたが必要だと認めて、あなたを遣わされたのです。キリストから遣わされたという視点で、今、私どもが生きている場所を捕らえ直すのです。

 「キリストの使者」、言い換えれば、「キリストの全権大使」です。国から諸外国に派遣された全権大使は、国家の権威を委ねられています。全権大使が語る言葉は、国家を代表する権威があり、重さがあります。キリストの全権大使である私どもは、キリストと同じ権威ある言葉が委ねられています。それ故、私ども伝道者は、教会は、このように語ることが出来るのです。

「キリストに代わってお願いする。神との和解に生きよ」。私どもが語る言葉は、キリストの願いだ。神との和解に生きよ。神の和解を受け入れよ。悔い改めて、神に立ち帰れ。この「和解の言葉」こそが、私ども教会が世界に向かって語るべき御言葉であるのです。

 

②先週、教会で葬儀をしたのは、高橋弘滋さんでした。映画が大好きで、映画館の支配人にまでなりました。欧米の映画は聖書を題材にし、御言葉を主題として映画が多い。そのような映画は全て鑑賞された。映画を通し、聖書と出会い、聖書を通して、生きる力を与えられ、同時に、自分の罪深さをも知らされた。しかし、教会の礼拝に出席することはなかった。そのような弘滋さんにとって、大きな出来事は洋子さんと結婚されたことでした。洋子さんは父君の闘病生活に直面し、家族の生活が一変しました。何故、私どもがこのような苦しみを受けなければならないのか。いつも問い続ける日々であった。そのような中で、古本屋でヨブ記と出会い衝撃を受けた。ヨブもまた、何故、このような苦しみを受けなければならないのかと、神に問い続けた人物だからです。聖書を購入し、読むようになった。しかし、教会の礼拝に出席することはなかった。お二人が金沢教会の礼拝に導かれるようになったのは、娘の夢宇美さんが北陸学院第二幼稚園に入園されたからです。父母の会で聖書の学び会があり、更に聖書を深く学びたいと願い、金沢教会の礼拝に出席されるようになった。最初に洗礼を受けたのは洋子さん。父君の命日の翌日のペンテコステ礼拝で洗礼を、内藤留幸牧師から受けられた。洋子さんの執り成しにより、その年のクリスマス礼拝で、弘滋さんが洗礼、夢宇美さんが小児洗礼を受けられた。

 ところが思い掛けない大きな試練が家族を襲いました。洋子さんの体を癌が蝕んでいた。闘病日記には、何故、私がこのような病、苦しみを負わなければならないのか。父君の闘病生活の時に発した問いかけを、再びするようになった。何故、何故、という言葉が連ねられていた。洋子さんは60歳で逝去された。いつも明るく、笑顔で、家族の中心にいた洋子さん。家族の信仰の中心であった洋子さん。その洋子さんが亡くなったことは、弘滋さん、夢宇美さんにとって、悲しく、厳しい試練でありました。教会生活からも離れて行きました。

 しかし、再び、教会へ、神の御許へ立ち帰らせる出来事が起こりました。夢宇美さんが北陸学院小学校時代、クラス担任であった釜土純雄長老の葬儀でした。葬儀で証しされた釜土純雄長老の信仰の執り成しを受けて、夢宇美さんは信仰告白へと導かれました。そして今回、夢宇美さんの執り成しの信仰により、教会生活から離れていた父君・弘滋さんの葬儀を金沢教会で行うことが出来たのです。

 一人一人が執り成し手として生きた。キリストの使者として生きた。キリストの使者としての執り成しにより、神との和解に生きよ。悔い改めて神に立ち帰れ。主から託された「和解の言葉」「和解の福音」を証しし、語ったのです。私ども一人一人が、主から託された「和解の福音」を語る、キリストの使者として生きるのです。言葉と存在を通して、証しし、語るのです。キリストに代わってお願いする。「神との和解に生きよ」、「悔い改めて、神に立ち帰って生きよ」。

 

 お祈りいたします。

「キリストの十字架において、誠に驚くべき大事件が私どものために起きたのです。キリストの義と私どもの罪が交換される、誠に不釣り合いな出来事が起こりました。それ故に、キリストの愛に挟まれ、キリストの愛に捕らえられ、私どもも和解の言葉を語るキリストの使者として立てられ、遣わされたのです。どうか私どもの言葉と存在を通して、証しし、語らせて下さい。神との和解に生きよ。悔い改めて、神に立ち帰って生きよ。

 この祈り、私どもの主イエス・キリストの御名により、御前にお捧げいたします。アーメン」。

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