「神に栄光、地に平和」
イザヤ11 :1~9
ルカ2:8~20
主日礼拝
井ノ川勝
2024年12月22日
1.①私が以前、伝道していた伊勢の教会には幼稚園がありました。待降節になりますと、最初に行われるクリスマスの行事が、幼稚園のクリスマス礼拝、降誕劇です。夕方、礼拝堂に集まって行われます。クリスマス礼拝の最初に、園児たちが聖書の御言葉を大きな声で唱えます。皆、この御言葉を暗唱しています。
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。
この一句に、クリスマスの出来事が言い表されています。クリスマスは、神が愛する独り子を私どもにお与えになった喜びの出来事です。しかし同時に、クリスマスに、大切な家族を主の御許に送った悲しみの出来事でもあります。
クリスマスを間近に控えた先週の待降節の19日の木曜日、午前3時半過ぎに、稲積優佳さんからお電話がありました。父が今、亡くなったとの知らせでした。驚きました。稲積学さんは今年の夏以降、入退院を繰り返され、お体が弱られていましたが、今年もクリスマスを共に迎えることが出来ると信じていました。喜びのクリスマスを迎えるこの時に、大切な家族を亡くされ、悲しみの涙を流さなければならない。それはとても厳しいことです。深夜の病院の一室で、今、息を引き取られた稲積学さんを囲み、御家族と共に祈りを捧げました。その時、朗読した御言葉もこの御言葉でした。
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。
世界中の教会で、この朝、神の御子が与えられた喜びのクリスマス礼拝を捧げています。しかし同時に、世界の至る所で、愛する家族、友を亡くし、悲しみの涙を流されている方は数え切れない程多くいるのです。
クリスマスは、今日ばかりは死と悲しみの現実から目を逸らして、それを忘れて、祝う出来事ではありません。クリスマスは、将に、死と悲しみの闇の現実の只中に来て下さった神の御子を見つめ、そこでこそ涙を流す出来事なのです。
一昨日、この礼拝堂で、稲積学さんの棺を囲み、前夜祈祷会を行いました。昨日は葬儀を行いました。稲積学さんが地上で捧げる最後の礼拝、最後のクリスマスを共にいたしました。多くの方が出席をされ、祈りを合わせました。大切な命を亡くし、主の御許にお送りする悲しみと涙の葬儀の只中に、救い主イエスが来て下さったのだ、と改めて確信しました。
②クリスマスの知らせが、主の御使いを通して、真っ先に伝えられたのは、ベツレヘムで夜通し羊の群れの番をしていた羊飼いたちでした。何故、羊飼いたちに、クリスマスの知らせが真っ先に伝えられたのでしょうか。羊飼いは昼間には羊の世話をし、夜には羊の群れの番をしなければなりません。従って、神を礼拝する時間などなかったのです。他のユダヤ人たちからは、神の律法に生きられない罪人として、礼拝から遠のけられていました。交わりからのけ者にされていました。暗闇と死の陰に座し、悲しみの涙を流していました。しかし、そのような羊飼いたちに、クリスマスの知らせが真っ先に伝えられました。
本日のクリスマス礼拝後、教会学校の生徒たちが、キリスト降誕劇をいたします。一つ一つの場面が、印象深く、心に迫って来ます。中でも印象深い出来事は、主の御使いが羊の群れの番をしていた羊飼いたちに、クリスマスの知らせを伝える場面です。羊飼い役の生徒たちは非常に驚き、のけぞりながら、主の御使いの知らせを聞いています。主の御使い役の生徒は、順番に台詞を言います。
「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである」。
主の御使いが強調している言葉があります。
「今日、あなたがたのために救い主がお生まれになった」。
他の誰でもない。救い主はあなたがたのためにお生まれになったのだ。神から遠のけられ、神から最も遠い存在と言われていた、あなたがたのために、今日、救い主がお生まれになった。そうです。クリスマスの出来事は、今日、私どものために起きた出来事です。悲しみの涙を流されているあなたのために起きた出来事です。救い主が私どものために、あなたのために来て下さった出来事です。
2.①主の御使いが羊飼いたちに告げた知らせの中で、もう一つ注目すべき言葉があります。
「あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである」。
クリスマスのしるし。それは飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子である。この言葉が繰り返されています。あなたがたのために来て下さった幼子・救い主イエスが宿る場所は、飼い葉桶の中にしかなかったのです。牛や馬が飲む水を入れる容器です。干し草を入れる容器です。牛や馬のよだれが染み込んだ容器です。しかし、そこにしか、救い主が宿る場所はなかったのです。私ども人間が生まれた時に、誰も飼い葉桶に寝かされる者はいません。いと高き所におられる神は、人の姿を採られ、飼い葉桶という最も低き所にまで降られたのです。それがクリスマスの出来事だったのです。
12月の上旬、東京説教塾の例会で、今年4月に逝去された加藤常昭牧師の鎌倉雪ノ下教会でのクリスマス説教が採り上げられ、説教分析がなされました。1993年のクリスマス礼拝の説教です。説き明かされた御言葉は、クリスマスの出来事と関係ないような御言葉です。ヨハネ福音書10章の結びの言葉です。
「ユダヤ人たちは、イエスを石で打ち殺そうとして、また石を取り上げた」。何故、この御言葉がクリスマスの出来事と関係あるのか。ヨハネ福音書の冒頭の御言葉と響き合っているからです。稲積学さんの前夜祈祷会で聴いた御言葉です。
「光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった」。
「光」とは、救い主イエスです。「暗闇」とは、この世です。この世に生きる私どもです。救い主イエスがこの世に来て下さったにもかかわらず、この世に生きる私どもは救い主を喜んでお迎えしなかった。受け入れなかった。主イエスを石で打ち殺そうとして、また石を取り上げたのです。クリスマスの出来事が起きた現実を、この御言葉で言い表したのです。
「光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった」。
このクリスマス説教で、加藤牧師はスペインのチェリストであるパブロ・カザルスのことを紹介しています。お父さんは教会のオルガニストであった。小さい時からお父さんについて教会に出入りしていた。6,7歳の時に既に、お父さんと一緒にクリスマス物語の作曲をしました。
カザロスは厳しい戦いの時代を生きた音楽家でした。ヒトラーがベルリンに連れて行って演奏させ、ナチスの協力者として用いようとした。シカシ、カザルスはそれを断固として拒否しました。いのちを懸けて音楽家としての信仰を貫かれた方です。
カザルスが、故郷の詩人が作ったクリスマス物語に曲を付け、クリスマス・オラトリオにしました。曲名は「飼い葉桶」です。その中に美しい静かな合唱曲があります。
「おお、涙が世界の上に落ちてくる。
幼な子の眠りのなかに、深い夢のなかに。
人の心が泣いている。
閉ざされた目から落ちる涙、
どんなに深い悲しみがこの涙を生んでいることだろうか。
だがその涙の落ちていく先はあの飼い葉桶。
幼な子がそこにおり、そしてすぐに目をさます。
世界の死の闇を見抜く目を開く」。
幼子イエスが何故、飼い葉桶に宿られたのか。世界中で流される私どもの涙を受け留めるためです。私どもの流す涙の落ちて行く先は、幼子イエスが宿るあの飼い葉桶です。私どもの涙の受け場所が、ここにある。幼子イエスは飼い葉桶の中で、世界の死の闇を見抜く目を開かれているのです。
カザルスは故郷を追われ、プエルトリコに住んだ。その小さな家に、「飼い葉桶」と名付けた。私こそ罪に塗られた飼い葉桶。しかし、そこに救い主イエスが宿って下さった。私どもの涙の受け場所となって下さったカザルスは語ります。「クリスマスの物語こそ、われらの救いの全てである」。
②宗教改革者ルターが作詞したクリスマスの讃美歌があります。讃美歌21-229です。元々は中世の時代から歌われて来た讃美歌を、ルターが書き改めたと言われています。市民クリスマスで、北陸学院の中高生が演じた降誕劇の最初に歌われた讃美歌です。私どもも待降節の礼拝で歌った讃美歌です。クリスマスの出来事とは何かを明確に語っています。
「1.いま来たりませ、救いの主イエス、この世の罪を あがなうために。
2.きよき御国を 離れて降り、人の姿で 御子は現われん。
3.みむねによりて おとめにやどり、神の独り子 人となりたもう。
4.この世に生まれ、陰府にもくだり、御父にいたる 道を拓く主。
5.まぶねまばゆく 照り輝きて、暗きこの世に 光あふれぬ」。
特に注目すべきは、4節のこの歌詞です。
「この世に生まれ、陰府にもくだり、御父にいたる 道を拓く主」。
神の御子イエスは人となって、この世に来られ、陰府にも降られた。陰府とは死者が赴く所です。もはや神の御手の届かない所です。神の光が注がれない所です。しかし、救い主イエスは陰府まで降られた。陰府とは十字架の出来事を指し示しています。主イエスは十字架の上で叫ばれた。「わが神、わが神、何故わたしをお見捨てになられたのか」。十字架は神から見捨てられた所です。それは私どもが日々の生活でも経験することです。ああ、私は神から見捨てられたと、絶望のどん底に突き落とされ、嘆きの叫びを上げることがあります。私どもも日々の生活の中で、陰府を経験します。しかし、救い主イエスは陰府まで降られた。陰府にも救い主イエスは立って下さる。陰府もまた、御父に至る道を拓いて下さった。
クリスマスを目前とした待降節、稲積学さんの棺を囲み、前夜祈祷会、葬儀を行いました。私どもはルターのこのクリスマスの歌を歌いながら、葬儀を行ったのです。ルターは、飼い葉桶は十字架の出来事を指し示していると語りました。救い主イエスが十字架に立たれ、陰府まで降られることにより、飼い葉桶に宿られた幼子主イエスから、暗きこの世に光が注がれたと、ルターは歌うのです。
3.①クリスマスの知らせは真っ先に、羊飼いに告げられました。それは何故なのか。このようにも言うことが出来ます。飼い葉桶に宿られた幼子イエスこそ、真の羊の大牧者であるからです。慰めの羊飼いであるからです。一匹一匹の羊を命懸けで守り、世話をする羊飼いだからこそ、羊飼いこそが分かると思ったのです。
今、水曜日の聖書研究・祈祷会で、ヘブライ人への手紙を学んでいます。嬉しいことは、祈祷会の出席者が増えていることです。共に御言葉を学ぶ人が増えることを願っています。ヘブライ人への手紙の主題は、憐れみの大祭司イエスです。それは言い換えれば、羊の大牧者イエスです。4章14節以下にこういう御言葉があります。新約405頁。
「さて、わたしたちには、もろもろの天を通過された偉大な大祭司、神の子イエスが与えられているのですから、わたしたちの公に言い表している信仰をしっかり保とうではありませんか。この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか」。
主イエスは憐れみ深い大祭司としてお生まれになられた。羊であるわれわれの大牧者である。羊であるわれわれの真の羊飼いである。一匹一匹の羊を執り成す憐れみの羊飼いです。迷い出た一匹の羊をどこまでも探し求める羊飼いです。一匹の羊のために、自らのいのちを犠牲にしてまで、救って下さる羊飼いです。私どもが日々の生活で味わうあらゆる試練、苦しみ、悲しみ、絶望を、憐れみ深い羊飼い主イエスも全て経験し、知っていて下さる。主イエスが経験されない苦しみ、悲しみ、絶望はない。私どものように罪は犯されなかったが、あらゆる点において、私どもと同じ試練を味わわれた。それ故、憐れみ深い羊飼いイエスは、私どもの苦しみ、悲しみを、共に苦しみ、悲しんで下さるのです。
②夜通し、羊の群れの番をしていた羊飼いに、主の御使いからクリスマスの知らせが伝えられた。「今日、ダビデの町に、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主キリストである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中で寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである」。
この知らせを聴いた羊飼いたちは立ち上がって、叫びます。「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」。そして急いで行って、マリアとヨセフ、飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子イエスを探し当てた。羊飼いたちは、この幼子イエスについて主の御使いが話してくれた出来事を人々に知らせた。羊飼いたちはクリスマスの知らせを伝える最初の伝道者となりました。そして何よりも、飼い葉桶の中に寝かされている幼子主イエスを、救い主として拝んだ最初の礼拝者となったのです。昼は羊の世話をし、夜は羊の群れの番をして、礼拝から遠ざけられていた羊飼いたちこそ、飼い葉桶の救い主イエスを拝んだ最初の礼拝者となりました。
ヘブライ人への手紙の言葉で言えば、こうなります。憐れみ深い大祭司イエスの執り成しによって、憚ることなく恵みの座である飼い葉桶の救い主イエスに近づき、礼拝する道が拓かれたのです。そして私ども罪人も、憐れみ深い大祭司イエスの執り成しにより、憚ることなく、恵みの座、飼い葉桶の救い主イエスに近づき、礼拝する道が拓かれたのです。
4.①羊飼いたちに真っ先にクリスマスの知らせを伝えた主の御使いに、天の大軍が加わり、神を賛美しました。教会学校の降誕劇で、天使の役をする子どもたちが声を合わせて賛美する場面です。感動する場面です。
「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」。クリスマスの夜、羊飼いたちだけが聴いた主の御使いたちの歌声です。
この一年は元日に能登半島地震が起こり、私どもの生きる土台が揺り動かされることから始まりました。多くの方が犠牲となりました。多くの方が大切な家族、友を失いました。多くの方が家族との思い出が詰まった家を失いました。多くの方が生活の基盤である土壌を失いました。今尚、多くの方が厳しい生活を強いられています。輪島教会、七尾教会、羽咋教会、富来伝道所の教会員も被災されました。輪島教会は会堂を失いました。今、仮設の礼拝堂でクリスマス礼拝を捧げています。またこの一年間も、世界の各地で戦争、紛争により、多くの方が犠牲となり、故郷を追われ、厳しい難民生活を強いられています。数え切れない涙が大地に染み込んでいます。平和の現実から掛け離れた中を、私どもは生きて来ました。私どもの口からは嘆きの歌しか生まれて来ません。絶望の歌しか生まれて来ません。
神を賛美する歌声は主の御使いたちから、天からもたらされます。神からもたらされます。
「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」。神の栄光は私どもから遙かに掛け離れた天にあるのではありません。ルターがクリスマスの讃美歌で歌ったように、神の御子はきよき御国を離れて降り、人となりて、この世に生まれ、飼い葉桶に宿り、陰府にまで降られました。飼い葉桶の中にこそ、神の栄光が現されたのです。飼い葉桶の中にこそ、神がどんなことがあっても、我々と共に生きる平和が現れたのです。
それ故、私どもは悲しみの涙を流しながらも、クリスマスの讃美歌を歌うのです。
「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」。
羊飼いたちは、見聞きしたことが全て、主の御使いの話したとおりであったので、神をあがめ、賛美しながら、再び厳しい現実の生活へと帰って行きました。
②ルターはカタリーナと結婚し、子どもたちにも恵まれました。毎年、家族でクリスマスの祝いをしました。ルターは家族のクリスマスのために讃美歌を作りました。讃美歌21-246、「天のかなたから、はるばる来ました」です。天使と子どもたちが交互に歌うクリスマスの歌です。ところが、1547年9月20日、長女のマグダレーナは13歳で亡くなりました。その年のクリスマス、ルターの家族の悲しみの涙は乾きませんでした。いつものクリスマスの歌を歌うことが出来ませんでした。しかし、ルターは目に涙を溜めながらも、神を賛美する歌詞を加えました。ルターも、妻も、子どもたちも、愛するマグダレーナを失った悲しみの涙を流しながら、しかし、神を賛美する歌を歌ったのです。
「天から御使いの群れが来て、羊飼いに現れます。可愛い赤ちゃんが飼い葉桶に寝かされていると伝えます」。「主イエス・キリスト、救い主が皆のためにお生まれです。これはほんとに嬉しいこと。神様が私たちと同じになって、肉と血をもってお生まれです。これこそ私のほんとの兄弟」。「罪でも、死でも何が出来よう。まことの神が私の味方。悪魔も黄泉もしたいまま。それでも、み子が私の味方」。「み子はあなたを見捨てない。この方にのみ信頼を。たとい試練が襲っても、この方にのみ委ねよう」。「終わりの勝利はあなたのもの。神の子らとされたのだから。とこしえまでも神に感謝し、いつまでも耐え忍んで喜ぼう」。
お祈りいたします。
「悲しみの中でクリスマスを迎えた者がいます。涙の乾かないままクリスマスを迎えた者がいます。病と向き合いながらクリスマスを迎えた者がいます。家を失った者がいます。しかし、神の御子イエスは人となって、私どものところに来て下さいました。飼い葉桶に宿って下さいました。陰府にまで降って下さいました。私どもの憐れみの大祭司となって下さいました。私どもの真の羊飼いとなって下さいました。私どもと共に生きることを決意して下さいました。主よ、どんな時にも、あなたを賛美して歩ませて下さい。
この祈り、私どもの主イエス・キリストの御名により、御前にお捧げいたします。アーメン」。