「神の御前で真実に歩め」
イザヤ49:14~16
テモテ二2:8~13
主日礼拝
井ノ川勝
2025年3月2日
1.①毎週水曜日、教会員の皆さんと、聖書の御言葉の学びをしています。私が金沢教会に遣わされて11年が経ちましたので、随分多くの御言葉の学びをして来ました。旧約聖書の御言葉はほとんど説き明かして来ました。今、新約聖書の御言葉を説き明かしています。出席されている方が時々、このような感想を述べられます。随分多くの御言葉に触れて来た。御言葉の豊かさに心打たれ、恵みを与えられた。でも、すぐに忘れてしまうのです。これはこの方だけではなく、誰もが抱えている悩みだと思います。御言葉を学んでも学んでも、すべての御言葉を覚えていることが出来ず、忘れてしまう。しかし、すぐに忘れてしまうから、何度も何度も御言葉を学び続けることが大切だと思います。
しかし、たとえ全ての御言葉を覚えられず、忘れるようなことがあったとしても、これさえ忘れさえしなければ、私どもの信仰は確かなものとされるのです。それは何でしょうか。今朝、与えられた御言葉で、伝道者パウロは明快に語っています。
「イエス・キリストのことを思い起こしなさい」。
イエス・キリストをいつも想い起こしなさい。イエス・キリストを忘れてはならない。ここに私どもの信仰の要があるからです。
②先週の月、火曜日、宣教協議会が静岡草深教会で行われました。今、静岡草深教会を牧会されている牧師は、かつて金沢大学の学生であった時に、金沢教会で教会生活をされた飯田敏勝牧師です。宣教協議会の講師として立てられたのは、日本キリスト改革派教会の神学校の校長である吉田隆牧師です。主題は「『ハイデルベルク信仰問答』を学ぶ」でした。吉田隆牧師は『ハイデルベルク信仰問答』を翻訳された方で、様々な解説書を書かれている方です。
『ハイデルベルク信仰問答』は宗教改革の時代に作成された、私どもプロテスタント教会の信仰を問答形式で言い表したものです。青少年の信仰教育のために作成されました。金沢教会も教会修養会で、20年かけて、この信仰問答を学んで来ました。私どもの教会に流れる信仰の血潮となっています。『ハイデルベルク信仰問答』は何と申しましても、問1が全体の主題を言い表しています。
「生きるにも死ぬにも、あなたのただ一つの慰めは何ですか」。
私どもは生きて行く上で、慰めを必要とします。しかし、私どもが所有する慰めは死に直面した時に、真実の慰めとはならない。頼りにならなくなります。しかし、信仰問答が問うているのは、生きる時だけではなく、死ぬ時の慰めがあるか問いかけています。この「慰め」という言葉は、吉田牧師も語っておりましたが、「信頼」という意味でもあります。日本語の「慰め」は弱々しい響きがあります。しかし、元の言葉は強い意味の言葉です。「揺るがない信頼」「難攻不落の砦」という意味です。私どもが全存在を傾けることが出来る、私どもの命を預けることが出来る、全幅の信頼を寄せることの出来るものです。それはただ一つしかない。それは何か。答えはこういう言葉が語られます。
「わたしがわたし自身のものではなく、体も魂も、生きるにも死ぬにも、わたしの真実なる救い主イエス・キリストのものであることです」。
素晴らしい言葉です。わたしは一体何者なのか。わたしはわたし自身のものではない。体も魂も、生きるにも死ぬにも、わたしの真実なる救い主イエス・キリストのものである。私どもは生きている時だけではない。死ぬ時も、死んだ後も、わたしの真実なる救い主イエス・キリストのものである。ここにただ一つの慰め、ただ一つの信頼できるものがある。伝道者パウロの言葉で言えば、他のことを忘れても、これさえ忘れるな。いつも想い起こすべき福音です。ただ一つの慰めであるイエス・キリストを想い起こしなさい。
ここで注目していただきたいことがあります。この信仰問答はとても丁寧に、イエス・キリストを紹介しています。「わたしの真実なる救い主イエス・キリスト」。「わたしの真実なる」という言葉です。「あなたのただ一つの信頼」は何かに対応する言葉です。「わたしの真実なる救い主イエス・キリスト」。イエス・キリストは真実なる救い主である。だからこそ、生きるにも死ぬるにも、わたしのただ一つの慰め、信頼すべきお方である。
わたしの真実なる救い主イエス・キリスト。この信仰、福音が語られている御言葉こそ、今朝、私どもが聴いた御言葉です。
2.①テモテへの手紙二は、伝道者パウロが若き伝道者テモテに送った手紙です。しかもパウロは今、獄中にいます。鎖に繋がれています。「この福音のためにわたしは苦しみを受け、ついに犯罪人のように鎖につながれています」と語っています。誠に不自由な身に置かれています。いつ殺されるか分からない、死と向き合う緊迫した状況に置かれています。そのようなパウロが若き伝道者テモテに向かって、遺言として記した手紙です。どうしても伝えたいことがある。伝道者にとって無くてならぬものとは何か。伝道者が語るべき福音とは何か。パウロが命を懸けて語った御言葉です。若き伝道者テモテは伝道においても、牧会においても失敗してしまい。臆病の霊に取り憑かれ、意気消沈していました。そのようなテモテを慰め、励ますために、パウロは獄中から手紙を書きました。あなたが語るべき福音はただ一つしかない。「わたしの真実なる救い主イエス・キリスト」。わたしの真実なる救い主イエス・キリストを忘れるな、いつも想い起こしなさい。
昨年の4月、私ども伝道者の説教の手引きをして下さった加藤常昭牧師が逝去されました。加藤先生が遺言のように、私ども伝道者に繰り返し語られた言葉がありました。日本のプロテスタント教会の第一世代を代表する伝道者・植村正久牧師の言葉です。やはり若き伝道者に向かって語られた言葉です。説教はキリストの救いを解説することではない。生ける主イエス・キリストを真っ正面から、存在を懸けて紹介することに尽きる。霊性の危機、霊性の病にある一人一人の魂に、生ける主イエス・キリストの慰めを伝え、主イエス・キリストのもたらす平安と休息を分け与えるのが、伝道者の務めである。伝道者パウロもまた、若き伝道者テモテに向かって、生ける主イエス・キリストを真っ正面から、存在を懸けて紹介しなさい語りかけているのです。
②何故、主イエス・キリストなのでしょうか。何故、主イエス・キリストがただ一つの慰めなのでしょうか。他のものでは駄目なのでしょうか。主イエス・キリストは私どもにとって、どのようなお方なのでしょうか。伝道者パウロは語ります。主イエス・キリストこそ、福音である。私どもに喜びの知らせをもたらす福音である。私どもの家には、いろいろな喜びの知らせ、福音がもたらされます。「大学に合格したよ」。「赤ちゃんが生まれたよ」。「無事、手術が終わったよ」。固唾を吞んで待っていた家族は、その喜びの知らせ、福音を聞いて、飛び上がって喜びます。しかし、私どもが生きるにも死ぬにも聴くべき喜びの知らせ、福音はこの御言葉に尽きます。「あなたは生きるにも死ぬにも、主イエス・キリストのものとされている」。
主イエス・キリストは、聖書で語られ、神が約束されたように、ダビデの子孫として生まれた。私どもと同じまことの人間として生まれた。十字架で死なれ、死者の中から復活された。まことの神として、世の終わりまで、いつも私どもと共におり、私どもと共に生きて下さる。
生ける主イエス・キリストという福音、喜びの知らせを伝えたがために、伝道者パウロは苦しみを受け、ついに犯罪人のように鎖に繋がれています。しかし、神の言葉は鎖につながれていません。「神の言葉は鎖につながれない」。この御言葉は教会にとって、伝道者にとって、大きな力、慰めとなりました。伝道者が捕らえられ、獄に入れられ、鎖に繋がれたら、福音を語ることは出来なくなります。伝道することが出来なくなります。しかし、パウロは語ります。伝道者が鎖に繋がれても、神の言葉を鎖に繋ぐことは出来ない。神の言葉はどんな権力者の力によっても支配されない。自由がある。力がある。パウロが鎖に繋がれても、他の伝道者の口を通して、神の言葉は語られ続けられる。
第二次世界大戦前夜、ヒトラー率いるナチスが政権を握り、教会をもその支配下に置こうとしました。それに反対する伝道者、長老たちが集まり、「バルメン宣言」を発表しました。教会が語るべき福音とは何かを明確にしました。第一条項でこのように語りました。
「聖書においてわれわれに証しされているイエス・キリストは、われわれが聴くべく、また生きているときにも、死ぬときにも、信頼し、服従すべき、唯一の神の言葉である」。
生ける主イエス・キリストという唯一の神の言葉以外、教会は語ることも聴くこともしない。
そして最後の第6条項で、この御言葉を引用しました。
「神の言葉はつながれていません」。
そしてこの言葉で結びました。
「神の言葉は、永遠に変わることはない」。
生ける主イエス・キリストという神の言葉の御支配は、永遠に変わることなく、立ち続ける。
3.①伝道者パウロは語ります。「次の言葉は真実です」。「真実」という言葉は、「信頼」「信仰」と同じ言葉です。次の言葉は真実です。信頼出来る言葉、信仰に価する言葉です。そしてパウロは一つの文章を引用します。
「わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きるようになる。耐え忍ぶなら、キリストと共に支配するようになる。キリストを否むなら、キリストもわたしたちを否まれる。わたしたちが誠実でなくても、キリストは常に真実であられる。キリストは御自身を、否むことができないからである」。
この御言葉は教会の信仰告白、讃美歌ではないかと言われています。しかも、洗礼式の時に歌われた讃美歌だとも言われています。今、洗礼の準備をしている高校生がいます。洗礼を受けることはどういうことでしょうか。金沢にもバプテスト教会があります。文字通り、洗礼教会です。バプテスト教会の洗礼は、全身水の中に浸ります。講壇の板を剥がすと、水槽があります。そこに水を入れて、冬はお湯を入れます。洗礼志願者は仰向けに水に沈みます。古い人間が主イエスと共に十字架につけられて死ぬことを表します。そして水に沈んだ体を起き上がらせます。主イエスが死人の中から甦られたように、新しい人間となって甦るのです。
私どもの教会は全身水の中に浸ることはしません。頭の上に水を注ぎます。しかし、聖霊によって、古い人間がキリストと共に死に、新しい人間としてキリストと共に甦る出来事が起きているのだと受け留めています。この讃美歌が歌っています。
「わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きるようになる」。
私どもはどんな力にも、諸々の霊にも、権力者の力にも支配されない。たとえ鎖に繋がれても、私どもを生かす神の言葉も、心も鎖に繋がれ、支配されることはない。神の御言葉の自由、福音の自由に喜びをもって生かされる。
②この讃美歌の中で、特に注目すべき言葉はこの御言葉です。
「わたしたちが誠実でなくても、キリストは常に真実であられる」。
「誠実」という言葉は、「真実」と同じ言葉です。
「たとえわたしたちが真実でなくても、キリストは常に真実であられる」。
口語訳はこのように訳されていました。
「たといわたしたちは不真実であっても、キリストは常に真実である」。
私どもの信仰はいつも真実であるとは限らない。不真実であることが多い。しかし、私どもの不真実な信仰は、キリストの真実によって支えられているのです。私どものキリストを掴む信仰の握力は、苦しみの時、悲しみの時、弱まってしまいます。試練が襲い懸かると、握っていたキリストを離してしまいます。しかし、キリストはどんなことがあっても、私どもが死に直面しても、私どもを握る愛の握力は弱まることはない。絶対に握った私どもを手放すことはないのです。キリストの真実が私どもの不真実を支えるのです。
もしかしたら伝道者パウロは、獄の中でもこの讃美歌を歌ったのではないか。神の言葉は繋がれない。それは神の讃美歌は繋がれないということです。先日、北陸学院小学校の礼拝で、小学生に御言葉を語りました。伝道者パウロが初めてエーゲ海を渡り、キリストの福音をヨーロッパに運んだ場面です。ヨーロッパの最初の伝道地はフィリピでした。意気込んでキリストを伝えた。しかし、パウロとシラスは捕らえられ、獄に入れられ、鎖に繋がれた。しかし、真夜中、獄の中で、パウロとシラスは大きな声で讃美歌を歌いました。心動かされる場面です。小学生には「主われを愛す」と歌いました。しかし、どんな讃美歌を歌ったのかは分かりません。もしかしたら、この讃美歌を歌ったのではないでしょうか。
「わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きるようになる。耐え忍ぶなら、キリストと共に支配するようになる。キリストを否むなら、キリストもわたしたちを否まれる。わたしたちが真実でなくても、キリストは常に真実であられる。キリストは御自身を、否むことができないからである」。
4.①この讃美歌は同時に、殉教の死の時に歌った讃美歌であるとも言われています。当時はローマ帝国のキリスト教会への迫害の次代です。洗礼を受け、キリストを主と信じ、キリストの者とされることは、殉教の覚悟をすることでもありました。ローマ皇帝を神、救い主として拝まない決意を表すことでもありました。
加藤常昭牧師が神学校を卒業され、初陣の地として遣わされたのは、金沢教会の伝道によって生まれた若草教会でした。そこで最初の書物、『聖書の読み方』を書かれました。北陸学院の高校、短大で、聖書の授業で教えていた内容を基にしたものです。この本は何度も再版され、今でも読むことが出来ます。その後、二冊目の本として、『入信への道』を書かれました。しかし、この本は再版されることはありませんでした。私もこの本だけは残念ながら手にして、読んだことがありません。聖書に親しんだ者が、御言葉に捕らえられ、洗礼を志すようになる。何故、この本だけは再版されなかったのでしょうか。「洗礼を受けることは殉教の覚悟をすることである」という文章が評判が良くなかったからです。異教社会である日本において、洗礼を受け、キリスト者となって生きる。少数者として生きる。そこには様々な苦しみ、試練を味わわなければならないことです。殉教の覚悟もしなければならないことです。しかし、そこでこの讃美歌を歌うのです。
「キリストを否むなら、キリストもわたしたちを否まれる」。
厳しい言葉です。しかし、その後にこの御言葉が続くのです。
「たとえわたしたちが真実でなくても、キリストは常に真実であられる」。
私どもの不真実はキリストの真実によって支えられるのです。それ故、キリストの真実に支えられて、神の御前に真実に歩むのです。
②私が以前、伝道していた伊勢の山田教会の隣の町に、鳥羽教会があります。太平洋戦争中、信徒が離散し、教会を閉鎖していました。戦後、山田教会が再建しました。現在、金沢教会出身の畑雅乃牧師が伝道されています。私が山田教会で伝道していた時、鳥羽教会が教会創立50周年を迎え、加藤常昭牧師をお招きして、記念礼拝が行われました。「想い起こせ、キリストの真実を」という説教題で、この御言葉を説き明かされました。鳥羽教会の牧師は神学校卒業したばかりの若い伝道者でした。加藤牧師は若い伝道者テモテと重ね合わせながら、その若い伝道者に向かって御言葉を語られました。
「私どもの心もしばしば囚われの状況に置かれます。一所懸命伝道しているつもりでも、少しも教会が大きくならないと、敗北感の虜になります。様々な願いを抱きながら、それが満たされないままに何年も過ぎると、無気力の虜となります。私どもの心が病むのは、こうした無気力によります。望みが見えないところから生まれます。心が重くなります。軽やかでないのです。しなやかでないのです。神の恵みはしなやかなのに、軽やかな自由の恵みであるのに、それが見なくなります」。
しかし、神の言葉は繋がれていない。たとえ私どもは不真実であっても、キリストは常に真実であられる。私ども伝道者はここに立ち帰るのです。キリストの真実に支えられて、神の御前に真実に歩むのです。
5.①日本基督教団が毎月、「教団新報」という機関紙を発行しています。1月号の一面に、新春メッセージとして、教団総会議長の雲然俊美牧師の説教が掲載されていました。「神の御前で真実に」という題で、この御言葉を説き明かしていました。心に響く説教でした。雲然牧師は神学校時代の同級生で、神学校卒業後、郷里の秋田桜教会で40年間一筋に伝道されています。神学生時代から、奥羽伝道を主の召しとして与えられていました。説教の中で、奥羽伝道の恩師・櫻井重秀牧師の『天童教会百年史』の巻頭言を取り上げています。
「この教会は、会員数も決して多くはない。勿論これから量的に大教会になることも望ましいことである。しかしそれよりももっと望ましいことは、神の前に真実な教会でありたいということである。
教会には多くの欠けや破れがあり、弱さを抱えている。しかし、教会はキリストの真実に支えられ、応えて歩み続ける。教会の務めは、どんなに小教会であっても、この国、この社会の良心であらんとすることである」。
この町に一つしかない小さな教会が、この町の救い、この国の救い、この世界の救いのために、執り成しの祈りに生きる。主から託された大きな使命に生きるのです。神の御前で真実に歩むのです。
「神の御前で真実に歩め」。今日の説教題です。実は私の母校青山学院の教育方針の言葉です。在学中に宗教主任の先生から何度も叩き込まれました。「神の前に真実に生き、地の塩、世の光として生きる人間形成を目的とする」。キリスト教学校の教育方針です。しかし、それ以上に、教会が重んじていることです。「神の御前で真実に歩む」。金沢教会の信仰の伝統であるカルヴァンが重んじた信仰です。「神の御前で」「神の御顔の前で」「神の面前で」。それをラテン語で、「コーラム・デオ」と言って重んじました。
②神の御前で真実に歩む。本日は長老の任職、執事の任職が行われ、神の御前で誓約をしました。伝道者も牧師任職の時に、神の御前で誓約をします。洗礼志願者も洗礼の時に、神の御前で誓約をします。神の御前で真実に歩むことを誓約するのです。教会が最も大切にしていることがここにあるからです。奥羽伝道に命を献げた伝道者は語りました。
「この教会は、会員数も決して多くはない。勿論これから大教会になることも望ましいことである。しかしそれよりももっと望ましいことは、神のまで真実な教会でありたいということである。教会の務めは、どんなに小教会であっても、この国、この社会の良心であらんとすることである」。
神の御前で真実に歩む。私どもの教会の真実な歩みを支えるものこそ、この讃美歌が歌うキリストの真実なのです。
「たとえわたしたちが真実でなくても、キリストは常に真実であられる」。
お祈りいたします。
神の御前で生きる私どもの姿勢を糾して下さい。キリストの真実によって、不真実な私どもを打ち砕き、生きるにも死ぬにも私どもの真実なる救い主イエス・キリストの者として歩ませて下さい。私どもの小さな主の群れが、この国、この町の真実なる良心として執り成しの使命に生きさせて下さい。この祈り、私どもの主イエス・キリストの御名により御前にお捧げいたします。アーメン。