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「神の箱舟はいづこへ」

創世記7:1~16
マルコによる福音書4:35~41

主日礼拝

井ノ川勝

2025年2月2日

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1.①新しい年を迎え、誰もが改めて問いかけることがあります。私どもが生きているこの世界は、一体どこへ向かっているのか。私どもを乗せた世界という船はどこへ向かって航海しているのでしょうか。世界という船が向かう先は、どうも明るく、光輝いているとは思えません。むしろ暗雲が立ちこめているとしか見えません。様々な大波が怒濤のように押し寄せ、私どもを乗せた船を大きく揺さぶります。私どもは恐れと不安を抱えながら航海をしています。

 荒波が押し寄せる歴史を生きた詩編の詩人が、こういう叫びを上げています。詩編69編2~4節の御言葉です。

「神よ、わたしを救ってください。大水が喉元に達しました。

 わたしは深い沼にはまり込み、足がかりもありません。

 大水の深い底にまで沈み、奔流がわたしを押し流します。

 叫び続けて疲れ、喉は涸れ、わたしの神を待ち望むあまり、

 目は衰えてしまいました」。

 大水が押し寄せ、喉元に達した。大水の深い底にまで沈み込み、抜け出す足がかりもない。奔流が私を押し流そうとしている。私の命は大水に呑み込まれようとしている。神よ、どうか私を救って下さい。あなたが救って下さらなければ、私は滅んでしまいます。この詩人の叫びは私どもの叫びでもあります。

 「大水は喉元に達しました」。この「喉元」という言葉は「魂」という意味でもあります。この御言葉から作家の大江健三郎は『洪水はわが魂に及び』という小説を書きました。1973年の時代でした。現代社会が生み出す洪水、われわれ人間が生み出す洪水は、人間の魂の内面にまで及び、疲れ果て、破れ果て、瀕死の状態を生み出しています。2025年という現代は益々深刻な状態に陥っています。

 

この朝、私どもが耳を傾けた御言葉は、創世記6章~9章で語られる「ノアの箱舟物語」「ノアの洪水物語」です。この物語は現代を生きる私どもに、一体何を語りかけているのでしょうか。この物語の主人公はノアです。ところが、主人公のノアはひと言も語っていません。むしろ神が語られ、神が御業を行われています。更に、神が心の内面まで打ち明けておられる。ノアは神の言葉に無言で従っているだけです。ということは、この物語の主人公は神であられるのです。従って、「神の箱舟物語」「神の洪水物語」と呼んだ方がふさわしいと言えます。

 ノアの時代に起きた、人々の命を呑み込んだ大洪水の出来事。しかし、聖書はその出来事を自然災害とは受け留めませんでした。神の警告、神の審きと受け留めました。この世界は人間が支配しているのではなく、神が支配されているのだと、改めて受け留めました。その後、ノアの子孫である人類、神の民は、歴史の中で様々な試練に直面しました。戦争、敗戦、異教の地での捕囚生活、帰郷(故郷に帰る)。それらを人間の罪が生み出す洪水の出来事として受け留めました。世界の真ん中に立つのは、われわれ人間ではなく、神であられる。神こそが滅びをもたらすことが出来るが故に、神こそが真実に救いをもたらすことが出来る。それ故、歴史を生きた神の民は繰り返し、繰り返し、大洪水の中で、神に向かって叫んだのです。

「神よ、われわれを救ってください。あなたの御心をお示し下さい。どこにあるのですか。あなたの御心は」。

 

2.①創世記6章~9章の「神の箱舟物語」「神の洪水物語」において、注目すべきは、神の心の内面の言葉から始まり、結ばれていることです。神の言葉が物語全体を囲んでいることです。始まりはこの御言葉でした。6章5節。

「主は、地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのを御覧になって、地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた。主は言われた。『わたしは人を創造したが、これを地上からぬぐい去ろう。人だけでなく、家畜も這うものも空の鳥も。わたしはこれらを造ったことを後悔する』」。

 神が後悔し、心を痛めておられる。驚くべきことです。神を後悔させ、心を痛めさせる程に、われわれ人間の罪は深刻であったのです。われわれ人間はこの世界が神に造られた世界であることを忘れました。われわれ人間も神に造られた存在であり、神の御心を世界に映し出すことを忘れました。われわれが世界を支配し、われわれの野心を世界に映し出すことに心を傾けていました。

 「神の箱舟物語」「神の洪水物語」は、神のこのような言葉で結ばれています。8章21節。

「人に対して大地を呪うことは二度とすまい。人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ。わたしは、この度したように生き物をことごとく打つことは、二度とすまい」。

もう一つ、9章12節。神が人類を代表するノアと虹の契約を結んだ言葉です。

「あなたたちならびにあなたたちと共にいるすべての生き物と、代々とこしえにわたしが立てる契約のしるしはこれである。すなわち、わたしは雲の中にわたしの虹を置く。これはわたしと大地の間に立てた契約のしるしとなる。わたしが地の上に雲を湧き起こらせ、雲の中に虹が現れると、わたしは、わたしとあなたたちならびにすべての生き物、すべての肉なるものとの間に立てた契約に心を留める。水が洪水となって、肉なるものをすべて滅ぼすことは決してしない。雲の中に虹が現れると、わたしはそれを見て、神と地上のすべての生き物、すべての肉なるものとの間に立てた永遠の契約に心を留める」。

 天と地を結ぶ虹を見た時に、神は二度と人間を滅ぼさないと決意をされると言うのです。驚くべきことに、「神の回心」が語られているのです。大洪水という出来事を通して、「ノアの回心」「ノアの後悔」が起こったのではなく、「神の回心」「神の後悔」が起こったことを強調しています。それがこの物語の主題であるのです。何故、「ノアの回心」「ノアの後悔」ではなく、「神の回心」「神の後悔」なのでしょうか。「神の回心」こそが、われわれに真実の救いをもたらすからです。神が神であられるとはどういうことなのか。それが明確にされる時、神の御前に生きるわれわれが一体何者なのかが明らかにされるのです。「神の回心」が起こる時、真実に「ノアの回心」「われわれ人間の回心」が起こるのです。

 

この朝、「神の箱舟物語」「神の洪水物語」の真ん中にある7章の御言葉を聴きました。7章と8章とは、いろいろな言葉が対応関係にあります。その重要な言葉が、7章では「箱舟に入りなさい」「箱舟に入った」、8章では「箱舟を出た」です。6章と7章で、「箱舟に入りなさい」「箱舟に入った」という言葉が、実に7回も繰り返されています。その中で、主な御言葉に目を留めましょう。

6章18節「わたしはあなたと契約を立てる。あなたは妻子や嫁たちと共に箱舟に入りなさい。また、すべて命あるもの、すべて肉なるものから、二つずつ箱舟に連れて入り、あなたと共に生き延びるようにしなさい」。

7章13節「まさにこの日、ノアも、息子のセム、ハム、ヤフェト、ノアの妻、この三人の息子の嫁たちも、箱舟に入った。彼らと共にそれぞれの獣、それぞれの家畜、それぞれの地を這うもの、それぞれの鳥、小鳥や翼のあるものすべて、命の霊をもつ肉なるものは、二つずつノアのもとに来て箱舟に入った。神が命じられたとおりに、すべての肉なるものの雄と雌とが来た」。この「来た」が「入った」という意味です。

ここで大切なことは、ノアが自分で決心して、箱舟に入ったのではない。神が箱舟に入るよう招いておられることです。神の招きに応じて、ノアとその家族、動物が箱舟に入ったのです。神が招かれなければ、ノアは箱舟に入ることをしなかったのです。「ノアの箱舟物語」は教会学校の子どもたちも好きな物語です。聖書物語の絵本、紙芝居を通しても語られます。それを見ながら思うことがあります。神は地上に生きる一人一人に、箱舟に入るよう招かれたのではないか。しかし、誰一人として神の招きに従わなかったのです。神の招きに応じたのは、ノアと家族、動物だけでありました。

 

3.①神はノアに箱舟を造るよう命じられました。しかも小さな箱舟ではありません。破格の大きさの箱舟です。「箱舟」とは一体何を表しているのでしょうか。神はノアに箱舟の設計図まで示されています。6章15節。

 「箱舟の長さを三百マンマ、幅を五十アンマ、高さを三十アンマ」。「一階と二階と三階を造りなさい」。

 メートルに直せば、長さ135メートル、幅22.5メートル、高さ13.5メートルです。破格の大きさです。何故、神はこんなにも大きな箱舟を造るよう命じられたのでしょうか。旧約聖書にエゼキエル書があります。預言者エゼキエルが語った御言葉です。エゼキエルは元々、エルサレム神殿の祭司でした。神の民にとって神殿は神が御臨在され、神を礼拝する信仰の心臓部でした。しかし、戦いによりエルサレム神殿は破壊されました。神の民の信仰の砦を失いました。神の民は異教の地バビロンに捕囚の民として連れて来られました。その中にエゼキエルもいました。エゼキエルは神から幻を見せられました。新しいエルサレム神殿の設計図です。エゼキエル書40~42章に記されています。新しいエルサレム神殿の設計図とノアの箱舟の設計図が、驚くべきことに同じ大きさなのです。ノアの時代に起きた洪水の出来事、箱舟の物語は、伝えられて行き、二つの時代にまとめられ、その二つの物語が合わさって、今日の物語となったと言われています。その一つの時代が捕囚時代であったのです。ノアの洪水物語、箱舟物語が捕囚時代と重ね合わさって読まれて来ました。戦争、敗戦、捕囚という洪水が神の民に押し寄せて来たのです。洪水の期間が二つ語られています。一つは「40日間」です。40という数字は試練を表します。もう一つは「150日間」です。150日間という数字は、70年に及ぶバビロン捕囚を表す数字でもあります。

 そのような時代に、神は箱舟に入りなさいと招かれているのです。箱舟とは捕囚時代で言えば、新しいエルサレム神殿を表しています。そして今日では、教会を表しています。神の箱舟です。私が以前伝道していた伊勢の教会堂は箱舟のような形をしていました。ノアの箱舟のようだねと言われていました。私どもが生きる世界は、様々な荒波が洪水のように押し寄せ、私どもの命を呑み込もうとしています。私どもを滅ぼすとしています。しかし、神は私どもに向かって、箱舟に入りなさいと招いておられるのです。神の箱舟である教会に入りなさいと招いておられるのです。この物語が基になって生まれ、教会に受け継がれて来た大切な言葉があります。「教会の外に救いはない」。言い換えればこういう意味です。神はあなたが滅びることを願われない。救われることを願っておられる。それ故、神はあなたに呼びかけ、招いておられる。「神の箱舟・教会に入りなさい」。「わたしのもとに来なさい」。

 7章16節にこう語られています。「主は、ノアの後ろで戸を閉ざされた」。

 ノアが箱舟の戸を閉めたのではありません。神が箱舟の戸を閉められたのです。神が箱舟の戸を閉められなければ、箱舟の中にまで洪水が押し寄せて来たのです。神が箱舟に入るよう招かれ、神が箱舟の戸を閉ざされたから、ノアとその家族、動物が救われたのです。

 

「神の箱舟物語」「神の洪水物語」で大切な役割を担っているのは、ノアです。ノアをこのように紹介しています。「その世代の中で、ノアは神に従う無垢な人であった。ノアは神と共に歩んだ」。「無垢」というのは、神に対して真っ直ぐな人という意味です。以前の聖書では、「義しい人」「義人」と訳されていました。何の破れもない完全無欠な人という意味ではありません。神との関係において破れがない、健やかな関係にある人という意味です。しかし、ノアの家族については、ノアと同じように神に従う無垢な人、神と共に歩んだとは紹介されていません。箱舟の外にいた人々と同じ、罪の中にあったのではないか。箱舟の外にいた人々を代表しているとも言えます。

 神の箱舟の中に、神に従う無垢な人、神と共に歩んだ人・ノアが神に招かれて、いたということが、人類の救いにとって大きな出来事でした。8章1節で、「神はノアを御心に留められた」とあります。「御心に留める」という言葉は、「想い起こす」という意味です。聖書が語る大切な言葉です。神はただ一人の義しい人ノアを想い起こされた。それ故、ノアとその家族、動物を滅ぼされなかった。「神が想い起こされた」。この神の御業が、滅びから救いへの転換点となりました。

 ノアは箱舟を出て真っ先に行ったのは、主のために祭壇を築き、焼き尽くす献げ物を祭壇の上にささげ、神を礼拝しました。主はその宥めの香りをかがれ語られました。「わたしは二度と生き物をことごとく打つことはすまい」。神の回心が起こりました。

神は洪水によって、自らが造られた人間を審かれ、滅ぼされました。しかし、神は人間を全て滅ぼされたのではありませんでした。神の厳しい審きを潜り抜けて、義しい人・ノアとその家族、動物の僅かな者が生き延び、救われました。生き延びた僅かな者を通して、神は新しい救いの御業を行われる。

旧新約聖書が一貫して強調する「残りの者の信仰」です。それが「神の箱舟物語」「神の洪水物語」で語られている主題なのです。7章23節でこう語られています。

 「地の面にいた生き物はすべて、人をはじめ、家畜、這うもの、空の鳥に至るまでぬぐい去られた。彼らは大地からぬぐい去られ、ノアと、彼と共にいたものだけが残った」。

 

4.①主イエスがノアに触れている御言葉があります。ルカ福音書17章25節。(新約143頁)。

「しかし、人の子はまず必ず、多くの苦しみを受け、今の時代の者たちから排斥されることになっている。ノアの時代にあったようなことが、人の子が現れるときにも起こるだろう。ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていたが、洪水が襲って来て、一人残らず滅ぼしてしまった」。

 「人の子」とは、終わりの日に来られる救い主です。主イエス御自身です。人の子が現れる時、ノアの時代にあったような洪水の出来事が起こると、主イエスは語られました。「人の子はから必ず、多くの苦しみを受け、今の時代の者たちから排斥されることになっている」。主イエスの十字架の出来事を指し示した御言葉です。主イエスの十字架の出来事は、神の審きという大洪水の出来事であったのです。

 バビロン捕囚の時代に語られたイザヤ書54章7~10節の御言葉があります。(旧約1151頁)。預言者第二イザヤが語った御言葉です。

「わずかの間、わたしはあなたを捨てたが、深い憐れみをもってわたしはあなたを引き寄せる。ひととき、激しく怒って顔をあなたから隠したが、とこしえの慈しみをもってあなたを憐れむと、あなたを贖う主は言われる。

 これは、わたしにとってノアの洪水に等しい。再び地上にノアの洪水を起こすことはないと、あのとき誓い、今またわたしは誓う。再びあなたを怒り、責めることはない、と。

 山が移り、丘が揺らぐこともあろう。しかし、わたしの慈しみはあなたから移らず、わたしの結ぶ平和の契約が揺らぐことはないと、あなたを憐れむ主は言われる」。

 神の民にとって信仰の砦であるエルサレム神殿は破壊され、国は滅亡した。遠い異郷の地バビロンの地で、70年に及ぶ捕囚生活を強いられた。それはノアの時代の洪水に等しい、神の審きの出来事であった。しかし、神は再び地上にノアの洪水を起こすことはないと、あのとき誓い、今またわたしは誓うと語られる。山が移り、丘が揺らぐこともあろう。しかし、わたしの慈しみはあなたから移らず、わたしの結ぶ「平和の契約」が揺らぐことはないと、あなたを憐れむ主は言われる。「平和の契約」とは、神が全人類の代表としてノアと結ばれた「永遠の契約」「虹の契約」を指し示しています。神が一方的に結ばれた「憐れみの契約」でした。

 

1961年4月2日の復活祭に、カール・バルトという伝道者が、バーゼルの刑務所で、囚人に向かって語られた説教があります。イザヤ書54章7,8節を説き明かした説教です。

 私は神に捨てられたのではないかという恐怖の中にある囚人に向かって、バルト自らも、私も神に捨てられたと感じたことが繰り返しあったし、今でもあると告白します。私ども人間の闇の現実の中で、この御言葉を聴くのです。

「わずかの間、わたしはあなたを捨てたが、深い憐れみをもってわたしはあなたを引き寄せる。ひととき、激しく怒って顔をあなたから隠したが、とこしえの慈しみをもってあなたを憐れむと、あなたを贖う主は言われる」。

 この御言葉こそ、私どもの代わりに十字架に立たれ、甦られたキリストを証言している。主イエスは滅ぶべきわれわれ罪人に代わって、わずかの間、十字架上で神の怒りを受け、神から捨てられ、滅びを身に受けられた。「わが神、わが神、なぜ、わたしをお見捨てになられたのですか」。しかし、神は深い憐れみをもって主イエスを引き寄せ、とこしえの慈しみをもって、憐れまれ、甦らされた。ただ一人の義人・主イエスが、滅ぶべきわれわれに罪人代わって、神の審き、神の大洪水を身に受けて下さり、滅びを味わわれた。ノアの洪水の出来事は、将に主イエスの十字架の出来事となって、最も厳しい、激しい、怒濤の神の審きとなって起こったのです。しかし、主イエスこそ十字架で、神の宥めの献げ物となり、神の怒りを宥められた。それ故、われわれ罪人は神から捨てられ、滅びを味わうことはない。神のとこしえの憐れみの中に入れられているのである。

 教会はキリストの十字架の上に立つ神の箱舟なのです。ただ一人の義人・主イエスの十字架と甦りの出来事によって、神に招かれ、憐れみを受け、滅びから救い出された罪人の交わりなのです。それ故、神は今、私ども一人一人に向かって招かれておられるのです。

「神の箱舟に入りなさい。わたしのもとに来なさい」。

 

 お祈りいたします。

「われわれ罪人が生み出す洪水が怒濤のように、私どもの押し寄せ、呑み込もうとしています。神の審きの洪水でもあります。神よ、われらを助けて下さいと叫ぶ私どもです。しかしただ、一人の義人・主イエスが十字架の上で、神の審きの大洪水を身に受けて下さったのです。この主の憐れみにより、私どもは神の箱舟に招かれ、救いの中に入れられたのです。この主の憐れみの呼びかけを、私ども教会を通して、世界に生きる一人一人に伝えさせて下さい。神の箱舟に入りなさい。主のもとに来なさい。

 この祈り、私どもの主イエス・キリストの御名により、御前にお捧げいたします。アーメン」。

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