「神の言葉はつながれない」
イザヤ49:14~16
テモテ二2:1~13
主日礼拝
井ノ川 勝
2023年10月29日
1.①私ども人間の性質の一つに、物事を忘れることがあります。何故、人間は記憶したことを忘れるのか。その原因は恐らくまだ解明されていないのではないでしょうか。学生時代、テストの時によく思ったものです。記憶したことを忘れなければ、テストの点数がもっと良かったのに。そういう失敗を何度も繰り返して来ました。
しばしば言われることがあります。忘れることも恵みなのだ。私どもが人生で経験した嫌なこと、辛いこと、悲しいこと、それら全てを憶えていたら、私どもは生きては行けない。しかし同時にこうも言えます。私どもは決して忘れてはならないことを忘れてします。それは罪ではないか。歴史の中で人間が犯して来た罪があります。それを忘れてしまう。無かったことにしてしまう。忘却は罪ではないか。
忘却、忘れてしまうことの反対は、想起、想い起こすことです。私どもは忘れてはならないこと、想い起こさなければならないことがあります。忘却と想起。これは聖書が私どもに語りかける一つの大きな主題でもあります。
今、連日のように、イスラエルとハマスの終わりの見ない報復攻撃による悲惨な場面が映像で映し出されています。瓦礫の下から助け出された女の子が、大粒の涙を流し、叫んでいます。「お母さんはどこにいるの」。人間の残虐な罪によってもたらされた戦争体験を想い起こす度に、心の傷は深まります。人間の罪、心的痛み、悲惨な現実を、真実に担って下さる神を想い起こすことなくして、私どもは人間の罪、悲惨な現実と向き合うことは出来ません。
②本日は宗教改革記念日です。私どもプロテスタント教会の信仰のルーツが、宗教改革の信仰にあります。宗教改革の信仰とは何でしょうか。それは誠に単純に言えば、聖書の中に福音を発見したということです。聖書の中に主イエス・キリストという福音を発見した。主イエス・キリストという恵みを新たに発見したということです。
この朝、私どもに与えられた御言葉は、伝道者パウロが獄中から若き伝道者テモテに宛てた手紙です。伝道者パウロは若き伝道者テモテに、こう呼びかけています。
「キリスト・イエスの立派な兵士として、わたしと共に苦しみを忍びなさい」。
伝道者として生きること。それはキリストの兵士となることです。私をキリストの兵士として召集し、立てて下さった指揮官キリストに喜んでお仕えすることです。指揮官キリストの心をわが心として歩むことです。キリストの兵士である以上、どんな苦しみにも耐え抜く強さが必要です。しかし、キリストの兵士としての強さは、自分で鍛錬して強くなるのではありません。伝道者パウロは語ります。
「そこで、わたしの子よ、あなたはキリスト・イエスの恵みによって強くなりなさい」。
ただキリストの恵みによって強気なる。キリストの恵みを全身に浴びて、キリストの恵みを知り、キリストの恵みに生かされることです。
キリストの兵士として生きる。これは何も伝道者だけのことではありません。私どもが洗礼を受け、キリスト者となることは、キリストの兵士にされることです。教会はキリストによって召集されたキリストの兵士の集まりです。これは宗教改革者が重んじた信仰です。キリストの兵士とされることは、様々な戦いがあるからです。異教の地、日本でキリスト信仰に生きることは、様々な戦いがあります。キリストを伝える伝道に生きることは、様々な戦いがあります。キリストの恵みにあぐらをかいていれば、それでよいというものではありません。
1954年版の讃美歌から新しい讃美歌、讃美歌21になった時に、一つの特徴がありました。それはキリストの兵士の讃美歌、戦いの讃美歌が無くなったということです。現代において、勇ましい讃美歌は好ましくないと編集者は考えたのかもしれません。そのことで象徴されるように、今日の教会は昔の教会に比べ、キリストの兵士として、キリストと共に戦って生きる信仰が失われてしまい、弱体化しているとすれば、これは大きな問題です。
キリストの兵士の群れとして生きることは、ただ勇ましければそれでよいということではありません。戦う信仰というのは、相手をやっつけるということではありません。指揮官キリストに喜んで従うことです。キリストを喜んで証しし、伝えることです。キリストの恵みによって強くなることです。そのために、キリストの恵みを全身で浴びて、キリストの恵みを深く知り、キリストの恵みによってのみ生かされるのです。
2.①キリストの恵みによって強くされるとは、どういうことなのでしょうか。伝道者パウロは語ります。
「イエス・キリストを思い起こしなさい。これがわたしの福音です」。
「福音」という言葉も戦いから生まれた言葉です。戦場から指揮官から伝言を託された伝令者が、故郷の町で待つ仲間のところへ、ひたすら走ります。足は泥まみれです。しかし、伝令者が運ぶ伝令に町の人々の命運が懸かっています。「おーい、私たちは勝った」。その知らせを聞いた町の人々は歓声を上げ、喜び踊ります。伝令者が伝える喜びの知らせを「福音」と呼びました。そして福音を伝える伝令者を「福音伝令者」「福音伝道者」と呼ぶようになりました。
伝道者パウロが語る「これがわたしの福音」。それは、「イエス・キリストを思い起こす」ことです。どんな時にも、福音であるイエス・キリストを想い起こし、決して忘れないことです。福音であるイエス・キリストは、ダビデの子孫から生まれ、私どもと同じ人間となって下さった方です。私どもの罪、苦しみ、悲しみ、あらゆるものを担って下さった真の人です。そして死者の中から復活され、死に打ち勝たれた救い主、真の神であられる方です。
主イエス・キリストは真の神であり、真の人。これが教会が福音として伝えて来たことです。
パウロは今、牢屋に入れられ、鎖に繋がれています。伝道者にとっては、福音であるキリストを、もはや伝えられない絶体絶命の窮地に陥ったことになります。しかし、パウロは権力者に捕らえられた囚人となったとは語っていません。1章で、「わたしは主の囚人である」と語ります。主キリストに捕らえられた囚人であると語ります。そして更に、パウロは語ります。
「福音のためにわたしは苦しみを受け、ついに犯罪人のように鎖につながれています。しかし、神の言葉はつながれていません」。
驚くべき言葉です。福音を伝える伝道者を鎖に繋いでも、神の言葉を鎖に繋ぐことは出来ない。神の言葉はどんな権力者の手によって、縛られることはない。神の言葉、福音の音色を、あらゆる手立てを用いても、かき消すことは絶対に出来ないのです。
②私ども伝道者、キリスト者は神の言葉、福音の鎖に繋がれた主の囚人です。そこにどんな力にも捕らえられない、真実の自由と解放があるのです。様々な力から解き放たれて生きる自由、喜びがあるのです。
私どもは日々の生活において、自由に生きていると思っています。しかし、実は、諸々の霊に縛られて生きています。自分の人生に次から次へと不幸が起こる。目に見えない悪しき霊が私の人生を握っていて、不幸、不幸へと導く。そこから抜け出したいともがいても、どうすることも出来ない。あなたの運命はもう決まっているのだから、ただ諦めるしかない。運命の霊が私どもを縛り付けている。
或いは、あなたの家にこのような不幸が起きたのは、何か原因があるからだ。その原因を突き止めて、除去しなければ、あなたの家は不幸から免れることは出来ない。因果応報の霊が私どもを縛り付けます。また、占いの霊が私どもの運命を左右します。
しかし、神の言葉に私どもが捕らえられると、もはや運命の霊、因果応報の霊から私どもは解放される。神の言葉、福音が私どもを捕らえ、生かし、真実の解放、喜びを与えて下さるからです。
1933年、ドイツでヒットラーが政権を獲得しますと、多くの教会がヒットラーに迎合しました。そこで語られる神の言葉は鎖に繋がれたような状態になりました。それに対し、1934年、ヒットラーに反旗を翻す者たちが集まり、ドイツ告白教会を結成し、ヒットラーに否を唱え、私たちの教会が拠って立つ信仰、福音を明らかにしました。「バルメン宣言」という6箇条から成る短い神学的宣言を表明しました。その冒頭で、「これがわたしたちの福音」であることを表明しました。
「ドイツ福音主義教会(プロテスタント教会)の侵すことのできない基礎は、聖書においてわれわれに証しされ、宗教改革の信仰告白において新しく示されたイエス・キリストの福音である。教会がその使命のために必要とする一切の権限は、この事実によって規定され、かつ制限されている」。
そして「バルメン宣言」の第1箇条はこのように告白されています。
「聖書においてわれわれに証しされているイエス・キリストは、われわが聴くべき、また生きているときにも、死ぬときにも、信頼し、服従すべき、唯一の神の言葉である」。
更に最後の第6箇条で、このテモテへの手紙二2章9節の「神の言葉はつながれていません」が引用され、「神の言葉は、永遠に変わることはない」という言葉で結ばれています。
様々な時代に、時の権力者は神の言葉を鎖に繋ごうとします。しかし、教会は、神の言葉は繋がれないという信仰に堅く立って歩んで来たのです。
3.①牢屋の中で、鎖につながれた伝道者パウロは、しかし、神の言葉はつながれない、私は神の言葉にだけ繋がれていると確信し、一体何をしていたのでしょうか。讃美歌を歌ったのだと思います。使徒言行録16章で、伝道者パウロはアジア州の伝道に失敗し、挫折しました。教会が立てた伝道計画がことごとく阻まれました。伝道に行き詰まっていた時、聖霊に導かれ、思い掛けない伝道の道が拓かれました。エーゲ海を越えて、初めてヨーロッパ大陸に渡り、ヨーロッパ伝道の道が拓かれました。最初に辿り着いたのは、フィリピの町でした。ところが伝道者パウロが語る福音は、占いの霊に取り憑かれていた女占い師が語る占いとぶつかりました。パウロが語る福音が広がったら、占い師は金儲けが出来なくなるとの危機感から、町の人々を扇動し、パウロたちを捕らえ、牢屋に入れてしまいました。
ところが、真夜中、パウロとシラスは牢屋の中で、讃美歌を歌いました。そこから看守とその家族全員が洗礼を受けるという伝道の扉が開かれました。
絶対絶命の窮地に陥る中で、しかし、そこから伝道の道が拓かれたのです。
伝道者パウロはこの時も、牢屋の中で、讃美歌を歌ったと思います。それこそが、神の言葉は繋がれない、私は神の言葉だけに繋がれている信仰の確信であったのです。「次の言葉は真実です」と語って、引用した言葉は、最初の教会が礼拝で歌っていた讃美歌だと言われています。洗礼式の時に歌った讃美歌ではないかとも言われています。あるいは、殉教の死を遂げる時に歌った讃美歌とも言われています。
「わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きるようになる。
耐え忍ぶなら、キリストと共に支配するようになる。
キリストを否むなら、キリストも否まれる。
わたしたちが誠実でなくても、キリストは常に真実であられる。
キリストは御自身を、否むことができないからである」。
私どもは洗礼において、キリストと共に古い人間が十字架につけられ、死にました。しかし、キリストと共に新しい人間として甦らされました。洗礼を受けた後も、様々な力が私どもを縛り付けようとします。しかし、キリストと共に耐え忍ぶなら、キリストと共にあらゆる力を支配するようになる。私どもがキリストを否むなら、キリストも私どもを否まれる。それは滅び以外の何ものでもない。たとえ私どもは誠実でなくても、キリストは常に真実であられる。キリストは御自分を否むことも、偽ることも出来ない。
この讃美歌の中で、特に注目すべき言葉は、この言葉です。
「たとえわたしたちが誠実でなくても、キリストは常に真実であられる」。
「誠実」という言葉と、「真実」という言葉は同じ言葉です。「信仰」「信頼」「確実」という意味でもあります。「たとえ私たちが不真実であっても、キリストは常に真実であられる」。私どもの信仰には真実なものはない。いつも不真実、不信仰です。私どもの内には信仰の確かさなどないのです。昨日も、ある方が電話をして来られました。自分の中に信仰の確かさなど全くない。このような私でも救われるのでしょうか。切実な問題です。
しかし、キリストは常に真実であられる。信仰深くあられる。キリストの内にこそ信仰の確かさがある。私どもの不真実、不信仰は、ただキリストの真実に支えられ、担われているのです。私どものキリストを握る信仰の握力は弱まるのです。苦しいこと、辛いことがあると、キリストを握っていた手を離してしまうのです。しかし、キリストが私どもを握る信仰の握力、真実の握力は決して弱まらない。絶対に私どもを離されない。死んでも離すことはないのです。
②ルターが聖書の中に福音を発見した。聖書の中にキリストを新しく発見した。そこから宗教改革が始まりました。その大切な御言葉となったのが、ローマの信徒への手紙3章21節です。
「ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません」。
ルターが強調した、私どもが救われるのは、行いによるのではない。ただキリストを信じる信仰によってのみ救われる。この御言葉はもう一つの訳の可能性があります。新しい聖書翻訳、聖書協会共同訳はこう訳しました。
「神の義は、イエス・キリストの真実によって、信じる者すべてに現されたのです」。
私どもが救われるのは、キリストを信じるという私どもの信仰でもない。ただキリストの真実が、不真実な私どもを救うのである。ただ信仰のみで救われる。それは言い換えれば、ただキリストの恵み、真実によってのみ救われるのです。それがこの讃美歌で歌われているのです。
「たとえわたしたちが不真実であっても、キリストは常に真実であられる」。
4.①先週の主の日、浜松の遠州教会の伝道開始100周年の記念礼拝で説教をしました。コロナ禍でありましたので、礼拝後、愛餐会のお祝い会は出来ませんでした。代わりに何をしたかと言いますと、私が伊勢の山田教会で伝道している時に書きました『信仰生活の手引き 教会』を丁寧に読んで下さり、その感想、質問に私が答えることを通して、伝道開始100周年のお祝い会としました。とても感動しました。改めて伊勢伝道を語る機会となりました。
伊勢の町には天照大神という日本人の神さまが祀られているのだから、宮川から耶蘇を一人たりとも入れてはならず、という血書誓約が結ばれたこの町に、キリストという福音を運んだのは、伊勢出身で、大阪教会で洗礼を受けた渡部フミという女性信徒でありました。伊勢伝道は困難を極めましたが、伊勢神宮の外宮の前に土地を得、そこに教会堂を建て、屋根に十字架を立てようとした。ところが、町の人々は十字架を立てることは許さなかった。伊勢神宮の前に十字架を立てるとは何事か。そこで軒瓦に十字を刻み、ここにキリストの教会があることを証しした。十字瓦の教会と呼ばれるようになった。このような伝道の戦いは、伊勢伝道だけでなく、北陸伝道でも、日本の各地の伝道でも起きたことです。伝道の行き詰まりにぶち当たった時、教会は何をしたのか。讃美歌を歌い続けたのです。讃美歌を通して、キリストという福音を証ししたのです。それがこの讃美歌です。
「わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きるようになる。耐え忍ぶなら、キリストと共に支配するようになる。キリストを否むなら、キリストもわたしたちを否まれる。たとえわたしたちが不真実であっても、キリストは常に真実であられる。キリストは御自身を、否むことができない」。
②ある神学者がこういうことを語っています。私どもがすぐに忘れてはならぬものを忘れてしまうのは、記憶力の問題ではない。私という人間全体の問題、取りも直さず心の問題、罪の問題である。私どもの忘却を阻止するものは、ただ神の愛、神の真実しかないとし、イザヤ書49章14~16節の御言葉を指摘します。
「シオンは言う。主はわたしを見捨てられた。わたしの主はわたしを忘れられた、と。女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。母親が自分の産んだ子を憐れまないであろうか。たとえ、女たちが忘れようとも、わたしがあなたを忘れることは決してない。見よ、わたしはあなたを、わたしの手のひらに刻みつける」。
この預言者第二イザヤの言葉は、パウロが歌った讃美歌と響き合います。「たとえ、私たちが不真実であっても、キリストは常に真実であられる」。預言者第二イザヤの言葉は、一体どのような時代に語られた言葉なのでしょうか。神の民イスラエルが、新バビロニア帝国によって滅ぼされ、バビロンの地に捕囚の民として連れて行かれた、バビロン捕囚の時代でした。神の民は叫びました。「主はわたしを見捨てられた。わたしの主はわたしを忘れられた」。しかし、主は語られます。「女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。母親が自分の産んだ子を憐れまないであろうか。たとえ、女たちが忘れようとも、わたしがあなたを忘れることは決してない。見よ、わたしはあなたを、わたしの手のひらに刻みつける」。
主なる神は私どものように忘れる神ではあられません。御自分が造られたものを忘れるようなことはありません。いつも私どもを想い起こして下さる。神の手のひらに、わたしを刻みつけて下さる。それこそが主イエス・キリストの十字架の出来事であったのです。主なる神が御子イエス・キリスト故に、私どもをいつも想い起こして下さる。この神の真実に支えられて、私どももどんな時でも、主イエス・キリストを想い起こすことが出来る。「たとえ私たちが不真実であっても、キリストは常に真実であられる」と、讃美歌を歌う群れに生きることが出来るのです。
③宗教改革記念礼拝で、宗教改革者たちが重んじた御言葉と共に、聖餐に与ります。主イエスは最後の晩餐の席で、こう言われました。「これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい」。「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい」。
主イエスが繰り返される「わたしの記念として」。この言葉こそ、主イエス・キリストを想い起こす、想起する食卓であるのです。
お祈りいたします。
「忘れてはならない大切なものを忘れる私どもです。想い起こさなければならない大切なものを想い起こせない私どもです。私どもの罪、不真実です。更に、主イエス・キリスト、キリストの真実です。御言葉によって、讃美歌によって、聖餐によって、私どもの不真実、キリストの真実を想い起こさせて下さい。たとえ私どもが不真実であっても、キリストは常に真実であられる。この信仰の賛美に生きる群れとさせて下さい。
この祈り、私どもの主イエス・キリストの御名により、御前にお捧げいたします。アーメン」。