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「神は気前がよい」

イザヤ56:1~8
マタイ20:1~16

主日礼拝

井ノ川勝

2024年10月13日

00:00 / 39:45

1.①皆さんの友人、知人の中に、気前のよい方がおられると思います。私にも気前がよい先輩伝道者がいます。私のために惜しげもなく時間を割いて下さり、悩みを聞いて下さり、助言をして下さる。さあ食事をして元気を出しなよと励まして下さる。そのような気前のよい方に接しますと、元気が与えられます。気前がよい。惜しげもなく与えて下さることです。

 実は、主イエスが父なる神を表す時に用いておあれる言葉なのです。神は気前がよい。面白い言葉です。ところが気前がよい神に触れた時、人々は喜んだのではありません。元気が与えられたのではありません。躓いたのです。

 私が伊勢の教会で伝道していた時、毎月、伊勢友の会の聖書の学び会のために、友の家に出かけていました。毎回、10名程の婦人が集まります。教会員もいれば、まだ礼拝に出席されたことのない方もいました。30年、毎月行っていましたので、聖書の様々な御言葉に触れました。私どもが今朝、聴いたこの主イエスの譬え話も何度も触れました。この御言葉に触れる時に、いつもこのような感想がありました。主イエスが語られた他の譬え話は分かる。しかし、この譬え話だけはどうしても分からない。気前のよい神に躓くのだと言われるのです。皆さんは、どのような感想を持たれたでしょうか。

 

譬え話の内容は、詳細な説明を加えなくても、よく分かるものです。ぶどう園の主人が労働者を雇うため、何度も広場に足を運び、ぶどう園に送り出しています。夜明け前から働いた者、午前9時、昼の12時、午後3時、夕方5時から働いた者。やがて一日の労働が終わり、最後に来た者から初めて、最初に来た者に至るまで賃金が支払われました。夕方5時から1時間しか働かなかった者に、1デナリオンの賃金が支払われた。他の労働者も同じ1デナリオンであった。夜明け前から働いた者はもっと多くもらえると思っていたが、やはり1デナリオンであった。夕方から1時間しか働かなかった者と、夜明け前から12時間、暑い中辛抱して働いた者と、同じ賃金であったことに、僕が主人に対して不平をぶつけた譬え話です。

 誰もが夜明け前から一日働いた僕の思いに、共感を示します。働いた時間に対して、それにふさわしい報いがあることは当然ではないか。この僕が怒るのはもっともなことではないか。「あなたは何故、夕方1時間しか働かなかったこの連中と、私どもとを同じ扱いにするのか」。不公平ではないか。もしこの論理を社会の中で行ったら、私どもが生きている社会は成り立たなくなるではないか。僕の言い分はもっともなところがあります。

 しかし、主イエスはこの譬えを語るに対し、こういう言葉から始めました。

「天の国は次のようにたとえられる」。ここで語られているぶどう園の話は天の国の話なのだというのです。言い換えれば、天の国を映し出している教会の話であるということです。私どもが生きている社会の論理とは、天の国の論理とは全く異なると、主イエスはこの譬えで語られているのです。私どもが生きている社会の論理をひっくり返すような論理に、天の国を支配する神は生きておられるのです。それを言い表す言葉こそが、「神は気前がよい」です。

 

2.①このぶどう園の主人は、明らかに神を表しています。主人に雇われたぶどう園の労働者は、私どもを意味しています。私どもの一人一人が、神に招かれ、雇われ、仕える時間が異なっているのです。早い者もいれば、遅い者もいます。私ども一人一人に、神はどのように接して下さるのか。私ども一人一人の働きに対する神の報いとは、どのようなものなのか。私どもは社会において、自分の働きに対して報いを受けます。評価を受けます。しばしば正しく報われていない、評価されていないと、不満を持ちます。しかし、神は私どもに対して、どのような報い、評価をされるのか。それがこの譬え話と主題となっています。

 主イエスが語られたこの譬え話の中心は、何と申しましても、朝早くから働いた僕と主人との対話にあります。僕は主人から渡された一日分の賃金1デナリオンを手に握り締めて、怒って、主人に不平をぶつけました。

「最後に来たこの連中は、1時間しか働きませんでした。まる1日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは」。

 僕はいつも交わしている「御主人さま」という呼びかけをしていません。1時間しか働かなかった者たちを、「この連中」と何度も呼び捨てています。

蔑んでいます。この連中と丸1日働いた私どもとを、同じ扱いにした主人に対する怒りが込められています。それに対して、応えた主人の言葉が、この譬えの中心です。

「友よ」。主人は「御主人さま」という呼びかけをせず、怒りをぶつけた僕に対しても、「わたしの友よ」と呼びかけています。「あなたはわたしの大切な友なのだ」と呼びかけるのです。神は私ども一人一人を呼びかける神です。私どもが神へ呼びかけることを忘れても、神は私どもを呼びかけて下さいます。呼びかける言葉を大切にされる神です。「わたしの友よ」。

「友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと1デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい」。主人は1日、1デナリオンの約束、契約を交わして、ぶどう園に雇いました。朝早くから働いた者も、夕方1時間しか働かなかった者も、1デナリオンの約束でぶどう園で雇いました。主人は約束を破ってはいません。契約に不正をしていません。約束通りに1デナリオンの賃金を支払いました。そして主人は最後にこう語りかけるのです。主人の思い、神の思いが表れている言葉です。

「わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。自分のものを自分のしたいようにしては、いけないのか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか」。

 「わたしの気前のよさに、何故、あなたは妬むのか。何故、躓くのか」。神は逆に、私ども一人一人に問いかけておられるのです。

 私どもが考える公平さ、平等、私どもが生きる社会が考える公平さ、平等と、神が考えられる公平さ、平等とは、決定的に異なっています。私どもは自分の働きに対して、働いた時間に対して、報酬が与えられる。それは公平であり、平等と考えます。ところが、神は私どもの働き、働いた時間を超えて、全ての者に同じ報酬を与えられる。そこに神の公平さ、平等を見ておられるのです。

 

主イエスが語られたこの譬え話で、私どもが注目すべきは、何と申しましても、主人の行動です。神の行動です。主人は1日何度も何度も、繰り返し繰り返し、広場に出向いておられます。ぶどう園に労働者を雇うためです。夜明け前、午前9時、昼の12時、午後3時、そして夕方5時。恐らく、ぶどう園にはその日、ぶどうの手入れをするに十分な労働者が雇われているはずです。にもかかわらず、主人は何度も広場に足を運びます。夕方5時になっても足を運びます。何故なのでしょうか。広場に誰からも雇われず、1日立ち通しの者がいるからです。誰からも声をかけられなければ、生活出来ないのです。家族を養うことが出来ないのです。その日1日を生きる生活が懸かっているのです。恐らく、この僕は夜明け前から、夕方5時まで、誰からも声をかけられずに、広場で立ち続けていたことでしょう。それがどんなに厳しい、辛いことか。それを知っておられるから、主人、神は何度も何度も、繰り返し繰り返し、広場に出向かれるのです。「わたしの友よ、あなたもわたしのぶどう園で働いてほしい。1時間でもよいから働いてほしい」と呼びかけるためです。主人の呼びかけに、僕は大喜びであったことでしょう。「わたしにも働く場所が与えられている。たとえ1時間でも働ける。何と幸いなことか」。

 最後に主人から声をかけられた僕の喜びは、実は夜明け前に声をかけられた僕の喜びでもあったのです。ぶどう園の労働者の誰一人として、主人から呼びかけられなければ、1日広場で立ち通しであったからです。誰もが最後の者になる可能性があったのです。主人から呼びかけられた時、どの僕も、大いに喜んだはずです。その喜びは、ぶどう園の労働者に共通する喜びであったのです。その喜びを忘れてしまって、夕方1時間しか働かなかった者と同等に扱われることに、同じ報酬が与えられることに、腹を立てているのです。

 

3.①もう一度、この譬え話の中心聖句に、注目しましょう。

「わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。自分のものを自分のしたいようにしては、いけないのか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか」。

 元の言葉はこういう言葉なのです。

「わたしのよさを、あなたは悪い目で見るのか」。

元の言葉は「わたしのよさ」です。それを日本語の言い回しで、「わたしの気前のよさ」と訳しました。はっとさせられる訳ですね。心惹かれる訳です。神が神らしく最もよく振る舞われる時、私どもはそれを正しいまなざしで見ようとしない。悪い目で曲がって見てしまう。私どもは神の神らしさに躓くのです。神の気前のよさに躓くのです。わたしに対して、神が気前よく振る舞って下されば、わたしは満足します。ところが、他の人に対して、神が気前よく振る舞われると、私どもは腹を立てます。妬むのです。

 「妬む」という言葉が、「悪い目」という言葉から生まれたということは、面白いことです。澄んだ目が濁ってしまう。真っ直ぐな目が曲がってしまう。その時、妬みが生まれるのです。何故、妬みが生じるのか。自分と人とを比べるからです。自分の働きに対する報いと評価と、他の人の報いと評価を比べるからです。自分の報い、評価が高ければ、満足します。優越感に浸ります。ところが、自分よりも他の人の報い、評価が高ければ、素直に喜べません。妬みが生じます。悪い目で見てしまいます。怒りが生じます。

それは教会生活にも起こります。自分の信仰と他の人との信仰を比べます。自分の奉仕と他の人との奉仕を比べます。自分の信仰生活の長さと他の人の信仰生活の長さを比べます。わたしの信仰、奉仕に対して、わたしは正当に報われていない、正当に評価されていない。他の人と同じ扱いではないか、と腹を立ててしまいます。妬みが生じ、悪い目で見てしまいます。神の気前のよさに怒るのです。

 

主イエスが語られたこの譬え話で、夜明け前から働いた最初の者と、夕方1時間しか働かなかった最後の者とは、一体、誰を指しているのでしょうか。この御言葉を説き明かします説教者が、様々に解釈をいたします。夜明け前から働いた最初の者とは、天の国に一番近いと自誇していた律法学者、ファリサイ派の人々である。それに対し、夕方1時間しか働かなかった最後の者とは、天の国に一番遠いと言われていた罪人、徴税人である。また、最初の者とは、神に真っ先に選ばれたユダヤ人である。最後の者とは、神の選びから漏れた異邦人である。更に、最初の者とは、幼児の時から、お母さん、お父さんに連れられて教会に導かれ、洗礼を受け、長く教会生活を送られた者である。最後の者とは、人生の晩年に教会に導かれて、洗礼を受けられた方、短い時間しか教会生活を送れなかった者である。死を前にして、病床で洗礼を受けられ、僅かな時間しか信仰生活を送れなかった者である。いろいろな解釈が出来ると思います。

 一人一人、民族も異なれば、働きも異なり、信仰生活の長さも異なります。しかし、全ての人に共通していることがあります。神が気前のよい神でなければ、私どもは誰一人、ぶどう園、教会に導かれて、救われなかったということです。神が神らしく神のよさを自由に振る舞って下さらなければ、私どもは誰一人として、救われなかったということです。私ども全ての者が、神から声をかけられなければ、招かれなければ、ぶどう園、教会に導かれなかったのです。私どもがぶどう園で働くにふさわしい体力を持っていたからではありません。能力を持っていたからではありません。ただ神が呼びかけて下さった、ただ神が招いて下さった、ただ神の憐れみ、気前のよさによってのみ、私どもはぶどう園に招かれ、救われるのです。ここで私ども全ての者は、神から1デナリオンの報いを受けて、喜んで働くことが出来るのです。そこには何の差別もない。あるのは神の公平さ、平等です。神の公平さと平等に生きることが出来る。何と幸いなことでしょうか。そして主イエスは広場に立ち尽くしている私どもに声をかけるために、呼びかけ招くために、父なる神から遣わされたのです。

 

4.①この譬え話を通して、主イエスは私どもに問いかけておられます。「あなたは何故、何もしないで一日中ここに立っているのか」。誰からも声をかけられずに、夕方まで広場で立ち尽くしている。私は何のために生きているのか。私は何をするために生まれて来たのか。しかし、主イエスは呼びかけられるのです。「あなたもぶどう園に行きなさい。そこでわたしのために働いてほしい」。

更に、主イエスはぶどう園で働いている僕にも、問いかけられます。「あなたは何故、何事かを成し得たと思って高ぶるのか」。「あなたもどうか、最初の日を想い起こしてほしい。あなたも広場で立っていたではないか。あなたもぶどう園に行きなさい」と呼びかけられたではないか。その最初の神の呼びかけを新たにして、ぶどう園で働いてほしい。最後の者と共に喜んで働いてほしい」。

「あなたは何故、何もしないで一日中ここに立っているのか」。「あなたは何故、何事かを成し得たと思って高ぶるのか」。最後の者にも、最初の者にも、主イエスは何度も語りかけられるのです。最後の者も、最初の者も、神の気前のよさによってぶどう園に招かれて、救われ、働く者とされたのだ。神の気前のよい憐れみに、良い目をもって、ひたすら生きなさい。

 この譬え話は、とても重要な場面で語られました。この譬え話を語られた後、主イエスは三度目の受難預言をされました。わたしは十字架に架けられる救い主であることを三度、明確に語られました。そしてその後、21章で、主イエスは愈々、ろばの子に乗って、エルサレムに入られました。十字架へ向かってまっしぐらに進んで行かれました。エルサレムに入られる前に語られた最後の譬え話が、この御言葉であったのです。主イエスが十字架の死を意識されて語られた譬え話であったのです。

 

私が子どもの頃、祖母の部屋に入ると、額に掲げられた言葉が目の中に飛び込んで来ました。その言葉は聖書の言葉であったのです。祖母は家族の中で、唯一キリスト者であったからです。

「すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており」。

何度も繰り返し読みました。聖書の中で最初に覚えた御言葉です。どうもこの御言葉の後に続く言葉がありそうだ。そこでどんな言葉が続くのか、子どもながらに想像してみました。「すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており」、だから、「すべての人は神に審かれて、地獄に落ちて滅びる」という言葉が続くのではないかと想像しました。聖書の神は恐ろしい神、怖い神なのだと思い、体が震えました。

 私がこの聖書の御言葉の後の言葉を知ったのは、大学に入学してからでした。キリスト教大学に入学し、入学式で聖書を贈られました。毎日、行われる大学の礼拝に出席しました。大学に講義に来ていた牧師に誘われ、その牧師が牧会する教会の礼拝に出席するようになりました。自分でも聖書を読むようになりました。新約聖書の始めから読み始めて、ローマの信徒の手紙に辿り着きました。3章23節に、祖母の部屋の額の聖書の言葉を発見しました。「すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており」。ところが、その後に続く御言葉は、私が想像していた言葉ではありませんでした。「すべての人は神の審きを受けて、地獄に落ちて滅びる」ではなかったのです。「彼らは義とされる」、「彼らは救われる」とありました。驚きでした。「すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており」。そのような人間が何故、義とされる、救われるのか。二つの文章は相反する言葉で、繋がらないのです。この二つの相反する文章を繋ぐものこそ、この御言葉であったのです。

「彼らは、価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスのあがないによって義とされる」。

 主イエス・キリストの十字架の贖いの出来事です。主イエス・キリストが十字架で、罪を犯した全ての人のために身代わりとなって、神の審きを受け、死んで下さった。だからこそ、罪を犯した全ての人間が、ただ神の恵みにより、価なしに、何らの差別もなく、救われたのです。

 この譬え話を語られた主イエスは、私たちのために、十字架でいのちを捧げて下さったお方です。その主イエスが、夜明け前から働いた者も、夕方1時間しか働かなかった者も、ただ神の恵みにより、価なしに、何らの差別もなく、呼びかけ、ぶどう園へと招いて下さったのです。ただ主イエス・キリストの十字架の憐れみ、神の恵みによってのみ、私どもはぶどう園へ招かれ、教会に招かれ、救われるのです。今朝も、主イエスは私ども一人一人に近づかれ、呼びかけておられます。

「あなたもぶどう園に行って、わたしのために働きなさい」。

そこには1デナリオン以上の豊かな神の恵みの報酬があります。

 

 お祈りいたします。

「主よ、あなたが呼びかけて下さらなければ、私どもは一日中立ち尽くしていたものです。あなたが招いて下さったから、ぶどう園で働く喜びが与えられているのです。朝早くからの者も、夕方からの者も、全ての者が主のために1デナリオンという報酬が与えられる喜びの業が与えられているのです。あなたも主から呼ばれています。どうか、わたしのぶどう園、教会、天の国に招かれて、主のために働こうと。主の呼びかけに喜んで応える者を、起こして下さい。

 この祈り、私どもの主イエス・キリストの御名により、御前にお捧げいたします。アーメン」。

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