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「神は私たちと共におられる」

イザヤ書 11章1~5節
マタイによる福音書 1章18~25節

井ノ川 勝 牧師

2025年12月7日

00:00 / 38:29

2025.12.7. 「神は私たちと共におられる」

       イザヤ43:1~5a、マタイ1:18~25


1.①先週の主の日から、アドヴェントを迎えました。救い主の到来を受け入れる時を迎えています。アドヴェントを生きる私どもは、決断することが迫られています。

 私どもは人生において、重要な決断をする時があります。それは自らの生き方を変える大きな決断です。進むべき大学をどの大学にするかという決断があります。どのような仕事をすべるかという決断があります。人生を共に歩むパートナーへの決断があります。人生の終わりをどのように迎えるべきかの決断があります。そして私どもの信仰生活にとって大きな決断は、洗礼を受けるかどうかの決断です。いずれも、私どもの生き方を変える大きな決断です。しかし、私どもはしばしば、自らの決断はよかったのかどうか、後から悩み、後悔することがあります。そのような私どもに向かって、聖書は語りかけます。箴言16章9節、口語訳です。私がいつも心に留めている御言葉の一つです。

「人は心に自分の道を考え計る、しかし、その歩みを導く者は主である」。

 クリスマスの出来事は将に、この御言葉が起きた出来事でした。この御言葉を経験したのは、ヨセフでした。

 

アドヴェントを迎え、教会学校やキリスト教幼稚園、キリスト教学校では、キリスト降誕劇の練習をしています。教会学校、キリスト教幼稚園、学校では、無くてはならない行事です。そこにキリスト教保育、教育の特色が現れているからです。毎年、同じ台本です。しかし、私どもの心に感動を呼び起こします。神がキリスト降誕劇を通して、私どもに語りかけて下さるからです。

 私が以前、伝道、牧会していた伊勢の教会には幼稚園がりました。毎年、この季節になると、キリスト降誕劇の配役を年長組が決めます。園児がそれぞれ自分の成りたい配役を申し出て、重複したら話し合って決めます。いつも最後まで残るのがヨセフでした。目立たないヨセフは園児に人気がないようです。幼稚園の先生は、『やまあらしぼうやのクリスマス』『クリスマスのほし』などの絵本を読み聞かせながら、ヨセフの役をする園児が現れるのをひたすら待ちます。「ヨセフがいないと、クリスマスの劇は出来ないよね」。一週間経ち、二週間経ちます。どんどんキリスト降誕劇の日が近づいて来ます。でも毎年、必ず、「私、ヨセフをやってもよい」と、自分が決めていた役を止めて手を上げる園児が現れます。キリスト降誕劇において、ヨセフの役目が大切なのだと受け止めたからです。そこにクリスマスの恵みを見るのです。

 私どもは世界という舞台の上で、一人一人が使命を与えられて、自分の役目を演じながら生きています。しかし、しばしば私どもは自分の役割に不満を持ちます。私はもっと大きな役目を演じるべきなのだと思ってしまいます。私の今の役目は私にふさわしくないと思ってしまいます。

 大切なことは、世界の舞台の真ん中に、誰が立っているかです。私が世界の舞台の真ん中に立っているのでしょうか。私が世界の舞台の主人公なのでしょうか。それとも、目に見えない神さまが世界の舞台の真ん中に立っているのでしょうか。その神さまが送られた救い主イエスさまが、世界の舞台の真ん中に立っているのでしょうか。

 キリスト降誕劇には、様々な人が舞台に登場します。マリア、ヨセフ、羊飼い、羊、博士、星、宿屋の主人、ナレーターです。その一人が欠けても、キリスト降誕劇は成り立ちません。しかし、舞台の真ん中に立っているのは、赤ちゃんイエスさまです。赤ちゃんイエスさまには台詞がないのです。しかし、一人一人が赤ちゃんイエスさまから使命と役目を与えられて、舞台の上で、自分の役を演じているのです。その一人がヨセフです。ヨセフは私どもと重なり合うのではないでしょうか。

 

2.①キリスト降誕劇の台本は、マタイによる福音書とルカによる福音書から生まれました。それぞれの視点から救い主イエスさまの誕生の物語を語っています。ルカによる福音書は、マリアの視点から描いています。それに対して、マタイによる福音書は、ヨセフの視点から描いています。ヨセフはマタイによる福音書だけに登場します。しかも、救い主イエスさまの誕生の場面だけに登場します。クリスマスの出来事が終わると、舞台から静かに消えて行くのです。クリスマスの場面だけに登場し、自分の役目を終えると静かに消えて行くのです。ヨセフに与えられた使命と役目とは、一体何であったのでしょうか。

 ヨセフはマリアと婚約をしていました。結婚する日を待ち望んでいました。ところが、ヨセフにとって思い掛けない出来事に直面しました。婚約相手のマリアが身ごもったとの知らせが飛び込んで来ました。ヨセフは激しく動揺しました。マリアは他の男性と関係を持ったのではないか。疑い、不信、怒り、様々な感情が心の中で渦巻きました。

 ヨセフは正しい人でした。それは主の御言葉に生きていた。律法に生きていたということです。律法にこういう戒めがありました。婚約中の女性が他の男性と関係を持ったならば、公に訴えられて、人々の前で石を投げつけられ、死ななければならない。誠に厳しい戒めです。ヨセフはマリアを公に訴えることが出来た。マリアを裁くことが出来た。それはマリアの死を意味します。

しかし、ヨセフはマリアのことを表沙汰にすることを望ます、密かに離縁しようと決心した。マリアを公に訴えて、裁かず、密かに離婚しようと決断した。そうなれば人々のうわさが生じます。ヨセフは結婚前にマリアと関係を持ち、しかもマリアと離婚した。ヨセフは何とひどい男か。ヨセフはそのような厳しい不評を身に帯びてでも、マリアを守りたかった。マリアへの愛を貫きたかった。それがヨセフの決断でした。

 

しかし、主の天使が夢でヨセフに現れた。

「ダビデの子ヨセフ、恐れずマリアを妻に迎えなさい。マリアに宿った子は聖霊の働きによるのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである」。

 ヨセフは更に衝撃を受けました。これ以上ない衝撃を受けました。驚き以上に、畏れを感じました。マリアが宿した子は聖霊に働きによる。しかも身ごもった男の子は、イエスと名付けられ、ユダヤの民を罪から救う救い主である。

 「イエス」。「主こそわが救い」という意味です。ユダヤの民の長男に付けられる一般的な名前です。「イエス」と名付けられるということは、神の御子が真の人間となられたという出来事です。しかし、どうしても「イエス」と名付けられなければならなかった。「イエス」という名に、「罪から救い者」という意味が込められていたからです。

 それ故、マタイは「イエス」という名に込められた神の御心を明らかにします。

「このことが起きたのは、主が預言者を通して言われたことが実現するためであった。『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる』。これは『神は私たちと共におられる』という意味である」。

 預言者イザヤが語った御言葉です。イザヤ書7章14節の御言葉です。「インマヌエル預言」「クリスマス預言」と呼ばれている御言葉です。

 「イエス」という名には、「インマヌエル」「神われらと共にいます」という意味が込められている。「神われらと共にいます」という名には、神の大いなる決断があります。命懸けの決断があります。神はひとり子をマリアとヨセフに託されました。誠に無力な赤ちゃんです。権力者の手で握り潰されてしまうような小さな小さな命です。自分では何も出来ない無力な命です。しかし、その小さな命にユダヤの民の救いが懸かっている。いや、全世界の民の救いが懸かっているのです。しかも幼子イエスを託したのは、身分も権力もない、無力な、極々普通の田舎に生きるマリアとヨセフです。神は誠に大胆なことをされます。無謀なことをされます。しかし、そこに神の命懸けの決断があった。神は幼子イエスを通して、マリアとヨセフ、われわれと生きることを決断されたのです。たとえどんなに厳しい出来事が起きたとしても、心揺らぐことが起きたとしても、神は本当におられるのかと疑いたくなる出来事が起きたとしても、私は幼子イエスにおいて、あなたがたと共に生きるのだと決断された。この神の大いなる命懸けの決断こそが、クリスマスの出来事だったのです。

 ヨセフは自らの決断ではなく、このような神の大いなる命懸けの決断に触れた時、マリアを妻として迎える決心をしたのです。救い主を宿したマリアを命懸けで守る決断をしたのです。マリアを迎えることは、救い主イエスを迎えることであったのです。

 

3.①ヨセフは日々御言葉に生きていました。当然、預言者イザヤの御言葉も知っていました。「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる」。神がわれわれと共にいる救い主が来られることを、ひたすら待っていました。しかし、知識としては知っていても、その御言葉が自分たちに起きる出来事となる御言葉であるとは思ってもいなかった。そこにヨセフの罪があった。私どもの罪でもあります。神は御言葉を知識として身に纏って生きる私どもの罪を打ち砕くのです。神は私どもが救われることに、命懸けであるからです。私どもが救われるために、大切なひとり子を幼子として送られるのです。幼子イエスにおいて、私どもと共に生きることを決断されるのです。この神の命懸けの決断に触れた時、御言葉は私どもの存在に宿り、私ども変えるのです。私どもを生活の中で、根底から生かす御言葉となるのです。神は私どもの救いに対して、いつも命懸けであるからです。いつも命懸けで、私どもを生かす御言葉を語られるのです。

 ヨセフはマリアを迎え入れ、幼子イエスを迎え入れました。そのことにより、思い掛けない試練、苦しみに直面することになりました。ローマ皇帝アウグストゥスの人口調査の命令により、ローマ帝国の支配下に置かれていたユダヤの民はそれぞれ生まれ故郷に帰って、住民登録をしなければなりませんでした。ヨセフは身重のマリアを連れて、ナザレからベツレヘムまで、徒歩で長い旅をしなければなりませんでした。お腹の中の赤ちゃんイエスさまを守る命懸けの旅でした。ベツレヘムでは宿屋がいっぱいで、部屋に泊まることが出来ませんでした。馬小屋でマリアとヨセフは泊まり、馬小屋で幼子イエスを出産しました。命懸けの出産でした。

 しかし、出産直後、思い掛けない出来事が起こりました。ユダヤのヘロデ王が二歳以下の男の子を一人残らず殺せという命令を下しました。救い主の命を幼子の内に断とうとしました。主の天使が再び夢でヨセフに現れました。「幼子とマリアを連れて、エジプトに逃げなさい」。ヨセフは出産間近のマリアと生まれたばかりの幼子イエスを連れて、ベツレヘムからエジプトへ、長い長い旅をしなければなりませんでした。命懸けの旅、逃避行でした。

 一つ一つの出来事が、救い主イエスを宿したマリア一人では出来ないことでした。マリアの傍らにいつもヨセフがいました。ヨセフに守られ、支えられました。それはどんなにか心強かったことでしょう。しかし、ヨセフも直面する一つ一つの出来事に、恐れ、うろたえていたのです。「何故、無力な私たちがこんな役目を負わなければならないのか」と、神に訴えてばかりいました。しかし、ヨセフにとっても、マリアにとっても、大きな支えは、幼子イエスを通して、神がわれわれと共に生きて下さる、命懸けの決断をされたことでした。自分たちが手に抱く、無力な赤ちゃんイエスさまに、神がわれわれと共に生きるのだとの命懸けの決断を見たのです。

 クリスマスの出来事だけに登場し、クリスマスが終わると舞台から去って行ったヨセフには、ひと言も台詞がありません。ヨセフはひと言も語っていません。ヨセフがしたことは、主の天使を通して語られた主の御言葉に、従ったということです。ひたすら主の御言葉に従い、御言葉通りに生きたことです。神の命懸けの決断に従い、生きたことです。そのようにしてマリアを守り、幼子イエスを守ったのです。ヨセフがいなければ、クリスマスの出来事は成り立たなかった。ヨセフは聖霊の道具となって、ひたすら神に使え、クリスマスの出来事を背後から支えたのです。どんなに苦しくても、困難であっても、神の御業に喜んで参与したのです。

 

アドヴェントの季節、私は馬場幼稚園で、キリスト教保育に携わっている保育者研修会で、また、輝く瞳の会で、キリスト教幼児教育を共に学び祈る会で、北陸学院第一幼稚園のお母さん、教会員に、キリスト降誕劇に込められた神の御心を共に尋ねることをしました。

 東京神学大学の旧約聖書神学を教えておられた松田明三郎先生が、「星を動かす少女」という詩を綴っています。神学校の先生がこのような詩を綴られていることに感動します。

「クリスマスのページェントで、

 日曜学校の上級生たちは

 三人の博士や 

 牧羊者の群や

 マリアなど

 それぞれ人の眼につく役を

 ふりあてられたが、

 一人の少女は

 誰も見ていない舞台の背後にかくれて

 星を動かす役にあたった。

 『お母さん、

  私は今夜星を動かすの。

  見ていて頂戴ねー』

 

 その夜、堂に満ちた会衆は

 ベツレヘムの星を動かしたものが

 誰であるか気づかなかったけれど、

 彼女の母だけは知っていた。

 そこに少女のよろこびがあった」。

 

 舞台の背後に隠れて星を動かす少女は、会衆からは隠れています。でも、星は東から来た博士たちを救い主イエスへと導く大切な役目を担っています。

星を動かしているのは誰であるかは分からない。しかし、お母さんだけが知っている。そこに少女の喜びがあった。舞台の背後に隠れて星を動かす少女は、舞台の背後でクリスマスの出来事を支えたヨセフと重なり合います。ひと言も台詞のないヨセフです。目立たない存在のヨセフです。しかし、神さまだけがヨセフの役目を知っている。そこにヨセフの喜びがあったのです。

 私ども一人一人も、世界の舞台の上で、神さまからそれぞれの使命と役割目を与えられて、役割を演じています。皆さんはどのような使命を与えられ、役割を演じているのでしょうか。ヨセフのように目立たない役割かもしれません。人々から評価されない役割かもしれません。しかし、神さまだけが知っておられる。救い主イエスだけが知っておられる。そこに私どもの喜びがあるのです。一人一人が目立たないが、大切な神からの役目を演じているのです。

 

4.①最後に、どうしても触れておかなければならないことがあります。今年は救い主イエスの誕生から2025年目のクリスマスを迎えます。救い主イエスの誕生は、神はわれわれと共にいます出来事です。しかし、果たして神はわれわれと共におられるのかと、疑いたくなるような現実が私たちの生きる世界にはあります。神が共にいない世界をわれわれは生きているのではないか。それは救い主イエスが誕生した直後にも起こった、ヘロデ王の幼児の大量虐殺でも起こりました。この世の王は、ベツレヘムの馬小屋で飼い葉桶に宿った幼子イエスを世界の真の王としてひざまずこうとはしません。自らを王として誇ります。それは私どもの中にもあるのです。一番初めのクリスマスから問われている深遠な課題です。

 救い主イエスの誕生の出来事は、ベツレヘムの馬小屋の飼い葉桶という世界の片隅で起きた小さな出来事です。しかし、飼い葉桶に宿った幼子イエス、マリアの胎内に宿り、赤ちゃんという人間の姿をとって来られた幼子イエスの誕生の出来事から、神がわれわれと共に生きるという命懸けの決断をされたのです。そこから、どんなことがあっても諦めない神の救いの出来事が始まったのです。

「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる」。この御言葉から始まったマタイによる福音書は、この御言葉で結ばれています。甦られた主イエスが裏切り、挫折した弟子たちを呼び集め、最後に語られた御言葉です。


「私は天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民を弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じたことをすべて守るように教えなさい。見よ、私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」。

 主の群れ・教会に託されたことは、洗礼を授けることです。クリスマスに洗礼者が生まれる。それは歴史の片隅で起こる小さな出来事かもしれません。しかし、そこにこそ、神がわれわれと共に生きている神の命懸けの決断を見るのです。ああ、神はこの小さな洗礼者と共に生きる決断をされたのだ。人間の目から見れば、神がわれわれと共におられないように見える私どもの世界です。しかし、洗礼者が生まれるという歴史の中の小さな出来事に、見よ、神がわれわれと共におられ、生きている神の救いの御業を見るのです。インマヌエルの神の子の誕生です。神われらと共にいます新しい神の子の誕生です。それ故、教会はこの世界に向かって、諦めることなく、インマヌエルの福音を今日も語り続けるのです。神の命懸けの決断が、この私にも働かれていることに触れ、洗礼を受ける決断をする者が生まれますように。

 

お祈りいたします。

「果たして神が共に生きておられるのか、疑いたくなるような世界に生きる私どもです。しかし、神の御子は確かに人間の姿をとって誕生されたのです。神はわれわれと共に生きるという神の決断が現れたのです。神の命懸けの決断に触れ、私どもも神の御心に適った決断をして生きることが出来ますように。

この祈り、私どもの主イエス・キリストの御名により、御前にお捧げいたします。アーメン」。

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