「神を信じる者には希望がある」
エゼキエル書17:22~24
マタイによる福音書13:31~43
主日礼拝
副牧師 矢澤美佐子
2024年4月28日
イエス・キリストを信じる人には希望があります。
それは、この歴史に終わりがあることを知っているからです。歴史に「終わりがある」ということと「希望がある」ということがどう繋がるでしょうか。もし、この歴史がどこまでも終わりがなく、結論がないとしたら私たちは希望を持てなくなってしまいます。
身近な例を引いてみますと、例えば会社に勤めている人が、どこまでいってもその勤めが終わらない。どこまでも、どこまでも終わりがなく走り続けなければならないとするなら、それは絶望的なことですし何の意味があるのか分からないはずです。
歴史というのは、そこに終わりがなければ、今起こっていることの意味づけができません。ですから、この歴史に終わりがあるということは、結論が出され、生きて来た意味が明らかになるということです。
もちろんこの世に終わりがあるとしましても、それがただ「消えてしまう」という終わりでしたら、希望になりません。しかし、イエス・キリストを信じる者、私たちが信じている終わりというのは、ただ「消えてしまう」という終わりではありません。イエス・キリストが死を打ち破り、復活してくださいました。その救いに与る私たちもまた、死を超えて、復活し、永遠の命に生きていくのです。終わっていく命ではなく、新しく開かれていく命を生きています。
それゆえ、ただ「消えてしまう」終わりではなく、復活し、永遠の命へ生かされ、そして、私たちの歴史に対して結論が出される、そういう時が参ります。
私たちの人生の、意味と目的は、神が、その御手にきちんと握っておられます。答えは、神の中にあるのです。それでは、その答えとは、一体何でしょうか。端的に申しますと、神が私たちを、この世を「救う」と言うことです。
旧約聖書、新約聖書を通じて記されています歴史があります。これは、神が起こされた、救済の歴史です。これを「救済史」と呼んでいます。一見でたらめのように見えます歴史の動きも、実際は大いなる神に導かれ、大いなる神の意志が行われ、神の目的が成就されているのです。
私たちの人間の歴史は、混沌と動乱の中を進んでいます。しかし、この世の混沌と動乱の中に、神の救いが突入し、神の救いの勢力圏の中に私たちが入れられていくのです。一人、また一人と入れられ、いや、既に誕生の前から入れられていた、と言うことに気づいていくようにして、神の救いの歴史は進んでいます。
聖書は、普通の歴史書ではありません。神の救いの書です。私たち個人の生涯も、聖書を通して観てみますと、私たちの人生の一コマ一コマに神の介入があることが分かります。私たちの人生の一コマ一コマに、神の働き、神の啓示があることが見えてきます。
幾多の障害、紆余曲折の中で、悪の勢力が力を振るっているように思える時も「この世を救う」と支配しておられるのは、全知全能の神であられます。どんな罪の暗闇も、死の支配も、運命という諦めも、全く手の届かない所で、神の救いは前進しているのです。この世を支配しているのは、悪の勢力ではなく、神であられます。
私たちのどんな生涯も、苦しみの多い生涯も、短い生涯も、神がきちんと一人一人の人生の意味と目的を知っておられ、私たちは、神から終わりの日にその意味を告げられるのです。
主イエス・キリストは、終わりの日に来て下さる。そう約束をして下さいました。
裁き主であられ、救い主であられる主。裁判官であり、弁護人であられる神が、私たちが犯した罪への怒りと、私たちを決して見捨てることがおできになれない愛。この間で引き裂かれるようにして、愛をお選びくださり私たちを救って下さるのです。これほどあなたを愛する神は他にいない、と命を捧げて救って下さる主イエスが来られるのです。
罪であっても、死であっても、神と私たちの間を決して引き裂くことはできません。神と私たちの間の、どんな大きな障害も、どんな大きな壁も、神の愛から、私たちを引き離すことはできないのです。そのことを聖書は、はっきり記しております。
東京神学大学の聖書学の恩師は、分かりやすくこんな風に教えて下さいました。
「主イエス・キリストは、約束してくださったのです。再び来て下さると。私たちは、大好き友人と、大好きな人と会う約束をしたら、その人がその場所に来てくれると信じて、待ち合わせの場所へ行きます。きっと来てくれると信じて、大好きな人を待つんです。その人のことを思いながら、信じて待つんです。そんな風に、同じように主イエスを待っていい」そう教えて下さいました。
私たちは、先の見えない不安な日々を、悩み、迷いながら歩き続けている時もあります。しかし、この長い道のりを越えた先には、必ずゴールが訪れます。
これまで何千年もの歴史が待ち続けた、それだけの価値のある日がやってくるんです。どんな困難な道も、無駄ではなかったと言える日が来ます。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きない、喜び踊る声だけが響き渡る、新しい天と地へ向かって私たちは永遠の命を生きています。神のダイナミックな救済は、今も進行しています。
キリストを信じる者には、希望があります。
では、その確信を強めていくにはどうしたらよいでしょうか。ひと言で申しますと、主イエス・キリストの御言葉を「聴く」と言うことによって、確信は強められます。本来、終わりの日に出会う主イエスに、私たちは、すでに礼拝の御言葉の中で出会っています。
主イエスとの出会いは、ほんの小さなことに思えるかもしれません。しかし、このほんの小さな体験が、来るべき時に大きな、大きな実りをもたらす、と今日の聖書は伝えています。
今日の聖書には2つの譬え話が続いて語られています。
1つは、からし種の譬えです。天の国は、からし種に似ていると主イエスは仰せになります。からし種を畑に蒔けば、とても小さな種がどんどん成長し、空の鳥が巣を作るほどの大きな木になります。ほんの小さなものが、とても大きくなると言います。
それは2つ目のパン種の譬えでも同じです。パン種を、たくさんのパン粉に混ぜて、生地が膨れるのを待ちます。3サトンと言われているのは40リットルのことで、そういう大きなパン粉から20キロものパンができるそうです。ほんの小さなパン種が、大きなものになると言うのです。
ここで言われていますことは、小さいものがだんだん、だんだん大きくなっていく。本当に大きなものになっていくからそれを待ちなさい、という意味ではないのです。
小さな、小さな種から、どんどん、どんどん大きなものになっていく。私たちの信仰が、教会が、だんだんに発展して、どんどん、どんどん大きなものになっていく。確かに、そういうこともあるかもしれません。しかし、主イエスはここで強調していることは、そういうことではありません。
主イエスが、最も大切に、ここで慎重に伝えておられること。
それは、「今、あるものの小ささ」に対して、「やがて来るべきものは、非常に大きい」という対比を伝えておられるのです。
今あるものは、まことに小さな信仰かもしれない、まことに小さな教会かもしれない。しかし、来るべきものは、驚くほど大きい。やがて来る神の国は、驚くほど大きく祝福に満ち溢れている、と主は、約束して下さっているのです。
もう一つ、この御言葉の大切な意味を味わってみたいと思います。
小さな、からし種の木が大きくなりましたら、そこに空の鳥が来て巣を作ると言うのです。巣を、作り命を預けることができるくらいに、そこには安心があるのです。それが神の国です。私たちが、安らぐことのできる場所、それが神の国ということを「空の鳥が来て、巣を作る」という言葉で、主イエスは現しておられます。
今日の旧約聖書のエゼキエルの言葉は、イスラエルが高ぶり、神を軽んじ、罪を犯したために国が滅び、拭い去られてしまうことが語られています。しかし、神は、人々を愛するがゆえに滅んでいくのを黙って見ていることができないのです。何とか救おうとその場所に木を植えられます。すると、その木が大きくなり鳥が住むようになります。神が、高ぶっていた者たちを低くされ、そして、低い者へと造り替えられた者は、天の国へと救われていく、ということが示されております。その天の国は、鳥が巣を作り、命をあずけるほどの安らぎある、ということを伝えています。
からし種、パン種のような、小さな、小さな私たちの集まり、罪のある教会です。神の怒りがありながら、しかし、主イエスによって贖われ、来るべき時には驚くほど大きな祝福となると言うのです。私たちの教会が、この世界の全ての人たちの安らぎの場所、神の国となる、そう主イエスは、約束して下さっているのです。
私たちの歩みは、前進したと思えたのに、後退してしまう出来事に遭遇します。成長したと思えても、間違ったり、罪を犯したりと、私たちの歩みは小さな、小さな歩みです。
しかし、私たちの教会の小ささは、来るべき時には、驚くほどに大きくなり、この世界を救う絶大な神の国として完成するのです。主イエスは、そう約束をされているのです。
1%に過ぎないキリスト者が、来るべき時には、驚くほどの大きな祝福へと変えられます。それゆえに、私たちは、怖じ気づいてしまわず、落胆し過ぎず、キリストをのべ伝えて参りたいと思います。
神を信じる者には、希望があります。
主イエスを守れなかったペトロを思い出します。
「主よ、どんなことがあっても、私があなたを守ります。どこまでも従います」。しかし、主が捕らえられ、殺されようとする時、自分も巻き込まれるのが恐くなり逃げたのです。この私が、言うはずのない言葉。それを言ってしまったのです。「あんな人、知らない」
ペトロは、ボロボロ泣きました。自分の弱さに号泣したのです。ペトロが流した涙は、挫折の涙です。主イエスを信じていないわけではない。慕っていないわけではない。けれども、もう主イエスの弟子だなんてとっても言えなくなったのです。自分の力で信じていた信仰は、音を立てて崩れて行きました。
そのペトロを主イエスは、深い慈愛の眼差しでご覧になり「私は、それでも、あなたを愛している。あなたを救うためなら、私は、命だって捨てる。あなたの全ての罪、苦しみを負い、身代わりに十字架についてあなたを救う」。そう仰せになって、私たちのために十字架で死んでくださったのです。
あなたのためになら死ねます、どこまでもついて行きます、と言う私たちのために死んでくださったのは、主イエス・キリストの方です。永遠に愛し抜き、守り抜いて下さるのが、主イエス・キリストです。私たちは、このお方に全てをお委ねし付いて行っています。そして、この先に希望が待っているのです。
ペトロは、失敗し苦しみを経験して、そうして見えてくる世界がありました。そういうことを神様はなさいます。私たちの信仰は、どこまでも神の御業です。苦しみや試練、悲しみによって、主の御言葉が心と身体に染み渡り、助けてくれる人に出会います。そして、そこから復活の主と共に見えてくる、美しく新しい景色によって、神の国が垣間見えることでしょう。
今日のマタイによる福音書の13章43節で、主イエスは、神の国で、正しい人々は「太陽にように輝く」と仰せになっておられます。
「太陽のように輝く」。正しい人々という訳は「神の御心に適う人」という意味です。神の御心にかなう人は「太陽のように輝く」のです。
どういう人が神の御心に適う人でしょうか。それは、神が、私たちを最後まで担う、守る、支えると仰せになって下さっているのですから、そのことを信じて、神に担われ、守られ、支えられて生きている人のことです。私たちが、この苦難に満ちた、悪に満ちた世界を歩んで行く時に、神に担われて、神に応答して生きている人を、「正しい人」と神は呼んで下さり、天の国で、「太陽のように輝く」と主は仰せになっておられます。
私たちは今、コロナによって伝道が落ち込んでしまったかのような厳しい現実の中を生きています。しかし、神に担われ、神に応答して、祈り助け合い、前進している全国の教会を、「太陽のように輝く教会」として、神はご覧になって下さっているのではないでしょうか。試練の中で助け合う伝道は、美しく「太陽のように輝き」、そこに、神の栄光が現されているのです。困難の中で小さく見える歩みが、来るべき日には、大きな祝福となります。主イエスはそう約束して下さっています。
私は、1年ほど前からキリスト教の病院に学びと奉仕に行かせて頂いております。最初は、私の子どもが病気がちなために、一緒にキリスト教病院の礼拝と治療に通い始めたのがきっかけでした。通ううちに、先生方と親しくなり、時々私も、病で苦しむ方々と共に過ごし、見えないイエス様を穏やか気持ちで紹介し、癒しと慰めを中心とした、キリスト教病院の奉仕の輪の中に参加させていただくようになりました。
病院の中心にある礼拝堂はとても質素です。しかし、礼拝堂は、病院の最上階まで吹き抜けとなっているために、天井は、はるか高く、信仰のない方も、ここは神の国へと繋がっていると信じられるほどの、広がりと静けさがあります。ビルが建ち並び、様々な情報が飛び交い、時の流れが非常に速い都会で、大きな礼拝堂に広がる静寂と神の息が、神の存在を街の人々に伝えています。
重い病気の方は、礼拝堂に集うことができませんので、全ての病室に礼拝の様子がライブ配信されています。外来の待合室にも、時間になりますと大きなスクリーンに礼拝が映し出され、全ての人が礼拝を捧げることができます。
私は、礼拝に集う病気の方、病気の子供たちとお話しし、優しい時間を過ごすようになりました。病院には、抗がん剤の治療を受けている子供たちもいます。様々な病気を治療している子供たちの病状に、一喜一憂しながら、疲労の中でも、笑顔で寄り添う努力をされている家族の姿もあります。
家族が病気を患いますと、これまでの当たり前の日常、一緒にお弁当を作って何処かへ出かけること、洗濯や掃除をしながら会話することも、順調に仕事や学校へ通うことも、当たり前の日常を手放さなくてはなりません。そして、病の重さによっては、それらがもう二度と戻ってこないとするなら、これほどの悲しみはありません。
小学6年生の男の子に出会いました。心疾患を患って、長い間の病の戦いで、いつも不安を抱えている男の子でした。何度も手術を繰り返し、少しずつ健康を取り戻し、小学校に入学しましたが、最近また悪くなり入院をしていました。血液の循環が不十分でいつも疲れやすく、運動や日常生活に様々な制限があり、自由にあちらこちら行くことができないことにイライラしたり、落ち込んだりしていました。
チャプレンの先生は、優しい笑顔でその男の子に私を紹介してくださいました。「この方は、教会で神様におつかえしている牧師さんだよ。横にいるのは中学生の息子さんだよ。」私は、姿勢を低くして、男の子の目を見つめて、微笑みながら「よろしくお願いします。これから仲良くしてくださいね。」と話しかけました。それでも、「んー」というような返事でした。けれど、病気が辛く、不安になると礼拝堂に時々来てくれていると聞きました。
その後も、男の子と会いましたが、私が神様にお仕えしている、ということを覚えてくれて、安心したのでしょうか、少しずつ微笑んでくれるようになりました。金沢教会の様子、教会学校の子供たちの様子、イエス様のことも嬉しくなるに伝えました。すると、にっこりと笑顔を見せてくれました。
けれど、すぐに寂しい顔に戻り、何か深く考えていることがあるようで、言葉にできない、そんな顔をしていました。私は、「どうしたの」とたずね、小さな肩に手を置きしばらく沈黙が続きました。少ししてから、男の子は、とても小さな声で、消えそうな言葉でこう言うのです。
「ボクはどうなってしまうの」
消えてしまいそうな小さな声でした。けれど、男の子にとっては、勇気のいる大きな一歩でした。長く続く病気に、たまらなく不安で、恐ろしい明日を、小さな心と身体で向き合ってきたんです。現実と向き合うには、あまりに大きな試練です。
「ボクは、どうなってしまうの」
消えそうな声を、聞き漏らしてはいけないと思いました。「勇気のいることを、話してくれて、どうもありがとう」と私は答えました。
私たちは、何歳になっても「言葉にするのもおそろしい疑問」というものを持っています。そして、神様の大きな愛の中でなら、問いかけてみよう。そう思えるのです。
「どうなってしまうの。神様がいるのは知っている、信じているけれど、自信がない」
複雑な気持ちも話してくれました。たくさんの苦しみを経験し、耐えてきたからこそ、子供とは思えないほど深く成熟した真剣な問いかけです。
そして私は、「彼は、神様に向かって問いかけているのだわ」と分かりました。私を通して、私の背後におられる、大きな神様に問いかけている。誰かを通して神様に問いかけてみたい。私たちも、自分では気がつかないうちに、そういう問いかけをしていることがあるのです。
私は、男の子にこう答えました。
「神様は、言って下さっていますよ。『私は、何があってもあなたを離さない。私は、どこまでも、あなたを愛している。どこまでも最善を尽くして、どんな時も、どこにいても、永遠に私はすぐそばにいて、あなたを愛して守り続けるよ』そうイエス様は言って下さっていますよ。だから安心してね」。
心をこめて語りかけました。
私たちは、試練の中で弱くなり、自信がなくなります。ですから、神様は何があっても離さない、何があっても守ってくださる、この確信が大事です。神様は、離さないで守り続けてくださる、この確信が強ければ、強いほどいいんです。そのことを、男の子にも知ってほしいと思い分かる言葉で伝えました。
小さな、ほんの小さな時間でしたが、神様の救いの大きな舞台の上に、少年は立ち、主イエスと出会っていました。神の救いの歴史の1ページが、ここでも新しく開かれていました。
病気の子供たちが、病の苦しみを一緒に分かち合い、祈り合い、助け合いながら、神様に礼拝を捧げています。金沢教会の礼拝も同じです。私たちは、一緒に主イエスに繋がり、一つになって神様の国へ向かって、進んでいます。祈り合うことで苦しみが半分になり、喜びは倍になります。
あの男の子のご家族は、「うちの子が重い病に。どうして」と受け止めることに苦労をされていました。看病、介護をされるご家族は、普通の人生から落ちこぼれたような孤独、不公平感を感じ、苦しまれる方が多くいらっしゃいます。長期入院している、人たちを見て、「あーこんな世界があったんだ」と言うことを知ります。そして、自分たちもこの世界の中に入っていく、自分の価値観では認めることが難しい、息苦しさを感じることもあるんです。
私は、ご家族の気持ちに寄り添いながら、ポロポロ、涙がこぼれました。病気を受け止め直し、価値観を変えていく過程で、多くの人を助けている素晴らしい詩があります。私は、この詩をご家族にも紹介しました。金沢教会の礼拝、ライブ配信で礼拝を捧げていらっしゃる方、教会学校の親御さんの中にも、子供さんの病気、ご家族の病気、親しい方の病気で苦しんでいらっしゃる方もおられると思います。皆さんの救いのために紹介できればと思います。
「天国の特別な子ども」という詩です。エドナ・マシミラさんという方が書かれた詩ですが、キリスト教信仰の中で、病のお子さんを看病されて来た方です。神様と天使が、天国から地上に、新しい命を送り出すとき、特別な配慮を必要とする子どもたちが天国から使わされます。そのことをしっかり託すことができる、選ばれた家族、仲間たちがおり、そこへ送り出されていくという内容です。
会議が開かれました。
地球から、はるか遠くで
「また次の赤ちゃんの誕生の時間ですよ」
天においでになる神さまに向かって 天使たちは言いました。
この子は特別で たくさんの愛情が必要でしょう
この子の成長は とてもゆっくりに見えるかもしれません。
もしかして 大人になるまで命が保たれないかもしれません。
だから この子は地上で出会う人々に
特に気をつけてもらわなければならないのです。
もしかして この子の思うことは
なかなか わかってもらえないかもしれません。
何をやっても うまくいかないかもしれません。
ですから私たちは この子がどこに生まれるか
注意深く選ばなければならないのです。
この子の生涯が しあわせになるように
どうぞ神さま この子のためにすばらしい家族、仲間をさがしてあげてください。
神さまのために特別な任務を、ひきうけてくれる家族、仲間を。
その人たちは、すぐには気がつかないかもしれません。
自分たちに求められている特別な神の使命を。
そして、使命を悟ったなら、
ますます強い信仰と豊かな愛、柔和と穏やかさをいただくようになるでしょう。
私たちの人生には、突然の試練、突然の大きな苦しみ、突然の病も経験します。突然、無理やり始めさせられたと思っていた苦しみも、実は、神様には深い意味があり、祝福へと繋がる確かな計画があることを少しずつ、少しずつですが、私たちは、礼拝を通して、また素敵な人の出会いを通して知らされていきます。
私たちのこの世界には、生きて行くために、特に配慮が必要な人が、集団の中に必ず含まれています。神様が、それをなさっておられるからです。
そして、そのことをマザーテレサはこのように語られました。「特に、配慮が必要な人がいます。私は、その人のことを『愛の教師』と呼んでおります。私たちに、愛するとはどういうことかを教えて下さる『愛の教師』だからです」そう語られました。
配慮が必要な人と出会うことを通して、私たちの中の「共感力」が大きく育っていきます。誰かの苦しみに心が痛み、涙を流す経験は、私たちにとって素晴らしいことで、私たちを柔和な人へと導いてくれます。
医学的には、思いやる力、共感力は、やはり人それぞれ遺伝的な条件があり、組み込まれている遺伝的なものを超えることはできないとも言われています。しかし、遺伝的に約束された可能性を、どこまで実現できるかは、学習していくことや、経験していくことによることが大きいとも言われています。そして、大切なことがあります。それは、遺伝的に限界と私たち人間が思っているよりも、はるかに大きな可能性が、神様の御手によって、私たちには詰め込まれているということです。はるかに大きな可能性が、神様の御手によって、私たちには詰め込まれているんです。私たち人間の想像を、はるかに超えることをなさるのが、神様です。
私は、金沢教会で、時々このような嬉しい言葉を聞きます。「家族が教会に関心を持つようになりました。親しい人が、教会に戻って来てくれました」とても嬉しい知らせです。そして、金沢教会の礼拝堂では、神の国へ向かう人が、御言葉を口ずさみ、主の祈りを祈りながら平安に満たされています。礼拝堂に讃美の歌声が、弾み心が踊っています。礼拝堂が、命の御言葉で潤っています。
そんな様子を私たちは、確かに見てきたのです。そして、これからも私たちは見て行きます。人間の力では、起こせないことが教会で起こっています。
やがて出会う主イエス・キリストに、皆さんは、話したいことがたくさんあるのではないでしょうか。子どもホスピスで、命が残りわずかな子どもたちが、幸せになるために働いていらっしゃるキリスト者の方が、素敵な言葉を残して下さっています。最後に紹介させて頂きます。
神様の国に着いたとき
神様に会ったら まず 渡したいもの
それは「感謝の花束」
わたしたちの心いっぱいに
色とりどりの想いを込めて
だから
それまでの道のりで
わたしたちの心に
色とりどりの花を咲かせておきたい
この地上の出来事を、祝福として数え、祝福の花束をたくさん、たくさん集めて、天の国で神様に出会った時には「いい人生でした」と感謝の花束を主に捧げたいと思います。