「神様が道を切り開いてくださっている」
マタイ7:7~12
主日礼拝
矢澤美佐子
2024年11月4日
「求めなさい。そうすれば与えられる」
しかし、この世は、求めても与えられない現実で満ちています。家族の中で、一人だけキリスト者。熱心に祈っても、祈っても家族は教会へ行ってくれない。家族みながキリスト者の家庭は素晴らしいなぁ。私は、力が足りないからなのかしら。
成功した人たちが、「努力すると成功する、成せばなる」と言って、そして、求めても開かれない、努力しても報われない多くの人を、苦しめているという現実があるのではないでしょうか。
ヨブ記を見ますと信仰熱い正しい人が、大きな苦しみを受けるのは、現実としてある、と聖書は認めているのです。
ですから「求めなさい、探しなさい、門をたたきなさい」という御言葉によって、私たちが、求める力が足りている人、足りてない人と、お互いを比べ、傲慢を生むと言うことは、主イエスの願いではないはずです。私たちが、比べ合い、競い合い、傷つけ合えば、やがて教会全体の力は、低下し、機能しなくなってしまいます。れでは、主イエスは、何を伝えておられるのでしょうか。
私たちの祈りが、求めが、どのように実るのかは、神様の御手のうちにある、ということを伝えているのです。
主イエスは「父は、願う前からあなた方に必要なものは、ご存知なのだ」ともおっしゃいました。
どのように花開くのか、神様がご存知でいらっしゃいます。神様の御力が働いているのです。
神様は、おっしゃいます。
「私が、全て実りを知っているから。もう既に見えているから、私に求めてみなさい。私が、必ず与える。私の御力を信じて伝道すればいい」そんな風におっしゃるんです。
この順序が重要です。
私たちの力よりも先だって、神様が道を切り開いて下さっている。私たちの力をはるかに超えて、神様の御力が働いている。それゆえ、既に用意されている大きな、大きな祝福の実りに向かって、伝道していくのです。
礼拝説教にお礼状が届くことがあります。「苦難の中で主が共にいてくださることが分かりました」「説教を聴いて、教会の帰りに人に親切にすることができました」そんな時、私は、おっちょこちょいなので「やった、やった」と思ってしまいます。そして、感謝の祈りを捧げていると、喜びと同時に、神様への畏れを感じて来たのです。私の力ではなく、神様が働いてくださっていたから。
私たちが語る言葉。説教の言葉、伝道の言葉、人を教会へ招く時の言葉は、自分が意図したようには聞かれません。けれども、人間として足りない者であっても、神様が用いて下さるということを信じて語っていきます。
そして、私たちは、自分の力以上に神様が語って下さっていた、神様が伝道して下さっていたという大きな恵みを経験します。
伝道は、喜びと、神様への畏れを知ることの繰り返しです。神様が、まことに、今、生きて働いて下さっている。目に見える世界に生きている私たちが、目に見えない世界の、主の働きを見ることができるということは本当に大きな恵みです。
私の母は6歳の時に亡くなりました。母は、ずっと寝たきりで、聖書の絵本を、繰り返し、繰り返し読んでくれました。母は、いつ死ぬか分からない最後まで、布団の上から、伝道してくれていたんです。
慈愛に満ちた、とても寛容な母でした。その母のぬくもりも求めて、いつか教会に行くと決めていました。しかし、父がキリスト教に大反対でした。それ以外は、とても尊敬できる父でしたが、教会の話しをすると目の色を変えて大反対しました。行きたいと強く言うと「もう家には帰って来られない覚悟で行きなさい」と言われました。祈っても、求めても、決して教会へ行くことはできなかったのです。
けれど、母の聖書の絵本のぬくもりだけで15年以上、私の悩み、苦しみを支えてくれていました。そして、20歳を過ぎ父から自立した時、始めて教会へ行くことができたのです。最初は、母のぬくもりを求めてでした。教会へ行けば、母に会えるような気がしたのです。
そして、教会で出迎えてくれた人たちは、同じぬくもりがありました。始まりは、人を求めていましたので、とても信仰と言えるものではありません。しかし、そこから、みるみるイエス様に出会い十字架に打ち砕かれ、礼拝では毎回涙が溢れました。
種を蒔いた母が、亡くなってから15年以上を経て、信仰の花は開いたのです。神様は、そういうことをなさいます。そして、神様が、ほめたたえられることを母は喜んでいるのだと思います。
私たちをどこまでも愛し抜いて、命を捧げて救って下さる主イエス。私たちを生涯、守り続けて下さり、死を超えて永遠に愛し抜いて下さる。
その神様が、ほめたたえられることは、私たちの幸せです。
金沢教会のある長老が、コロナ禍で共に苦労しながらこうおっしゃったことを私は、天を見つめながら時々思い出します。
「本当に教会が強くなるのは、ただ活気があり、ただ大きくなったということではない。小さな人、弱い人の声に耳を傾け、弱い人のために立ち止まることもできる。それが、本当の意味で強い教会ではないか」心に響く言葉を残して、天へと召されて行かれました。
コロナ禍で私たちの教会は、病の人のために、弱い人のために立ち止まる強さを、更に言えば、引き返す強さをも神様が教えて下さっていたのかもしれません。
教会では、見えない所で働いてくださっている方がおられます。身体が弱いけれど、多少、無理をして教会のためにと奉仕して下さっている方もおられます。難しいけれど挑戦してみると奉仕を引き受けて下さっている方がおられます。落ち込む友がいると楽しい話しで笑わせて、隠れた所で祈って下さっている方もおられます。それぞれの賜物を用いて働いてくださっています。神様は、全てをご覧になって「あなたの働きは素晴らしい」と祝福して下さっています。
この世は冷たく、魂の飢え乾きを感じる人が多くおられます。私たちは、あたたかな教会、ぬくもりのある教会として、愛を込めて両手を広げ、人々を迎えられる主イエスと一緒に、人々を迎えられたらと思います。
目に見えない世界におられる主の御力を目の当たりにしながら、大きく心躍らせて、喜んで、楽しんで伝道して参りたいと思います。