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「私たちの命は死んでもキリストの内に」

ヨブ記19:23~27
コロサイ3:1~11

主日礼拝

井ノ川勝

2023年10月8日

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7月、8月、9月と、教会員、教会員のご家族3名の葬儀が教会で行われました。御遺体を前にして、死と向き合いながら、葬りを行う。私どもキリスト教会が行う葬りとは、一体何なのか。果たしてどのような意味があるのか。改めて問いかけられる思いがいたしました。神学生の時、実践神学概論という講義がありました。実践神学は教会の実際的な行為を神学的に検討する学問です。加藤常昭先生から教会の葬儀について講義を受けました。どのような宗教も、元々葬儀は夜に行われていました。死と闇が深く結び付いているからです。葬りをする人々は、黒い服装を身に纏い、悲しみを表しました。ところが、日曜日の朝、主イエス・キリストが死人の中から甦られたことにより、キリスト教会の葬りが全く新しくされました。葬儀を夜ではなく、昼間に行うようになりました。しかも讃美歌を歌うようになりました。ハレルヤ、神をほめたたえよ。葬りを行う人々は黒い服装ではなく、白い服を身に纏うようになりました。キリストの勝利を表す色です。キリストの甦りにより、死の意味が変わったからです。死者が赴く方向が変えられたからです。闇に向かって葬られるのではなく、キリストのいのちへ向かって葬られるようになったからです。今日、キリスト教会は昼間、光の中で葬儀を行います。葬儀でも讃美歌を歌います。しかし、葬儀には様々な方が出席されますので、さすがに服装は白い服とはいかず、黒い服を身に纏います。しかし、心の中は白い服を身に纏っています。この朝も、礼拝の中で、「使徒信条」を告白しました。教会の信仰を短い言葉で言い表したものです。その最後はこの言葉で結ばれています。「われは永遠の命を信ず」。神が将来、与えて下さる恵みです。教会の信仰は、死を超えた永遠の命を信じることにある。これは多くの人が認めることです。しかし、永遠の命と言えば、私どもは共通した理解を抱いているように思っています。しかし、果たしてそうなのでしょうか。一人一人に永遠の命は何ですかと尋ねれば、理解に幅があります。分かったようで、分からないことがあるのではないでしょうか。私も伝道者として、永遠の命を合い言葉のように語ってしまうことがあります。しかし、改めて思います。永遠の命を語ることは難しいことです。しかし、そのような中で、この朝、私どもが聴いたコロサイの信徒への手紙3章の御言葉は、永遠の命を最も明確に語っている御言葉です。特に、1~4節の御言葉です。「さて、あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座についておられます。上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい。あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです。あなたがたの命であるキリストが現れるとき、あなたがたも、キリストと共に栄光に包まれて現れるでしょう」。金沢教会では、洗礼を受けたいという申し出がありますと、洗礼準備の会を行います。洗礼を受けるための基本的な学びをし、身に着けてもらいます。この1~4節の御言葉は、とてもリズミカルです。この御言葉は「あなたがたは」と呼びかけられています。最初の教会が洗礼志願者のために語った信仰教育の言葉ではないかと言われています。2.①「あなたがたは死んだのであって」、「あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから」。衝撃的な言葉が続いて語られます。洗礼の出来事語る言葉です。金沢市内にも、バプテスト教会と呼ばれる教会があります。洗礼教会という意味です。講壇の床をはがすと、水槽があります。そこに水を入れて、全身水の中に沈むのです。洗礼志願者を仰向けに倒し、水の中に沈めます。古い人間がキリストと共に十字架につけられ、死んだのです。そして水の中から起き上がらせます。キリストと共に新しい人間に甦らされたのです。私ども金沢教会は洗礼式の時、全身水の中に沈めることはしません。頭の上に、三度水を注ぎます。しかし、意味することは同じです。洗礼において、私どもは死んだのです。私どもは、キリストと共に復活させられたのです。洗礼において、私ども古い人間が死に、新しい人間として復活させられた。そのことを通して、私どもの命はどうなったのでしょうか。あなたがたの命は、生きている時も、死ぬ時も、死んだ後も、キリストと共に神の内に隠されているのです。あなたがたの命であるキリストが終わりの日に現れるとき、あなたがたも、キリストの栄光に包まれて現れるでしょう。「あなたがたの命であるキリスト」。素敵な表現、言葉ですね。私どもの命はキリストです。死に打ち勝たれ、ご復活されたキリストです。キリストの内に、私どもの命はあるのです。7月、8月、9月と、葬儀を行い、死を迎えた教会員の命、教会員の御家族の命はどこにあるのか。どこに移されたのか。私どもの命であるキリストの内にあるのです。私は伝道者として、葬儀の司式を行いながら、いつも思うことがあります。教会の葬儀に、讃美歌がなかったら、どんなに虚しい葬儀となっていたことでしょう。死の前で、私どもは言葉を失います。無言になります。それだけ愛する家族、友を失った悲しみが深いからです。悲しみに打ち勝つ言葉を、私どもは持ち合わせていないからです。悲しみの御遺族に、何を語っても虚しい言葉になってしまいます。却って、御遺族を慰めようと思って語った言葉が、御遺族の心を傷つけてしまうことがあります。しかし、主は私どもの口に、讃美歌を授けて下さるのです。讃美歌は喜びの時にだけ歌う歌ではありません。幸いな時にだけ歌う歌ではありません。悲しみの時も、葬儀の時も、涙を流しながらでも歌う歌なのです。主イエス・キリストが甦られたからこそ、私どもは葬儀においても、讃美歌を歌えるようになったのです。死に向かってでも、讃美歌を歌うのです。「実に、キリストは甦られた。生きておられる。この悲しみの時も、生きて、私どもと共におられる」。キリスト教会の葬儀の特色は、涙を流しながらも、讃美歌を歌うことにあるのです。3.①コロサイの信徒への手紙3章の冒頭の御言葉で、繰り返されている言葉があります。「あなたがたは、キリストと共に復活さえられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。上にあるものを心に留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい」。「上にあるものを求めなさい」。この言葉が繰り返されています。私どもの命であるキリストが、神の右の座におられるからです。金沢教会が聖餐の時に、必ず歌って来た讃美歌があります。「心を高く上げよ」です。讃美歌21の18。哀歌3章41節と、コロサイ書のこの御言葉から生まれた讃美歌です。金沢教会の讃美歌です。今、残念なことに、コロナでライブ配信をしている関係で、著作権の問題で、この讃美歌を歌うことが出来ません。「『こころを高くあげよ!』、主のみ声にしたがい、ただ主のみを見上げて、こころを高くあげよう。霧のようなうれいも、やみのような恐れも、みなうしろに投げすて、こころを高くあげよう」。愛する家族、友を亡くした時、悲しみの中にある時、私どもの魂はうな垂れます。心を打ちたたきながら、何故、何故、何故と、主に向かって呟きます。しかし、主は私どもに向かって語られます。わが子を亡くした母に向かって語られます。哀歌の言葉です。「立て、宵の初めに。夜を徹して嘆きの声をあげるために。主の御前に出て、水のようにあなたの心を注ぎ出せ。両手を上げて命乞いせよ、あなたの幼子のために。天にいます神に向かって、両手を上げて心も挙げて言おう」。涙を流しながらも、主に向かって、心を高く上げよう。上にあるものを求めよう。私どもが洗礼を受け、キリストにあって新しい人間とされることは、どんな時にも、心を高く上げて、讃美歌を歌う人間とされたということです。悲しみの涙で、心が塞ぎ、私が歌えなくても、信仰の仲間が私に代わって、心を高く上げて、讃美歌を歌って下さる。そのような主の群れ、キリストの体に加えられているのです。ある伝道者は、「上を向いて歩こう」と、歌謡曲と同じ題を付けて、説教をしています。私どもは悲しみに直面すると、いつの間にか信仰の背筋が曲がってしまいます。しかし、心を高く上げ、上にあるものを求め、讃美歌を歌いながら信仰の仲間と共に歩む時、私どもの信仰の背筋は真っ直ぐにされているのです。私どもの信仰の姿勢が糾されるのです。「われは永遠の命を信ず」。皆さんは、永遠の命に対して、どのようなイメージを持っていますか。永遠の命は、私どもが死んでからの後のこと。しかもずっと後のことで、終わりの日に与えられるもの。従って、永遠の命と聞いても、遙か彼方にあって、捉え難いものと考えるのではないでしょうか。ところが、コロサイの信徒への手紙の御言葉は、驚くべきことを語っています。1~4節で、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されていると語った後、5節以下で、私どもの日常生活のことを語るのです。永遠の命と、私どもの日常生活は結び付いていると語っているのです。私どもの日々の欲望、感情、言葉。更に、人との会話、議論。そして、夫婦の関係、親子の関係。これら全て、永遠の命と結び付いているのだと語るのです。これは驚きではないでしょうか。永遠の命は、死んでからずっと後のことではなく、今、ここでどのように生きているから深く関わりがあるのです。11月3日に教会修養会が行われます。教会修養会で、長く、宗教改革時代に作成された『ハイデルベルク信仰問答』を学んで来ました。その中で、私の好きな問答があります。一つは、「十戒」の第4戒「安息日を覚えて、これを聖とせよ」を説き明かした言葉です。「この世の生涯において、永遠の安息日を始めるようになるのです」。私どもは礼拝において、既に、永遠の安息日を始めているのです。もう一つは、「使徒信条」の「永遠の命」を説き明かした言葉です。「わたしが今、永遠の喜びの始まりを、心に感じているように、この生涯の後には、目が見もせず耳が聞きもせず、人の心に思い浮かびもしなかったような、完全な祝福を受け、神を永遠にほめたたえるようになる、ということです」。神から完全な祝福を受け、神を永遠にほめたたえる。それが永遠の命であると言うのです。しかし、私どもは今、礼拝において、神をほめたたえている。今ここで、既に、永遠の命を生き始めているのです。それが『ハイデルベルク信仰問答』の「永遠の命」の理解です。4.①コロサイの信徒への手紙も、永遠の命と私どもの日々の生活とが密接に結び付いていると語ります。面白い言葉が語られています。私どもの日常生活の人間考察です。例えば、「互いにうそをついてはなりません」と語られます。何故、嘘をついてはいけないのか。嘘は永遠の命を傷つけるからだと言うのです。また、夫に対する戒めにこうあります。「夫たちよ、妻を愛しなさい。つらく当たってはならない」。結婚式に読まれる御言葉です。文語訳はこう訳されていました。「苦きをもってあしらうな」。日々の生活で、妻に対して、苦い思いをさせるような言葉を語るな。振る舞いをするな。何故、苦きを味わわせてはならないのか。永遠の命の味わいと相反する味であるからです。私どもの心の中に、様々な欲望が居座ります。淫らな行い、不潔な行い、情欲、悪い欲望、貪欲。5つの悪徳です。このような地上的なものに支配されずに、捨て去りなさいと勧めています。「貪欲は偶像礼拝にほかならない」。注目すべき言葉です。この御言葉は宗教改革者カルヴァンが心に留めた御言葉です。私どもの最大の罪です。何故、貪欲が偶像礼拝となるのでしょうか。貪欲は飽くなき欲望です。自分が欲しいものを手に入れても、満足しない。更に大きなものを欲するようになります。私どもはいつの間にか欲望の奴隷となり、欲望が偶像の神となって崇めてしまうのです。恐ろしいことです。私どもの身を破滅へ追いやる罪です。私どもの心には様々な感情が支配します。怒り、憤り、悪意、そしり、口から出る恥ずべき言葉。これも5つの悪徳です。私どもの体が5つの部分から成り立っていることと関係します。5つの悪徳が私どもの五体に居座り、私どもを支配し、私どもの身を滅ぼすのです。永遠の命を傷つけるのです。このような5つの悪徳を身に纏っていた古い人間であった私どもは、洗礼を通して、脱ぎ捨てたのです。そして造り主の姿に倣う新しい人を身に着けてもらったのです。キリストを身に纏ったのです。更に、このように語られています。「あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているものですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい」。5つの悪徳に対立する5つの美徳です。私どもの五体を健やかにする美徳です。姿勢を美しくする美徳です。ところが、その後に、不思議な言葉が続きます。「これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです」。口語訳ではこう訳されていました。「愛はすべてを結ぶ完全な帯である」。どこが不思議なのでしょうか。憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容。これら5つの美徳も、愛そのものです。ところが、これら5つの美徳に、更に愛を加えなさい。愛を身に着けなさい。愛は全てを完全に結ぶ帯だと語るのです。更に、「愛を身に着けなさい」とはどういうことなのでしょうか。愛であるキリストを着ることだとも言えます。ある方は言います。「愛を身に着ける」ことは、「讃美歌を歌うことを身に着ける」ことである。成る程と思いました。主を讃美する心がなければ、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容も虚しくなる危険性があるからです。讃美歌を歌うことこそ、永遠の命に生きることなのです。そしてこの言葉が続きます。「キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです。いつも感謝していなさい。キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、諭し合い、詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい。そして、何を話すにせよ、行うにせよ、すべてを主イエスの名によって行い、イエスにあって、父である神に感謝しなさい」。教会は礼拝と共に、会議を通して、主の御心を尋ね求めます。時には意見が対立し、激しく議論することがあります。心が傷つくことがあります。しかし、どんな時にも、神を賛美する心を忘れるなと語られます。会議で膠着状態に陥ったら、一端議論を止めて、讃美歌を歌ったらよいと思います。お互いが永遠の命に生きる交わりに生きていることを改めて知るからです。詩編と賛歌と霊的な歌を歌いながら、知恵を尽くして互いに教え、諭し合う交わりに生きるのです。17世紀、英国のウェストミンスター寺院で行われたウェストミンスター神学者会議は、これからの教会の歩みを決める重要な会議となりました。議論は白熱し、膠着状態に陥ることしばしばでした。その度に、議論を一端止めて、讃美歌を歌ったそうです。淀んだ部屋に、永遠の命の風が吹き注ぎました。5.①『信仰生活ガイド 使徒信条』という本があります。月刊誌『信徒の友』で、「使徒信条」の各項目を様々な伝道者が執筆し、それをまとめて本にしたものです。「永遠の命を信ず」を担当したのは、狛江教会の岩田昌路牧師です。教会創立50周年記念日を迎える二日前。ある男性から電話がありました。「私の妻は癌を患っています。最近は入退院を繰り返し、今は自宅で静養しています。もう長くはないと思います。妻は洗礼を受けることを望んでいます。私も一緒に洗礼を受けさせていただきたいと願っています。お力になっていただけますか」。この方は脳神経科の医師でした。尊敬する先輩医師が近隣の教会の長老をされており、狛江教会を紹介されたとのことでした。自宅を訪ねました。お連れ合いは相当やつれておられました。学生時代にキリスト教に触れたこと。家族全員が合唱やピアノを通して宗教音楽を愛しておられたこと。キリスト教信仰に対する憧れのようなものを抱いていたこと。癌の闘病生活という厳しい試練の中で、一つ一つのことが結び合わされ、洗礼への恵みに向かう決意が備えられたと話されました。更に、キリスト教大学で学んでおられた娘さんも、両親と一緒に洗礼を受けたいと願われました。この女性はその後、キリスト教の病院にある緩和ケア病棟に入院されました。この病院の医師がキリスト者であり、女性の叔父に当たりました。病室で洗礼式が執り行われ、聖餐に与りました。洗礼前も洗礼後も、病室を訪ね、家族全員がいると、音楽を愛する一家でもあったので、讃美歌を合唱で歌いました。上にあるものを求め、心を高く上げて讃美しました。素晴らしいハーモニーでした。女性は洗礼を受けてから三週間後、逝去されました。51歳の地上の人生を閉じられました。しかし、病室で家族全員で合唱した讃美歌のハーモニーは、永遠の命の調べを奏でていました。私どもの命は、生きる時も死ぬ時も、キリストの内にあることを確信して、日々讃美歌を歌うことを喜びとしていました。お祈りいたします。「主よ、地上の誘惑から解き放って下さい。心を真っ直ぐに高く上げ、上にあるものを求めさせて下さい。神の右の座におられるキリストを仰ぎ見させて下さい。キリストを身に纏い、永遠の命に生きながら、神を賛美しつつ、向き合うべき方と向き合い、語るべき言葉を語らせて下さい。私どもの讃美歌を通して、キリストの愛を、あの方にも、この方にも伝えさせて下さい。この祈り、私どもの主イエス・キリストの御名により、御前にお捧げいたします。アーメン」。

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