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「私たちは、ここに立つ」

列王記下6:15~19
ガラテヤ1:1~5

主日礼拝

井ノ川勝

2025年8月10日

00:00 / 26:48

1.①受付でご自分の名前を書かれた時に、既にお気づきになった方もおられるかもしれません。受付に額に入った色紙が置かれてありました。長崎で被爆された医師・永井隆さんの自筆の絵と句が記されています。永井隆さんのご子息と親交のありました教会の関係者が、敗戦後80年を迎えた8月に、多くの方に観ていただき、祈りを合わせてほしいという願いから、持って来られたものです。8月9日、長崎に原子爆弾が投下され、長崎の町は一瞬にして焼け野原となりました。浦上天主堂も崩れ落ちました。しかし、唯一会堂の正面にあったマリア像が残りました。被爆したマリアが焼け野原となった長崎を見つめながら、主に向かって叫び、祈りを捧げている。永井隆さんの色紙には、この被爆したマリア像が描かれています。そして一句を添えました。

「原子野に、立ち残りたる、悲しみの、聖母の像に、苔つきにけり」。

 永井医師は自らも被爆しました。妻は亡くなりました。しかし、衝撃と悲しみの只中で立ち上がり、被爆した方々の治療のために奔走し、力を注ぎました。永井医師を立ち上がらせたものは、一体何であったのでしょうか。この朝、私どもが聴いたガラテヤ書の冒頭の御言葉に尽きるのではないでしょうか。

「人々からでもなく、人を通してでもなく、イエス・キリストと、この方を死者の中から復活させた父なる神とによって使徒とされたパウロ」。

 人によってではなく、ただイエス・キリストと、イエス・キリストを死者の中から復活させた父なる神とによって、召され、遣わされたからである。

 永井隆さんも被爆しましたので、やがて医師として立ち、人々の治療のために奔走できなくなります。浦上天主堂の近くに、畳二畳の庵を立て、そこで寝たきりになりながら、執筆活動に専念されました。二人の子どもを育てながら。その庵を「如己堂」と名付けました。「己を愛する如くに」という主イエスの御言葉から付けられたものです。不思議です。誰よりも隣人愛に生きた永井医師が、何故、「己を愛する如く」「如己堂」と名付けられたのでしょうか。「己を愛する如くに、あなたの隣り人を愛しなさい」。主イエスの御言葉です。隣人を愛するためには、己をまず愛する。己を愛するためには、に主イエス・キリストが私どものために何をして下さったのかを身をもって味わわなければならない。キリストが私どものために身を献げて下さった。このキリストの献身愛がこの私にも全身注がれたからこそ、己を愛する如くに、あなたの隣り人を愛する愛に駆り立てられる。永井医師は寝たきりになっても、このキリストの献身愛に立っていた。やはりガラテヤ書の冒頭に、このような御言葉がありました。

「キリストは私たちの父なる神の御心に従って、今の悪の世から私たちを救い出そうとして、私たちの罪のためにご自身を献げてくださったのです」。

 

今、あなたはどこに立って生きているのでしょうか。立って生きるためには、土台、地盤が必要です。しかもその土台、地盤は、暴風にも、大雨にも、戦争に直面しても、どんなことがあっても、揺るがない土台、地盤です。今、あなたはそのような揺るがない土台、地盤の上に立って生きているでしょうか。

 金沢教会は今年、教会創立144年を迎えました。北陸学院は創立140周年を迎えました。いずれも実に長い歴史を、この北陸の地で立ち続けて来ました。米国北長老教会の宣教師トマス・ウィンの伝道によって生まれた教会と、キリスト教学校です。太平洋戦争を始め、様々な嵐の中を、揺らぐことなく立ち続けて来たのです。その揺るがない土台、地盤は共通の土台、地盤です。それは何であったのでしょうか。

 金沢教会も、北陸学院も、共にプロテスタントの信仰に立っています。その突破口となったのは、ルターでした。ローマカトリック教会の修道士であったルターは、教会はこのままでは立ち続けることは出来ないという危機感から、カトリック教会に問題提起をしました。それが突破口となり、教会改革運動が始まりました。しかし、一介の修道士であったルターは、カトリック教会を敵にしました。ルターは法廷で審問されました。その時、ルターが語った言葉があります。

「我、ここに立つ。主よ、我を憐れみ給え」。

これまでルターを支え、立たせていたカトリック教会もルターの支えとはならないのです。ルターを唯一支え、立たせるものは、ここにしかない。「我、ここに立つ」の「ここ」とは一体何を指しているのでしょうか。

 ルターはガラテヤ書を愛読していました。いくつもガラテヤ書の註解を書いています。その註解書の冒頭に、「わが愛する妻」という言葉を掲げました。私は妻の如くに、ガラテヤ書の御言葉を愛している。ガラテヤ書の御言葉こそ、ルターを改革者として立たせた揺るがない土台、地盤があったのです。

 

2.①ガラテヤの信徒への手紙を書いたのは、伝道者パウロです。伝道者パウロは手紙の冒頭で、私の揺るがない立ち処を明確に語っています。それがこの御言葉です。

「人々からでもなく、人を通してでもなく、イエス・キリストと、この方を死者の中から復活させた父なる神によって使徒とされたパウロ」。

 元の言葉は、「私パウロは使徒だ」と叫ぶような言葉から始まっています。何故、パウロは「使徒」にこだわるのでしょうか。「使徒」とは、甦られた主イエス・キリストとお会いし、福音を託され、召され、立たされ、御言葉を語る使命を与えられて、遣わされた者」です。

 使徒は最初の教会では、特別な人だけに限定されていました。甦られた主イエス・キリストとお会いした主イエスの12人の弟子たちです。主イエス・キリストによって、福音を託され、召され、立たされ、使命を与えられて、御言葉を語る使命を与えられて、遣わされました。パウロは元々、主イエスの12人の弟子ではありませんでした。それどころか、教会の迫害者、キリスト者の敵であったのです。ところが、そのパウロに甦られた主イエス・キリストが出会って下さり、パウロを捕らえて、回心され、福音を託され、召され、立たされ、御言葉を語る使命を与えられ、遣わされた者とされました。

 しかし、教会の人々はパウロを受け入れようとしません。パウロの手によって捕らえられた家族もいれば、殺された信仰の仲間もいたからです。いくらパウロが弁明しても、その言葉を信用することが出来ませんでした。疑う者たちがいたのです。

 それ故、パウロは自らが使徒として、どこに立っているのかを、手紙の冒頭で、叫ぶように明らかにしたのです。

「私パウロは使徒だ。私は、人々からでもなく、人を通してでもなく、イエス・キリストと、キリストを復活させた父なる神によって、使徒として召され、立たされ、遣わされたのだ」。

 私は人間的な手立てによって、使徒として立っているのではない。主イエス・キリストによって、キリストを死者の中から甦らせた父なる神によって、召され、立たされ、神の御言葉を語る使命を与えられて、遣わされたのだ。

この神の召しこそが、私を使徒として立たせているのだ。たとい以前は教会の迫害者、敵であったとしても、今、キリストが、父なる神が私を召して下さった。そのただ一つの故に、私は使徒として神の御言葉を語っている。

 ある伝道者はこの冒頭の御言葉をこう黙想しています。パウロは空中に引き上げられ、寒風にさらされている。パウロを支えるものは何もない。一切を取り去られた。パウロを支えるものはただ一つ。イエス・キリストと、キリストを死者の中から復活させた父なる神の御手、御言葉のみである。

 伝道者パウロがコリントの信徒への手紙一15章でこう語ります。私どものために十字架でいのちを献げられ、甦られたキリストは、ペトロに現れ、12人の弟子たちに現れ、5百人以上の兄弟たちにも現れた。そして最後に、月足らずで生まれたような私にまで現れた。私は、神の教会を迫害したのですから、使徒たちの中では最も小さな者であり、使徒と呼ばれる値打ちのない者。しかし、神の恵みによって、今日の私があるのです。

 

今、私は説教壇に立ち、御言葉を語っています。何か素晴らしい才能があるから、ここに立っているのではありません。欠けだらけの人間です。御言葉を語る伝道者としてふさわしい人間ではありません。そのような私が何故、説教壇に立ち、御言葉を語ることが赦されるのでしょうか。主イエス・キリストに伝道者として召されたからです。主イエス・キリストを死人の中から甦らせた父なる神が、御言葉を語りなさいと召して下さったからです。それを教会が承認して下さったからです。欠けだけの伝道者が語る御言葉を、聖霊の執り成しを受けて神の言葉として聴いて下さるからです。

伝道者パウロは使徒として孤独ではないのです。一人ぼっちではないのです。使徒パウロは語ります。「私と共にいるきょうだい一同」と、御言葉を語っていると言っています。

 伝道者である私も、孤独ではありません。一人ぼっちではありません。教会に連なる皆さんと共に、御言葉に聴き、御言葉を語っています。最初の教会では、「使徒」は特別な存在でした。しかし、今日、伝道者も、主イエス・キリストと、キリストを死者の中から甦らせた父なる神によって、福音を託され、召され、立たされ、使命を与えられ、遣わされた存在です。伝道者だけではなく、教会に連なる一人一人も、主に召され、立たされ、使命を与えられて、遣わされた存在です。教会に生きる者は皆、「使徒的人間」です。教会は、主によって召し集まられた使徒的人間の集団です。一人一人が福音を託されて、この世に遣わされるのです。使徒的人間の集団である私どもが立っている立ち処は、この一点です。

「人々からでもなく、人を通してでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中から復活させた父なる神によって使徒とされた者たちよ」。

3.①この冒頭の御言葉と響き合っている御言葉を、パウロは2章19、20節でも語っています。

「私はキリストと共に十字架につけられました。生きているのは、もはや私ではありません。キリストが私の内に生きておられるのです。私が今、肉において生きているのは、私を愛し、私のためにご自身を献げられた神の子の真実によるものです」。

 東京神学大学の教授であり、滝野川教会の牧師であった大木英夫先生が、賀川豊彦生誕百周年記念伝道会で、「キリストへの道」という講演をされています。私が何故、キリストと出会い、キリスト者となり、伝道者となったのか自伝を語られました。

 敗戦の日、大木英夫先生は東京陸軍幼年学校の最上級生でした。軍国少年として、ひたすら天皇のために死ぬ、お国のために死ぬ覚悟で生きて来ました。そのような軍国少年にとって、敗戦の日は、ものすごい虚無の経験、底の破れた虚無の深淵の経験でした。生きる意味、存在の意味を失い、もぬけの殻でした。虚脱状態でした。故郷の会津に帰りました。喜多方教会で賀川豊彦先生の伝道集会があると聞いて、初めて教会に足を踏み入れました。

 そこで初めて「贖罪愛」という奇妙な言葉を聴いた。丁度母親の胎内の赤ちゃんが母親の中にいて母親を知らないように、人間は神の中にいて神を知らないという譬えが心に残りました。キリストの弟子になろうとする者は前に方に進み出なさいと呼びかけられ、大木少年も前に出た。その時、生まれて初めて握手をした。賀川先生に握られた手の痛みも忘れられない。あの強い握手によって、大木少年は教会の外から教会の内へ、キリストの外からキリストの内へと招き入れられた。洗礼を受けたのは、それから1年余り経ってのことでした。

 賀川豊彦先生から初めて聞いた奇妙な言葉、「贖罪愛」。言い換えれば、「身代わりの愛」です。ご自分を犠牲にして、私どもの身代わりとなって下さり、私どもを生かすキリストの十字架の愛です。「献身愛」でもあります。ご自分のいのちを私どもに献げて下さり、私どもを生かすキリストの十字架の愛です。

 使徒パウロも冒頭で、こう語りました。

「キリスト私たちの父なる神の御心に従って、今の悪の世から私たちを救い出そうとして、私たちの罪のためにご自身を献げてくださったのです」。

 大木先生は語ります。タクシーは人を乗せていないと、「空車」と言う。どれ程走っても空しい。しかし、人を乗せると「実車」となる。目的地がはっきりし、走り出す。実りある走りとなる。走り方が違って来る。

 使徒パウロが語るのも将にこのことです。キリストが私の内に生きて下さることにより、私どもが走る意味が与えられる。私のためにキリストがいのちを献げて下さったキリストの献身愛に応えて、私どももキリストに献身して走り出すのです。キリストにより召され、立たされ、遣わされ、走り出すのです。

 

説教の冒頭で紹介した永井隆さん。しばしば色紙に豚の絵を描き、「しっぽもひと役」という言葉を添えました。しっぽのように無駄に見えるものも、ちゃんと役立っている。しっぱがなければ、豚ではないからです。寝たきりになって、永井隆さんは自分を豚のしっぽと重ね合わせたのです。

 この世で何の用もないものが生かされているはずがない。どんな病人でも、この世において働くことができるから、生かされている。寝たきりになっても、手があれば書くことができる。書くことができなくても、耳があれば話を聞くことができる。人を慰めることもできる。そして本当に何もできなくても祈ることができる。命の最後の瞬間まで、神さまに用いられて生かされる。神のまなざしのもと、無駄な人生はない。一人ひとりの掛け替えのない人生には必ず意味がある。果たすべき使命がある。人生には、無駄なものは何一つない。

 「人々からでもなく、人を通してでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中から復活させた父なる神によって使徒とされたパウロ」。

 私ども一人一人も、イエス・キリストと、キリストを死者の中から甦らせた父なる神によって、召され、立たされ、使命を託され、きりすとの使者として遣わされる使徒として生きるのです。

 

 お祈りいたします。

「何一つ輝きなく、欠けだらけの私どもを、主イエス・キリストは眼差しを注いで下さいました。キリストを死人の中から甦らされた父なる神が呼びかけて下さいました。私どもを召し、立たせ、使命を託し、キリストの使者として遣わされるのです。どうか私どもの存在と言葉を通して、キリストを証しさせて下さい。使徒的人間として召された教会の交わりを通し、この世にキリストの光を放つ存在として下さい。

 この祈り、私どもの主イエス・キリストの御名により、御前にお捧げいたします。アーメン」。

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