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「私たちは何によって評価されるのか」

出エジプト記16:1~12
ローマ12:1~8

主日礼拝

牧師 井ノ川 勝

2023年9月10日

00:00 / 41:30

1.①私ども一人一人は、それぞれに与えられ才能、個性、特質があります。その才能、個性、特質は、一人一人異なっています。自分に与えられた才能、個性、特質を十分に生かしている方もいます。しかし、十分に生かし切れていない方もいます。皆さんは、いかがでしょうか。何故、自分に与えられた才能、個性、特質を十分に生かし切れていないのでしょうか。様々な理由があるかもしれません。しかし、その一つの要因は、自分を正しく評価する物差し、秤をもっているかどうかではないでしょうか。自分を正しく評価する物差し、秤がありませんと、自分に与えられた才能、個性、特質を十分に生かし切ることが出来なくなります。それは本当にもったいないことです。しかし、そのことで悩み、苦しんでいる方は、実に多くいるのです。

 私どもが生きている社会、学校には、私どもを評価する物差し、秤があります。それらの物差し、秤によって、私どもの才能、個性、特質が評価されます。その評価の結果により、私どもは優越感に浸ったり、劣等感に陥ったりいたします。自分の才能、個性、特質が、他の人と比べられるからです。しかも自分の才能、個性、特質が点数で計られることが起こります。そこで一喜一憂するのです。

 問題は、社会、学校の様々な物差し、秤によって、私どもの才能、個性、特質が真実に評価されるのか、ということです。それらは時代が変わっても変わらない絶対的な物差し、秤なのでしょうか。決してそうとは言えないでしょう。むしろ時代と共に、社会、学校の様々な物差し、秤は変わって行きます。私どもは一体どこで、自分の才能、個性、特質を正しく評価する物差し、秤を手にすることが出来るのでしょうか。

 

②隅谷三喜男というキリスト者であり、経済学者がおられました。東京の代田教会の長老でもあり、求道者会での指導もされていました。求道者のために、『私のキリスト教入門』という本を書かれています。隅谷三喜男さんが、大学生に向けて語った講演集があります。『<生きる>座標軸を求めて』。座標軸は縦軸と横軸とが交わることにより、成り立ちます。座標軸により、私が今どこにいるのか。どこへ向かっているのかが明らかにされます。そのような生きた座標軸を、あなたがたは持っていますかと、問いかけているのです。横軸は私と他の人との関係です。しかし、日本人は縦軸を持っていないと言うのです。縦軸とは何でしょうか。神と私との関係です。横軸だけでは、私は今どこにいるのか。どこへ向かっているのかが分からないのです。横軸は縦軸と交錯してこそ、意味を持ちます。どうしても、神と私との関係が問われます。それが今、礼拝において、聖書の御言葉を通して、神からの語りかけを聴くことなのです。

 

2.①この朝、私どもが聴いた御言葉は、ローマの信徒への手紙12章の御言葉です。伝道者パウロが語った御言葉です。ここで注目すべき言葉が語られています。

「わたしに与えられた恵みによって、あなたがた一人一人に言います」。

伝道者パウロは私ども一人一人に、顔と顔とを合わせて語りかけています。あなたに向かって語りかけています。あなたにとって、とても大切なことだからです。一体、何を語りかけているのでしょうか。

「自分を過大に評価してはなりません。むしろ、神が各自に分け与えてくださった信仰の度合いに応じて慎み深く評価すべきです」。

 ここに「評価する」という言葉が繰り返し語られています。自分を課題に評価してはなりません。言い換えれば、自分を過小評価してもなりませんということです。神が各自に分け与えて下さった信仰の度合いに応じて、慎み深く評価すべきです。「信仰の度合い」という言葉は、新しい聖書翻訳では、「信仰の秤」と訳しています。「秤」という言葉は、私どもが日常生活でよく使う「メーター」という単位となった言葉が用いられています。電気メーター、水道メーターという秤となった言葉です。神から与えられた「信仰の秤」「信仰の物差し」があるのです。それは社会、学校で用いる物差し、秤とは決定的に異なります。

 「信仰の秤」に従って、「慎み深く」評価すべきである。この「慎み深く」という言葉は、伝道者パウロが好んで用いる言葉です。控えめにという意味ではありません。謙遜にという意味でもありません。面白い言葉です。「酔っ払っていない」「しらふである」という意味です。私どもがお酒に酔っている時に、何かを計ろうとしたら、目がぼやけてしまって、寸法を間違って計ってしまいます。正しく計ることなど出来なくなります。しかし、酒に酔っ払っていなければ、しらふであれば、正しく計ることが出来ます。「信仰の秤に従って、正しい目で評価しなさい」と語りかけられているのです。問題は、私どもを正しい目で評価する「信仰の秤」とは何かです。

 

②今、私どもが注目している御言葉を語る時に、伝道者パウロはこの言葉から語り始めていました。

「わたしに与えられた恵みによって、あなたがた一人一人に言います」。

今日の箇所で、実に3度も繰り返している言葉です。伝道者パウロもまた、神から「信仰の秤」が与えられて、自分を正しく評価する恵みを与えられた。その恵みをあなたがた一人一人にも伝えたいと語っているのです。パウロはかつて、誰よりも熱心なユダヤ教徒、誰よりも優れた律法学者として、自分を過大評価し、誇っていました。周りからもそのように評価されていました。ところが、甦られた主イエス・キリストと出会い、パウロの自己評価は粉々に打ち砕かれました。しかし、打ち倒したパウロを、甦られた主イエス・キリストは新しく造り変えて、立ち上がらせました。自分を正しい目で評価する「信仰の秤」が与えられたのです。その「信仰の秤」こそ、十字架につけられたキリストでした。

 かつてパウロは、十字架につけられたイエスに躓きました。十字架につけられたイエスは、神から見捨てられ、神から呪われた存在であると受け留めました。それ故、私どもが待ち望んでいた救い主ではなかったと失望しました。ところが、十字架につけられた主イエスが、甦られて、パウロに現れ、パウロを打ち倒し、新しい存在として造り変えて下さった。

 自分を過大評価し、自分を誇って生きていた時に、実は神の怒りを盛る、怒りの器として生きていたことを知らなかった。しかし、主イエスは十字架で、私どもに代わって神の怒りを受けて下さった。その代わりに、私どもは十字架の主イエスからひたすら恵みを注がれた。神の怒りを盛り、砕け散る怒りの器ではなく、神の恵みを溢れんばかりに注がれ、神の恵みに生かされた器とされた。私どもを生かす十字架のキリストの恵みを伝える憐れみの器とされた。十字架のキリストが、自分を正しく評価する「信仰の秤」となったのです。それ故、私どもは十字架のキリストの前にひざまずき、十字架のキリストによって、自分を正しく評価する「信仰の秤」を与えて下さいと祈り求めるのです。

 十字架は縦棒と横棒が交錯しています。クロスしています。英語で十字架をクロスと言います。キリストの十字架が、将にクロスした新しい座標軸となったのです。パウロを生かす信仰の秤となりました。パウロはローマの信徒への手紙の前半で、ひたすら十字架のキリストの恵みを集中して語って来ました。そのパウロがこの手紙の後半の最初で、私どもに向かって語りかけるのです。

「わたしに与えられた恵みによって、あなたがた一人一人に言います。自分を過大に評価してはなりません。むしろ、神が各自に分け与えてくださった信仰の秤に応じて慎み深く評価すべきです」。

 

3.①先々週、先週、そして本日の主の日の礼拝で、伝道者パウロが語った御言葉を聴き続けて来ました。エフェソの信徒への手紙4章、コリントの信徒への手紙一12章、そしてローマの信徒への手紙12章の御言葉です。伝道者パウロが共通して語っているただ一つのことがあります。教会はキリストの生きた体、私どもはキリストの生きた一つの体に連なる部分である。キリストの生きた体に連なる部分は、実に多くの部分から成り立っています。手、足、目、耳、口。一つ一つの部分がそれぞれ異なった働きをしています。しかも体にとって、欠くことの出来ない働きをしています。伝道者パウロは語ります。

「わたしたちは、与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物を持っていますから」。

 キリストの体に連なる一つ一つの部分は、異なった賜物を持っている。この「賜物」という言葉は、「恵み」という言葉から生まれました。それ故、「恵みの賜物」と呼んでいます。神から与えられた恵みの賜物です。どんな賜物があるのか。パウロは語ります。

「預言の賜物を受けていれば、信仰に応じて預言し、奉仕の賜物を受けていれば、奉仕に専念しなさい。また、教える人は教えに、勧める人は勧めに精を出しなさい。施しをする人は惜しまず施し、指導する人は熱心に指導し、慈善を行う人は快く行いなさい」。

 預言の賜物、奉仕の賜物、教える賜物、勧める賜物、施しをする賜物、指導する賜物、慈善をする賜物。この後に、更にいろいろな賜物が続くはずです。ここで注目すべきことは、自分に与えられた賜物に専念しなさい、精を出しなさいと勧められていることです。他の人と比較するな、比べるな、です。あなたにはあなたに与えられた賜物に専念し、精を出し、キリストの体のために働きなさいと勧められているのです。

 主イエスが十字架の死を目前として、弟子たちに語られたタラントンの譬えがありました。十字架にかけられる前に、どうしても聴いてほしい譬えでした。マタイ福音書25章です。「タラントン」は「タレント」、才能という意味になりました。主人が旅に出る前に、三人の僕にタラントンを託した。一人目の僕には5タラントン、二人目の僕には2タラントン、三人目の僕には1タラントンを預けた。一人目の僕と二人目の僕は、それぞれ5タラントン、2タラントンを基にして、更に5タラントン、2タラントンをもうけた。ところが、三人目の僕は1タラントンを土の中に隠しておいて、用いなかった。主人が帰って来た時に、そのことを怒った。何故、三人目の僕は主人、神から預かった1タラントンを土に隠し、用いなかったのか。他の僕と比べたからです。自分に預けられたタラントンが一番少ないことに腹を立てたからです。しかし、神から預けられた1タラントンも、実は高額なものであったのです。あなたは、あなたに主が預けられた1タラントンを感謝して、主のために豊かに用いなさいと、主イエスは語られているのです。主があなたに預けられた才能、賜物を、土の中に埋めるな。感謝して主のために用いれば用いる程、豊かになるのです。

 

②伝道者パウロはこの後、「愛には偽りがあってはなりません」と語り、全ての賜物に、愛が必要なことを語ります。そして「愛の十戒」を語ります。「兄弟愛をもって互いに愛し」から始まり、「旅人をもてなすように務めなさい」で結ばれます。その第二の愛の戒めに、こういう戒めがあります。

「尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい」。心惹く御言葉です。言い換えればこうなります。「尊敬することにおいて、相手に先んじなさい」。私どもは評価を得るために、相手より先んじます。兄弟が親から評価を勝ち取るために、先んじようとします。学校の先生から評価を得るために、友人より先んじようとします。会者の上司から評価されるために、同僚より先んじようとします。自分が評価されるためには、相手よりも先んじる、一歩前に踏み出さなければなりません。そのために激しい競争をします。しかし、パウロは語ります。教会の交わりにおいて、尊敬することにおいて、相手より先んじなさい。尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。これは教会の交わりだけではなく、夫婦の関係、親子の関係、友人関係、あらゆる関係に当てはまることです。

 学校の先生の役目は、生徒の中から優れたものを認め、引き出すことにあります。それが教育だと言われます。「あなたには、こんなに素晴らしいものがあるではないか」。本人が気づいていない才能、賜物を、先生が発見するのです。それが後の人生にとって、大きな一歩となったことはたくさんあります。教会の交わりもそうです。尊敬をもって、互いに主から与えられた賜物を発見し合うのです。それを喜んで主に献げて、教会の交わりの中を生きるのです。

 

4.①先月の8月、4年ぶりに東京神学大学から夏期伝道実習生が派遣され、北陸の諸教会で奉仕をされました。金沢教会は先週の一週間でした。久しぶりに初々しい神学生を見て、私自身の神学生時代を思い起こしました。神学校に入学する時、修道院に入るような覚悟で入学しました。神学生は皆、聖人のような存在だと思ったのです。ところが、神学生は実に個性豊かで、一人として同じ存在はいないことに驚かされました。躓いたりもしました。しかし、これが神の選びなのだと思いました。主イエスが選ばれた12人の弟子も、実に個性的で、一人一人異なります。漁師もいれな、徴税人もいれば、過激思想の者もいる。十人十色です。しかし、ただ一つ共通しているのは、主イエスが選ばれたということです。

 以前、伊勢の教会で伝道していました。牧師館が市役所のすぐ裏にありましたので、いろいろな人が訪ねて来ました。その中に、振興宗教の信者の方も、牧師館と知りながらも、信仰の勧誘のために訪ねて来ました。人目で分かります。皆、同じ顔をしています。洗脳されると、個性が奪われ、同じ顔になってしまう。恐ろしいと思いました。悲しいことです。しかし、信仰は本来、個性が奪われて、同じ顔になることではありません。教会の交わりに加えられ、信仰が与えられることは、むしろ私どもに与えられた個性が豊かにされ、神の賜物として豊かに用いられることなのです。主イエス・キリストと出会うことは、私に与えられた個性、賜物を発見し、それが主のために豊かに用いられることです。将に、主イエス・キリストと出会うことにより、私が本当の私となることなのです。それがパウロにも起こりましたし、私にも起こりましたし、そしてあなたにも起こることなのです。

 

②大学生時代、友人と静岡県の榛原にある、重い知恵遅れの子らと共に生きる施設、やまばと学園を訪ねたことがあります。当時、園長をされていたのは、長沢巌牧師でした。東京神学大学を卒業された方です。長沢巌牧師が書かれた『おおぞらに向かって』という本を読んだからです。長沢牧師は後に、脳に腫瘍が見つかり、手術を受けられましたが、意識が戻らなくなりました。奥さまの道子さんが園長を受け継がれました。

長沢牧師は静かに語られました。キリスト信仰を土台とする私どもの施設も、教会の交わりと同じように、生きたキリストの一つの体に連なる一つ一つの部分である。それ故、重い知恵遅れの子らにも、主からその子にしかない個性、賜物が与えられている。その個性、賜物を発見し、引き出すことが、私どもの使命なのです。

伝道者パウロがコリントの信徒への手紙一15章で、キリストが死者の中から復活されたのは、私どもが終わりの日、キリストと同じように復活させられる初穂、先取りであると語られました。私どもが終わりの日、キリストと同じように復活させられる時、私どもは「霊の体」で復活する。私どもは死を超えて、キリストの体に、霊の体で繋がれる。それでは霊の体とはどんな体なのか。パウロは語ります。

「天上の体と輝きと地上の体の輝きとは異なっています。太陽の輝き、月の輝き、星の輝きがあって、それぞれ違いますし、星と星との間の輝きにも違いがあります。死者の復活もこれと同じです」と語り、「霊の体」で復活すると語ります。「霊の体」、それは神の霊によって聖められた体です。キリストに似た体です。しかし、それは私どもの個性、賜物を失った、誰の体か分からない体ではありません。十把一絡げの体ではありません。

長沢先生はパウロの言葉を引用し、語られます。「この星とあの星とは輝きを異にする」。重い知恵遅れの子らも、この星とあの星とは輝きを異にするが、同じ生きたキリストの体に連なる部分として、輝きを放っているのだ。

 

4.①東京神学大学の初代の校長は、植村正久牧師です。学長室には滅多に入ったことはありませんが、学長室に植村正久牧師の写真が掛けられています。日本を代表する伝道者であり、優れた説教者です。説教の目的は、生けるキリストを真っ正面から、気合いを入れて伝えることだ。神学校の先生から、植村牧師のような伝道者になれ、植村牧師のような説教者になれと、繰り返し言われました。

 ところが、植村青年が伝道者になるための試験を受けた時に、試験官であったバラ宣教師が異議を唱えました。この青年が語る日本語はよく分からない。顔つきも伝道者として人相が悪く、ふさわしくない。試験に危うく不合格になるところだった。植村青年は訥弁でした。しかし、友人がひっしに執り成しました。「この男は誰よりも伝道することが好きだ」。友人の執り成しによって、辛うじて伝道者の試験に合格した。しかし、その後、植村牧師は精進して神学、文学の勉強をし、言葉を研きました。そして日本を代表する伝道者、説教者になりました。植村牧師は富士見町教会で、伝道者30年の祝いの席で、自らの伝道者としての歩みを振り返り、語った言葉があります。

「訥弁であった私は、他の伝道者と比べ、いつも僻み根性を持っていた。しかし、神の恩恵によって万事が祝福せられ、多くの好い朋友に助けられたことをただ鮮やかに見るのみである。僻み根性を恥じる。伝道が好きである。下手の横好きであったかも知れぬが、下手でも無能でも好きだということは自らも許している。もっと神の道に貢献したいと思っている」。

 植村牧師ですら僻み根性を持っていたとは驚きです。しかし、今、僻み根性を恥じる。誰よりも主イエスが好きである。三度の飯よりも伝道が好きである。主から与えられた個性、賜物を全て主に献げて、ひたすら主のために伝道に励み、もっと神の道に貢献したい。植村牧師のこの願いは、キリストの体に連なる部分である私どもの願い、祈りでもあります。

 

 お祈りいたします。

「主よ、自分と友とを比べ、自分にないものばかりを数えては、僻み根性に生きています。しかし、この私にも、生けるキリストの体に連なることにより、主から預かった個性、賜物があることを発見します。どうか私どもの個性、賜物を主のために用いて、私どもを輝かせて下さい。私どもの存在と言葉を通して、私どもの内に、生ける主イエス・キリストが生きておられることを証しさせて下さい。破れに満ちた私ども教会の交わりを通し、生けるキリストを映し出させて下さい。

 この祈り、私どもの主イエス・キリストの御名により、御前にお捧げいたします。アーメン」。

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