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「私よりも私を知る神」

イザヤ書30章15~21節
マタイによる福音書10章26~31節

主日礼拝

井ノ川 勝 牧師

2025年10月12日

00:00 / 37:36

2025.10.12. 「私よりも私を知る神」

       イザヤ30:15~21、マタイ10:26~31


1.①私どもは日々の生活において、様々な不安に取り囲まれながら生きています。家庭にはいつも不安があります。家族の病気のことあります。親の介護のことがあります。子どもの進路のことがあります。また、私どもが生きている世界は様々な問題を抱えており、世界は一体どこへ向かうのか、不安に満ちています。小さな不安から大きな不安に至るまで、不安は幾重にも私どもを取り囲みます。私どもはまた考えて見ますと、いつも死と向き合いながら生きています。死の不安の中にあります。不安が広がって行きますと、恐れが支配し、心が縮こまり、目の前のことに手が付かなくなります。

 教会にも不安があります。教会の将来への不安です。教会はどうなってしまうのだろう。それは、今、御言葉を受け入れる人が少ないということです。私どもが語る言葉がなかなか届かない。一体どのような御言葉を語ったら、人々の心に届くのだろうか。何故、御言葉が届かないのだろうか。恐れと不安が私どもを覆います。

 

しかし、そのような不安と恐れの中にある私どもに向かって、今朝も主イエスが語りかけられます。「恐れるな」。実に三度も語りかけます。「恐れるな」「恐れるな」「恐れるな」。

 この言葉は、旧新約聖書を通して一貫して語りかけられる神の御言葉です。エジプトを脱出した神の民が、前は海、後ろは追い迫るエジプトの軍勢で、八方塞がりに遭いました。脅える神の民に向かって、神はモーセを通して語られました。「恐れるな」。

 救い主の誕生を真っ先に羊飼いに告げた天使は語りました。「恐れるな」。嵐の海で、船が沈みそうになり、脅える弟子たちに向かって、主イエスは語られました。「恐れるな」。主イエスの墓を訪ねたマグダラのマリア、もう一人のマリアに向かって、天使は語りかけました。「恐れるな」。

 神は聖書を通して、恐れと不安の中にある私どもに向かって、繰り返し語りかけるのです。「恐れるな」。この小さなひと言に、神の福音、喜びの知らせが凝縮されているのです。

 主イエスが直前の「山上の説教」で弟子たちに向かって、繰り返し語られた御言葉があります。「思い煩いな」。

「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また体のことで何を着ようかと思い煩うな」。

「だから、明日のことを思い煩ってはならない」。

 「思い煩う」という言葉は、「心が千々に分裂する」という意味です。恐れと不安の中で、心があっちに行ったり、こっちに行ったりして、焦点が定まらないことです。

 何故、私どもは恐れるのか、不安になるのか、思い煩うのか。神がここに生きておられることが見えなくなるからです。神が私と共に生きておられることが信じられなくなるからです。そこに恐れ、不安、思い煩いの根本原因があるのです。

 「恐れるな」と三度も立て続けに語られた主イエスが、ただ一度、「恐れなさい」と語られています。

「体を殺しても、命を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、命も体もゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい」。

「ゲヘナ」という言葉は、以前の新共同訳では「地獄」と訳されていました。あなたがたを不安にさせ、恐れさせる様々な力が、あなたがたを取り囲んでいる。しかし、あなたがたの命を滅ぼすことは出来ない。あなたがたの命を滅ぼすことの出来る唯一の方を恐れなさい。それこそが、私どもに命を与え、私どもの命を支え、私どもの命を取り去られる神です。命を与えられた神こそが、命を滅ぼすことも出来る。ただ神のみを恐れなさい。真実に恐れるべき神のみを恐れた時、恐れなくてもよいものから解き放たれるのです。

 

2.①今日の御言葉は、主イエスが12人の弟子たちを、初めて伝道に遣わされる場面で、主イエスが語られた御言葉です。弟子たちは緊張し、不安と恐れの中にいました。びくびくしていました。神学生が初めて夏期伝道実習で教会に遣わされる。神学校を卒業した伝道者が初めて、教会に遣わされる。そこで御言葉を語る。果たして、私が語る御言葉が人々の心に届くだろうか。御言葉を受け入れないのではないか。拒否されるのではないか。恐れと不安に満たされます。

 しかし、この御言葉は伝道者だけに語られた御言葉ではありません。私ども信徒も、御言葉に生かされている主の弟子です。礼拝で聴いた御言葉を携えて、家族や友人の許へ運ぶのです。私どもの生活を通して、家族や友人に、生けるキリストを証しするのです。家族や友人に、私は御言葉に生かされているその喜びが伝わるだろうか。いつも不安と恐れの中にあります。

 主イエスは私どもの小さな不安から大きな不安に至るまで、全てをご存じです。それ故、このような御言葉を語られるのです。

「二羽の雀は1アサリオンで売られているではないか」。1アサリオンはどのくらいの値段なのか。昔の文語訳では、1銭と訳されていました。最小単位のお金です。僅か1銭に過ぎない二羽の雀。小さな小さな命です。しかし、その小さな命である雀一羽さえ、天の父のお許しがなければ、地に落ちることはない。父なる神の御手の中で、守られ、生かされている。況してや、あなたがたは雀以上の存在ではないか。

 あなたがたの髪の毛までも一本も残らず数えられている。私どもは自分でありながら、自分のことを知らないのです。自分の髪の毛が何本あるかも知りません。それなのに、私どもは自分のことは自分が最もよく知っている。私の命は私のものだ、私の命は私の手の中にあると思って生きています。しかし、主イエスは語られます。あなたの命はあなたの命を造られた父なる神の御手の中にある。父なる神はあなたの髪の毛一本までも残らず数えておられる。あなたの命は父なる神のまなざしの中に置かれている。私よりも私を知っておられる父なる神がおられる。それだから、恐れることはない。

 

先々週の9月23日、私はかつて30年間伝道した伊勢の山田教会独立百周年礼拝に招かれました。教会独立というのは、浪速中会からの援助を絶ち、自分たちの献げものだけで教会を建設して行くことです。キリストの教会としてひとり立ちすることです。教会が真実に教会として自立し、立って行くことです。伊勢神宮の前で、教会が独立して百周年を迎えた。私は12年ぶりに、山田教会の説教壇に立ち、御言葉を語りました。懐かしい山田教会の説教壇に立ちますと、歴代の伝道者が存在を懸けて語った御言葉が聴こえて来るような思いがしました。

私は神学校を卒業し、伝道師として遣わされました。主任牧師は冨山光一牧師でした。冨山牧師には十八番の説教がありました。それが今日の御言葉です。「だから恐れることない」という説教です。他の教会の特別伝道礼拝に招かれると、必ずこの御言葉の説教をされました。山田教会でも何度も何度も説教をされました。金沢教会の伝道礼拝に招かれた時にも、この御言葉の説教をされました。それが金沢教会伝道説教集『だから恐れることはない』に納められています。冨山牧師の福音の核心がここにあります。

 「それこそ、死ぬならば地獄へ行くことも間違いなしというのは私たちなのです。どうしてそのような私たちが神さまの前に出て、神さまを天の父よと言うことができることになっておるのであろうか。それは何故でありましょうか。分からなくなるのです。

 どうしてそういうことが言えるんですか、思わず途方に暮れて顔を上げて見ると、そこにイエス・キリストが立っていらっしゃる。この方にこそ秘密があるのです。イエス・キリストという方に、私たちの救いの秘密があるのです。本当ならば地獄に行かねばならないところの私たちが、嘘つきで、人を騙すことが好きで、自分は豊かになることは好きだけれど、本当は御名を汚しておるような私が、神さまを『わたしの天の父よ』と呼べるところの者であるということの秘密は、このイエス・キリストにある。この方がその秘密を握っていらっしゃる」。

 冨山牧師は自分の墓碑に、「われ罪人の頭なり」という御言葉を刻んでほしいと度々言われました。「嘘つきで、人を騙すことが好きで」、これは冨山牧師が自らのことを語っています。救われようのない罪人、死んだら地獄に落ちて、滅びるしかない罪人の私が、何故、天の神を「わたしの父よ」と呼べるのか。主イエスが私どもを代表して、私どもに代わって、私ども罪人が救われるための一切の手続きを完璧に果たして下さった。それが十字架の出来事であったのです。私どもは罪人のまま、主イエスの兄弟とされた。主イエスの兄弟とされたということは、神の子とされた。神の子とされることによって、天におられる神を、「わたしの父よ」「アッバ、父よ」と親しく呼ぶことが出来るようにされた。こんなに嬉しいことはない。

 

3.①天の神に向かって、「わたしの父よ」「アッバ、父よ」と呼んだのは、主イエスが始められたことです。私どもに向かって、「だから、こう祈りなさい」と、「主の祈り」を教えられた時の最初の呼びかけは、「天におられるわたしたちの父よ」「アッバ、父よ」でした。マタイ福音書は、「天におられるわたしたちの父よ」「アッバ、父よ」という主イエスの呼びかけの言葉を、とても大切にしています。冨山牧師はここに信仰の急所があるから、何度も何度もこの御言葉を説教されました。今日の御言葉でも、主イエスが語られています。

「二羽の雀は1アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。だから、恐れることはない」。

 この後、主イエスは弟子たちを、ガリラヤから離れた地、フィリポ・カイサリア地方に連れて行かれました。マタイ福音書16章13節以下です。そこで弟子たちに問いかけられました。

「それでは、あなたがたは私を何者だと言うのか」。

弟子を代表してペトロが答えました。

「あなたはメシア、生ける神の子です」。

ペトロは初めて主イエスは、キリスト、救い主、神の子であることを告白しました。そこで主イエスは初めて、御自分はどのような救い主であるのかを明らかにされました。わたしは十字架の道を歩み、十字架につけられ苦しみを受けて殺され、三日目に甦らされる救い主であると。

 更に、主イエスは弟子たちに語られた。

「私に付いて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を負って、私に従いなさい。自分の命を救おうと思う者は、それを失い。私のために命を失う者は、それを得る」。

 そして主イエスはこの御言葉を語られました。

「たとえ人が全世界を手に入れても、自分の命を損なうなら、何の得があろうか。人はどんな代価を払って、その命を買い戻すことができようか」。

印象深い御言葉です。全世界を手に入れる。それは私どもの究極の欲望です。しかし、主イエスは語られます。たとえ全世界を手に入れても、自分の命を損なうなら、何の得があろうか。言い換えれば、あなたの命は全世界よりも重いと主イエスは語られるのです。あなたの命を買い戻すためには、どんな代価を払えばよいのか。あなたの命と釣り合う命は何か。「代価を払って、買い戻す」。この言葉が「贖う」という言葉となりました。主イエスは十字架で、ご自分の命を代価として払ってまで、私どもを買い戻し、御自分のものとして下さった。私どもの命は神の御子イエス・キリストと同じ重さ、貴さを持っているのです。

 私どもは主イエス・キリストの命を代価として、買い戻されたものです。キリストの者とされ、天の父を、「わたしの父よ」「アッバ、父よ」と呼ぶ神の子として下さったのです。教会は将に、天の父を「私たちの父よ」「アッバ、父よ」と呼ぶ神の子らの群れなのです。

 

先程の冨山光一牧師の「だから恐れることはない」という説教の結びで、宗教改革時代に生まれた『ハイデルベルク信仰問答』問1の問答に触れています。金沢教会も宍戸牧師の時代から教会修養会で学んで来た大切な教会の信仰告白です。

「生きるにも死ぬにも、あなたのただ一つの慰めは何ですか」。

答「わたしがわたし自身のものではなく、体も魂も、生きるにも死ぬにも、わたしの真実な救い主イエス・キリストのものであることです。

 この方は御自分の尊い血をもって、わたしのすべての罪を完全に償い、悪魔のあらゆる力からわたしを解放してくださいました。

 また、天にいますわたしの父の御旨でなければ、髪の毛一本も落ちることができないほどに、わたしを守っていてくださいます。実に万事がわたしの救いのために働くのです」。

 カトリック教会の迫害、またペストという疫病によって、一夜で町全体が滅びるという恐れと不安の中で、教会に生きた人々は絶えず死と向き合いながら、ひたすらにただ一つの慰めを聖書の御言葉から聴き続けて来たのです。

 主イエス・キリストが御自分の尊い血を払って、私どもを買い戻して下さった。あらゆる悪しき力から解放して下さった。生きるにも死ぬにも、キリストの者として下さった。天の父の御旨でなければ、髪の毛一本も落ちることが出来ない程に、私のようないと小さき者に目を留め、守って下さる。この問1の答えの文章に、主イエスの御言葉が採り上げられているのです。『ハイデルベルク信仰問答』に生きた教会の一人一人が、主イエスのこの御言葉に、ただ一つの慰めを与えられたのです。

「二羽の雀は1アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父の許しがなければ、地に落ちることはない。あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。だから、恐れることはない」。

 私よりも私を知る父なる神が、私の髪の毛一本までも数えて下さり、守って下さる。「だから、恐れるな」と主イエスが語りかけて下さる。それだから、私どもはどんな恐れの中にあっても、どんな不安の中にあっても、「わたしの父よ」「わたしたちの父よ」「アッバ、父よ」と呼ぶ神の子の群れに生きるのです。たとえ私が恐れと不安に支配され、呼べなくても、私どもの信仰の仲間が執り成して、「アッバ、父よ」と呼んで下さるのです。

 

 お祈りいたします。

「恐れの中で、不安の中で、主に呼べなくなる私どもです。しかし、天の父が髪の毛一本ですら残らず数え、守って下さるのです。神の御子主イエスが、御自分の命と血を払ってまで、私どもを買い戻し、あなたは私のものだとして下さったのです。だから恐れるなと語りかけて下さるのです。天の父よ、恐れの中にあっても、不安の中にあっても、アッバ、父よと呼ばせて下さい。アッバ、父よと呼ぶ神の子の群れに生きさせて下さい。アッバ、父よと呼べない信仰の仲間のために執り成し呼ばせて下さい。アッバ、父よ。

 この祈り、私どもの主イエス・キリストの御名により、御前にお捧げいたします。アーメン」。

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