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「秘かな弟子から主の弟子へ」

詩編 88編2~19節
ヨハネによる福音書 19章38~42節

井ノ川 勝 牧師

2026年3月15日

00:00 / 34:53

2026.3.22. 「秘かな弟子から主の弟子へ」

       詩編88:2~19,ヨハネ19:38~42


1.①礼拝に出席されている皆さんの中には、まだ洗礼を受けておられない方もいます。まだ洗礼を受けていなくても、礼拝を通し、御言葉を聴き続けていますと、御言葉が心に迫って来ます。この御言葉は私のために語られた御言葉ではないか、と思うようになります。この私も主イエスに捕らえられているのではないか、と思うようになります。主イエスに従って歩みたい、という思いが生じて来ます。しかし他方で、洗礼を受けることにためらう思いもあります。洗礼を受け、公然と神と人々の前で信仰を言い表さなくても、自分の心の中で、秘かに主イエスを信じていればよいではないか。そういう思いが生じて来ます。

 また既に洗礼を受けておられる方でありましても、日本社会の中で生きて行く上で、自分が洗礼を受け、キリスト者であることを明確にすることをためらわれる方もいます。自分がキリスト者であることが知られたら、仕事の上で差し障りがある。キリスト者であることを隠そうとする思いがあります。それは誰の心の中にも生じる恐れであると言えます。

 

教会は今、受難節の歩みを続けています。主イエスの十字架の御苦しみの意味を覚える季節です。それが私どもの一日一日の歩みを形造るのです。主イエスの地上の最後の一週間、受難週には、様々な人物が登場します。その中でも、私どもの心を惹き付ける人物がいます。アリマタヤ出身のヨセフとニコデモです。二人はいずれも、ユダヤの議員、ユダヤ人の指導者です。更にもう一つ、二人に共通していたものがあります。

「イエスの弟子でありながら、ユダヤ人たちを恐れて、そのことを隠していた」。すなわち、主イエスの秘かな弟子であったということです。主イエスに心惹かれながらも、公然と人々の前で、信仰を言い表すことが出来ませんでした。その意味で、私どもの心を惹く人物であるのです。

 しかも二人が登場するのは、十字架で死なれた主イエスを十字架から取り降ろし、墓に埋葬する場面です。この場面には、主イエスの弟子も、主イエスに従った女性たちも、他の人物も登場しません。ヨセフとニコデモの二人だけです。

 ヨセフは、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ福音書の主イエスの埋葬の場面だけに登場しています。ニコデモはヨハネ福音書だけに登場する人物です。しかも三回、重要な場面で登場しています。その一つが主イエスの埋葬の場面です。

 

2.①ニコデモが最初に登場するのは、ヨハネ福音書3章です。しかも夜、人目を憚り、一人で秘かに主イエスを訪ねました。ニコデモはファリサイ派の一人で、律法学者でした。旧約聖書に精通し、ユダヤ人の信仰の指導者でした。しかし、旧約聖書を読んでも、どうしても解決出来ない問題がありました。しかも人生の根源的な問題です。それは、私どもは死を超えて、確かな命を掴むことが出来るかどうかでした。これは全ての人が問いかける究極的な問題です。恐らく、ニコデモは年を取っていた。日々、死と向き合いながら生きていたと思われます。しかし、律法学者でありながら、ニコデモはその答えが見つからなかった。主イエスの御言葉を遠くから聴いていたニコデモは、主イエスに心惹かれるものがあったのでしょう。そこである夜、人目を憚り、秘かなに主イエスを訪ねたのです。夜の対話です。主イエスとニコデモとの一対一の、信仰を巡る対話です。今、私どもが礼拝を捧げていることは、主イエスと私が一対一で信仰を巡る対話を、私どももしているということです。

 主イエスはニコデモから問いかけられなくても、既にニコデモの問いかけを受けとめられました。そしてこの一言で、ニコデモの問いかけを言い表しました。

「よくよく言っておく。新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」。

 「新たに生まれる」。「上から生まれる」という意味です。神によって新しく生まれ変わることです。神によって新しく生まれ変わった者は、神の国を見ることが出来る。死を超えた命に与ることが出来る。

 しかし、ニコデモは律法学者でありながら、主イエスの言葉を理解出来ず、愚かにもこのように答えました。

「年を取った者が、どうして生まれることができましょう。もう一度、母の胎に入って生まれることができるでしょうか」。

 主イエスは言い換えて、答えられました。

「よくよく言っておく。誰でも水と霊とから生まれなければ、神の国に入ることはできない」。

 「水と霊とから生まれる」とは、水と霊による洗礼を受けることです。洗礼は、頭に水が注がれ、神の霊が注がれることにより、キリストと共に古い人間が死に、キリストと共に新しい人間として甦る出来事が、私どもにも起こることです。その神の御業に与り、キリストにあって新しくされることにより、神の国を見ることが出来る、死を超えた新しい命に与ることが出来るのです。

 しかし、ニコデモは主イエスの言葉を理解出来ませんでした。虚し思いで、夜の闇の中へ去って行きました。

 

次に、ニコデモが登場するのは、7章50節です。祭司長やファリサイ派の人々は、主イエスを捕らえて、殺そうと話し合っていました。その時、ただ一人、ニコデモだけが主イエスを弁護しました。

「我々の律法によれば、まず本人から事情を聞き、何をしたかを確かめたうえでなければ、判決を下してはならないことになっているではないか」。

 しかし、ニコドモは反論され、口を閉ざしてしまいました。

 ヨハネ福音書は様々な伏線が張り巡らされています。様々な意図が隠されています。それを探し当てるスリルのある滋味深い福音書です。その一つが、12章42節の御言葉です。

「とはいえ、議員の中にもイエスを信じる者は多かった。ただ、会堂から追放されるのを恐れ、ファリサイ派の人々をはばかって告白しなかった。彼らは、神からの誉れよりも、人間からの誉れを好んだのである」。

 ここに驚くべきことが語られています。ユダヤの議員の中に、主イエスを信じる者がいた。ヨセフやニコデモのことです。しかし、主イエスを信じていることを公然と告白すると、自分たちの地位や身分、仕事が剥奪され、ユダヤ教の会堂から追放されてしまう。村八分になってユダヤの社会の中で生きて行けなくなる。それを恐れて、秘かな主イエスの弟子に留まっていたのです。神の誉れよりも、人の誉れを好んだ。神のまなざしよりも、人のまなざしを気にした。神の評価よりも、人の評価を優先したのです。主イエスを信じて生きることは、キリスト者として社会の中を生きることです。そこではいつも、神の誉れか、それとも人の誉れかという葛藤があります。人の誉れ、人のまなざし、人の評価から解き放たれて生きることが出来ず、それに縛られてしまう。臆病の霊、恐れの霊に取り憑かれてしまう。それは誰にでもある葛藤です。

 

3.①主イエスはやがて捕らえられ、大祭司から尋問を受けます。その場面が、18章19節です。こう語られています。

「大祭司はイエスに、弟子のことや教えについて尋ねた」。

 何気ない言葉でが、重要な意味を持っています。大祭司が主イエスに尋問したのは、二つのことです。一つは「主イエスの教え」の内容です。もう一つは「弟子のこと」です。しかも、こちらの方を真っ先に尋ねています。「弟子のこと」とは、主イエスの12人の弟子のことではありません。ユダヤの議員の中で、秘かに主イエスを信じている者がいる。それを嗅ぎつけた大祭司は、主イエスから直接聞き出そうとしているのです。秘かな弟子たちは戦々恐々としていたことでしょう。自分の名が挙げられることを恐れていたことでしょう。大祭司の執拗な追求に、主イエスはどのように答えたのでしょうか。

「私は、世に向かって公然と話してきた。私はいつも、ユダヤ人が皆集まる会堂や神殿の境内で教えた。隠れて語ったことは何もない」。

 主イエスは語られます。私はいつも世に向かって公然と語って来た。隠れて語ったことはない。主イエスの言葉は、いつも公然たる言葉で、秘かな言葉ではない。それは言い換えれば、主イエスの言葉の前で、私どもが隠していた罪が明らかにされる。公にされるということです。主イエスは秘かな弟子が誰なのかは、大祭司の前では語られませんでした。

 

主イエスは大祭司の尋問、そしてローマの総督ポンテオ・ピラトの裁判を受け、十字架刑の判決を受けました。十字架につけられ、殺されました。主イエスの弟子たちは一人残らず皆、主イエスを見捨てて逃げ去りました。公然たる弟子が秘かな弟子、隠れた弟子になりました。しかし、秘かな弟子が、主イエスの十字架の場面を観て、公然たる弟子となりました。隠れなき弟子となりました。それが主イエスの遺体を十字架から取り降ろし、埋葬する場面です。ヨセフとニコデモの登場です。

 ヨセフはピラトに、主イエスの遺体を十字架から取り降ろしたいと願い出ました。十字架につけられた者は、ユダヤの律法では、「木に掛けられた者は呪われる」、神に呪われた者とされました。しかし、ヨセフは大胆にも、勇気を出して、ピラトに願い出ました。十字架の上で神に呪われた主イエスの遺体を、大胆にも取り降ろしました。そして自分のために用意した、まだ誰も葬られていない新しい墓に、主イエスを埋葬しました。

 ヨセフと共に、十字架の主イエスの下に現れたのが、ニコデモでした。ニコデモは、没薬とアロエを混ぜた物を百リトラばかり持って来ました。百リトラは約33キロです。相当な重さです。何故、これ程の量の没薬を持って来たのでしょうか。遺体に塗るためです。遺体に塗ることにより、肉体が腐ることを防いだのです。没薬ということで、私どもがすぐに思い出すのが、主イエスが誕生した時に、東から来た博士たちが、主イエスの前にひれ伏し、献へ物を捧げました。黄金、乳香、没薬です。生まれたばかりの幼子主イエスへの信仰告白です。黄金は、あなたこそ真の王です。乳香は、あなたは神と私どもを執り成す大祭司です。そして没薬は、あなたこそ十字架で、私たちのためにいのちを献げられる救い主です。あの博士の信仰告白が、ニコデモの信仰告白となったのです。秘かな弟子、隠れた弟子が、没薬を主イエスの体に塗ることを通して、公然と、あなたこそ、十字架で私たちのためにいのちを献げられた救い主ですと、信仰の告白をしたのです。秘かな弟子から公然たる弟子になったのです。

 

4.①さて、問題は、何故、ヨセフとニコデモが、大胆にもこのような信仰告白を公然とすることが出来たのかです。

 主イエスは十字架の上で、「わたしは渇く」と叫ばれ、「成し遂げられた」と言って、息を引き取られました。十字架上の主イエスを見て、十字架上の主イエスの言葉を聴いたニコデモは、あの夜、秘かに訪ねて、対話をした場面を想い起こしたと思います。最後に、主イエスが語られた御言葉を想い起こしたと思います。あの夜、主イエスは最後に、ニコデモに向かって、こう語られました。

「モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである」。

 ニコデモは主イエスが語られたこの言葉の意味が分かりませんでした。それ故、夜の闇の中を去って行きました。しかし今や、十字架の主イエスと対面し、十字架の主イエスの言葉を聴き、初めてあの主イエスの言葉の意味が分かりました。いや、自分が主イエスの言葉に捕らえられてしまった。実は、主イエスはあの言葉の後に、このような言葉を語られたのです。

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。

 聖書の中の中心聖句です。主イエスが何故、十字架につけられたのか。十字架で、この私のためにいのちを献げられた主イエスを信じる者が、一人も滅びないで、永遠の命を得るためであった。死を超えた命に与るためであった。ニコデモの人生の究極的な問いかけの答えを、主イエスは自らの十字架の死を通して、お答えになられたのです。

 

ヨセフとニコデモが、十字架の主イエスの遺体を引き降ろし、墓に葬った3日後、驚くべき出来事が起こりました。主イエスは死を打ち破り、墓から出て来られた。甦られた主イエスは弟子たちに現れて下さったのです。恐らく、ヨセフとニコデモにも、甦られた主イエスは現れて下さったのではないかと思います。甦られた主イエスから、あなたがたは秘かな弟子ではなく、隠れなき主の弟子として生きなさいと招かれたと思います。ヨセフも、ニコデモも、最初の教会を支える主の弟子となりました。

 主イエスが十字架につけられる前夜、弟子たちに向かって語られた遺言説教があります。自らが十字架に上げられることはどういうことか、それをこの一句で表しました。12章32節。

「私は地から上げられるとき、すべての人を自分のもとに引き寄せよう」。

「私が地から上げられるとき」。十字架に上げられる時です。墓から引き上げられ、甦られる時です。その時、私は全ての人を私の許に引き寄せようと、主イエスは約束されました。これは将に、礼拝の最後の祝祷、祝福です。私はあなたが生きる時も死ぬ時も、私の確かなまなざしの中に入れられる。あなたが生きる時も死ぬ時も、私の祝福の御手の中に入れられる。甦られた主イエスは、ヨセフとニコデモにも現れ、この御言葉を語られ、祝福のまなざしと御手の中に引き寄せて下さったのです。あなたがたは生きる時も死ぬ時も、秘かな弟子ではなく、隠れなき私の弟子として生きるのだ。

 金沢教会は毎年11月の第一主日の礼拝後、野田山の教会墓地で墓前祈祷会を行います。またその年に亡くなられた方々の納骨を行います。私どもにとって、納骨はどのような意味があるのでしょうか。今朝、私どもが聴いた詩編88編は「闇黒の詩編」と呼ばれています。このような御言葉が語られています。

「あなたは死者のために奇しき業をなされるでしょうか。死者の霊が起き上がって、あなたをほめたたえるでしょうか。あなたの慈しみが墓の中で、あなたのまことが滅びの国で語られるでしょうか。奇しき業が闇の中で、あなたの義が忘却の地で知られるでしょうか」。

 しかし、主イエスが十字架に上げられ、墓に葬られ、陰府に降られ、墓から引き上げられ、甦られ、天に引き上げられたことにより、私どもの死の意味も、墓の意味も、墓に納骨される意味も全く変わりました。闇黒の墓も、主イエスの甦りのいのちに溢れるのです。それ故、主イエスが引き上げられた天へ、私どもが引き上げられる天へ、私どもの心を高く上げ、甦られた主をほめたたえるのです。

「主イエスこそ、わが神、わが主。すべてのものに勝利された甦えりの主。生きる時も死ぬ時も、私どもは主のもの。主の弟子」。

 

 お祈りいたします。

「神の誉れよりも、人の誉れが気になる私どもです。神のまなざしよりも、人のまなざしを気にする私どもです。キリスト者であることに後ろめたさを覚え、隠してしまう臆病の霊に取り憑かれてしまう私どもです。しかし、そのような私どものために、主イエスは十字架に上げられ、墓に葬られ、墓から引き上げられ、甦られたのです。わたしはあなたをわたしのもとに、引き寄せると招いて下さったのです。死の闇に勝利をされた主イエスのいのちの御手の中で、生きる時も死ぬ時も、主の弟子として生かして下さい。

 秘かな弟子を隠れなき主の弟子へと招いて下さい。

 この祈り、私どもの主イエス・キリストの御名により、御前にお捧げいたします。アーメン」。

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