「空しい生活からの解放」
レビ記 11章44~45節
ペトロの手紙一 1章13~21節
「主日礼拝」
井ノ川 勝 牧師
2026年1月4日
2026.1.4. 「空しい生活からの解放」
レビ11:44~45,ペトロ一1:13~21
1.①2026年1月1日、能登半島地震から2年目を迎えました。中部教区では地震が起きた午後4時より、能登半島地震2周年記念礼拝をオンラインで捧げました。80名以上の方が出席し、祈りを合わせました。説教をされたのは、輪島教会の新藤豪牧師でした。説教題は「人の見るもの、神が見るもの」。聖書はサムエル記上16章7節の、主がエッサイの息子の中から、年下のダビデを選ばれた御言葉でした。
「容姿や背の高さに目を向けるな。わたしは人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る」。
昨年、月刊誌『信徒の友』11月号の「日毎の糧」で、石川地区の諸教会が祈りの対象となりました。金沢教会にも全国の教会、信徒からたくさんの祈りのハガキが送られて来ました。11月23日は輪島教会を覚える日でした。その日に選ばれた御言葉が、この御言葉であったとのことでした。
輪島教会の近くにある朝市通りの街並みは、地震と火事で焼け野原となりました。輪島教会の会堂も牧師館も甚大な被害を受け、取り壊されました。町の人々が長い年月を懸けて築き上げて来たものが、一瞬にして無に帰してしまいました。町の人々も、輪島教会の信徒も、輪島の地を離れて避難生活をされている方は多くいます。輪島の将来、輪島教会の将来に思いを馳せる時、不安と空しさに覆われてしまう。そのような只中で、主は語りかける。
「人は目に映ることを見るが、主は心によって見る」。人間の目から見れば、全てが無に帰した荒廃の現実が見えて来る。しかし、主は人が見るようには見られない。必ず、無に帰したように見える荒廃の現実の中に、御言葉の種を蒔き、花を咲かせて下さる。その主の御業を信じて、空しい思いから解き放たれて、御言葉を語り続けて行く。
新しい年を、新藤牧師が語るこの御言葉を聴くことから始めることが出来たことは幸いなことでした。そしてこの御言葉は私どもの一年の歩みを導く御言葉とも思えました。
②昨年、東京神学大学を定年退職された小友聡先生が、新しい書物を書かれました。『人生に無意気なことなどない~今を生きるコヘレトの言葉~』。しかも一般の出版社から出版され、一般の方を対象とした書物でした。コヘレトの言葉は旧約聖書の中で、異質な音色を奏でています。「空の空、空の空、一切は空である」。このような御言葉から始まっています。以前の新共同訳はこう訳しました。「何という空しさ、何という空しさ、すべては空しい」。
2020年4月、新型コロナウイルスの感染拡大の中、NHKの「こころの時代」のテレビ番組で、小友先生は「それでも生きる」という主題で、コヘレトの言葉を説き明かされました。これまでも「こころの時代」で様々な聖書の御言葉が採り上げて来ましたが、コヘレトの言葉が採り上げられるのは初めてのことでした。コロナウイルスの感染拡大で、自分たちが努力して積み上げて来たものが中断せざるを得なくなる。何かをしたくても何も出来ない。空しさに捕らえられ、生きる意味を見失ってしまう。そのような中で、コヘレトの言葉が人々の心に響いたのです。大きな反響を呼びました。聖書を読んだことのない方からも手紙や電話をいただいたそうです。高校生から電話が掛かって来た。「先生、息苦しくて、空しくて、もう生きる意味など見出せない。それでも生きなくてはならないの」。
小友先生は語ります。
「世界は閉塞し、息苦しく、将来に悲観的なシナリオしか描けない今の私たちに、コヘレトの言葉が私たちに寄り添い、くじけるな、今日を生きよと呼びかけます。人生に無意味なことはありません」。
コヘレトが遙かかなたに仰ぎ見ようとしていたもの。それをペトロは今日の御言葉で語っているのではないでしょうか。
ペトロの手紙一が書かれた時代は、ローマ帝国の迫害の時代でした。キリスト者たちは各地に離散しました。自分たちが抱く望みが、ことごとく押し潰されて行く中で、ペトロは語ります。「あなたがたの信仰と希望とは、神にかかっている」。「キリストにある」。
2.①私どもが生きて行く上で、誰もが手応えのある人生を生きたと願っています。手応えがあるということは、自分の手で、生きるための確かなものを掴み取りたいということです。確かなものをなかなか掴めない。掴み損なってしまう。自分の手の中が空になってしまう。空を掴んでいるようで、空しさを感じることがあります。
ペトロも今日の御言葉で、「空しい」という言葉を用いています。しかも面白い用い方をしています。
「知ってのとおり、あなたがたが先祖伝来の空しい生活から贖われたのは」。
今日の時代では、その傾向が弱くなっているかもしれませんが、私どもにはそれぞれの家、地域の共同体で受け継がれて来たものがあります。家の伝統、地域共同体の習慣と呼ばれるものです。それらが家族の一体性を生み、地域共同体の一体性を生んでいました。それが私を形造る命の絆でした。従って、先祖伝来の空しい生活ではなく、先祖伝来からのものを誇りとしていました。ペトロもユダヤ人として、先祖伝来からのものを誇りし、生きていました。ところが、先祖伝来からのものが空しいものとなったというのです。 先祖伝来の伝統や習慣が、私どもを縛り付け、私どもを生かす自由となっていない。私どもに喜びとなっていない。むしろ私どもを抑圧し、生き生きとした呼吸が出来なくしている。実りあり手応えを感じるどころか、空しさを感じるようになっている。
何故なのか。生ける主イエス・キリストと出会ったからです。それ故、ペトロは語るのです。
「知ってのとおり、あなたがたが先祖伝来の空しい生活から贖われたのは、銀や金のような朽ち果てるものによらず、傷も染みもない小羊のようなキリストの尊い血によるのです」。
クリスマス礼拝で、一人の姉妹が洗礼を受けられました。洗礼は頭に水が注がれますが、同時に、キリストの血が注がれることでもあります。キリストの十字架の血によって、あなたは先祖伝来の空しい生活から贖われた出来事が起きたのです。「贖う」という言葉は、物の売買から生まれた言葉です。古代においては物だけではなく、奴隷の売買も行われていました。奴隷を買い取るためには、銀や金を払わなければなりません。銀や金を払って、奴隷を自分のものとするのです。従って、「贖う」という言葉には、「身代金」という意味があります。主イエス・キリストが私どもの身代金となることにより、私どもを先祖伝来の空しい生活から贖われ、私どもを神のもの、キリストのものとして下さった。私どもを生かす自由と喜びを与えて下さったのです。
洗礼式では誓約がなされ、教会の信仰告白が告白され、讃美歌が歌われました。実は、この御言葉は、教会の信仰告白、洗礼式に歌われた讃美歌ではなかったかとも言われています。
「知ってのとおり、あなたがたが先祖伝来の空しい生活から贖われたのは、銀や金のような朽ち果てるものによらず、傷も染みもない小羊のようなキリストの尊い血によるのです」。
②この手紙はローマ帝国の迫害により、各地に離散したキリスト者を励まし、慰めるために語られた御言葉です。実は、2020年4月の復活祭より、新型コロナウイルス感染拡大のため、礼拝堂に集って礼拝出来なくなりました。空しさを味わう日々が続きました。しかし、主の日毎に、離散した教会員がそれぞれの家で、ライブ配信の礼拝を捧げました。その時、説き明かした御言葉が、このペトロの手紙一でした。私どもにとって忘れられない御言葉となりました。離散しながらも、私どもを結び付ける、一つにする教会の信仰の歌がある。それこそが教会の信仰告白であり、讃美歌です。私どもはキリストの血によって、空しい生活から贖われ、キリストのものとされている。どんな力もキリストから私どもを引き離すことは出来ない。キリストを死者の中から復活させた神が、私どもをキリストの生きた御手で捕らえて下さっているからです。ここに私どもの慰めがあるのです。私どもの信仰と希望は神に懸かっているからです。キリストにあるからです。
今、私どもは2026年新年の礼拝を捧げています。礼拝堂に集うことの出来ない教会員が多くいます。しかし、それぞれの家庭でライブ配信の礼拝を捧げています。共に教会の信仰の歌を賛美しています。離れていても、私どもは一つの主の群れなのです。
今日の説教題をもう一つ考えていたものがありました。「聖なるものとなりなさい」。神が新しい年を迎え、新たな歩みを始めようとする私どもに呼びかけている御言葉だと思ったからです。こちらの題の方がよかったかなという思いがあります。
しかし、私どもがこの御言葉を聴いた時に、ためらう思いがあることも事実です。「とてもとても、私が聖なるものであるなどとは、おこがましくも言えません」。誤解を生む言葉です。しかし、私どもの教会の信仰の中心にあるものです。どこに誤解があるのでしょうか。「聖なるもの」とは、私どもの努力によって得るものではありません。また、一人一人の努力によって、聖なるものとなるのでもありません。神こそは聖なる神です。聖なる神の交わりの中へ、神はふさわしくない私ども招いて下さるのです。そのために、私どもはキリストの尊い血により、贖われ、キリストのものとされたのです。教会は聖徒の交わりと言われます。聖人の交わりではありません。聖なる神を中心とした交わりです。このことを強調するのがレビ記です。レビ記の中心となる信仰です。
「私はあなたがたをエジプトの地から導き上り、あなたがたの神となった主である。私が聖なる者であるから、あなたがたも聖なる者となりなさい」。
ペトロの手紙一は、「生活」という言葉が繰り返し用いられています。ローマ帝国の迫害により、異教社会へ離散したキリスト者が、日々の生活の中で信仰を証しして行くのです。たとえ厳しい状況に置かれても、私はキリストのものとされ、キリストに生かされている。私は聖なる神の交わりの中で生かされている。それ故、たとえ離散していても、教会の歌を歌うのです。聖なる神の交わりに生かされている、教会の歌を歌うのです。20節以下の御言葉も、教会の信仰の歌なのです。
「キリストは、天地創造の前からあらかじめ知られていましたが、この終わりの時に、あなたがたのために現れてくださいました。あなたがたは、キリストを死者から復活させて栄光をお与えになった神を、キリストによって信じています。したがって、あなたがたの信仰と希望とは、神にかかっているのです」。
3.①今日の御言葉を聴いて、皆さんの中には既に感じられた方がいるかもしれません。一つ一つの御言葉の背後に、出エジプトの出来事が暗示されているからです。神の民イスラエルの祖先は、エジプトの地で、エジプト王に支配の下、奴隷でした。主なる神を礼拝する自由と喜びのない空しい生活を送っていました。エジプトを脱出する夜、小羊の血を入り口の二本の柱と鴨居に塗りました。神は小羊の血を見て、裁きを行わず、過ぎ越されました。その夜の食事は、小羊の肉を火で焼き、種なしのパンを、腰に帯を締め、足にサンダルを履き、手に杖を持ち、急いで食べました。過越の食事となりました。そして奴隷の家・エジプトを脱出した神の民は、昼は雲の柱、夜は火の柱に導かれて、神に導かれて、約束の地を目指し、荒れ野の旅を40年続けました。ここに地上を旅するキリスト者の群れ、教会の原形があります。
キリスト者の群れは地上にあっては寄留者です。旅人です。地上が永遠の住まいではないからです。地上の旅は様々な試練が訪れます。しかし、私どもキリスト者の群れは、心を引き締め、身を慎んで旅を続けるのです。聖なる神の交わりの中で、共に歩むのです。
「心を引き締め」。出エジプトの出来事で言えば、腰に帯を締めです。しかし、ここでは元の言葉では「心の腰に帯を締め」です。面白い言葉です。それ故、「心を引き締め」と訳しています。「身を慎み」。酔っ払っていない、しらふでという意味です。心を引き締め、目を覚まして、あなたがたの地上の旅を導いておられる神を見なさい。人生の旅路を導かれる神は、あなたがたの行いに応じて、公平に裁かれる。「公平に」という言葉も面白い言葉です。「顔に寄らず」「顔が利かない」という意味です。私どもは人生の旅路において、しばしば親の顔、知り合いの有力者の顔で、就職において、仕事において、便宜を図ってもらうことをすることがあります。しかし、神には顔は利かない。神は顔に寄らず、公平に、それぞれの行いに応じて裁かれる。それ故、神に畏れをもって向き合う。自分たちの旅の姿勢を整えるのです。
しかし同時に、私どもはキリストにあって、神を父よと呼ぶことが赦されているのです。神の御子である主イエス・キリストが、神を、「アッバ、父よ」と信頼を込めて呼びました。キリストに贖われ、キリストの者とされた私どもも、神を「アッバ、父よ」と信頼を込めて呼んでよいのだとされました。神はキリストを死者の中から復活させて、私どもの地上の旅の先頭に立たせて下さったのです。日々、襲い懸かる苦しみや悲しみの中にあって、主イエスと共に、「アッバ、父よ」と信頼を込めて呼びながら旅を続けるのです。
②説教の冒頭で語りましたように、2020年、コロナ禍の中で、世界は閉塞状況に陥り、自分たちがしてきたことが中断させられ、息苦し日々を送り、私どもは一体何のために生きているのだろうかと、問う日々を送りました。その時に、NHKの「こころの時代」で、小友先生の「それでも生きる」という主題で、コヘレトの言葉の説き明かしが始まりました。大きな反響を呼び、「こころの時代」の第二段として、小友先生と文学者でカトリックの信仰に生きる若松英輔さんとの対談が行われました。「すべてには時がある~旧約聖書『コヘレトの言葉』をめぐる対談」。
その中で、ル・グウィンの『ゲド戦記』の一節の言葉を紹介しています。主人公のゲドがアレンという若い弟子に向けて語ります。
「よくよく考えるんだぞ、アレン、大きな選択を迫られた時には。まだ若かった頃、わしは、ある人生とする人生のどちらかを選ばなければならなくなった。わしは、する人生に飛びついた。次から次へとすることに集中した。しかし、ときに私たちは何かを『する』のではなく、ここに『ある』ことを選ばなければならないのだ」。
ゲドは私どもに問いかけているのです。私どもは、自分がどのように存在すべきなのかということと、自分はいま何をすべきなのかということを、両方考えなければならない。ゲドは若者に問うのです。人は「ある」ことを考えないで、「する」ことだけを考える。「ある」ことは、与えられた人生と言い換えることも出来ます。神の御前で、私どもは何故「ある」のか。与えられた人生があるのかを問う。それが礼拝、祈りの時です。そこで神の語りかけを聴くのです。そこから私どもに与えられた使命を知る、与えられた人生を、いかになすべきかが生まれて来るのです。
ペトロは語ります。
「あなたがたを召し出してくださった聖なる方に倣って、あなたがた自身も生活のあらゆる面で聖なる者となりなさい」。
「聖なる者となりなさい」。キリストの贖いによって、キリストの者とされたあなたがたは既に聖なる者とされている。聖なる神の交わりの中へと招かれている。私どもは神の前で、「ある」ものとされていることを知るのです。そしてそこから聖なる交わりに生きる旅人として、「する」ものへと召されて行くのです。
お祈りいたします。
「主よ、新しい年の私ども教会の姿勢を、聖なる神との交わりに生きる者として整えて下さい。心を引き締め、身を慎み、先頭に立たれるキリストに導かれて、御言葉の杖をもって歩ませて下さい。地上の旅路は思い掛けない試練に直面します。私どもが抱く希望が吞み込まれてしまいます。しかし、キリストを死者の中から復活させた神に、信仰と希望とが懸かっていることを信じて、一足一足確かな歩みを刻ませて下さい。
この祈り、私どもの主イエス・キリストの御名により、御前にお捧げいたします。アーメン」。
