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「立ち直って生きよ」

エゼキエル33:10~11
ルカ22:24~34

主日礼拝

牧師 井ノ川 勝

2024年3月3日

00:00 / 40:40

1.①私どもは日々の歩みにおいて、しばしば失敗をしたり、躓いたりすることがあります。挫折感を味わい、倒れてしまい、もう立ち上がることが出来ない。立ち直ることが出来なくなることがあります。人生の挫折感を味わったことのない人は、一人もいないのではないでしょうか。大切なことは、挫折しない人生を生きるのではなく、挫折しても立ち直る人生を生きることです。

 金沢教会が伝道して生まれた若草教会の初代牧師は、加藤常昭牧師でした。神学校で、あるいは、説教セミナーで、加藤先生から、しばしば若草教会時代の伝道、金沢伝道の話を聞きました。若草教会が伝道集会を計画し、町の至るところに看板を立てた。伝道集会の説教題は、「あなたも立ち直れる」。金沢大学の学生が、何かで気落ちしたまま道を歩いていた。ふと顔を上げると、看板の言葉が目に留まった。「あなたも立ち直れる」。その言葉に導かれるようにして、教会堂に入った。それから求道生活を始め、洗礼へと導かれた。「あなたも立ち直れる」。この言葉が、将に、自分に向かって呼びかけられていると受け留めたのです。この説教題は、主イエスのこの御言葉から採られたものです。

「しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」。

 

②主イエスの地上の歩みを綴った福音書は、十字架の道を歩まれた主イエスの物語です。同時に、主イエスに従った弟子たちの物語、取り分け、ペトロの物語でもあります。私どもはペトロと自分自身とを重ね合わせながら、福音書の御言葉に聴いているところがあります。ペトロは主イエスに従いながらも、躓き、失敗した弟子です。主イエスの弟子であることに、挫折した弟子です。しかし、主イエスによって立ち直った弟子でもあります。福音書は、ペトロの挫折と立ち直りの物語です。そしてそのペトロの物語を通して、私どもに語りかけているのです。「あなたも立ち直れる」、「あなたも立ち直って生きよ」と。

 3月を迎えました。受難節の歩みをしている私どもは、主イエスの地上の最後の一週間である受難週を間もなく迎えようとしています。福音書は、主イエスの地上の最後の一週間である受難物語に、多くの紙面を費やしています。主イエスの受難物語が、ルカ福音書では第22章から始まります。

 十字架の死を目前とされ、主イエスは弟子たちと最後の晩餐を執られました。最後の晩餐の席での、主イエスと弟子たちとの対話が、ルカ福音書ではとても丁寧に描かれています。主イエスは突然、あなたがたの中で私を裏切る者がいると語られました。食卓の交わりに、緊張が走りました。弟子たちはお互い、一体誰が主イエスを裏切ろうとしているのかと論争を始めました。ところが、論争の主題がいつの間にか、別の主題に代わりました。自分たちの内で誰が一番偉いのかを巡り、論争を始めました。主イエスの突然の鋭い指摘です。「あなたはわたしを裏切ろうとしていないか」。他人事ではありません。弟子たちは皆、自分自身のこととして、自分の内側を振り返らなければならないのです。しかし、弟子たちは自分の事としてではなく、「お前が主イエスを裏切りそうだ」と、互いに論争を始めた。そしてその論争がいつの間にか、自分たちの内で誰が一番偉いのかという主題に代わってしまった。言い換えれば、誰が人々の目から見て、一番大きいのかを論争したのです。人々の目に、私はどう見られているのか。大きな存在として見られているのか、小さな存在として見られているのか。いつも人の目が気になる。人々の評価が気になっているのです。主イエスのまなざしの下で、自分がどのような存在なのかを見ようとすることを忘れているのです。弟子たちの姿を笑うことは出来ません。それは将に、私どもの姿でもあるからです。

 激しい論争の中で、ペトロには自負がありました。確信がありました。「私こそが主イエスの一番弟子。弟子たちの中で、私こそが最も大きな存在である」。

 

2.①そのようなペトロに向かって、主イエスは語りかけました。「シモン、シモン」。主イエスは2度まで、シモンの名を呼ばれています。十字架の死を目前とした、主イエスとペトロの最後の対話です。ここに、主イエスのペトロに対する慰めの対話があります。他の福音書が書き留めていない主イエスの言葉を、ルカ福音書だけは書き留めています。

 ペトロは主イエスとの最後の対話において、自らの覚悟を表明しました。

「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しています」。

主イエスと共にいるなら、私は牢に入れられても、死んでもよい。ペトロの決死の覚悟です。この決死の覚悟を通して、ペトロは他の弟子たちとは異なって、自分こそが一番大きな弟子なのだということを示したのです。他の弟子たちは、自分こそが一番大きな弟子なのだと誇示しても、すぐに躓いてしまうでしょう。しかし、私は他の弟子たちとは違います。私は決して躓きません。最後まで、死んでも、主イエスに従います。私こそが一番大きな弟子なのですから。

 ところが、主イエスはペトロに語られました。「ペトロ、言っておく」。

主イエスが「ペトロ」と直接呼びかけるのは、ルカ福音書ではここだけです。主イエスが付けられた名です。「岩」という意味です。岩のような信仰を誇っているペトロに向かって、主イエスは語られました。

「ペトロ、言っておくが、あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう」。

 岩のようなペトロ、岩のような信仰であるペトロ、あなたはいとも簡単に躓く。わたしとの関係を三度も否定する。あなたという岩は砕け散るのだ。主イエスはペトロの裏切りの予告をされました。

 

②しかし同時に、主イエスはペトロに向かって、このようにも語りかけておられます。ルカ福音書だけが書き留めた言葉です。

「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた」。

 自分たちが決死の覚悟で従っていた主イエスが、十字架につけられて、殺されてします。そこでこそ、サタンの誘惑が最も激しくなり、深まって行く。サタンはあなたがたを、小麦のように篩に掛けることを神に願って聞き入れられた。収穫した小麦を篩に掛け、実と殻とをかき分けます。サタンがペトロの信仰、弟子たちの信仰を篩に掛ける。その時、何が残るのか試される。主イエスへの純真な信仰が残るのか。それとも自分が信仰と思っていたものは、全部ふるい落とされてしまい、信仰と言えるものは何も残らないのか。

 ヨブ記を想い起こします。サタンは神に挑戦状を叩き付けます。ヨブの信仰は利益があるから成り立っている。豊かな財産がある。子どもにも恵まれている。健康な体が与えられている。それらの恵みの囲いを一遍に取り去ったら、ヨブの信仰は崩れ去る。利益がなくなれば、ヨブの信仰は崩れる。神はサタンの挑戦状を受け入れます。何故ならば、ヨブの信仰は利益がなくても信じる信仰であると信頼していたからです。

 サタンがヨブを誘惑した試練が、今、主イエスの十字架の死の出来事を通し、ペトロ、弟子たちにも起こるのです。それは今、私どもにも起こるサタンの誘惑です。信仰の試練です。サタンは勝ち誇ります。「あなたがたの信仰を篩に掛けたら、信仰と呼べるものは何も残らない」。このようなサタンの誘惑、試練に、私どもは一体どうやって立ち向かうことが出来るのでしょうか。

 

3.①主イエスは続けて、ペトロに語りかけました。

「しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」。

 サタンがペトロの信仰を篩に掛けたら、ペトロの信仰はふるい落とされる。信仰は残らない。サタンは誘惑に勝利して、雄叫びを上げる。しかし、主イエスは語られます。

「しかし、わたしはあなたのために信仰が無くならないように祈った」。

主イエスは祈りにおいて、サタンの誘惑と激しく戦っておられます。ここに主イエスの決死の戦い、決死の覚悟があります。ルカ福音書は「主イエスの祈り」を強調します。主イエスは日々祈られた。何を祈られていたのか。主イエスの祈りはこの一点に集中していた。「わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った」。

 その主イエスの祈りは、この直後、オリーブ山での苦しみ悶え、血の汗を流しながら、夜を徹した祈り、そして十字架上での祈りで頂点に達しました。

「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」。

主イエスは私どもに代わって、私どものために祈られた。私どものために執り成しの祈りをされたのです。「あなたの信仰が無くならないように祈った」。

 ペトロはこの後、主イエスの予告された通りに、主イエスを三度知らないと語り、主イエスとの関係を打ち消し、主イエスを裏切りました。主イエスを見捨てて逃げ去りました。信仰を無くしました。信仰を捨てました。主イエスの祈りは届かなかったのでしょうか。いや、そうではありません。ペトロは立ち直ったのです。問題は、信仰を無くしたペトロが何故、立ち直ることが出来たのかです。

 

②「立ち直ったら」。今日の中心となる御言葉です。「向きを変える」、「方向転換する」という意味です。同じ語源の言葉に、「振り向いて」があります。実は、ルカ福音書には7回、この言葉が出て来ます。ルカが大切にしている言葉です。しかもいずれも主イエスに用いられています。主イエスは振り向かれた。向きを変えて下さった。主イエスは重要な場面で、振り向いておられます。大切な御言葉を語られる時に、振り向いておられます。主イエスは振り向いて語られました。「自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、わたしの弟子ではない」。主イエスは振り向いて、涙で主イエスの足を濡らし、香油で濡らした髪の毛で拭ってくれた罪の女に目を留められました。主イエスは振り向いて、嘆き悲しみながら従って来た婦人たちに目を留め、語られました。「わたしのために泣くな。自分と自分の子どもたちのために泣け」。

 そして主イエスは、三度主イエスを知らないと言ったペトロを、振り向いて見つめられました。この時の主イエスの動作を書き留めているのは、ルカ福音書だけです。22章61節です。主イエスは振り向いてペトロを見つめられた。ペトロは、「今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と言われた主の言葉を思い出し、外に出て、激しく泣きました。主イエスを裏切ったペトロを、振り返り見つめられた主イエスのまなざしは、どんなまなざしだったのでしょうか。福音書には記されていません。ただ分かっていることは、振り返られた主イエスのまなざしを見て、ペトロが激しく泣いたことです。いろいろな方が様々な想像をしています。

 裏切ったペトロをにらみつける、怒りに満ちたまなざしであったのではないか。「ほら、わたしの言った通りになったでしょう」と、あきれ果てたまなざしであったのではないか。いや、悲しみのまなざしであったのではないか。この時の主イエスのまなざしを想像する上で、大切なことがあります。直前で主イエスがペトロにこう語られていることです。

「わたしはあなたにために、信仰が無くならないように祈った」。

振り向いてペトロを見つめられた主イエスのまなざしは、ペトロの信仰が無くならないように祈るまなざしであったということです。裏切ったペトロに、主イエスは振り向きもせずに、背を向けたられたままであったのではありません。裏切ったペトロに、向きを変えて、まなざしを注がれたのです。わたしはあなたの信仰が無くならないように祈っていると、祈りのまなざしを注がれたのです。

 振り向かれた主イエスのまなざしを見つめて、ペトロは主イエスの言葉を想い起こしました。「今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」。ペトロは外に出て、激しく泣きました。主イエスの弟子として挫折した涙です。

 主イエスはこの後、十字架につけられて殺されます。しかし、三日後、甦られた。そして甦られた主イエスは、裏切ったペトロ、弟子たちを訪ねられました。その時、ペトロに注がれた甦りの主イエスのまなざしを見つめて、ペトロは初めてこの時、振り向いて注がれた主イエスのまなざしの意味が分かったのだと思います。ペトロは甦りの主イエスのまなざしの中で、主イエスが語られた言葉を想い起こしました。「わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った」。主イエスはあなたのために祈っているという祈りのまなざしを注がれた。その主イエスのまなざしが、挫折したペトロを涙の中で立ち直らせることになったのです。

 

4.①挫折したペトロが何故、立ち直ることが出来たのか。「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しています」と語ったペトロの決死の覚悟でも、決心でもありません。「わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った」と語られた主イエスの決死の覚悟、決死の執り成しの祈りが、挫折したペトロを立ち直らせたのです。信仰とは、私どもの覚悟、決心で成り立つのではなく、主イエスの覚悟、執り成しの祈りによって成り立ち、支えられるのです。主イエスの祈りに支えられてこそ、無くなってしまうような私どもの信仰が成り立つのです。

 伝道者パウロが若き伝道者テモテに宛てた手紙があります。その中で、礼拝で歌われた讃美歌を引用しています。

「たとえ私たちが不真実であっても、キリストは常に真実であられる」。

真実という言葉は信仰と同じ言葉です。私どもの信仰は自分では真実だと思っても、不真実です。しかし、キリストは常に真実であられる。キリストの真実が、私どもの不真実、不信仰を支えるのです。

 讃美歌21-197は、日本人が作詞、作曲した讃美歌です。振り向いてペトロを見つめられた、主イエスのまなざしを歌った讃美歌です。

「ああ主のひとみ、まなざしよ、三たびわが主を、いなみたる

 よわきペトロを かえりみて、ゆるすはたれず、主ならずや。

 きのうもきょうも かわりなく、血しおしたたる み手をのべ、

 『友よかえれ』と まねきつつ 待てるはたれず、主ならずや」。

 ルカ福音書は、「振り向いて」という言葉が7回も用いられています。その全てが、主イエスが振り向かれた時に用いられます。しかし、一つだけ例外があります。主イエスが語られた「失われた息子の譬え」です。放蕩に身を持ち崩した息子が、「我に返った」。この言葉は「本心に立ち返った」とも訳されたことがあります。自分の本心に向きを替えることです。父の許を離れることが本心ではなく、父の許に立ち帰ることが本心であったことに気づいた。自分の本心に立ち返る。それが父の許に立ち帰ることです。主に向きを替えて、歩み直すことです。預言者エゼキエルの言葉で言えば、「主に立ち帰って生きよ」です。それが「立ち直る」ことです。「悔い改めて生きる」ことです。

 そのために主イエスは、あなたの信仰が無くならないように祈って下さった。オリーブ山で夜を徹して決死の祈りを捧げ、十字架の上でも、決死の祈り、執り成しの祈りを捧げて下さったのです。

「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」。キリストの真実が不真実な私どもを立ち直らせ、主に立ち帰らせるのです。

 

②主イエスはペトロに語られました。

「しかし、わたしはあなたたちのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」。

不思議な言葉です。あなたのために、立ち直りなさいと語っているのではありません。兄弟たちを力づけるために、立ち直りなさいと語っているのです。あなたが立ち直るのは、兄弟たちを力づけるためなのです。兄弟たちに向きを替えるのです。あなたと同じように、サタンの誘惑を受け、篩に掛けられ、信仰が揺れ動き、信仰を無くしている兄弟たちがいる。主の執り成しを受けて立ち直ったあなたが、今度は兄弟たちを力づけてやりなさい。兄弟たちを力づけるには、どうしたらよいのでしょうか。兄弟たちのために、執り成しの祈りを捧げることです。「わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った」という主イエス執り成しの祈りに、私どもの祈りを合わせて祈ることです。執り成しの祈りを通して、あなたも立ち直れると呼びかけるのです。

 礼拝の最後に、祝祷が捧げられます。祝福を祈り求めるのではなく、ここに神の祝福があると、祝福の宣言をするのです。その前半はアロンの祝福です。民数記6章24節以下の御言葉です。旧約221頁。

「主があなたを祝福し、あなたを守られるように。

 主が御顔を向けてあなたを照らし、あなたに恵みを与えられるように。

 主が御顔をあなたに向けて、あなたに平安を賜るように」。

この祝福は葬儀の時にも捧げられます。喜びの時も悲しみの時も、健やかな時も病める時も、生きる時も死ぬ時も、主の御顔が、甦られた主イエス・キリストのまなざしが、あなたを照らし、あなたに主の恵みと平安が確かに注がれているのです。

 

 お祈りいたします。

「日々、サタンの篩にかけられ、誘惑と試練の中にある私どもです。ふるい落とされたものに、私どもの信仰と呼べるものは何一つありません。しかし、私どものために、信仰が無くならないように祈られる主がおられます。十字架の上でも尚、私どものために祈られる主がおられます。主イエスの執り成しの祈りによって、私どもを立ち直らせて下さい。主に立ち帰らせて下さい。主によって立ち直った私どもが、主イエスの執り成しの祈りに合わせて、誘惑と試練の中にある兄弟姉妹たちのために、執り成し祈らせて下さい。

 教会は挫折した主の群れです。しかし、主によって立ち直らされ、あなたも立ち直れると執り成し祈る群れです。この執り成しに生きさせて下さい。

 この祈り、私どもの主イエス・キリストの御名により、御前にお捧げいたします。アーメン」。

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