「立て、行こう」
サムエル記上 1章9~20節
マタイによる福音書 26章36~46節
主日礼拝
井ノ川 勝 牧師
2026年1月18日
2026.1.18. 「立て、行こう」
サムエル記上1:9~20、マタイ26:36~46
1.①私は大学生の時、大学に講義に来ていた牧師に導かれ、その牧師が牧会している教会の礼拝に出席するようになりました。初めて教会の礼拝に出席をして私の心に響いて来たのは、聖書の御言葉よりも、祈りの言葉でした。牧師の祈り、信徒の祈りに初めて触れました。そこで初めて触れた祈りは、執り成しの祈りでした。執り成しの祈り。それは他者に代わって、他者のために祈ることです。それまで私は苦しいことや、辛いことに直面した時、自分のことしか祈ったことがありませんでした。それだけに執り成しの祈りに触れた時は、新鮮な祈りとして心に響いて来ました。
日々の生活の中で、思い掛けない出来事に直面します。どうすることも出来ない苦しみ、悲しみに直面します。どう祈ったらよいか分からなくなります。祈りの言葉が出て来ません。祈れなくなることがあります。しかし、その時、教会員から祈りのハガキをいただきます。「私はあなたのために祈っています」という言葉が記されています。「私はあなたに代わって、あなたのために祈っています」という思いが、その言葉に注がれています。私が暗い夜の闇の中で、孤独な夜を過ごしている時に、私のことを覚え、私に代わって、私のために祈って下さる信仰の友がいる。これは驚くべきことです。しかし、私どもの日々の生活、信仰生活は、そのような執り成しの祈りに支えられているのです。
いつも私のことを覚え、私に代わって、私のために祈っている方がいる。その中心に立たれるお方こそ、主イエスです。主イエスの祈りの中でも、主イエスが十字架の死を目前とされ、夜を徹して祈られたゲツセマネの祈りです。
②もう30年前になりますが、ゲツセマネの園に立ったことがあります。夕方でしたので、他の人影はありませんでした。静寂に包まれていました。たくさんのオリーブの木が植えられていました。ここで主イエスが夜を徹して祈られたのだと思うと、心が動かされました。しかし、それ以上に、ここで主イエスが世界の一人一人のために、日本人のこの私のために祈られたのだということを受け止めた時、心が熱くなりました。ああ、私はゲツセマネの主イエスの祈りに支えられているのだと思いました。
ゲツセマネの主イエスの祈り。徹夜の祈りです。激しい祈りです。主イエスは苦しみ悩み、悶えました。そしてこう叫ばれた。「私は死ぬほど苦しい」。主イエスが悶えつつ叫ばれているのです。「私は死ぬ程の苦しみの中にいる。耐えがたい苦しみの中にいる」。
主イエスのこのような姿に対して、厳しい批判がなされて来ました。哲学者のソクラテスは死を前にしても、少しも恐れず、悠然と、毒が盛られた杯を飲んで死んだ。それに対して、主イエスは死を前にして、苦しみ悶え、「私は死ぬほど苦しい」と叫んでいる。そのような主イエスを、あなたがたはそれでも救い主として信じるのですか。そのような問いかけに対して、私どもはどのように答えるのでしょうか。
私どもは答えます。ゲツセマネの主イエスこそ、「まことの神がまことの人となられた」お姿が、最も良く現されている。主イエスが「まことの人」となられたということは、死に全く動じない超人となられたということではありません。主イエスは何のために苦しみ、悶えているのでしょうか。私どもが受けなければならない苦しみを、私どもに代わって、私どものために苦しんでおられるのです。「私は死ぬほど苦しい」。
2.①新しい年を迎え、新たな志を立てて、歩み始めた私どもです。ところが、新年礼拝の後、教会員が体調を崩され、救急車で搬送されるという思い掛けない出来事が起こりました。また、その後、かつて共に礼拝を捧げていた深谷英子さんが亡くなったという知らせを受けました。また先週も、昨年の4月、キリスト教保育連盟東海部会の会長で、名古屋の保育者研修会に私を招いて下さった幼稚園の園長が急逝されたとの、驚くべき知らせを受けました。まだ若い保育者です。一つ一つの出来事が予期せぬ出来事でした。私どもは改めて死と向き合いながら生きているのだと、心に刻みました。改めて死の恐ろしさを身に感じました。
しかし、主イエスはここで、肉体の死を恐れ、「私は死ぬほど苦しい」と叫び、悶えておられるのではありません。宗教改革者ルターはいつも死と向き合いながら生きていました。そのルターが語った言葉があります。「本当に、死を恐れて死んだのは、ただ一人。主イエスのみであった」。私どもは誰もが、死を恐れて生きています。しかし、本当に死を恐れていたのは、一人しかいない。主イエスのみしかいないと、ルターは語るのです。一体どういう意味なのでしょうか。
それが主イエスのゲツセマネの祈りに現れているのです。主イエスは苦しみ悶えつつ、父なる神に祈られました。
「父よ、できることなら、この杯を私から過ぎ去らせてください。しかし、私の望むようにではなく、御心のままに」。
「この杯」とは、神の怒りが盛られた杯です。それが十字架で飲まなければならない杯です。神の怒りの杯を飲んだら、身も心も砕け散り、滅びるのです。主イエスはそのような死を恐れているのです。それは本来、私どもが飲まなければならない杯であったのです。私どもは主の御言葉通りに生きられない。主の御心通りに生きられない。いつも主なる神との関係が良好ではなく、ひびが入っている。破れています。神さまに頼らなくても、自分の力だけで生きて行けると思っています。そのような私どものことを罪人と呼んでいます。神さまとの関係において、あるべき場所に立っていない。焦点がずれているという意味です。私ども罪人は神の怒りの杯を飲み、身も心も砕け散り、滅びる。神から見捨てられ、神が共にいない死を死ななければならない。主イエスはそのような罪人の死を恐れているのです。私ども罪人に代わって、苦しみ悶え、恐れているのです。そこに真実の死の姿があるのです。それがルターが語るこの言葉なのです。「本当に、死を恐れて死んだのは、ただ一人。主イエスのみであった」。
②ゲツセマネの主イエスの祈りの場面で、注目すべきことがあります。最後の晩餐の後、真夜中、主イエス一人がゲツセマネに来られたのではありません。ペトロとゼベダイの子二人とを伴って来られました。そして三人の弟子に向かって、「私と共に目を覚ましていなさい」、「私と共に祈ってほしい」と願われたのです。この場面は、マタイ、マルコ、ルカ福音書全てが記している大切な場面です。しかし、マタイだけが記した主イエスの言葉があります。
「私と共に目をさましていなさい」。「私と共に」という言葉が三度も繰り返されています。マタイが強調する言葉です。主イエスが誕生した時、「神われらと共にいます」、「インマヌエルの神」が誕生されたと記しました。
主イエスは弟子たちに向かって、「あなた一人で目を覚まして祈りなさい」とは語られませんでした。「私と共に目を覚まして祈りなさい」と語られました。主イエスはいつも共に、どんな時にも共にいて下さるのです。共に目を覚まして祈って下さるのです。主イエスの祈りに執り成されて、目を覚まして祈ることが出来るのです。何と幸いなことでしょうか。
「私と共に目を覚ましていなさい」。「目をさましている」ということは、見るべきものを見ることです。主イエスは弟子たちにも、見るべきものを共に見てほしいと願ったのです。主イエスが何故、夜を徹して一筋の心で祈っておられるのか。苦しみ悶えながら、「私は死ぬほど苦しい」と叫ばれているのか。何故、神の怒りの杯を飲まなければならないのか。何故、死を恐れておられるのか。目を覚まして、見るべきものを、私と共に見てほしい、祈ってほしいと願われたのです。
しかし、弟子たちは皆、眠り込んでしまいました。
3.①ある彫刻家が、ゲツセマネの主イエスの祈りの場面の彫像を造られました。弟子たちは主イエスの胸に寄りかかって眠っています。主イエス一人が目を覚まして祈られています。その作品の題名に、「一人は目覚めていなければならない」と付けました。ある方がその作品を観て、このように綴られました。
「一人は目覚めていなくてはならないし、一人はすべてのことを見ていなくてはならない。われわれが眠っている間、一人は目覚めていなければならないのです。まことに、その方は、われわれの病を背負われ、われわれの痛みをその身に引き受けられました。われわれの罪と咎を担われました。その方はまさしく、本当はわれわれが立たなくてはならない場所に立ちたもうたのです。そのお方こそ、ゲツセマネの主イエスなのです」。
私どもは主イエスが語られるように、「心は燃えても、肉体は弱い」のです。世界の危機の時に、家族の危機の時に、最も大切な場面で、目を覚まして、夜を徹して祈らなければならない時にも、眠ってしまうのです。そこに私どもの弱さがあります。しかし、たとえ世界の全ての人が眠ってしまっても、主イエスだけは、ただ一人目をさまして祈り続けて下さるのです。そのような主イエスの執り成しの祈りによって、私どもの世界は支えられ、私ども一人一人も支えられているのです。
②この時、主イエスはどのような姿勢で、ただ一人目を覚まして祈っておられたのでしょうか。通常、ユダヤ人は立って、両手を天に差し伸べ、顔を上げて神に祈りを捧げました。しかし、ゲツセマネにおいて、主イエスは立って祈っておられません。この場面は、マタイ、マルコ、ルカ福音書全てが書き留めている大切な場面です。しかし、それぞれが特徴ある書き方をしています。ルカは「ひざまずいて祈った」、マルコは「ひれ伏して祈った」、マタイは「うつ伏せになって祈った」。どれが正しいというのではありません。主イエスは最初は、ひざまずいて祈っていた。段々祈りに熱が入り、ひれ伏して祈るようになった。そして最後には、うつ伏せになって祈った。「ひれ伏して祈る」は礼拝の姿勢です。「うつ伏せになって祈る」は、全てを主に委ねる姿勢です。主イエスは祈る度に、段々姿勢が低くなって行きました。主イエスは祈られた。
「父よ、できることなら、この杯を私から過ぎ去らせてください。しかし、私の望むようにではなく、御心のままに」。
うつ伏せになって祈る。それは主の御心に全てを委ねる姿勢です。自分の全てを主に明け渡す姿勢です。
ドイツのある牧師が「別れなき別れ」という題で説教をしています。父も牧師でした。父が発作で突然倒れ、救急車で運ばれようとした時、妻に向かって一言こう言われた。
「今わたしは、神とその恵みの言葉とにあなたがたを委ねる」。伝道者パウロがエフェソの長老に語った遺言説教の一節です。「主にあなたがたを委ねる」。この言葉が別れの挨拶の言葉となりました。私どもは再び会えると願って、「さようなら」と言って別れます。しかし、もしかしたら、それが最後の別れとなるかもしれない。それ故、「今わたしは、あなたを主の御手に委ねる」と言って、別れるのです。しかし、主の御手に委ねるから、それは別れなき別れであると、この牧師は説教で語るのです。
4.①ゲツセマネで、夜を徹して、主イエス一人が目覚めて必死に祈られる。
「わたしの思いではなく、あなたの御心がなりますように」。
主イエスの祈りは「主の祈り」でした。日々、祈っている祈りを、ゲツセマネでも集中して祈られているのです。
十字架の道は自分の願いを言えば避けたい。しかし、十字架の道こそ主の救いの道であり、主の御心であるのなら、わたしは主の御心に全てを委ねる。主の御手に全てを委ねる。
主イエスは祈りの途中、三度、弟子たちが目を覚まして、共に祈っているかどうか見に行かれました。しかし、三度とも、眠っていました。その時、主イエスが三度語られた言葉があります。私どもが親しんで来た訳は、こういう言葉でした。
「心は燃えても、肉体は弱い」。「心は熱しているが、肉体が弱い」。
心は主イエスと共に目を覚まして祈ろうと熱しているが、肉体が弱くて、すぐに眠ってしまう。しかし、新しい聖書翻訳はこう訳しました。
「心ははやっても、肉体は弱い」。
私どもが親しんで来た訳と随分違います。「心がはやる」という言葉は、「心が熱する」「心が勇み立つ」という意味があります。しかし、もう一つの意味があります。「心が進む」「心が前進する」という意味です。実は「心」と訳されている言葉も「霊」という意味でもあります。「霊が進む」「霊が前進する」。言い換えれば、「主の御心が進む」「主の御心が前進する」ということです。
私どもも日々、主に向かって、ハンナの祈りのように、様々な願いを魂を注ぎだして祈ります。「主よ、どうか家族の病を癒して下さい」。「主よ、どうかこの苦しみから解き放って下さい」。「主よ、どうか歩むべき道を拓いて下さい」。そして最後に祈ります。「あなたの御心がなりますように」。主の御心に家族を、私を委ねようとします。
しかし、私どもはしばしば、自分の思いこそ主の御心なのだとこだわり、祈ります。自分の思いと相反することは、主の御心ではないと思ってしまいます。それ故、自分の願いと相反することが起こった時、それを主の御心と受け止めることが出来なくなります。それこそが、将に、主イエスが語られたことです。「主の御心は進む。しかし、あなたの肉体は弱い」。「主の御心は前進する。しかし、あなたの肉体が弱く、それに追いついて行けない」。
主の御心は進むのです。それが主イエスが十字架の道を歩まれることです。しかし、弟子たちはそれに躓きます。自分たちが願っていた救い主が歩まれる道でなかったからです。
②ゲツセマネで、夜を徹し、うつ伏せになって祈られた主イエスは、最後に、弟子たちに語られました。
「時が近づいた。人の子は罪人たちの手に渡される。立て、行こう。見よ、私を裏切る者が近づいて来た」。
注目すべきは、「立て、行こう」という言葉です。うつ伏せになっていた主イエスは立ち上がり、行こうと弟子たちに呼びかけます。主イエスを十字架へ引き渡す者たちの手の中に、主イエスは捕らえられます。しかし、主イエスは父なる神の御手の中に、父なる神の御心の中に、自らを委ねるのです。父なる神の御心として、十字架の道を歩まれるのです。それがこの言葉に現されています。「立て、行こう」。
でも不思議です。十字架の道は、主イエス一人だけしか歩めない道です。しかし、主イエスは目を覚まして祈ることが出来ず、眠り込んでしまった弟子たちに呼びかけるのです。「立て、さあ行こう」。何故、なのでしょうか。
主イエスが初めて自らが十字架の道を歩まれる救い主であることを明らかにされた場面がありました。その時、主イエスは弟子たちに向かって語られました。
「私に付いて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を負って、私に従いなさい」。
主イエスの十字架は主イエスだけにしか負えないものです。しかし、私どももそれぞれの自分の十字架を負って、主に従って行くのです。主の御心に委ねて歩むことを、主イエスは求めておられるのです。
「主の御心は前進する」。それ故、「さあ立って、あなたも行こう」と、主は呼びかけて下さるのです。
お祈りいたします。
「最も重要な場面でも、目を覚まして祈ることの出来ない弱さの中にいる私どもです。しかし、主イエスただ一人がまどろむことなく、目を覚まして、世界の一人一人の救いのために、執り成して下さるのです。「父よ、御心がなりますように」と、うつ伏せになり、執り成して祈られるのです。どうか主イエスの祈りに執り成され、私どもも「あなたの御心がなりますように」「あなたの御心に委ねます」と祈らせて下さい。主イエスが立ち上がり、十字架の道を歩まれたように、私どもも「立て、行こう」という主イエスの呼びかけを受けて、自分の十字架を負って主の道を歩ませて下さい。
この祈り、私どもの主イエス・キリストの御名により、御前にお捧げいたします。アーメン」。
