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「耳を澄まして希望は近づいている」

申命記30章11~14節
マタイ9章18~26節

主日礼拝

副牧師 矢澤美佐子

2024年1月28日

00:00 / 43:06

 能登半島の震災で被災され深い喪失をおぼえ、今を過ごしておられる方々に慰めをお祈りしております。これまで多くの震災が日本を襲いました。私は阪神淡路大震災を学生時代、大阪で経験しました。友人宅が全壊し、友人は重傷で病院に運ばれました。ボランティアが開始された時、私はすぐに志願し苦しみの中にいる方々の話を聴き、必要な水や食料を運びました。

 そのような日々の中で何より慰めと力になったことは、被災地の厳しい状況で、日曜日には教会へ行き、神の御前に進み出るキリスト者の姿でした。厳しい状況の中にあってなお教会に集い、神の愛と慰めを求めて祈る人々の姿は、キリストをまだ知らない人々にとっても深い慰めになっていました。

 神の愛、慰め、招きがあるから、今日も被災地の人たち、そして私たちも教会へ集います。イエス・キリストはおられます。私たちをしっかり愛して下さるイエス・キリストがここにおられます。このお方が私たちの試練の現場、私たちの不幸の現場に先頭を切って立ち向かって下さっています。人には超えられない死の空しさ、恐ろしさを打ち破ってくださっています。この時、被災地で困難を乗り越えようと、なお神のもとへ出ておられる方々と私たちも心を合わせ、神の愛と慰めが注がれることを願いたいと思います。

 ウクライナ、イスラエル、ガザでの激しい争いがあります。どんなに私たちが愚かな者であるか、より浮き彫りになるのではないでしょうか。今、この時、一人一人の命を救うために懸命に働かれている多くの方々がおられます。その一方で、人を殺めるために爆撃を落とす人たちがいる。この矛盾、この人間の儚さ、罪の愚かさ、そのような中に神は主イエスを使わし、私たちを愛し、この世を救うためにクリスマス、神の御子は命がけで誕生してくださいました。

 今、一人一人の命を救うために尽力されている方々の中にイエス・キリストの救いを見出したいと思います。攻撃、爆撃、復讐の中に神の栄光、救いが現されていくのではありません。困難、苦悩、呻き、叫びの中にあるお一人お一人と共に命を尽くし祈り、働いている人々の中に神の栄光、愛があることを私たちは見出していきたいと思います。


 日本という国は世界でも比類のない震災大国です。震災による喪失体験、深い悲嘆と、私たちはどう向き合い、どのようにケアしていくことができるのか、日本人は真剣に考えなければならない状況に立たされているのではないでしょうか。大切なものを失った時の悲しみとどう向き合えばいいのか。さらに、隣人の悲しみにどう寄り添えばいいのか。今日は、神様の御言葉に耳を傾けながら、お互いに支え合い、どのように立ち直っていくことができるのかを知ってきたいと思います。

 

 さまざまな喪失体験から生じる「負」の感情を“悲嘆”と呼びます。能登地域の人々だけでなく、金沢に住む私たちも深い悲嘆の苦しみを強いられています。悲嘆を引き起こすのは次のような喪失があります。 

 愛する人の喪失(死、別離)、所有物の喪失(財産、職場、ペットなど)、環境の喪失(転居、転勤、転校、地域社会を失う)、役割の喪失(地位、仕事)、自尊心の喪失(プライバシー、名誉)、身体的喪失(病気、老い)、社会生活における安全・安心の喪失。

 この喪失を今、同時に全て体験している被災地の方々は、どんなに深い悲しみの中にいらっしゃることでしょう。金沢に住む私たちもまた繰り返される余震で安心・安全の喪失、健康を損なうといった身体的喪失を体験しています。ここにおられる皆さんもダブルロス、トリプルロスと言われる重複する喪失を体験しているのです。皆さんもケアが必要な対象であるということを知ってほしいと思います。

 

 私たちも喪失を体験し悲しみの中にいます。その精神的な悲しみ、苦しみを、もっとも端的に表す言葉は「絶望」と言われています。あまりにも重複する喪失を長い期間、体験し続けてしまうと、人は希望を持てなくなってしまうのです。私たちは、希望があるから生きて行くことができます。新年を迎えた朝、幸せがありました。今年一年も贅沢は言わない、ささやかでいい、ささやかな幸せに感謝しながら生きて行こう。平和を願い安全を祈られたのではないでしょうか。しかし、大きな震災が襲い私たちから多くのものを奪って行きました。

 幸せから悲しみへと当然突き落とされた時、グリーフケアの専門家たち、牧師たちが最も心配しているのは、人々が力を失い周囲に広がる「絶望」の雰囲気を受け入れてしまうことです。極度の不安と恐怖に陥った人たちには「絶望というお友だち」が近づいてくる、とグリーフケアでは言います。震災の恐怖と不安、愛する人を失った喪失の中で、自分の力ではどうすることもできない、自分の力では自分を安心させることができない、と感じた人が「絶望」へと向かってしまいます。そして、「絶望というお友だち」と手をつないでしまうのです。

 それを止めることが、神の御言葉、礼拝であり、信仰を持つキリスト者たち、グリーフケアの役割なのです。人間の力ではもうどうすることもできない時、人は「永遠なもの」「人間を超えるもの」「自らをゆだねられるもの」を求めます。人は、自分に限界を感じる時、限界を超えるものに繋がりたいと願います。その時、そばで寄り添う人の存在、言葉は非常に大きいのです。何故なら「どうしてこのような苦しみが」と魂の痛みを感じている人の傍らに寄り添う存在、言葉。それによって、苦しむ人がその苦しみの問いに向き合う、勇気や、力となるからです。

 寄り添う人の存在によって、語りかける言葉によって、苦しみの問いの答えを人は、人間を超えたもの「神」に求めていく可能性が大きくなるのです。震災の時、悲しみの中で人は、「何か」に向かって祈り始めます。そして、その「何か」の相手が「神」であるということを知っていきます。そして、真に神が共におられると分かった時の安心感、慰めは非常に大きいのです。互いに協力して、「絶望というお友だち」を遠ざけることは、被災地を支援し、復興を助ける私たちの役割でもあります。お互いに協力して「絶望というお友だち」を遠ざけます。これは、これまでの震災においても非常に重要なケアとされてきました。

 

 そして、既に神を知っている私たちキリスト者も同じです。頭で神の存在を理解していても、身も心も全て、いつも、どのような時も信じ続けることは簡単ではありません。ですから共に声をかけ合い、礼拝し祈り合います。そして神は、私たちが信じられなくなってしまう弱さをもご存知でいて下さいます。ですから神は、神の方から天を裂いて降って来て下さいました。それが先月迎えたクリスマスの出来事です。神の御子イエス・キリストは、「低きに降る神」として私たちと同じ苦しみの場所に誕生してくださいました。

 私たちと同じ苦しみ、悲しみ、不条理、理不尽を味わい、癒し人の姿をとって私たちと共におられます。たとえ私たちが、神から離れようとしても、信じられなくなったとしても、イエス・キリストは、私たちを永遠に離すことはありません。それは「神の究極の寄り添い」です。私たちの自己満足や私たちのニーズではない「神の究極の寄り添い」です。主イエスは、十字架で命を捨てるほどに私たちを愛して下さっています。「私は、あなたを永遠に愛し、寄り添い続ける」と仰せになって下さっています。

 私たちが「自分はもう駄目、生きて行く力もない、神などいない、絶望だ」と思ったとしても、神は、そうした負の力を押し流し、絶望を打ち砕くほどの命がけの力で私たちを掴み、決して離さず救い愛し抜いてくださいます。「私はあなたを永遠に愛し抜く」そう仰せになってくださるのです。それゆえ、この場所、教会はお互いの「命そのもの」を大切にし、愛し合うところです。


 過去の大震災で6歳の長男を失ってしまった女性がいらっしゃいました。当時33歳だったその女性は、復興という言葉を聴くとやりきれない思いになったといいます。たとえ建物が復旧しても、家屋の下敷きになって亡くなった最愛の息子は戻ってこないのです。皆が頑張っている中、自分も悲しみに耐えなければならないと「けなげな姿」を演じていました。友人からは「あなたはまだ若いからやり直せるよ」と励ましてくれましたが、それが辛かったのです。かけがえのない子どもを失った悲しみは、次の子が生まれたからといって、終わるはずがないのです。同情されるくらいなら1人でいるほうがまし、とやがてこの女性は外出を控えるようになりました。そして、「絶望というお友だち」から遠ざかるどころか、いつも共に生きてしまう日々が続いたのです。

 そのことを知ったある友人が、教会で開かれた「回復していくための遺族の会」に誘いました。そして、同じような経験をされた方と一緒に悲しみを打ち明け合い、ずいぶん楽になることができました。その後、礼拝にも出席するようになり、やがて洗礼へと導かれていきました。

もしも、この女性が、「絶望というお友だち」に引きずり込まれ、外出をしない、行動を起こさないままでしたら、悲嘆の中で、ご自分の命の意味、価値も失われ、生きて行くことを諦めてしまっていたかもしれません。

 

 グリーフケアでは、「出会い」という言葉を大切にしています。「出会い」というのは、自分の殻から「出る」ことによって、多くの人や知識、学びの機会や飛躍のチャンスといった宝物とめぐり「会う」ことです。自分の殻から出て、宝物、主イエス・キリストと出会うのです。

 

 今回の震災によって、私は、さまざまな悲しみ「不安です」「恐いです」という声に、心をこめて耳を傾け、寄り添い、お祈りをしてきました。悲痛な叫びを誰かが受け止め、神様へと執り成しの祈りをしてくれる人がいれば、荷物はずいぶんと軽くなります。心の痛みがあっても、その痛みに寄り添ってくれる人がいれば明日へと向かう勇気にもなります。

 誰の人生にも悲しみは訪れます。決しておおげさな表現ではなく、人生の3分の1は悲嘆、グリーフと共にあると言われています。だからこそ言えるのです。私たちは「悲しんでいいです」。私たちは決して一人ではありません。悲しい時は、悲しんでいいのです。今、震災で「絶望というお友だち」と共に生きているように感じていらっしゃる方は、どうか少しずつ外へ目を向けてみてください。どうか教会にいらしてください。

 

 今日のマタイによる福音書は、愛する娘を亡くした父親の悲しみが描かれています。愛する娘の喪失です。父親は喪失の悲しみの中で、「絶望というお友だち」が近づいて来て、サタンのささやきが聞こえていたでしょう。しかし、ここで父親はサタンではなく、イエス・キリスト、命の御言葉に耳を澄ませ、主の御前へと進み出たのです。

 主イエスの前に出た男性は、指導者、つまり会堂長だったと言います。当時は、町や村ごとに会堂があり、いくつもの機能を持っていました。安息日には礼拝が捧げられる教会の役割です。平日は子供たちの学校として。さらに様々なトラブルを公に裁定する簡易裁判所の役割も果たしていました。

そして、この会堂の最高責任者が会堂長、娘を亡くした男性は、信仰と社会生活において尊敬される人物でした。このような会堂長が、今、主イエスの前に出て、ひれ伏し、額ずき、人目もはばからず手をついて嘆願しているのです。

 「私の娘がたった今死にました。おいでになって、手をおいてやってください。そうすれば生き返るでしょう」。彼は知識、経験、様々な人との繋がりがあり、あらゆる人を頼ったはずです。しかし誰も助けられない、人間にはできない。やがて娘は息を引き取ってしまったのです。

父親は、足はヘロヘロ、眼もうつろ、ヨタヨタと力ない身体を主イエスの前に崩れ落とし「助けてください」と願ったのです。私たちもこれまで、この父親と同じように、人生最大の悲しみの中でヨタヨタと崩れ落ち、礼拝堂へ来たことがあったのではないでしょうか。まさに被災地の方々が、その真っ只中におられます。ここにおられる皆さんも「主よ。主よ。何とかしてください。助けてください」というすがる思いで、神の御前に集っておられるのではないでしょうか。

 今、力なくうずくまる父親が、主イエスの目の前で、涙も出ない、息もできないほどの痛みに震え、崩れ落ち悲しんでいるのです。


 グリーフケアの中で、日本の男性は悲しめない辛さを抱いていると言われます。日本文化においては、男性は泣いてはいけない、涙をこらえ、泣き顔を人には見せないということが作法のような時代がありました。しかし、愛する人を失い、仕事失い悲しみの涙がこぼれてくることは自然なことです。悲しい時、人前で感情を表に出すことを恥ずかしく思ったり、以前と変わらない態度で仕事に打ち込んだりする姿勢は、周囲から「立派は男性」と讃えられることもあるかもしれません。しかし、男性である前に、生身の人間であることをどうぞ忘れないでください。

 深い悲しみの感情を抱いた時は、誰だって心の底から悲しんでいいのです。神様は、悲しみに心が痛むように、私たちをお造りになられました。悲しい時は、悲しんでいい。その姿を見て、寄り添い、慰め、支えてくれる人が必ずいます。何より主イエスが、決して離さない「究極の寄り添い」で命をかけて永遠に側にいて愛し、慰めてくださいます。私たちは決して一人ではありません。

 

 主イエスは、慈しみの眼差しで悲しむ父親に寄り添われました。子供を亡くした悲しみ、子供を守れなかった自責の念、無力感。そして、「誰か話しを聞いて助けてほしい、誰か私の悲しみを受け止めてほしい」という心の底からの願いを主イエスは、しっかりと受け止めてくださいます。

私たちのために主イエスは立ち上がってくださいます。19節「そこでイエスは立ち上がり、彼について行かれた。弟子たちも一緒だった」。主イエスはすぐに立ち上がられます。それを見て仲間たちも立ち上がります。主イエスが、死の現実に立ち向かっていかれます。決然と立ち向かっていかれるのです。

 

 するとその途中、不意に主イエスの足が止まりました。12年間も出血が止まらない病にかかった女性が、主イエスの衣の房に触れたからです。

 衣の房。これは神の聖さを思い起こすために付けられているものです。当時の律法の規定によってこの女性の病は、汚れた病とされていました。汚れは人に移るとされ、この女性は、決して人に触れてはいけない、人前に出てはいけなかったのです。この12年間、人の温もりを知らず、冷たい毎日をたった一人で生きていたのです。この女性は、主イエスに恐る恐る力ない手を伸ばします。「あー聖なる方がおられる。手を伸ばしてはいけない。けれど触れてみたい」そのような願いを込めて、力無い手を伸ばしたのです。

 現在の恵まれた日本を生きる私たちは、これまでの幸せを、当たり前のように生きて来てしまったかもしれません。必要以上の便利さ。孤独を紛らわすに充分すぎる溢れる情報。獲得した地位、権威、知恵、力。多くの物を手に入れれば入れるほど、私たちは、人の「無力な手」を受け入れることが難しくなっていきます。 

 娘を亡くした父親も同じです。彼は指導者でした。この世の権威も実績も手にし、常に価値ある手、役に立つ手を差し出し続けてきました。しかし、娘の死ではっきりと分かったのです。「あー私は無力だ。役に立つ手を指し出すことができない」。病の女性もそうでした。汚れた者、価値のない者と言われ深い孤独の中をさ迷っていました。そして、この二人は「無力な手」を主イエスに向かって差し出したのです。「主よ、助けてください。力のない私を」。

 主イエスは、私たちの力ない手をしっかりと受け止め、愛を込めて手を取って下さいます。そして、主イエスに触れた病の女性はこの時、癒されたのです。

 さらに主イエスは、急いで死んでしまった娘のもとへと進みます。家についた時、既に葬儀の準備が始まっていました。会堂長の家です。小さな葬儀ではありません。多くの人が集まり忙しく準備を進めていました。そこで、主イエスは仰せになります。「娘は、死んだのではない。眠っているのだ」。人々はあざ笑います。しかし、主イエスは、息を引き取った娘のすぐそばへ行き、そっと娘の力ない手を取ります。すると、少女の頬が「ほっ」と赤らんでいくのです。頬が赤らみ、身体に温もりが与えられ、目が開かれ、身を起こしたのです。少女は、生き返ったのです。

「元気になりなさい」、「死んだのではない。眠っているのだ」。

 病の女性も、娘を亡くした父親も、この言葉の意味が分からなかったでしょう。しかし、分からなくてもとにかく信じたのです。そして、女性の病は治り、娘は生き返ったのです。これは理屈を遥かに超えた出来事、常識では信じられないことです。私たちはこの出来事を通して、今、奇跡が起こったことを知らされています。この奇跡の御業。一体どういう意味を現しているのでしょうか?


 この奇跡について、いくつかの疑問が湧いてきます。

主イエスは、奇跡を行い「どうだ参ったか。この奇跡を見て、神を信じ、従いなさい。降参しなさい」とそう仰せになっているのでしょうか?

 さらに今、困難の中で生きる私たちはこう叫びたくなるのです。まさに、震災の時に「聖書で起こっている生き返りの奇跡が、今、私たちの現実に目の前で起こらないではないですか。私たちの現実とこの聖書の奇跡、何の関わりがあるのですか」。そう叫びたくなります。

 さらに、この奇跡の後、生き返った娘も、そうです、やはり結局いつかはこの世を去ったのです。死はやってきたのです。では、この奇跡は、病の女性、娘の父親をほんのひと時、癒すためだけのものだったのでしょうか?聖書の奇跡の御業は、今を生きる私たちに、一体、何を告げているのでしょうか?

 

 聖書は、この奇跡を通して非常に大切なことを告げています。

 この世の中で多くの人が、人生に不気味に迫る「死の恐怖」を、後ろへ後ろへと追いやりながら生きています。どうあがいても、もがいても、死によって終わる人生を生きています。それゆえ、この一度限りの人生、人を押しのけ、争い、嫉み、憎しみ合う罪を犯しながら生き、その先に死の恐怖があります。そして、この死が、私たちの罪の結果であると聖書は、はっきりと告げているのです。私たちは、自分を神とし、さらに神をも押しのける自分の正しさによって、人を傷つけ、神の子イエス・キリストをも目障りだと十字架につけるのです。

聖書は告げます。私たち人間は、罪のために死の滅びへと向かっている。これは恐ろしいことです。

 

 しかし、そのように滅びへ向かう私たちに、聖書は、神の熱烈な救い、神の熱烈な愛を現す御言葉が記されているのです。エゼキエル書です。(18章32節P.1322)

主の激しい怒りを招いた罪人たち。その怒りによって国が滅ぼされてしまい、罪人たちは、異国へと捕らえられてしまうのです。そのような状態になっても、神に立ち帰ろうとしない人たちに対する御言葉です。神は、こう私たちに呼びかけているのです。

「どうしてお前たちが死んでよいだろうか。どうしてお前たちが死んでよいだろうか。わたしはだれの死をも喜ばない。あなたたちは立ち帰って、生きてほしい」。そう仰せになって、主は、私たちを熱烈に愛し、救おうとして下さるのです。

 そして、父なる神は、私たちへの熱烈な愛のゆえに、神の独り子、我が子イエス・キリストを犠牲にし、私たちの命を救うことを決断されたのです。

「あなたは、死んではならない、滅んではならない」そう仰せになって、神の御子、イエス・キリストは、十字架の上で、肉体に鞭打たれ、血を流され、私たちの身代わりに命を捨てられ、私たちの死を負われたのです。真に正しいはずの、罪のない神の御子が、私たちの罪を負い身代わりに死んで下さったのです。愛する我が子の肉体が引き裂かれ、血を流される姿をご覧になる父なる神の深い嘆き、痛み、苦しみはどれほど激しいものでしょうか。

 父なる神は仰せになります。「私はあなたを救うために、愛する我が子を死に渡し、犠牲にした。これが、私のあなたへの愛。あなたは死んではならない。私はあなたを愛している」。父なる神は、私たちを熱烈に愛し、死から救ってくださるのです。

 主イエスの十字架によって私たちの罪は赦され、死は打ち破られました。この救いの前に私たちは「あーこのような私を救ってくださった」と神の愛に、ただただ感謝を捧げるしかないのではないでしょうか。

 ですからこの奇跡。それは、力ずくで、力で従わせ、信じさせための奇跡ではないのです。

 生き返りの奇跡は、その時だけのひと時の慰めでもないのです。

 生き帰りの奇跡の御業は、私たちの罪が赦され、死を越え、復活の命、永遠の命へと扉が開かれた瞬間だったのです。私たちに、今も現に起こっている救いの出来事なのです。

 以前の罪ある私たちに戻るのではなく、主イエスの十字架と復活によって、全く新しく作り変えられ、主と共に永遠に、新しい命を私たちは生きています。このことを、この奇跡の御業が今、生きている私たちに力強く伝えているのです。

 

 今日の旧約聖書、申命記30章は、パウロがローマの信徒への手紙10章でも引用している御言葉です。

主イエスの死と復活が、私たちの唯一、絶対の救い。これ以外に私たちの救いはない。そうパウロは確信し力強く語っているのです。

 パウロは言います。「あたかも私たちの救いが、イエス・キリストの死では不十分であるかのように言ってはならない。私たちを救うためのイエス・キリストの死が、不完全であったかのように、底なしのふちから引き上げてはならない。イエス・キリストの復活が、不完全であるかのように、天から引き下ろしてはならない。私たちが自分の力で、死から、自分を救うことができるというのですか。私たちの救いは、イエス・キリストの十字架と復活によって成し遂げられたのです。救われた喜びが、私たちの前進する力です」。パウロは、力強く語っています。


 今、水曜日の聖書研究祈祷会では、ヨハネの黙示録の御言葉を聴いています。是非、皆さん出席下さって一緒に御言葉を聴き、祈りを合わせたいと願っています。

主イエス・キリストが再び来られる日、全ての眠っている者たちが目覚めます。甦りの朝を迎えます。死も、悲しみも、痛みもない、永遠の祝福に生きる、主イエス・キリストの日に向かって、私たちはもう既に新しく前進して生きています。主イエス・キリストと共に生きる私たちは、死をも超えた新しい命に生きています。聖書に記されている奇跡の御業は、時代を超えて生きる私たちに「死をも超え、新しく、永遠に生きる」そのことを指し示しているのです。


 これまでに私は、悲しむ方々と関わってきました。なかには、深い悲しみから、なかなか抜け出せない方もいらっしゃいます。けれど、辛い日々から回復された方の姿もたくさん見てきました。悲しみの中から希望を見出すまでには、長い年月がかかることもあります。それでも、主イエスと共になら、回復することができます。共におられる主イエスの御力によって、愛によって回復することができます。

 回復する、復興する、ということは大切なものを失う、前の状態に戻る、と言うことではありません。新しい命へ、新しい人生への第一歩を踏み出すことが、回復、復興です。キリスト者の回心と同じように、以前の私に戻るのではなく、悲しみ、苦しみ、試練によって、さらに神との関係が深まり、神により頼む信仰が強められ、自分の力によってではなく、神の御力によって前進していく者へと変えられていきます。

 

 私たちには悲しい時に悲しめる場所、教会があります。ここに教会があります。

ここから、涙の向こうに広がる回復、復興、回心へと、新しい輝きへと進んでいくことができます。礼拝があるから、教会があるから悲しみという壁は、人生にとって突き当たりではなく、新しい可能性へと続く扉になります。私たちの目の涙を、ことごとくぬぐい取って下さる主イエスと共になら、悲しみの壁で閉じられている命ではなく、もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きもない、喜び踊る声だけが響き渡る、新しい天と新しい地、神の国へと続く扉は開かれています。扉は、開かれているのです。

 これからも神の御言葉に、いつも耳を澄まして生きていきたいと思います。イエス・キリストは近づいています。そして、希望の光イエス・キリストは、もう既にここにおられます。もうすでに共に生きて下さっています。

 今日、この日、再び来て下さるイエス・キリストと真実に出会う、希望へ向かう始まりの日です。

 今日、この日、甦りの朝へ向かって生きる希望の始まりです。

 私たちには、主イエス・キリスト、希望と共に生きる、新しい命の物語が始まっています。

 まさに神の救いの物語です。神がお一人お一人に、この救いの物語を生み出しながら、今、全人類の救いの歴史が前進しています。救いが、この世界に突入して来たのです。希望の光イエス・キリストはここにおられます。

 

 主イエス・キリストの父なる神様

 死によって失われる人生の物語は、もう終わりました。希望の光と共に、既に始まっている、あなたの御国の中で、祈り合い、助け合い、そして、御国の完成に向かって、確実に歩んで行く私たちとならせてください。主よ、どうぞ私たちを祝福し、あなたの御手の中にいる平安に包んでお守りください。

 イエス・キリストの御名によって、御前にお捧げいたします。 アーメン

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